無意識日記
宇多田光 word:i_
 



元々私あんまりミュージック・ビデオ観ない方なんだが、最近輪をかけてMVに対する愛着が薄れている気がして。まぁそういうこともあるかなと一応合点していたんだが、今朝今日が『UH3+』の発売記念日だと知って気がついた。そうか、最近あんまり「ミュージック・ビデオのメイキング映像」ってヤツを買えてないじゃないか。それでか。

メイキングというのはつまり舞台裏を紹介する動画で、へぇ、ここはこんな風に撮ってるんだ、とか合間の時間はこういう雰囲気でこういう表情なんだねぇとか、そういうのが伺い知れる為昔から熱心なファンには大変評判が宜しい。勘のいい人は『光』のメイキングを観て「この二人つきあってんじゃねーの?」とか指摘してたりもして、舞台裏どころでないところまであからさまになってしまったり。いやはや、とても楽しかったわね。

最近はミュージック・ビデオのDVDシングルはおろか、ビデオ・クリップ集も出さなくなっている為なかなかメイキング映像を購入する機会が無い。メイキング映像自体はあるんだわ、『花束を君に』にしろ『Forevermore』にしろ『あなた』にしろ。でも、売ってくれてないのよね。だから皆が手元に残せてる訳じゃない。CMのメイキング映像とか写真撮影の動画とかの方がアクセスしやすいくらいで。へんちくりんなねじれ現象が起きている。

例えば、『Time』MVの舞台裏、制作現場の様子を捉えたメイキング映像が売ってたら皆買うよねぇ? 舞台がヒカルの自宅だもんね。そこで素の顔というか仕事をする人の顔やらリラックス・タイムやらの様子を撮影しててくれてたら、いやはや、これは必見モノになること請け合いですよ。りなやん撮影してねーのかなー…ブツブツ……。

まぁ、個人的には、ノーカットフル尺で『花束を君に』の切り絵“でない”方のメイキング映像を見せて貰えたら、冥利に尽きるんですがね……いやあれは本当によいもので、もうオフィシャルには360度メイキング映像は置いてないんだっけかな。あれ2分とかだよね。もっと長いヤツが観てみたいなーと。

YouTubeでMVをフル尺で置く事でライトファンに対して太っ腹なところを見せつつ、常に財布の紐を緩めている我々のような渇望型の人間たちに対してはDVD/Blurayでメイキング映像をタップリフィーチャーしたMV集をまたリリースしてくれればいいんだけどねぇ。いや勿論配信販売でもいいんたけどね。MV自体は無料で観れて、メイキング映像は有料動画、とかなら結構納得されるんじゃないでしょうかね。まぁ、そもそもオフタイムにカメラを回してくれている人が居る事が前提なんですけどね。素材自体が存在してないならどうしようもないんだし。

うぅむ、一度CS用に用意されちゃったものとか、YouTubeで、期間限定配信したものを再度オフィシャルでリリースし直すとか、難しいよねぇ。ここらへん、うまく対処できる方法ないんですかね沖田さん!?(唐突なディレクター名指しで〆(笑))

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でまぁ昨夜は東京キネマ倶楽部にZABADAKを観に行ってた訳だけど、この御時世の中生公演を催すとなるとそりゃもう感染対策が徹底されていて。

エレベーターは4人までしか乗れないし、物販も受付もアクリル板で仕切られてるし、チケットの半券は自分でもぎって放り込むし、金銭の授受はトレー経由だし。座席は、本来なら500だか600だか入る会場に100席程度しか設けず、前後1m左右2m位(目測)の間隔が空けられていた。終演後退場時も会場一列目から声をかけて1m以上間隔をあけて直列で退場させる。あたしは開場に間に合わなかったけど恐らく入場時も同じ手法だった事だろう。そして、ありとあらゆる場所でアルコール消毒スプレーが待ち受けていた。ひとつひとつは街中のお店でも見掛ける事かもしれないが、その日一日いやさ一晩の為にこれだけの準備を整えるのはそれは大変な手間だったろうなと。

それでお値段据え置きってどうなってんだと思ったが、昨夜の公演はイープラス経由で有料生配信されていたということで、そちらからの収益もあるんだわな。グッズ販売も、最新DVD以外は総て予約購入を促し混雑を最小限に留めていた。いやはや、ほんと、この混乱する半年の中でここまで手を尽くせるかと。

あぁ、チケットの半券のこともメモっとこ。万が一感染者が発覚した場合に備えて、チケットの半券の裏側に席番号・住所氏名メアド電話番号を記入することになっていた。勿論個人情報の破棄は約束の上で。ここらへん、ZABADAKファンは生真面目な人が多いから大きな混乱はなかったかな。受付前でもちゃんと記入用の机置いてあったし。まー徹底されてるよ。これで何か問題が起きるとはそうそう考えられないし、仮に感染者が出たとしても咎めようがないだろう。なお公演内容は言うまでもなく素晴らしかったです。


気になるのは、こういう措置がいつまで続くのか、だわねぇ。恒久的に定着するのか、はたまた強力なワクチンが開発されて膾炙して2019年以前に戻るのか。採算が取れるんなら昨夜の厳戒態勢でも特に気にならない……というか、ゆったり座席の贅沢感を味わってしまったらそれはもう病みつきになるレベルで(笑)。肩肘張らずに足も伸ばせる前の人の頭が邪魔になることもない、とても見晴らしと座り心地のいい状況で。心做しか音の通りもよかった気がする(ギターはデカすぎてハウリングしてたけど)。倍くらいの値段までなら払っていいかなぁと。いや勿論、公演内容次第なんですけども。

メタラーとしては立って走って燥いで騒いで叫びたいと思ってしまう所が無きにしも非ずだが、それはもう20世紀までのノリという事になるかもしれなくてなー。ま、それはどっちでもええわ。生演奏会が楽しめるのなら多少の妥協や譲歩は致し方無し。

で。東京キネマ倶楽部という数百人規模の会場だからそれでよかったが、これがアリーナツアーとなると果たして現実味があるのかと言われたらこれが非常に悩ましいですよねぇ。折角昨今入退場が顔認証システムのお陰でスムーズになったというのに、これはまた時間の掛かる方法に移行するのかも。顔認証データとともに個人情報も登録するようになるのかな。感染者アプリダウンロード必須とかになるのかな。まだまだわかりませんが、そもそもアーティスト自身が日本に自由に来れる状況が整わない事には話が前に進まないですわね。そんな日が実際に来てくれるのはいつになるやらですわ。やれやれだぜまったくもう。

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ヒカルが「サントリー天然水」のCM(のメイキング)で『詩も朗読すれば歌になる』と語っていたのがずっと印象に残っていて。確かに言われてみればその通りで。文字として存在する詩は、実体としての歌ではないが、声に出すと抑揚やリズム、声色、読まれるシチュエーションなど様々な「歌」としての要素を持ち始める。定型詩なら尚更だ。

事物は、どこから「歌」になるのだろうか。

さっきまでZABADAKのライブで手拍子をしていた。ZABADAKファンは裏打ちや三連はおろか五拍子や七拍子まで手拍子をこなす練度の高い音楽民として知られているが、当然の事ながら曲の演奏が終わったら、そのさっきまで手拍子をしていたのと同じ手で拍手をする。素晴らしい歌と演奏を聞かされたのだからまぁ当然なんだけど。

拍手は音楽的なものではない。あクマで、音楽や歌が始まる前や終わったあとに巻き起こるもので。例えば拍手をバックに一曲歌えと言われたらプロでも困惑するだろう。きっと大変難しい。それは賞賛の表現であっても音楽ではない。

ところが、拍手ってそれ自体は別にランダムな音ではなくってね。自分でひとりで拍手してみればわかるが、大体一定のリズムとテンポで両手を叩いているものだ。もっと言えば、ひとりで手を叩いている限り、「非常に速い手拍子」と「拍手」は区別がつかない。拍手をゆっくりにしていくと“やがて”手拍子に変わるのだ。

演奏会場で拍手が拍手たりえるのは、大勢の人がバラバラのテンポとリズムで手を叩いている為に他ならない。裏を返せば、もし会場に居る人の拍手が、テンポを合わせ、リズムを合わせ、そして位相(フェイズ/周期とタイミング)を合わせたらそれはもう手拍子になっているのだ。そして、手拍子をバックにすると歌は歌いやすい。それは最も原始的な伴奏である。

恐らく、ただの音が音楽や歌になる境界線はここなのだ。リズムとテンポとフェイズの組み合わせ、もっといえばハーモニーが生まれた時に、ただの音は音楽や歌になる。辞書にも載ってる自明な事なのだけど、こうやって「そうではないもの」との境界線を意識すると途端にイメージが克明になってくる。


冒頭に取り上げたヒカルの言葉をもう一度思い出そう。『詩も朗読すれば歌になる』。これは、手拍子と拍手の境界線より遥かに明確に区別できる一方、解釈は大変難しい。ただの散文を朗読したものも歌と呼びたくなるかという問題があるからだ。ヒカルは、詩の朗読と自分の歌(『誰にも言わない』)がかち合わない事を認めた。そこに何某かの秩序や調和を見出したのだろう。そこのところをもう少しよく理解したいのだが今宵はもう時間も文字数も足りないな。あわよくば、拍手と手拍子のように明解な描写を手に入れたいね。



追伸:それにしても、なんで「拍手(はくしゅ)」と「手拍子(てびょうし)」ってこんなに漢字が紛らわしいの。つまり人の手が入るとただの音が音楽になるってことですかね。変なのー。

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今年はメンタル勝負になってるねぇ。

こういう時、音楽を沢山知ってるとちょっといい。

「食」をどうするか調べ続けていくと結局「色々程々」、つまり、なるべく多くの食材を満遍なく食べ過ぎない程度に食べるのがいちばんいいのだなという結論に行き着く。生物の身体はかなり洗練されていて、我々が意識する入力はシンプルで済むように出来ているのだ。こういう場合はまさに「下手な考え休むに似たり」で、「色々程々」さえ心掛けていればそれなりに健康でいられる。

音楽を心の栄養にできるタイプの人もまた同じで、これまた「色々程々」がいい。出来るだけ多様な音楽を食傷にならない程度に聴いていくのがいちばんメンタルの安定に貢献する。根拠は無い。ただの経験則だ。

ところが、商業音楽、即ちプッシュ型の供給はどうにもそこが偏りがちだ。音楽性の幅が足りない。少し深堀りすればそれはもう人の数だけ音楽がある訳で。

「勝ち馬に乗るタイプ」が多い事がこれの最大の要因だが、他にも、音楽を「恋愛型」に捉えている点が大きいように思う。

忠誠心。聞こえはいいが、これが過ぎると偏る。音楽消費を煽る際、ひとつのアーティストやバンドやアイドルに注力するタイプの消費が励行されている。追っかけってやつですね。

だが、心の栄養的にはもっと音楽を「食事型」に消費するスタイルも意識していった方がいいかなと。昨日ラーメンを食べたから今日もラーメンを食べなくちゃいけない、それがラーメンに対する忠誠心だ……というふうに考えるのはほんの一部のラーメン道を求道する人たちの考え方で、殆どの人は「昨日はラーメンを食べたから今日は違うものを食べよう」となるはずだ。ところが、商業音楽だとなかなかこうはいかない状況が目立つ。他のに手を出すと「浮気だ」と謗られる。音楽消費を恋愛型で捉えてる所為だろう。

ヒカルさんはここのところを「食文化型」でいって欲しいと願っている珍しいタイプのアーティストだ。恋愛型の方が忠誠心に訴えてアピールすることが出来るのに、そうはしない。「曲ごとに好きになってくれればいい」という考え方だ。極めて食事的である。今回の新メニューはイマイチだなー、と思ったら他のお店に行ってくれ、というノリだわね。

そして、そういう態度だからヒカルの曲の曲調は多彩なのだ。常に曲ごとで、過去の実績に対する忠誠を気にする必要が無いから明るい曲も暗い曲も、悲しい曲も楽しい曲もある。総じて切ないけれど。

そんななので、逆説的だが、宇多田ヒカルとUtadaの現存する音源を総て網羅していれば、かなりの精神状態に対応することができるようになっている。宇多田ヒカル一人聴いていれば結構豊かな食生活、もとい、音生活が送れるようになるだろう。彼女に恋をしていれば、我々の心の健康増進には大いなるプラスになるのだった。昨今の世情は辛いものがあるが、それに寄り添ってくれる歌はヒカルのレパートリーに幾つもある。あたしがオススメするのは『WINGS』とか『日曜の朝』とか『パクチーの唄』とかだが、こればっかりは人の嗜好があるから一概には言えなくて、例えば逆に『Dirty Desire』や『The Workout』でハジけてモヤモヤを吹っ飛ばす!という人も居るだろう。そういう風に色んな人の嗜好に合わせた幅広い楽曲がヒカル&Utadaのレパートリーには揃っている。「しばらく聴いてないな」と思うアルバムがあったら、試しに引っ張り出して聴いてみたら案外今の心境とシンクロしているかもしれないよ。いろいろほどほどにお試しあれ。

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15年前の今日9月28日は『Be My Last』の発売日だったが、4年前の今日9月28日はアルバム『Fantome』の発売日だった。

ご存知の通り『Fantome』は母に捧げたアルバムだ。『かあさんどうして 育てたものまで 自分でこわさなきゃ ならない日が来るの』という15年前の悲痛な歌い出しがその11年後にまさにそのままアルバムのテーマとなったような、ヒカルにとって途轍も無く重いアルバムだった。

『Be My Last』は既述の通り映画『春の雪』の主題歌として書かれたが、同時にヒカルには大変珍しいギターで曲作りが行われた曲だった。当時のインターネットライブではヒカルがギターによる弾き語りを披露している。

その時のスタイルはロングヘアで黒づくめ。そしてギターを片手に─となれば、その姿はまるでデビュー当時の藤圭子。「新宿の女」のシングル盤のジャケットがまさにその格好だったよな。こちらは1969年9月25日の発売だ。こんなに発売日が近いのは偶然だったのだろうか。

ギターを掻き鳴らしながら熱唱するヒカル。確かに、『Be My Last』は「怨歌」と呼ばれかねない重々しいバラードで、もし藤圭子が歌っていたら大変な事になっていただろうなと想像させる楽曲だ。あのドスの効いた声で……想像してみて欲しい。

最早それは叶わないが、今後ヒカルが『Be My Last』を歌うことはあるだろう。こちらも、想像してみて欲しい。『Laughter In The Dark Tour 2018』のアイランドステージで『Fantome』からの『真夏の通り雨』や『花束を君に』を歌ったように、漆黒の虚空に一人浮かび上がり『Be My Last』を歌うヒカルの姿を。こちらもまた、今の歌唱力でこの歌を歌えば大変な事になるだろう事は容易に想像出来る。凄い親子だねぇ。

ある意味、『Be My Last』は『Fantome』の作風の先駆けだったのだ。この曲で学んだものが無ければ『桜流し』は生まれ得なかっただろう。あとは勿論『SAKURAドロップス』も重要だけどね。『かあさんどうして』から始まる冒頭の3行で言いたい事を言い尽くしたのでそこからは歌詞があまり埋まってない、少々変わった構成の楽曲だが、未来に生じる慟哭と嗚咽の前奏曲だったのだと今になって解釈すると不思議と腑に落ちてしまう。『Single Collection Vol.1』の表紙詩に書かれている通り、この歌もまた自己予言的な歌だったのかもしれない。

しかし、どれも過ぎた事だ。アルバム『初恋』等を経てヒカルは更なる境地へ踏み込もうとしている。その過ぎた事がこうして克明にきっちり記録されていつでも耳を傾けられるようになっているから、過去の曲を未来からこうやって再解釈出来るのだ。プロセスを形にして発表するという行為は、尊い。この一世一代の歌手と同時代を生きている事の果てしなさを改めて感じ入るよ。

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今日は『Be My Last』の発売15周年記念日。映画「春の雪」の主題歌だ。三島由紀夫原作の大作「豊饒の海」の第一部を映像化したこの作品でヒロインの綾倉聡子役を務めた竹内結子の訃報が届いた。謹んでお悔やみ申し上げます。

映画「春の雪」はなかなかの会心作で、勿論というべきか竹内結子も見事な好演を見せていた。主題歌のフィット具合はぐうの音も出ないほどで、昔からプロフィールの好きな小説欄に三島由紀夫の「金閣寺」を挙げていたヒカルに死角なんぞある筈もなく、悲恋の物語を圧巻の表現力で余す所なく盛り立てている。『Be My Last』の歌詞には、妻夫木聡演じる所の松枝清顕からの視点のみならず竹内結子演じる綾倉聡子からの視点も交えているとヒカルはインタビューで語っていた。こと「春の雪」に関しては、主人公はこの二人だったという解釈だったのだろう。

大作「豊饒の海」は主題に輪廻転生をもつ。シャンソンの名曲“Hymn a l'amour”の歌詞を、キリスト教的「最後の審判」の世界観から仏教的な「輪廻転生」の世界観に書き換え、『ぼくはくま』で『前世はきっとチョコレート』と歌ってNHKと一触即発になったヒカルにとってこの作品に纏わる歌を書けたのは作家冥利に尽きたのではないかと思われる。素晴らしいコラボレーションとなった。


竹内結子は昨年末に出産したばかりで、嬰児を遺して旅立った事になる。事情などはわからない。本人すらわかってなかったのかもしれない。彼も大きくなったら『かあさんどうして 育てたものまで 自分で壊さなきゃならない日が“来た”の?』と疑問に思う時が来るかもしれない。

本当に突然の訃報だったらしく、事務所から発表されたコメントも茫然自失と慌ただしさの両方が伺い知れる内容だった。それにしても、葬儀を終えてから訃報を伝えてくれるケースも多い中、遺族が混乱している状況で一分一秒を争い不確定な死因を添えて速報を流す神経たるや。そんなの一日や二日教えて貰うのが遅くなったからといって我々の生活に支障などなかろうに。誰とも知らぬキャプ画ツイート等によるとこども向けアニメの放映中にも速報テロップを流したらしい。大人でも参ってるのにこどもにトラウマを植え付けにいくとかもう言葉もない。ここでこうやって取り上げてる私も同じ穴の狢なのかもしれませんが。悩ましいです。

今は観ていないが、昔は朝の連続テレビ小説を毎回観ていたので、竹内結子が主演を務めた「あすか」も全回視聴した。宮本文昭が演奏する主題曲「風笛」は今でもよく聴く曲で、当然ながら竹内結子の初々しいおばちゃん姿(それ最終週だけや)もよくよく覚えている。まぁ、最近の活躍を知らない身がそれ以上言うこともないか。宮本笑里も、父の演奏と竹内結子の姿が重なると呟いていたな。竹内結子の知名度からして、読者の皆さんの中にも落ち込んだまま週明けを迎えた方々もいらっしゃるかと思う。悲しくてもお腹は減るし眠くなる。『Be My Last』は、手の届かなくなる悲劇を綴った歌だ。共感の癒しになるかもしれない。ますます落ち込むかもわからない。だが、思い出を刻んで前に進むことは出来るようになると思う。ひとまず、今一度耳を傾けてみては如何だろうか。

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漫画『ONE PIECE』に「ポーネグリフ」と呼ばれる石が出てくるのな。800年以上前に作られたもので、古代文字が彫ってある。非常に堅固で、爆薬でも傷つけることは出来ない、という設定。

本読みにとってこれは憧れでねぇ。言葉を時と処を越えてどこまでも伝えていく為にこういうやり方が出来たらどんなにいいか。

現実には「本」というのはまずひとつの答えで。特に写本や印刷によって複製し続ける所が生物っぽくてよいやね。ポーネグリフはそれ単独でずっと死なず滅ばず、何百年も言葉を伝え続ける。なお作中では古代文字を直接読める人は一人しか生きてないんだけども。余談だらけだな。

「歌」というのも、言葉を時と処を越えて伝えられる一つだ。ポーネグリフは石に文字を彫ってあるが、歌はメロディに言葉を刻んである。メロディは音なので、すぐに空気に溶けて無くなるが、印象を与えて記憶に残り、誰かが口遊めばまた誰かに伝わっていく。楽譜やMP3が発明されるまで、歌はそうやって口承で言葉を未来に繋いできた。死なないポーネグリフよりどっちかというと複製を続けて生きながらえる本に近いやね。歌い継がれるうちにエラーが蓄積されて変質していくのはより生物っぽいしな。

21世紀になって、言葉を伝えたり残したりするのにそんなに手際は要らなくなった。デジタルにしてクラウドとローカルそれぞれに保存すればほぼ大丈夫。世界大戦が起きて文明が破壊されない限りはずっと伝え残せていくだろう。ポーネグリフは大戦が起ころうとも生き残る寓話として機能しているんだけれども。


なんでこんな話をしてるかというと、ヒカルが昔『ぼくはくま』を『最高傑作かも』と言ったのは、こういう原始的な歌としての生命力がいちばん際立っていたからじゃないのかなとふと思ったので。先程歌が伝わるには「印象を与えて、記憶に残り、誰かが口遊む」事が大事だと書いたが、この3点セットの総合得点がいちばん強いのが『ぼくはくま』なんではないかなと。人が人を生み人と繋がり生きていく以上この歌は歌い継がれていけるのではないかという予感をヒカルに齎したのではないかなと。将来世界大戦が起こっても(起こしちゃならんがな)口承で伝わるヒカルの歌ならば『ぼくはくま』なのだろうと。それならポーネグリフより長生きするかもしれない。ポーネグリフは文字が読める人が居なくなればただの石塊になってしまう(かどうかは尾田栄一郎のことだから今後の展開を見守らなければならないわな)が、日本語が滅んでも『ぼくはくま』のメロディは、なんらかの言葉を未来へと運んでいくだろう。そこまで視えた上での『最高傑作かも』発言ならこれはこの上なくロマンティックな評価なのかもわからない。

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『WINGS』といえば

『エンディングの少し手前で閉じないで』

の一節も印象的で。最初聴いた時は「?」となって何のことかわからなかったのだが、前段に『大好きな作家の本を開いて』とあるから、本を閉じる事なんだと気がついた。あーわかるわ、あるある。

特にお気に入りの小説だと、その世界から帰りたくなくて、本が終わってしまうのが堪らなく寂しくなるもので。読み終わったらこっちに帰ってこないといけない訳で、残りページ数が少なくなってくるとどうしても最後まで読み切ってしまうのが勿体なくなってそこに至るまでに一旦本を閉じて我慢するというか妄想で補完するというか。印象的だった場面をもう一度振り返ってみたりなんかして。本の世界を終える事に臆病になるのよね。

だからここの歌詞は「(大好きな作家の本の)エンディングの少し手前で閉じないで」という意味だろうなと捉えていて。怖がらずに前に進みなさいよという一言なんだけど、この後、前回みたように

『明日に備え出来る事もあるけど早めに寝るよ今日は』

って、寝ちゃうんだよね。きっとエンディングの少し前で大好きな作家の本を閉じちゃって。いいよなあぁ。ほんと『WINGS』は、いい。

この歌もそうだけど、ヒカルの歌は優しいけど甘くないというか、どこかうら寂しかったり切なかったりする上で感じられる優しさで。甘やかされてる感じはしないのだけど(この歌でも甘えに悩んでるしね)、然り気無く肯定してくれるというか。「まぁそんな日もあるじゃんね」と一息を吐(つ)ける優しさなのだった。

でも案外、そういう歌って少なくてね。『WINGS』はその中でも、弱気と臆病に振り切ってそのまま終わる、寝てしまうっていう稀有なパターンで。この曲を知ってるか知らないかで人生大きく変わってしまう一曲なんだと思う。この歌が2006年の発売当時、とにかく「頑張れ、チャレンジしよう、トライし続けよう!」と発破をかける『Keep Tryin'』っていう宇多田ヒカル随一の熱い応援歌のカップリング曲だったっていうのが最高なのでした、よ。


ふぅ。



追伸として、ユニコーンの「風」と「風II」の歌詞を引用しておくか。あたしこれ最初に聴いた時は中学生だったかなぁ。ほんとはアルバムの流れの中で聴くからいいんだけどね。いやぁ、この歌たちほんと大好きで。これでフルコーラスです。約30秒の歌が2曲。


風:
明日は8時に起きて公園をジョギングして
部屋のそうじのあとは区役所に行くもんね


風II:
朝9時にむりやり起きたら雨が降ってるじゃないか
予定は明日にして僕はとこについた

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『WINGS』って曲は、臆病なまま終わるのよね。そこが好き。


『向かい風がチャンスだよ 今飛べ』っつってんのに

『明日に備え出来ることもあるけど
 早めに寝るよ、今日は』

って歌う。飛ばずに寝んのかいな。

この何もしなさ。他の威勢のいい歌の数々とはえらい違い。

『This Is Love』では

『私からそっと抱いてみたの』

って積極的なのに『WINGS』では

『じっと背中を見つめ
 抱きしめようか考える
 大胆なことは想像するだけ』。

そう、何もしない。思うだけ。

『Show Me Love』では

『実際夢ばかり見ていたと気づいた時
 初めて自力で一歩踏み出す』

と大変勇ましいのに『WINGS』では

『素直な言葉はまたおあずけ』
『あなたの前で言いたいことを紙に書いて
 夢見てるよ大空』

という風に、言わないし、夢を見たままで一歩も踏み出せない。

だが、やっぱりそれがいい。疲れ切っている時に、もうひと頑張りエネルギーを注入してくれる歌も勿論素晴らしいが、こうやって何もしない事を肯定や否定すらしない歌というのは心に心底沁み渡る。何もしないですと言うだけ、書くだけのこの歌っぷりが、なんだろう、本当にひと息つけるのよね。心から安らげるのだ。甘さすら中途半端だから。

この歌は、翼を羽ばたかせる歌ではなくて、翼を休ませる歌。翼を歌詞にした歌でこういうのはかなり珍しいのでないかな。でも、多分、人生で経験を積めば積むほど、この歌はじんわりやんわりと効いてくる。昔より更にもっと好きになっているものね、私。
 

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「やさしい」という言葉は多義的で。漢字だと「優しい」と「易しい」の二つがあるがどちらも随分意味が違う。「優」の字は「すぐれている」とも読め「優良可不可」の成績評価では最上位だ。「すぐれる」には「勝れる」の字もあり、人よりまさっている、勝っているという意味もある。一方「易しい」の方は、easy、簡単という意味で、まぁ随分と「優」の方とは印象が違う。

ヒカルさんはやさしい。勿論これは「優しい」の方だが、基本、能力の高い人は優しいのだ。手厳しい人というのは不器用、つまりある領域において無能だからそう振る舞うだけで。自分に苛立っているとでもいうか。そういうもんだなぁ、と思う。ヒカルさんは、能力が高く、それ故に優しく振る舞える。

だが、そもそもヒカルの心の優しさはもっと根源的なもののように思えて。その優しさが結果的に高い能力を導いたようにすら感じる。こどもの頃の無力感というのは例えば『点』の冒頭にも独白されているが、その怒りや苛立ちに似た状況から出発しているというのにヒカルは限りなく優しい。理屈以前に、学習や環境以前にそもそもそういう人なのだという気がする。

一昨日の絆創膏も、何かを慈しむ目線はその相手が人だろうが動物だろうが無機物だろうが関係無い。その優しさが極まって、人を見捨てない、置いていこうとしないから、音楽を作っていても一人一人にちゃんと伝わるように作ろうとして、そう作れ、実際に作って届けるからそれはとてもわかり易い。ここに「優しさ」と「易しさ」が繋がる。我々に音楽の世界に容易くアクセスできるように、間口を広く取り、そこから狭く深く高いところまで導いてくれる。その手際は非常に優れていて淀みが無い。ヒカルの優しさが僕らへの易しさに変わる過程が歌なのだ。


人より勝ろう・優ろうという気持ちには行かない優しさは、時に世俗的には不遇にすら感じられるが、理屈よりもそもそもそういう人なのだ。他の何が変わってもこの優しさだけは変わる気がしないな。

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ヒカルはきっと、あまり歌詞が行き過ぎないように気をつけている筈だ。歌詞が余りに先進的だったり急進的だったり進歩的だったりし過ぎるとリスナーたちから共感を呼ばない。『Time』や『ともだち』での同性愛を匂わせる歌詞も、20年前だったらやや早過ぎた。もっとも、12年前に『Prisoner Of Love』を歌ってんだけどね。でも、あの頃に『キスとその少し先まで』と歌えたかどうか微妙な所だ。──と書いてる筆者さんは普段百合漫画や百合小説ばかり読んでいるのでちょっと感覚がズレているかもわからず、先走り過ぎたり、逆に慎重になり過ぎたりしたりして微調整が難しいなぁと日々思ってたりもするのですがそれはそれとして。

『誰にも言わない』に関しては、どこがどうという訳ではないけれど、それこそ「少し先」を探っているように感じる。15年前の『Passion』のようにね。これくらいまで描いたとしてどこまで通じるのだろうか、という。その『Passion』も最後のパートが同性愛的な解釈が可能だねと喧々諤々だったけれども。懐かしい。まぁそれもそれとして。

『誰にも言わない』のサウンド・曲調に関しては、これはもう諦めてると言いますか。ハナからそんなに受け容れられないのは覚悟の上で布石を打っているというか。こういうのをどう“ポップに”回収していくかが宇多田ヒカルの毎度の見所だ。

そういう意味では、ヒカルは案外世相を睨んでいる。ヒカルくらいになったら「街に出る」とか必要ないんだろうかな。ニューヨークに居ようがロンドンに居ようが的確に日本の今の空気を読んでくれる。『Time』などは「売れる方」の曲で、ドラマのテイストにも今の日本の世相にも合っていた。アジャスト力は半端ではない。

ただ、『誰にも言わない』で実験した音作りと歌詞の世界観を“ポップに回収”してくるのは、もう何曲か先になるんじゃないかと勝手に思っている。例えば『Passion』などは、そこで試した感触を基にして『This Is Love』に繋げた感がある。そういう背景があるから『Utada United 2006』のオープニング1曲目2曲目は『Passion』〜『This Is Love』だったのだろう、と私は踏んでいる。あそこが音楽的に滑らかだったのは、音楽が出来た順だったからだと。

『Passion』から『This Is Love』までは約半年だった。『誰にも言わない』に関しては、“回収曲”が発表されるまで一年以上掛かるんじゃないのかな。でも、それでいい。というのも、『Passion』〜『This Is Love』と同じようにライブコンサートで繋げて披露する実際の機会は少なくとも再来年までは待たなくてはならないだろう、というのが目下の見立てであるからだ。焦る事も急ぐ事もないだろう。

『Laughter In The Dark Tour 2018』での『First Love』〜『初恋』や、『WILD LIFE 2010』での『First Love』〜『Flavor Of Life』など、ライブコンサートでの連続した二曲というのはヒカルの思いが強く込められているケースがある。ライブで『誰にも言わない』に続いて演奏される曲は果たして何になるのか。今のところ、私の目にはこの曲が最高傑作のひとつと映っているので、次に繋げて歌う曲があるとすれば『ぼくはくま』くらいで、まぁ現実的には“MC”が妥当だろうかなと。仕切り直しだね。それを覆すような曲が出来れば……それは次の次のアルバムの柱になる、のかな。はてさて、ヒカルさんの創造性と歩幅の合わせ方は、今どれくらいの所にあるのやら。足元の写真を見せてくれる度に、その歩みの行く先を想像させられるのでした。

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昨晩Instagram更新か。ほっと一息つけるね。生存確認。


今回は久々に「道に絆創膏」。「地球を治そう」というメッセージなんだろうかね。小さい子が逆立ちして「今俺地球を持ち上げてるんだ!」って燥ぐヤツを思い出す。もっとシンプルに道の傷を癒してるだけでもいいんだけど。


傷を治すというタームは『For You』の『傷つけさせてよ 治してみせるよ』の一節を思い出させる。そこから20年経過した『誰にも言わない』では『永久に傷つきたい』と言い切った。ここまで踏み込んでこれたんだなと感慨に耽ける。

しかし、そもそも「傷」とは何かを考え始めると難しい。辞書には「筋肉や皮膚が裂けたり破れたりした部分」「心などに受けた痛手」とある。ここでいうヒカルの歌詞の『傷』は心の痛手の方で、つまり、インスタライブで語っていた「そもそも心にあるもの」であったりする。人との関わりの中で『傷つきたい』というのは、関わりの実感としての痛みと、本来内在している痛みの両方を受け容れる意志の宣言だ。両方といっても、そもそも同じことなのかもしれないが。

この、踏み込んだ『傷つきたい』という言葉は、特に傷つくことに敏感な、傷つくことを恐れて生きる人には衝撃的で、甚く戸惑ったかもしれない。殆どの人にとっては、ということになるか。

独り言になるが、愛というのは好き嫌いを超えた所にあって、好きなものを愛せるのは当然のことながら、嫌いな存在を愛する事もまたある。ならば、心地よいものを愛すると同時に、痛みを伴う物事を愛する、慈しむ事もまたあるのだと思う。ヒカルは、カマシ・ワシントンが「違いは寛すより祝おう」と宣うMCに感銘を受けた。自らの価値観や嗜好との差異は断絶や決裂、違和感や嫌悪感、攻撃や忌避などを齎すが、それを寿ぐことは何ら矛盾した行為ではない。

ただ、『誰にも言わない』で歌われているのは、特定の特別な相手との関係性だ。ここでの傷つけ合いは、宇宙や人類を相手取るカマシ・ワシントンの壮大さよりももっと身近で然り気無い。とはいえ『好きな歌くちずさ』む歌なので、まずは好きが前提にあるのだろう。絆創膏を貼って『治してみせるよ』と嘯けるのは、まず目の前のことからなのだ。

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ヒカルが、特に人間活動中にどんな動きをしていたかはよくわかっていない。わかられてもそれはそれで困るんだけど、エネルギー問題や熊害問題、精神疾病者への支援など、時折ヒントとなるツイートは散発されていた。災害復興ボランティアなんかについては、遭遇した方々からの情報もあったかな。

有名人ともなるとその知名度を活かしてスポンサーを連れてくるのが基本路線だがヒカルはそういう事をしてこず。特に計算はしていないだろうが、結果的にその線引きがアーティストとしてのレピュテーションを高めている。

どうしても人は、歌を歌う人の人が気になる。歌は歌なのだけれど、人が歌うならということで。何やら色々チラついてしまうと冷める。ヒカルはそこらへん、想像力で補完するしかないのでうまくいってるというか。

アメリカのポップソングはメッセージ性が強く、カントリーなどは喧嘩売ってるのかというのも(伝統的に)あったりするが、日本ではそういうのは「流行らない」と言われて半世紀くらいが過ぎた。実際、そういう歌は流行らないのが鉄板なので、流行らない事自体は最早一時の流行りごとではなくなっている。文化として、歌詞を現実の問題と結び付けられる事に辟易する何かがあるのだろう。

メッセージ性の強い歌がないわけではなく、単純に広がらない。そこらへんを弁えるのは結構難しい。寧ろドライにポップソングを量産するタイプにはラクかもしれないが。


例えばヒカルの『あなた』にはご存知『戦争の始まりを知らせる放送もアクティヴィストの足音も…』の一節がある。ここでは物凄く言いたい事がマグマのように溜まっている匂いがプンプンするけれど、既の所で踏みとどまった感。ある意味、ここらへんがボーダーラインな気がする。これ以上いくと忌避感のようなものが増え始めるというか。

思うにヒカルは、そういう自分個人としてのメッセージを、特に最近、かなり抑えながら活動しているようにも思える。我慢というと少し違うかもしれない。自分のやってること、自分のやりたいことの為にどうすればいいかを見極めている最中だとでもいうか。

コンピレーションでもファンピクでも一曲目を飾るという“近年の代表曲”の座に在るその『あなた』がギリギリのラインをついた歌詞を持っているというのは何とも興味深いものだ。もしかしたら世の中には「言いたい事は沢山あるけど言ったら色々煩わしいから言えない」と思っている人が沢山いるのかな。ボーダーラインギリギリの歌詞がそこらへんの共感まで喚起しているのだとすれば、本来ならこういう歌こそ大衆の歌、ポピュラー・ソングとして持て囃されて欲しいところですわね。来週の地上波テレビ、金曜ロードショーで「DESTINY 鎌倉ものがたり」が放送されるらしいが、出来れば『あなた』まで流れて欲しいわねぇ。色々ともったいない、ものね。

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ああそうか、今夜はヴァイオレット・エヴァーガーデンのネタバレ回避に努めねばならぬのか……ネットサーフィンは自粛しよう。でもまぁ、どうせ絶賛しか見当たらないでしょ。こんな約束された未来(もう現在なのか……)も珍しいぜ。


それはまぁさておき。ファンピク公開もあと2週間を切ってる訳でな。まだ観てない人やもう1回観たい人などは連休を利用してどうぞ。自分でこういう風に映像繋ぎ合わせるのも大変だし、今のうちに堪能しておこう。

特に、『Kremlin Dusk』がフィーチャーされているのが熱い。これをリクエストしてくれた方も選んだスタッフもぐっちょぶであるどうもありがとう! いやはや、まさかUtadaの曲がねー。

当時現地のコンサート会場に居なかった方は信じられないかもしれないが、これだけのカッコイイ曲を生パフォーマンスしてくれたのに、しかも前に『Devil Inside』後に『You Make Me Want To Be A Man』という文字通り最強の布陣を敷いたというのに、観客の9割は地蔵だったのだ。曲を知らなかったみたい。ふーん。……ふーん!

その憂さを晴らすと言っちゃっていいのかはわからないけど、その4年後の『In The Flesh 2010』では勿論バカウケだった。自分の観たホノルル公演はツアー初日、しかも当初は単なるリハーサルのつもりでブッキングされていたというくらいだったのもあって、演奏は緊張して慎重そのものだったが、Utadaの歌唱の方はもう既に仕上がっていていやお前『You Make Me Want To Be A Man』をそこまでライブで歌い切れるのか喉が潰れるぞ!と慄いたくらいに素晴らしかったのですよ。いやはや。

そんな具合なので、ファン歴とやらを問わず今回初めて『Kremlin Dusk』を聴いた人も多いかもしれないし、或いはライブDVDというもの自体をハナからスルーしてる人も居るかもしれないのでここでもう一度ファンピクを押しておこう。一時間ちょいだ。テレビドラマ1話分くらいの時間で宇多田ヒカルの20年をタイムトラベルできるのですよっ!


なお、iTunesくらいしかチェックしていないのだが、基本的にライブDVD作品は配信ダウンロード購入出来る。iPhoneユーザーならいつでも携帯電話で鑑賞出来る訳だ。DVDを購入する習慣のない人も、配信なら……動画配信購入習慣持ってる人ってそんなに居ないか……。

まぁ兎も角、ファンピクを観て気になった曲があれば、是非ライブDVD全編を視聴して貰いたい、ということも強調しつつ。折角世間は4連休に入るのだしこの機会に……ってくどくてすいません。


しかし、いろんな服着てきたんだなぁこの子は……ビッグコミックスピリッツが水着写真撮影に成功していたら、歴史が変わっていただろうなぁ……。(※ ヒカルさん、漫画雑誌の写真撮影ということでグラビア気分で服の下に水着を着込んで臨んだらしいのです。もしオファーがあったら披露するつもりだったらしいが、誰も宇多田ヒカルがそこまでノリがいいだなんて気づかないよね……残念なことをした……)

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今日の【今日は何の日】に出てくるヒカルの『完全にマスコミ恐怖症になってしまった』の一言が重い。もう7年前の話だし、少しは和らいでいてくれたらいいんだけど……とは必ずしも言い切れないのが怖い。恐怖症でいた方が命を長らえるかもしれないからだ。

マスコミの餌食になって亡くなられたと認識されているケースは、例えば古くはウェールズ公妃ダイアナの交通事故などが思い出されたりもする。まぁその事件については詳細は知らないが、ヒカルの7年前の呟きを読むと、そういうことにもなるかもなぁと思ってしまう。

今ロンドンに住んでいて平穏だとすれば有り難い限りだ。自宅からインスタライブをやると言われて居住地がバレたらどうすんだと事前には思ったがそれも杞憂だったらしく。アスワンツェツェバエが居なくて本当によかった。

そんななので、例えば昨日ラテ欄に宇多田ヒカルの名前がある、なんて情報をきくと、期待感と一緒に不安感もまた襲ってくるのだった。なんかよからぬアプローチをとられたのではないかと。昨日はコンピレーションアルバムへの参加という情報で安堵できたが、あのレベルの有名人は死ぬ迄有名人なのできっと一生安堵し切れる事はない。

本来なら違法触法行為による取材の類は取り締まられて然るべきだが、そのような世論が盛り上がる事も無い。メディア自身が火消しに回るから仕方が無いのだが。インターネットなら草の根活動での是正も可能だろうという期待が語られた事もあったが、まぁ推して知るべしだよね。

前にインタビューが少ないと愚痴ってしまったが、ヒカルが無理解な人達に晒される機会が減ったと思えば我慢も出来る。インターネットが皆の掌に渡った以上、今必要なのは知られる事より知られないだ。昔のメッセでの開けっ広げぶりが懐かしいが、種々の環境が整うまではこんな感じでいいんじゃないでしょうかね。噂話から離れられると、本当に清々するのだぜ。

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