無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ゴールデン・ウィーク最終日、今日はNHK-FMで
「今日は一日“ハードロック・ヘビーメタル”三昧」の第2弾の放送。
何をとち狂っているのやら、12時間番組なのです。
PCで録音しつつ、適当につまみ食いしますかね。外は雨模様だし。

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こんなにセンシティヴな男は他にいないかもしれない。
それこそ、その繊細さは宇多田ヒカルと伍するといっていい。このblog的に。

そして、これだけ純真で繊細極まりない男が
真剣に真剣に真剣に14年間取り組んだ結果、
物凄く何千万人に消費されるのに適した“商品”として通用する
音楽を生み出してしまってる姿が、凄く滑稽で凄く悲しくて、
凄く美しいと思える、、、のがまた滑稽で。

歌。抜群に素晴らしい。
技術云々とか野暮言う気を抹殺する真っ直ぐ突き刺さる声。

でも、それがまた“キャッチーでラジオ・フレンドリー”とかいう
形容にも相応しいのが、、、、孤独って、こういうのを言うんだろうか。

世界中の何千万人に向かって歌うアクセルは、
人を感動させればさせるほど、音楽を売れば売るほど、独りになっていく。
ここまで人の弱さを多面的に表現し尽くせる人間は、稀有で、奇跡だ。


なんでもいいが、先行シングルでタイトルトラックなアルバムの1曲目が
ダントツでアルバム中一番地味で無難で毒がなくて退屈、ってのは
いいんだか悪いんだか。一番敷居の低いところから入ってらっしゃいってことなのかな。

現在2周目突入中。


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コメント欄で質問があったので答えてたらえらい長くなった(汗)。
んだもんでエントリ化。

質問概要は「ミュージシャンがマスタリングすることは少ないのか?」です。
実際多いか少ないかは、現場の人間じゃないから“わからない”としか
答えられないんだけど、もし仮に少ないとしたら理由は結構カンタンに答えられる。

「作曲・レコーディング・ミックスまでは音楽を作る作業であるのに対して、
 マスタリングは、作った音楽を“物質に落とし込む作業”だから、
 根本的にやることが違う」、それが理由でしょう。

どういうことかというと、音楽というのに僕らがどうやって触れているかといえば
主にCDプレイヤーでCD(コンパクト・ディスク)を再生して聴いているわけで、
で、そのコンパクト・ディスクというのはポリカーボネートと呼ばれる
プラスチック(合成樹脂)で出来ていて、そこに音のデータを刻み込んであるから
僕らが家でCDを聴けるわけだ。

つまり、マスタリング・エンジニアという人は、音楽家が作った音源を
「CDの表面に最初に刻み込む人のこと」なのです。そうやって作った“CD原盤”を
元にして(“型”をつくって)商業用CDを大量生産して僕らの手元に届けてくれるわけ。
(だから、CDがなくアナログ・レコードが主流だった昔は
 マスタリング・エンジニアといわず、“カッティング・エンジニア”と呼んだそうな)

ミュージシャンが、まぁ例えばギタリストなんかが、自分の演奏するギターとか、
音を大きくするためのアンプとかなんやかんやを機械的にいろいろ弄くったりしているうちに、
スタジオでの録音機材とかに興味を示して気がついたらミキシングボードも使えるようになり、
ミキシング・エンジニアになってた、なんてことはあるかもしれないけれど
(いやホントウはちゃんと学校出ないとダメだよw)
更にそこから“CDという物質自体をいじくる”マスタリングという作業にまで
移行するかというと、結構難しい。マスタリング・スタジオ自体が、
レコーディングスタジオ・ミキシングスタジオとは別の場所にあることも多いし。
(実際今回Hikkiは録音とミックスを両方渋谷文化村スタジオでやってたようだけど、
 マスタリングはかの有名なテッド・ジェンセン率いるNYのSterling Soundで行われてる)

そんなわけで、ミュージシャンがマスタリングにまで手を染めるような例は
実際は少ないんじゃないかな、とは思われる。
もちろん、BOSTONのトム・ショルツみたいな人もいるけど、
このひとはMIT出身で在学中にギターに興味を持ってミュージシャンを目指した、
っていう逆の順序の人だから、Hikkiがマスタリング作業まで携わることは、
ちょっと有り得ないんじゃないかな~。EXODUSを聴く限り、
Hikki本人は楽曲のストラクチャーに興味はあってもサウンド・クオリティにまでは
興味が、、、というか、当時はそこまで手が廻らなかったから、かもしれないけど。余談。


ところで、それなら、そんなミュージシャンが参加しないような物質的な過程で
音のよしあしが変化するのか?していいのか?という疑問が浮かんでくるわけだが。

調べてみると、そういった“音質を変化させる作業”のことは
“プリ・マスタリング”といわれ「CD盤を実際に刻む」真性のマスタリングとは、
細かく言えば別の作業ということになっていて
(大体はプリ・マスタリングも併せてマスタリングと呼んじゃうことが多い)
そのプリマスタリングが具体的にどんな作業になるかはWikipedia
マスタリング”と“マスタリング・エンジニア”の項に書いてあるから
興味のある人はそちらを読んで頂くこと(携帯のひとはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/
にアクセスして“マスタリング”を検索しておくんなまし)、にして、
僕の方は今日もタトエバナシを交えながらマスタリングの重要性について説いてみるテスト。


といっても、珍しく料理の話には喩えないよ。(笑)


デジタルで絵を描くとしよう。写真素材の加工でもいいや。
PCで、フォトショップとかいろんなソフトを駆使して描いて完成した後に
さぁ、それを人に見せる場合にどうするか。いろんな“見て貰い方”があるはず。

一番単純なのは出来たファイルをjpgとかに変換して自分のホームページやブログなんかに
アップロードしてみんなのPC画面とか携帯画面で見てもらう、なんて方法があるわけだけど、
ちょっと待て。
よくよく考えてみたら、同じPC画面といっても、
ブラウン管と液晶では随分と表示される色合いが変わっちゃうんじゃないか。
また、表示されるサイズによっても見栄えが変わってくるでしょう。
携帯で見てもらうんだったらもっと考えるべきバリエーションが出てくる。
サイズもまちまちだし、起動するブラウザも会社によって違う。
最初につくったファイルで使っている色数が足りなくてちゃんと表示されないかもしれない。

また、PCや携帯の画面じゃなく、出来上がった画像をプリンタで印刷して
ひとにみてもらうケースだってある。ついこないだまで年賀状で苦労してた人は多いはず(笑)。
画面上ではお気に入りの色味だったのに、いざ印刷してみると思ってたのとかなり
違っていてガッカリ、だなんてケースも慣れないうちはあるだろう。
これは、プリンタの印刷機構の違いや使ってるインクの色自体なんかが影響してくるわけだ。

熟達してくると人によっては、「これこれこういう印刷をするから、
PC上でこういう風な色合いにしておけば、結果的にこういう色になるはず」だなんて
恐ろしい逆算をして絵を描くひともいるんじゃないかな。知らんけど。

とにかく、上記のような、
「最初に作った画像は全く同じでも、それを人に見てもらう媒体・メディアの
 選択によって、実際に見てもらうときの結果が大きく違ってしまう」
という事態が、絵に限らず音にも、ある。
今回の話の主要になっている“マスタリング”というのはその、
「絵を実際に見てもらうときのメディア・媒体の特性を活かす」ことの音声バージョン、
「音を実際に聴いて貰うときのメディア・媒体の特性を活かす」ことそのものなんです。


これの重要性を最も物語るのは、皮肉なことにというべきか当然というべきか、
1980年代後半以降のCD黎明期に盛んになり始めた
「アナログ時代の音源をCD化すること」であったのです。

CDが登場してきたころの触れ込みは当然
「デジタルなのでアナログ・レコードよりも高音質且つ音質劣化もない」
といったことだったわけなので、当初は
「アナログの音をそのままCDに収録してしまえば音質の劣化もないだろう」という
空気が支配的だった(らしい。詳しくは知らん。)。
しかし、実際にそうやってアナログ時代のマスターテープからそのまんま
CDに落とし込んだ音を聴いても、どう足掻いても塩化ビニル製のアナログ・レコードで
鳴らした音源の方が素晴らしかったのだ。

実際、おいらも昔QUEENの「オペラ座の夜」を
そのCD黎明期のCD(恐らく“初CD化”だったんだと思う。この名作は1974年作品で、
当然オリジナルはアナログ・レコードなわけです)と、アナログレコードのそれとで
聴き比べてみたことがあるんだけど、断然アナログレコードの方が音がいい。いいというか
音の迫力が違った。CDの方はなんだかこじんまりとしてて音のダイナミズムに欠けた。
当時はCDといえば「ダイナミックレンジ(音の解像度)が超広い」というのが
特徴だと喧伝されてたわけだけど、その肝心のダイナミズムでアナログに負けてる、というのは
へんちくりんだなぁと思わされた。

と同時に、如何にブライアン・メイ(QUEENのギタリストね)のギター・サウンドが
アナログ時代の機器・レコードプレイヤーやアナログアンプとの相性まで考慮に入れて
作られているかが実感されたわけです。彼もまた上記の「逆算して絵を描く人」だったわけね。
そういった“音の職人たちの意図”を、初期のマスタリングエンジニアたちは
十分に汲取るだけの技術を持ち合わせてなかったらしいんだな。(熱意はともかくね)

そこで90年代初期から盛んになったのが「デジタル・リマスタリング」の技術。
如何に80年代以前のアナログ・レコード世代の名作たちを当時の音で再現するか、
若しくはデジタル再生機器に見合ったフレッシュなサウンドに仕上げるか、という意図のもと
この“デジタル・リマスタリング”は何度も繰り返し行われていった。
サウンドに定評のある名作群となると、
この15~20年で4回も5回もデジタル・リマスタリングされてたりするんじゃないかな。

そうやって進化していったデジタル・リマスタリングの技術の凄さは、
その僕が昔触れた「アナログレコードの初CD化」のときのCDと
最近のデジタル・リマスタリングCDの音を聴き比べれば一耳でわかる。一聴瞭然。
中には「おまえ、これはリマスタリングじゃなくてリミックスしただろ!?
楽器のバランスまで変わっとるじゃないか!」というものまである。
左右に楽器の定位が拡がり、薄っぺらで如何にもデジタル音という感じだった低音が
ファットな大迫力で迫ってくる。いやぁマスタリングって本当に恐ろしいものですね、と
シベリア超特急並の技術革新のスピードを実感しながら呟きたくなるほどだ。

このブログの読者はシンコレの音源とオリジナルの音源を各曲で
聴き比べてみてくれたらいいと思う。はっきり音質が変わってるとわかる曲もあれば、
殆ど全く区別のつかない曲も両方あるから、マスタリングが“効く”ケースと
そうでもないケースの両方があることが体感できるだろう。


話変わって。
時代は移り今音楽はダウンロードして携帯する時代。
となると、勿論アナログ・レコードやコンパクト・ディスクといった“物質”に
音を落とし込む技術は必要がなくなってくる。つまり、アナログレコードが
衰退するとともに昔のものとなっていったカッティング技術のように
コンパクトディスクにおけるマスタリング技術も、
ひょっとすると過去のものになっていくかもしれない。
今現在重要なのはミュージシャンが作り上げた音源を
如何に小さいサイズで、高音質で圧縮できるかという“エンコーディング”の技術だろうか。

ダウンロードできる音楽ファイルは今現在accとかmp3とかatracとか色々ある。
ミュージシャンによっては、エンコーディングの種類の差で販売するサイトを
指定したくなる、なんて事態もあるかもしれない。(もうあるかもしれない)
実際は所属しているレコード会社の販売方針だからそんな選択はできないんだろうし、
そもそもダウンロードで聴いて貰う以上音質度外視、っていうのが
今んとこの空気なような気もするから、関係ないのかもしれないけど。

まぁ、そういった悩みもまた一時的なものか。そのうちネット回線容量がもっと増えていけば
CDに乗せてるサウンド・クォリティそのまんまで配信が出来るようになる。
携帯音楽プレイヤーも、現時点で既に数十ギガバイトのものがあるんだから、
CD一枚1ギガバイトとすれば、もう十分にCDクオリティの音を携帯して
聴けるだけの容量がある。ってかiPodってWAVファイル(CDと同じファイルサイズ)を
再生できるんじゃないっすか。持ってないから知らんかった(^^;


そうなってくるとDVDが次世代高画質DVD(ブルーレイとかHDDVDとか)に
移行しているようにCDも次世代高音質CDに移行するのか、というとそうでもない。
ちょっと前のエントリで書いたように、基本的に大多数のひとびとは音楽を聴く際に
そんなに高音質を求めてない。実際にSACDとか全然普及していないし。そうだな、
『音楽そのものを楽しむ為には“高音質でなければならない”ような新しい音楽』が
生まれてこない限り、これ以上高音質なオーディオ媒体は、必要ないだろうな。

てゆーかそこまで音質に拘るなら
実際に現場に行ってライヴでコンサート見ようよ聴こうよっていう話か(笑)。
尤も、そこまで音のクオリティの高い生演奏となると電子楽器では殆ど不可能で、
クラシックなど限られたジャンルにしか当て嵌まらないことだけどね。
(PINK FLOYDくらいになると電子楽器でも凄そうだが、日本に来てくれない(涙))




まぁ話が逸れまくったけど(苦笑)、
レコーディングやミキシングと違い、マスタリングという技術は飽クマで
「CD時代限定の技術」という側面が強いから、したがって
宇多田ヒカルが貴重な時間を費やして覚えるべき技術かというとそうではないと思われます。
だからこそ、今という時代を生きているマスタリング・エンジニアのひとたちには
最大限の敬意を払うべきだし、彼らの活躍のお陰で僕らが“今”音楽を
非常な高品質で楽しむことができている、といえるわけです。

なので、お金に余裕のある人は、できればダウンロードで買った「HEART STATION」と
CDで買った「HEART STATION」を聴き比べて、マスタリング・エンジニアの
手腕の素晴らしさを堪能してくれたらいいんじゃないかな、と思います。
(まぁ、たとえばiTMSで購入したとしても、データ自体が10分の1の容量しかないから
 どこまでが彼らの技術の賜物か、なんてことはどこまでわかるかわかんないんだけどねw)


音は世につれ、世は音につれ。ご静聴ありがとございやしたん♪

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あぁすまん、Hikkiとは何の関係もない話題。(^^;


上原ひろみ」という名のジャズピアニスト。
結構有名だと思う。情熱大陸とかトップランナーとか今まで一通りTV番組も出たし。
wikipediaなんかも参照のこと)
一度ナマで見たことがあるが、そりゃあ凄かった。いいプレイヤーだ。
おいら好みの、ダイナミックで抑揚のあるプレイをする。
繊細さのバックグラウンドにでっかいスケール感と笑顔が覗くのが魅力、
、、、なんていう表現が適切かどうかはしらんが(苦笑)私の印象はそんな感じ。
今年はまたフジロック2007出演するそうな。
ロック・ファンからも愛されてるということか。わかるわかる。

ほいで。

彼女が自分のオフィシャルサイトでミニアルバムをまるごと無料開放している、
というのでリンクをしてみる
http://www.hiromimusic.com/downloads.htm
彼女の音楽を、堂々と本人公認でタダで手に入れられる。これはいい機会。

でも、ページが英語ですね。翻訳を以下に載せておきます。


*****



インターネットオンリー! - この3曲でCDを焼いちゃえ!!

もしHiromiのとんでもない音楽のフレイバーを味わいたければ、ここHiromimusic.comでしか手に入らない3曲入りミニアルバムをダウンロードしてくれ! CDを焼いた後にはプリントできるCD用ジャケットもちゃんと控えてる。Hiromiのセカンド・リリースである「Brain/ブレイン」からのエディット・ヴァージョンが3トラック高品質のMP3で手に入るんだ!

ダウンロードを始めるには、ただシンプルに「Hiromi」と名のついたフォルダをデスクトップに作ってくれさえすればいい。そのあと3つのファイルをそのフォルダに保存してくれ。それさえ終わればキミのデスクトップから好きなメディアプレイヤーを使って曲をいくらでも聴く事ができる。カヴァー・イメージをプリントアウトしてCDRに3曲焼きつけてやってくれ!

ブレイン・EP・カヴァー:
このダウンロード可能なEPカヴァーイメージ(“downloadable EP cover”のリンク)は、アドビのPDFファイル形式で提供しています。(もしアドビ・アクロバット・リーダーを持ってないなら、ここ(“click here”のリンク)からソフトウェアをダウンロードしてください)

Tracks/曲目
Brain/ブレイン
Kung-Fu World Champion/カンフー・ワールド・チャンピオン
Desert On The Moon/デザート・オン・ザ・ムーン(月の砂漠)



******


えぇっと、つまりページの下の方の
「Brain」「Kung-Fu World Champion」「Desert On The Moon」から
ファイルをダウンロード(WindowsのIEだと「右クリックで“名前を付けて保存”かな)を
してくれ、ジャケットもちゃんとpdfファイルであるでよ~、、、ということ。

なんとも太っ腹な話じゃ、あーりませんか(^^;
アーティスト本人公認でこれだけの音質(128kbps)のフル音源が手に入るんですから。
なお、なぜか私んちでは2枚目(1stAlbumの曲)のEP分の3曲(Truth and Lies、Joy、XYZ)が
ダウンロードしても聴けない、という症状が出ております。うーん、悔しい。


別に私は特段彼女のファンというほどでもありませんが(ぉぃ!(笑))、
彼女のパワフルさと繊細さを堪能してうただければ幸いです。


P.S. 彼女のメッセージのページはなかなかに面白い!
   長文が多いので、ヒマなときにでも読んでやってちゃぶだい。はまるぜっ!w
   
   
   
・・・ひっさびさにHikki以外の音楽の話題を書いたらやや緊張した(爆)


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ベンジャミン・ブリーグ;ついに真実が、、、

2006年8月14日

私の調査は終局を迎えたのではないかと感じている。
コンタクトをとっていたルーマニアの人物がこれから私に会いに来る。私の感触では、彼の到着がベンジャミン・ブリーグに関して探していた答えを最終的に与えてくれそうだ。私の従兄弟が所有していた何かを彼が携えてもいると彼がいうのを聞けたことを思い出すだけで、私は自分を抑え切れなくなりそうになる。とはいいつつも、彼はそれが何であるかについて特定しようとはせず、ただ“ジャーナル”を持ってくるとしか説明してくれなかった。私の従兄弟の日記であるということだろうか。となると、何故どうやってその男がベンジャミン・ブリーグの日記を所持することになったのか想像もつかない。既に私が何ページかを読んだそれと同じ日記なのだろうか? いや、そんなはずもないとは思うが。

その男は8月18日にこの国に到着する。テロリストからの警告によって空港で巻き起こっている諸問題が彼の来訪を妨げることがないよう今はただただ願うばかりだ。なにしろ彼は、私と空港で会うわけにはいかない、あなたの自宅に伺います、と強く主張してきたのだから。(私の住所は予め彼に伝えてある)

彼はまた、私の従兄弟について知る限り総てのことを教えるともいってくれた。ベンジャミン・ブリーグが自分のもとから持ち去ったものがあるのでそれが戻ってきて欲しい、というような意味のこともいっていた。それが果たして何なのかは言おうとしなかったが。私にはとても従兄弟が泥棒のような真似をするとは思えない。しかしそれも男が到着すれば洗い浚い説明してくれるはずだ。

この邂逅の先の展開を思うと興奮と不安が私を襲う。私が従兄弟について知りたい事柄が余りにも多いとはいえ、男にとってそこまで重要であるとは思えない訪問のために、この遠距離の行程を旅してきてくれることになろうとは想像もつかなかった。今私は彼の到着を待ち焦がれている。未だ解明されていない多くの謎が存在するわけだが、その男は私が今まで得ることのできなかった答えの数々を提供してくれるだろうと感じている。ただ、私が彼の秘密主義者ぶりにやや焦らされ気味であることは認めねばなるまい。この国のどこでだろうが彼のいる場所まで会いに行けるだけでも満足過ぎる程なのに、男は頑なに私にそうすべきではないと拒否しているのである。とにかく自分が到着した時にはあなたは家で独りでいるべきだといってきかないのだ。

尤も、一番奇妙なのはその男が私に自らの名を明かすのを躊躇っていることなのだが。

男は、我々がひとたび相見えればこの謎に対する答えを突き止められるだろうと言う。それを願おう。
ベンジャミン・ブリーグに関する真実をやっと解明できることを祈りながら。

A.ブリーグ



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ベンジャミン・ブリーグ;ついに手掛かりが

2006年8月11日

ベンジャミン・ブリーグの手による絵を見た。私の知る限り現在残されている唯一のものだ。しかしついに、私はその一枚の絵を見たのだ。

昨日私はパリから戻ってきた(テロリストの脅威によってフランスとロンドンの両方の空港でとんでもない問題に見舞われながらも、だ)。その絵を見てから暫く興奮をまるで押さえ切れないほどだった。私の従兄弟が創りあげた数々の作品のうちのひとつを、やっとこの目で確かめたのだ。それは私にとって大きな戦慄だった。とはいうものの今の時点では、この創造物を目にした私の興奮は幾らかではあるが落ち着いてきている。何故かといえば、この絵は私の行方不明の従兄弟の所在を解明するのにも、彼の身に何が起こったのかを明らかにするのにも、まるで役に立たなかったからだ。しかし、それについての状況もそのうち改善に向かうだろうことを祈っている。とりあえず今は、よもや見れるだろうとは思ってもいなかった物を眼前にしているという事実に満足しておくこととしよう。



http://benjaminbreeg.co.uk/breegpainting.jpg


絵のキャンヴァスは3フィート(約91センチ)四方の大きさだが、私が撮った写真がこの絵の感じをどれだけうまく再現出来ているかはわからない。描かれた作品の右下隅にはシンプルに“B.ブリーグ”とサインが記されている。
絵のこととなると専門家ではないので確かなことはいえないが、作品が抽象画だということくらいならわかる。総ての色がキャンヴァスに向かって力強く、まるで怒り狂うような筆致で塗られている。
とはいうものの、そういった一見闇雲に塗りたくられているだけに見えるものの中に直ちに私の目を引くものがある。顔だ。従兄弟についての調査を通じて私は、彼が自らの夢の中に見たものを描いていたということを知った。この顔は酷く歪んでいて殆どシュールレアリスムの質感すら持っているから、確かに潜在意識の中に見れるヴィジョンなんぞを連想させる。
彼がそういった夢のひとつから醒め直ちにキャンヴァスにそのイメージを投影していた様子がありありと浮かんでくる。恐らく、(夢以外の)何か他の場合であってもそうしたのだろう、(絵に描くことで)彼は、自らの心からその残像を取り除きたかったのではなかろうか。確かに、そう楽しいことでもなさそうだ。

この絵の所持者は(これは触れておかねばならないが、私の滞在期間中彼は極めて協力的で、親身になってくれた)、自身がこの絵を購入した元はルーマニアだったと私に教えてくれた。その話は、9つのルーマニア語を含んだEメールを私が受け取っていたことを思い出させた。ベンジャミン・ブリーグ・ウェブサイトにコンタクトをとってくれた人と、私が見ているこの絵を以前に所有していた人は、もしかしたら同一人物なのだろうか? そう願うけれどもそれでは余りにも偶然の一致が過ぎていて恐ろしい。その人物にコンタクトを取ろうとした私の努力は今のところ何の成果もあげていないし、彼から新たな連絡を受け取ることもない。以前と同じく、送信主にEメールを返信しようとしても、ただ突き返されてくるだけなのだ。
もし定期的にこのサイトを見てくれているというのなら、心当たりのある方、私にメールを寄越し必要に応じて手紙で連絡の取れる住所を教えてはくれないだろうか。(できれば英語が理解できる人であってほしいが)

私は、我が従兄弟の作品の恒久的な記録を少しでも多く残そうと、自分のカメラでその絵の写真を何枚か撮影した。この作品は、些か心をざわめかせるものの、なんといっても私の手元に残る彼の才能を全く明快に示す唯一の実例なのである。あとは、彼の日記ももう少し手に入ればよいのだが。しかしこれで、恐らく私は彼の身に何が降りかかったかを解明できるところにまできたのではないだろうか。
たった一枚の絵。それに彼の日記の何ページかと、多くの伝聞と噂。それが今私にある総てだ。私には助けが必要だが、それが誰からもたらされるかは知る由もない。

A.ブリーグ


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ベンジャミン・ブリーグ;これは終局なのか、それとも?

2006年7月28日

遂に来た。ルーマニアから到着したEメールの送信者から連絡を貰えたのだ。最初のメールに対する私からの数多いチャレンジを経て、やっと彼は私に新しい通信を送ってくれた。ありがたいことに、今度は英語だ。もし彼と話せたときには、最初に私に送られてきた9つの単語にまつわる状況について説明をしてくれたらと願っている。

9つの単語の訳は、以下の様であった。

“ヒア・ライズ・ア・マン・オヴ・フーム・リトル・イズ・ノウン.”
(ほとんど 何に ついても 知られて いない 男 ひとり ここに 眠る。)

まず最初に思い浮かんだのは、これは普通なら墓石を飾る類の言葉であり、私のその従兄弟ベンジャミンが初めて就いた仕事が墓標を刻むことであった、ということだ。この言葉は、本当に私の従兄弟のものであろうか。

A.ブリーグ


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ベンジャミン・ブリーグ;更なる進展

2006年7月26日

私のいとこであるベンジャミン・ブリーグについて情報を寄せようとこのウェブサイトにコンタクトをとってきてくれる人々の数に引き続き驚かされている。

彼の作品を見たという人も幾らかいたし、6年前という比較的最近に彼と出会ったという人も何人かいた。それを具体的に証明できる何かがあればと思う。私が彼の探索捜査を始めてからもう2年以上が経過しているが、まだまだ彼の所在に近付いているという感じはしない。生きているか死んでいるかすらわからない。皆さんが関心を寄せてくれていることに感謝すると同時にまた、ほとんどのやりとりを等閑に、蔑ろにせざるを得ないこの状況を大変申し訳なく感じている。Eメールの数は非常に多いが、それらはまもなくリリースされることになるレコードと関連付けられたものばかりだ。ただ、今の私は些か混乱し始めているように思う。なぜなら、彼についての何らかの情報を見い出す方法としてはこれまでの調査の方向性でいいはずだと依然として思っている一方で、この曲のタイトルに従兄弟の名が使われているのはやはり単なる偶然の一致に過ぎなかったのかもしれないという考えを私の心が受け容れ始めてしまってもいるからだ。

これから私は、彼等が如何にしてブリーグの名を知ることになったのかについて誰かに問い質そうという目論見の許、その曲を録音したグループのレコード会社を訪問してみるつもりだ。既に電話での問い合わせはしてみたのだが、そのレコード会社はこちらの要求をあっさりと拒絶してくれた。しかしもし私が実際に姿を現してしまえば、まさか彼らもそう安易に私を無視するわけにはいかなくなるだろう。

出来る限り多くのEメールへの返答をしようとしたが、その圧倒的な量のために、私は皆さんからの殆どの約束や要望に応えることが出来なくなっている。

今のところ、ルーマニアから来たメッセージの送り主とコンタクトしようとする私の試みは成功に至らずにいる。たったひとつのメールに含まれていたルーマニア語の翻訳については依然として待っている状態だ。願わくば、翻訳が完了した暁には行方不明の従兄弟の軌跡を追う私の助けとなる更なる情報を得られればと思う。

ところが、二つのとても興味深いEメールが出現した。ひとつはパリの個人的な芸術品蒐集家から、もうひとつはロンドンの稀覯本の商人からである。
蒐集家の人は、(他のスケッチや絵画とともに)破棄されたと考えられていた私の従兄弟による一枚の絵を見たことがあると言ってきた。残念ながらそのEメールには、彼が実際にその絵を保持しているのかどうかについては特に明らかにはされていなかった。しかし、たとえ彼がその絵を所持していないとしても、彼が私に、少なくともその絵がどこに存在するかについて教えてくれるのではないかと期待せずにはいられない。もし絵の実物を見ることが出来、それがベンジャミン・ブリーグによって描かれたものであると肯定的に判別できたならば私はこれに沿って調査を進めてゆくのが適切だと思う。

稀覯書商の人の方は、私の従兄弟の著した4つの書のうちの1つか、或いはそれ以上についての情報を持っているのではないかと想像している。(それはまた私の願望でもあるのだが) 彼は親切にもアドレスと電話番号をメールに書いてくれていたので、今日このあと彼にコンタクトをとってみる予定でいる。2人のうちのいずれか、できれば両人ともが、行方不明である私の従兄弟の追跡せんとするこの試みにおいて何か助けになってくれたらと切に願う。


A.ブリーグ

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ベンジャミン・ブリーグ:更なる知見

2006年7月20日

まず初めに、私が立ち上げた自分の従兄弟にあたるベンジャミン・ブリーグに関するこのウェブ・サイトにコンタクトをとろうと考えてくれた心優しき人々に謝罪したいと思う。
本来ならばもっと迅速にサイトを更新するべきだったのだろうが、私はカリブ海(より正確にいえばそれはハイチである。1960年代の間の何時しかに暫く私のその従兄弟が移り住んでいたと判明している場所だ)に長く滞在したのち今漸く帰って来たばかりなのだ。ここ最近にこのサイトを訪れ行方不明の私の親戚ベンジャミンに関心を持ったと表明してくれた人たちのその数に私は圧倒された。それはサイトへのアクセス数もまた然りだ。

しかしながら、その総ての反応の中で最も困惑させられたのが、このサイトにコンタクトを取ってきた“アイアン・メイデンというポップ・グループのファン”の数の多さだ。どうやら、そのグループが「ジ・リインカーネイション・オブ・ベンジャミン・ブリーグ」なる曲をリリースしたということらしい。自然、“ベンジャミン・ブリーグ”の名に触れているという事実が私の興味を惹き、次には、彼等が私の従兄弟について何かを知っているのではないかという考えを私の頭にもたげさせた。
彼等がどうやって私の親族の名を知るに至ったかを明らかにする為私は彼等のレコード会社にコンタクトをとろうと試みた。しかし残念ながら、私がなんとか責任者であろう人物と話せた際にも、如何なる経緯でその曲のタイトルに私の従兄弟の名が使われることになったかについて私を満足させる説明を得ることはできなかった。そのグループが彼等の曲に使用する為にこの名前を選んだのは単なる偶然の一致であると見ることも出来るかもしれないが、やはりこの名前がそうは見られないものであるという事実は、彼等がまさに私の従兄弟について(もしかしたら彼の作品についても)何か聞き及んでいるのではないかと私に疑わせるに十分だろう。もしこの疑いが真実であるのならば私は直接彼等とコンタクトを取らんと訴えかけたい。

同じことは、私の従兄弟について何か情報を持つあらゆる人に対してもまた当て嵌まる。出来る限りすぐさまこのウェブサイトを通じて私と連絡を持って欲しい。

私が受け取ったEメールの中で最も関心をそそったのはルーマニアから来たものだった。1966年から1969年の間私のその従兄弟が彼の地に住んでいたことが判明している為殊更これは興味を惹いた。ところがまた残念なことに、そのEメールのどこにも送り主の名がないし、何度返信をしようと試みても私の送ったEメールは跳ね返されてきてしまう。結局私はそのメールの送信者とコンタクトをすることが出来ずじまいだった。このやりとりに含まれていたのはたった9つの単語だけで、しかもそれは(またまた残念にも)ルーマニア語で書かれていた。今ちょうど私は、それらの単語を英語に翻訳してもらおうという段階に入っている。ひとたびこの翻訳が完成したならば、それが私の失われた親戚を追跡するのに何か助けとなることを願う。一方で、もしこのメッセージの送り主がコンタクト可能なアドレスを私に寄越しもう一度私と接触をもつことができたのなら、それは当然感謝に値することとなるだろう。

A.ブリーグ


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 2年前、私の祖母が亡くなったときのことだ。彼女の死後私に残されたのは、その住まいと持ち物の整理くらいなものだった。どこにでもあるような家具や装飾品、彼女の私的な所有物などに雑じって、大事にしまってあったらしい古びた写真と手紙の数々を入れた幾つかの箱に私は巡り合った。その中に、私には誰とも判別できない男が家族の中に写った写真が一枚あった。親戚縁者に彼が誰だか訊いて回ったが誰しもが彼が何処より来たかすらわからない始末で、私にとって彼はしばらく見知らぬ男のままであった。ところがあるとき、オーストラリアに移住していた従兄弟からその写真の男はベンジャミン・ブリーグなる人物であるときかされることになる。その写真は1977年に撮られたもので、それは彼が行方をくらますちょうど前の年だというのだった。

私はその男に興味を惹かれそのバックグラウンドを探り始めた。方々を周り様々な人々に出会い、一年以上を費やして十分な情報を拾い集め漸くなんとかこのウェブサイトの出発に漕ぎ着けた。彼を知る者、彼と実際に会った人たちと片端から連絡を取り話をきいた。しかし残念ながら、誰一人として――そう、警察ですら―― 、その男がなぜ、どうやって失跡したのかについての手掛かりを私に与えてくれることはなかった。それでも私は未だにその答えを探し続けている。彼についての記憶が褪せぬようにとの願いをもって私はこのサイトを作った。しかしそれとともに、このサイトが最終的に彼に何があったのかを私が見い出す助けになってくれればとも考えている。もし彼を見つけ出す一助を与えてくれる人が今ここに現れてくれるというのなら、私はいつまでもあなたに感謝し続けることだろう。何か重要な情報をお持ちなら、是非こちらまで私にメールをして欲しい。

A.ブリーグ



ベンジャミン・ブリーグ


1939年11月3日、ロンドンにてベンジャミン・ブリーグは誕生した。
1947年9月、自宅の火事で両親と死別したのち彼はイースト・エンドの孤児院に送られる。運命を分けたその火災の本当の原因は今日に至るまで未だ判明していない。彼自身はそのときその家の中にいたが無事無傷で逃げ果せているのだ。

ブリーグは聡明な子供だったが、一方で非常に孤立的であった。孤児院に於ける彼の世話役の一人は次のように述べてその様子を伝えている:「彼は、普通の人間が背負い込むよりも多くの重荷を自らに掛けているように思わせる子供でした。彼の瞳の奥底にはいつも何かが宿っていて、それがまるで彼を常に惑わせているような印象を与えるのです。」 ブリーグはやがて、学究的な興味を示すだけに足らず聖書にも関心を持ち聖職にかかわりたいという希望を口にするようになった。

1947年から1950年の間、ブリーグは都合3つの家族に養われることとなる。というのは、彼を引き取ると申し出た新しい家のいずれにも馴染むことができずその都度彼は孤児院に戻ってきたからだ。1949年、彼の10回目の誕生日の日よりブリーグは、後に自ら「私が今まで耐えた中で最も不快で苦悶に満ちたもの」だと述懐する“悪夢”を見るようになる。しかしそれにもめげず彼はその後アーティストとして目を見張るような才能を発揮してゆき多くのデッサンやスケッチ、絵画を製作する。ところが、そのうちの何一つ現存するものはない。ブリーグ自身がそれらを破棄してしまったと伝えられているが今日に至るまでその理由を知る者はいない。しかしその絵画の真髄は、思わぬほど絶大な驚嘆と苦悩をそれを見る者達に植え付けたということからも察することができるだろう。

その作品の何点かを見た彼のある親友は、次のようにブリーグを評している:「彼は自らが見たものを描いているだけだという。しかしもしそれが本当なら、私は神に感謝せねばならないだろう。彼のその心のうちが見える窓を覗くことが、私にはかなわないのだから。」

1954年、ブリーグが孤児院を去って最初に就いた仕事は田舎の葬儀屋だった。そこで彼は墓石を彫る仕事を任される。彼の聖書に対する興味関心はそのころから仲間がいうところの「取り憑かれたようなもの」となってゆく。1955年から1959年の間彼は孤独に暮らしていた為、その生活の詳細について知る者は少ない。ただ、聖職に就きたいという彼の志が薄らいでいったらしい、ということを除いては。ところが、聖書そのものへの強い執着が薄らぐことはなかったのである。

ブリーグは1960年から1970年の間、数多くの様々な国を渡り広く旅を続けた。ハイチで2年ほどを過ごした後東欧へと旅立ちそのままその地で1966年から1969年までを暮らす。1969年、地方の警察捜査に追われルーマニアから逃亡せざるを得なくなる。彼がイングランドに帰ってきたのは1971年の3月のことだった。その帰還の折ブリーグは超常現象国際調査機関の職を打診されこれを受諾する。

1971年から1977年の間にブリーグは4冊の本を書き上げている。現在突き止められた限りではそのいずれも印刷物として残されてはいないようだ。しかしながらそれらは総てブリーグが旅の途中に巡り合った風景や文化に関するものであり、特にその4つの書物で重点的に語られているのは訪れた国々での神秘体験の実践についてである。


ベンジャミン・ブリーグが彼の自宅から消え失せたのは、1978年6月18日のこと。彼の居場所を突き止めるためのあらゆる努力は、今まで総て徒労に終わっている。


URL:http://benjaminbreeg.co.uk/



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「ライヴ/コンサート/ギグ」などなどの呼称の差異についてあれこれ。


5月1日のNHWBBSでの僕のカキコ転載:

コンサート: クラシックの「コンチェルト(協奏曲)」と同語源。要は演奏会のこと。

リサイタル: 主にひとり舞台的な催し物。人が主役と思って頂ければ。だからジャイアンがやるのはこの“リサイタル”。

ライヴ: 生演奏のこと。ラジオや蓄音機(~iPod)の登場で、音楽を聴くのが必ずしも生でなくなったことから出てきた使い方だと思われる。この表現が普及し始めたのは、レコードのコンサート実況録音盤のことを「ライヴ盤」という風に言うようになったからでは?と勝手に僕は思ってますが、真相のほどは定かではありません。「ライヴハウス」という表現がいつからあるのかがわかればねぇ・・・。

ギグ: 演奏者側が自分のやる“仕事”としてライヴのことを指す言葉。「今度あのハコでギグやるんだ」みたいに使う。でも今となっては見に行くほうの人も言うようになっていて“ライヴ”と殆ど同義になっちゃいましたね。

***** *****(以下、今日書いた分です)***** *****

 英語でいう「live」という表現は、結構昔からありますね。英国のラジオ放送局「BBC」での生演奏音源の数々は沢山CD化されてるんですが、タイトルは「BBC Live」「BBC In concert」「BBC Sessions」と多様です。(最後のは、あの曲にも出てきましたからみなさんご存知かと。(笑)) それぞれのミュージシャンのジャンルや録音時の状況等鑑みても、案外どれを使っても構わない雰囲気です。でも、やっぱり「Live」が多いかな。

 そんななので、日本で「ライブ/ライヴ」という表現が使われることもまた、昔から多かったわけです。(DEEP PURPLEの名盤「LIVE IN JAPAN」は1972年の作品ですからもう34年も前ですね)しかし、この言葉がより広汎な市民権を得始めた契機となったんのは、恐らく1987年の川崎クラブチッタの竣工でしょう。それまで、コンサートは席のあるところで聴くものだったのが、この日本初の「スタンディング専用会場」(つまり椅子がない)の出現により、「立ちっぱなしで騒いで参加するもの」へと変貌していきました。勿論、それまでは「ライヴハウス」なるものはあったのですが、このクラブチッタは最大で1400人という人数を押し込むことができる大きな会場だったので、メジャーなアーティストがスタンディングでコンサートを行うには格好の場所だったのです。

 以後、赤坂ブリッツとか全国のZEPPとか渋谷AXとか、似た趣旨の会場がどんどん増えていき、「スタンディング・ライヴ」というスタイルが定着していきました。

 それとともに「ライヴ」という呼称もまた一般化してきたんだと思います。「コンサート」というと、どうしても受身で「音楽を聴く」というイメージが強かったですから、このような「舞台の上と下が一体となって楽しむ」というスタイルは、その言葉のニュアンスにそぐわなくなっていったんでしょうね。・・・たぶん。

 なので、たとえば「コンサート・ホール」「ライヴ・ハウス」はたくさんあっても、「コンサート・ハウス」「ライヴ・ホール」というのは(僕の知る限り)ありません。「ホール」というと、いかにも音響と観客席の設備という感じ、「ハウス」というと、親密さのある、みんなで騒げるスペース、という感じがします。


 といっても、やっぱりライヴとコンサートの間に厳密な区別はありません。それでもこういう「なんとなくの使い分けの仕方」を強いて考えるなら、上述のように、「コンサートホールで行うのがコンサート」「ライヴハウスで行うのがライヴ」くらいのイメージでいればいいんじゃないでしょうかね。

 で、なかたにさんが宇多田ヒカルの「武道館コンサート(1999年の爽健美茶コンサート)」と「武道館ライヴ(2004年のヒカルの5)」って例を出してきはりましたが、そこには前述のようなニュアンスの違いをこめたかった、というのがあると思うんです。「concert」の接頭辞「con-」は、日本語に訳す場合は「協」あるいは「共」という漢字をあてはめることになりますから、「美茶コン」のほうは、他のアーティストたちと“共演”するので「コンサート」という響きがよくあてはまったのかもしれません。また、「武道館ライヴ」という表現は「武道館なら、ライヴハウスみたいに身近に感じられるのではないか」という願いを込めたくてつけられたものかもしれません。いずれにせよ僕の憶測に過ぎませんけどね。

 座長さんが例に出してくれたBOφWYの「GIG」っていうのも、似たような思いが込められているのではないでしょうか。彼らのお別れコンサートの模様を収録した「LAST GIGS at TOKYO DOME」は、「東京ドームみたいなデカイ会場でも、俺たちにとっては昔と同じように“GIG”なんだ」っていう主張なんだろうな、と発売当時の僕は解釈しましたし(小学生の戯言ですけどね(笑))、会場の大きさがどこであれ、ファンとの一体感を重視するとなると「ライヴ」とか「ギグ」とかいう表現を使いたくなるんじゃないかな。元々の語源は、座長さんが仰っているように、ジャズ・ミュージシャンの人がライヴハウスなんかで一晩演奏する仕事のことを「ギグ」と呼び始めたこと、みたいですが。

 いずれにせよ、ミュージシャンの使う言葉に対して「厳密な定義」を要求するのは得策ではありません。彼らは、あくまで自分のフィーリングを重視して言葉を選び使うので、本人たちからして言葉の選択理由をよく自覚していない場合が大半なのです。たとえば「ハード・ロックとヘヴィ・メタルってどうちがうの?」とかってきかれても、そもそも使い始めたひとたちが「なんとなく」とか「その場のノリで」「勢いで」としか考えてないので、どう説明するのが正しい、とか、ないんですよこれが。(ちな!みに「ヘヴィ・メタル」ということばを世に広めるキッカケを作ったのはジェフ・バートンという雑誌編集者の人ですが)

 そんななので、『「UTADA UNITED 2006」は果たしてコンサートかライヴかはたまたギグか!?』という呼称の問題は、結構不毛だと思います。(笑) でも、「ファンとウタダが一体化すること」がテーマだということですから、これは「ライヴ」と呼ぶのが一番しっくりくるかもしれませんね。いずれにせよ、それは実際に会場に足を運んで体験したときにわかることでしょうから、それぞれの思い入れで、今回のツアーの呼び方を決めればいいんじゃないかな。小難しく考えず、気楽にいきましょう、Take it Easy Breezy♪

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