無意識日記
宇多田光 word:i_
 



夜はこんばんまくらさん…にはまだ辿り着けてないや。(∩´(エ)`∩)くーまん …

ヒューマニズムというと人道主義や博愛主義と訳されるのだが、クーマニズムはどう訳すべきか。Hikaruがクマの保護に熱心な事からもわかる通り、クーマニズムは人間に留まらない価値観を標榜していると考えるべきかな。

それは、どういった観念で構成されているか。Hikaruのツイートにある通りだ。その思想信条はくまと平和を愛する心。最も近い言葉は"平和主義"だと思って差し支えないのではないか。


おっと、新しい読者も居るかもしれない。Hikaruの言う「くま」或いは「クマ」とはどういう意味を持ち、どう読めばいいかという基本に立ち返って話を進めた方がよいな。

「クマ」とは一文字で書けば「々」である。いきなり矛盾する話だがこれは文字ではなく記号であり、それ単体では読みや意味を全く持たない。しかし、それは何かに寄り添った時にその存在を現す。1人の「人」は「人々」となり1つの山は「山々」、木は「木々」、、、という風に「々」は1人、1つの存在に仲間を与える作用を持つ。一言で言えばクマは人を孤独から救ってくれる存在である。だからクマはHikaruの言うようにいつだってあなたの話を聞いてくれる。クマさえ居ればあなたはひとりじゃない。

しかし、それ故に、単体では意味も読みもない存在であるが故に、クマにとってはあなたが必要なのだ。それを忘れてはいけない。

また、クマの存在はあなたがいつどこに居るかは関係がない「クマ」をもし漢字で書くなら私は「空・間」と書くだろう。「空(くう)」とは3次元において何もない事、「間(ま)」とは時間方向について何もない事だ。間が空く、の間ね。つまり、クマは4次元にわたって何もない。どこまでもいつまでも何もない。しかし、あなたが今そこに居る事でそこに存在が与えられる。


それに基づいてHikaruのツイートを読み直してみよう。「くまと平和を愛し」のくまには、何を入れてもいい。くまは何でもないのだから。あなたの愛する何かを当てはめて考えればいい。あなた自身でもいいんだ。そして、ここが肝心なのだが、そうやって何者でもない「くま」を通じて、「愛する心」そのものを育む事を人は学ぶのである。

「くまのぬいぐるみを一体大切にすること」も同様だ。何でもいいから何かを大切にすること自体が重要であり、ぼくらはくまのぬいぐるみを通して「何かを大切にする心」そのものを学び、身に付けていくのだ。総てはくまを通じて。総ての道はクマに通ず。即ち、When in Kuma, do as the Kumans do.である。Kumanismとは、この諺に出てくるKumanの精神を指したものなのだ。今回の講義はここまで。皆さん、来週までにしっかりクーマニズムの心、クマンセンスを身に付けておいてください_ (∩´(エ)`∩)くーまん …

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朝はおはようまくらさん…おは(∩´(エ)`∩)くーまん …!

おめでたい報告の中で「くまのこ教」の話をぶっこんでくるHikaru。みんなが注目している中でこれである。

初期のファンはこの「くまのノリ」についてこれているのか、というのがかねてからの疑問だが、取り敢えず「光」以降のファンは大丈夫な気がする。なんとなく。

私はというともともと「NHKなら紅白歌合戦よりみんなのうたの方がステータス」と思ってきたクチなので、「ぼくはくま」には素直に喜んだ。こどもの世界の流行歌のサイクルはとんでもなく早く、使い捨てどころか使う前に捨てられる勢いだが、あの枠で放送した中で心に引っ掛かるものはいつまでも残る。こどものうちに心に入り込めるという点が評価の高い(気に入っている)理由である。

そんななので「ぼくはくま」のリリースはオーライだったのだが以降のくまっぷりにはなかなかついていけてない…いや、なんだ、追い越せてない、と言った方が正確か。

熊崇拝、という言葉を先に出したのはHikaruだっけ無意識日記だっけ。もう忘れてしまったが(つまりどっちでもいいんだろう)、こうやって「くまのこ教」を立ち上げ、アーメン()に対抗して(∩´(エ)`∩)くーまん と祈るまでになるとは、いやはや。

『@utadahikaru
くまのこ教に入信するための条件は、くまと平和を愛し、まくらさんに「おはよう」と「おやすみ」の挨拶をし、くまのぬいぐるみを一体大切にすることです。そうして「くまのこ」として生まれ変わるのです。(∩´(エ)`∩)くーまん…』

これである。2014年5月26日18時53分のツイート。くまのこ教の教義(のパロディ、かな?)が簡潔に纏められている。思想信条、儀式実践、偶像崇拝の3つが入信の条件として提示され、輪廻転生という目標(教義の意義)を述べている。ふざけているようにみえて真剣そのもの。私はこれを勝手に「クーマニズム宣言」と名付けて讃えようと思う。どこかの漫画家の「ゴなんちゃら宣言」のせいでなんとなく使い勝手が悪いけど、まぁHikaruに公式採用してもらわなければ問題ないし、何より誰もこんな言葉使ってないだろうから…

…と思って念の為にググッて見たら四年前にひとり居たよ…日本は広いぜ…

という訳でいきなり「続・クーマニズム宣言」に改名する事に決定。別に内容的には続いてないけど先人には敬意を払わねばならん。いや、字面的には「俗・クーマニズム宣言」の方がいいかな…まぁどっちでもいいや…。とりあえず、ヒューマニズムと比較してクーマニズムというのは…って話が長くなったな。この続きはまた次回。

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解決方法はもうひとつあって(と唐突に前回の続きから)、制作費に合わせて商品の単価を変えればよい。CDもDLも関係ない(前回指摘した通り、その差は紙の本とKindle本の価格差と変わらない)。スガ氏がそんなに音作りにこだわったのなら一曲400円でも500円でも1000円でも高値をつければよい。コストをかけただけあるサウンドだと納得すればリスナーは喜んでその価格を支払うだろう。一方、フリーソフトのDTMとヴォーカロイドで作ったトラックは50円とか100円とかで売ればよい。それだけの話なのだがなかなかこれが実現しない。同じ再販制度に守られている書籍ですら、商品毎に価格が異なるというのに。しかし、総ての曲が同じ値段という今の状況にも一理ある訳で…

…という方に話が逸れたら長くなるので話を本筋に戻そう。

今の音楽商品の価格の半分近くは、前回書いた通りレコード会社の取り分であり、その内訳は大きく分けて2つ、制作費と広告宣伝費である。

特に後者は日本に於いて特徴的な様相を呈する。日本という国は情報中央集権国家であり、メジャーのレコード会社はそれを最大限利用する。それは全国に放送される地上波テレビであり、全国を網羅する書籍の流通網であり、離島ですら都内と同じ日に同じ品揃えを可能にする(可能なだけで実際は違うが)伝統的なレコードの流通網である。これらを駆使して全国規模で商品を売る。その為、収益構造が全国規模の多額の広告宣伝費をかけて高額の商品を大量に売るというものになっているのだ。この構図を変えるのはなかなか難しい。

流通網だけでなく情報網も掴まなくてはならないのがミソで、最も効率的なのは全国ネットの地上波テレビのCMと高視聴率番組(主にドラマ)であり、音楽業界はそれらを最大限利用してきた。加えて、ワイドショーや音楽番組で取り上げて貰うのも美味しい。書籍・雑誌なら、コンビニにも置いてあるようなテレビ誌や週刊誌、スポーツ新聞などで取り上げて貰うのも有り難い。その為、大手のレコード会社はテレビ局やラジオ局、出版社とのパイプを維持するように努めてきた。


この前提を踏まえる必要がある。宇多田ヒカルというアーティストは、最初期においてこの日本独特の中央集権体制を最大限利用して売りまくった市場史上最高のアルバムをもつ。多分途中からは制作費も広告宣伝費も回収がとっくに終わりCDの製造はお札を刷っているような感覚だっただろう。

総ての人間がその残像の中に居る。当然、メディアの人間はミュージシャンを話題に取り上げる事について「宣伝してやってるんだ」という意識を持つだろう。彼らを邪険に扱うと、途端に総てが悪い方向に向かう。今回のASKAの件は関係ないが、彼らが本気を出したら小さなスキャンダルを炙りだして警察や検察が動かざるを得ないところまで持っていく事が可能だ。同じような人は沢山居るだろうに、氷山の一角が見せしめとして晒される。そのうちに商品が店頭から撤去される。つくづく、情報網とは権力なのだと痛感させられる。

ヒカルがゴシップから解放されるには、従って、この構造から脱却せねばならない。即ち、ありていにいえば、メジャーレーベルからドロップアウトするべきなのだ。しかしながら、EMIとは多分10枚位の契約を(無期限で)結んでいるのではないだろうか(勝手な推測です)。恐らく、ヒカルがドロップする事はないだろう。レコード会社が潰れる可能性の方がまだ高い。それも、UMGという超巨大事業体に吸収された事で暫くは殆ど考える必要がなくなっているが。

そんな感じなので、ヒカルはどこまでいってもゴシップにまとわりつかれる。パパラッチに追われ、コレポンにアポなし取材され、写真を撮られ、ある事ない事ごちゃ混ぜにしてあれやこれや書かれる。これはもう仕方ない。メジャーレーベルアーティストの宿命なのだ。

なので、皆さんは是非マスメディアとはうまく付き合っていってあげてくださいな。私はというと、そうね、今まで通りに変わらず振る舞いますので。どういう意味だろうね。(笑)

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スガシカオの「DLじゃ赤字。CD買ってくれ」発言が記事として取り上げられていたようだ。どうにもこの件で誤解が広まっているようだが、CDに較べてDLの方が(アルバムだと1000円程)安いのは、物理的コストが削減されたからではない。製品の製造や流通に関する経費は多く見積もっても10%位(それでも大抵の場合は多すぎる)で、もしその分だけDLが割安になるのであれば3000円のCDが2700円になる程度だ。現実には恐らく3000円のままだろう。消費税より割合は低いのだから。

中間に搾取する業者が居る、というのも都市伝説である。一体それは具体的に誰なのか明示的に語っているのを見た事がない。CDの値段の殆どは「レコード会社の取り分」と「小売業者の取り分」であって、それが6割~8割を占める。(条件によってかなり幅がある) 中間に居る謎の誰かではなく、皆さんもよくご存知の人たちがCDの値段を上げているのだ。著作権管理団体に文句をつける人も居るようだが、少ない印税を誰と誰がとるかという井の中の蛙な話であり、そこも大きな影響はない。

例えば、電子書籍の新刊は紙の書籍の1割引程度が主流だ。CDより遥かに物理的コストの高い書籍でこうなのだから、物理的コストが実際に思われているより遥かに低い割合だという事がわかるのではないか。

小売業者の取り分は3割と相場が決まっていて、AppleもiTunesStoreでその程度はふんだくっているだろうからDL販売で割を食うのはレコード会社の取り分である。あとは印税の割合次第だ。

何故DLがあの値段かというと、Appleがそう主導したからに他ならない。デファクトスタンダードの強みである。日本のレコード会社が配信市場をリードできていたなら、着うたフルがそうであったように一曲400円になっていたのではないか。

そんな事情なので、スガ氏の言っている事は正しい。が、だからCDを買って欲しいと言っていると思われる書き方をしたのは得策じゃあなかったな。まぁそれはいいや。

解決策はカンタンで、DLの値段を上げればいい。それだけ。皆が買うかどうかは知らんけど。

根本的な問題にメスを入れるのであれば、レコード会社の取り分をどう考えるかである。ここの大半は原盤の制作費と広告宣伝費だ。これを減らさないと、CDやDLの値段は下がらない。

日本のレコード会社が、他の国に較べて高コストなのは明らかだ。世界一CDの高い国のひとつなのだから。今回スガ氏が指摘したのは原盤の制作費の回収と次回の原盤制作の資金獲得の話だが、広告宣伝費も勿論大きな割合を占める。

これは、「皆が知ってる大ヒット曲」を生み出す為にCDの値段が上がっているというなんだか逆説的な話になるのだが、ちょっと長くなりそうなので続きはまた次回。

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そういえば全然、は言い過ぎにせよ今回はあまり新聞やテレビの結婚報道に触れていなかった。今回イタリアの新聞のWebサイトを覗いてみてそういう感じになっていたのねと認識した次第。オフィシャルの写真以上の事はHikaruがまた話してくれるだろう。無宗教だと言ってくれた時点で十分とも言える。

そんな「実際には触れていない人間」によるあれやこれやを今から書き綴るので、是非読者には「そんな奴が言っても何の説得力もない」と思いながら読んで欲しい。事実、誰も説得する気はない。

さて、今回の報道によるとHikaruはキコの両親の地元住民の反感を買った事になっているらしいが、いやまぁ見事な印象操作である。流石この国を二度の大戦に導いた元凶たちの末裔だ。誰だって簡単にそう信じ込まされてしまうだろう。その手腕たるや絶妙という他はない。

私の思う真相はこうだ。恐らく、極東の大スターが近くで結婚式を挙げるというので見物に来たミーハーな野次馬たちが居たのだろう。貴方だって歩いて10分のところで小某方女史が演説をしていると聞けばたとえ彼女のファンでなくても「コンビニに寄るついでに見物に行ってみるか」と思う事があるかもしれない。翌日の学校や職場で格好の話題になるし。そんな感じにUtadaを見物に来た人が居たとしよう。

ところが、実際に行ってみるとえらく警備が厳重で花嫁の姿なんか見えない。そんな風な人たちをちょうど捕まえてインタビューしたらどう答えるか。「あらあら、せっかく見に来たのに残念ねぇ。何にも見えやしないわ。」―そりゃあ、こんな感じになるだろう。至って普通である。私だってきっとそう答える。

ここからがマスコミの真骨頂である。非常に微妙に、話のすり替えを行う。考えてもみよう、大スターの警備が厳重だなんて当たり前の話だ。その当たり前にぶち当たって残念。そこまではいい。しかしここから「警備が厳重だなんて何事だ」と怒る野次馬が居るだろうか? ましてや、それでUtadaに悪い感情を持つなんて有り得ない。「もっと見えるようにしてよー」と口先では言っていても、大体はその語尾に「でもそういう訳にもいかないよねぇ」と続けるのが一般市民である。そうではなく、「(本当に)もっと見せろ」と真顔で言うのはメディアの人間以外有り得ない。それは日本だろうがイタリアだろうが関係がない。

本当に微妙で絶妙なすり替えである。恐らく、地元でHikaruに悪感情を持った人間なんて一人も居ないのだ。メディアの人間を除いては。あ、警備のせいで交通の邪魔になった人はすいませんでした。見えない不服をHikaruへの非難に変換するのは彼ら以外にない。彼らは自らの本音を彼らに代弁させ、さもHikaruに非があったかのように書き立てる。そりゃあ、読者はあっさり騙される。シカタナイわな。


以上、まともに記事も読んでない者の妄想記事でした。はい、何の説得力もありませんでしたねー。

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昨日気になってイタリアの地元の新聞紙の記事と思しきページを検索して翻訳して読んでみたのだが、二紙にしっかり「結婚の儀式は洗礼者と非洗礼者両方に半々ずつ行われた」と書いてあり、「Utadaは非洗礼者」と明記してあった。英語にすると「Utada is not (baptized)」と紛れのない書き方になっているので、これを誤訳するのは難しい。日本語の記事の書き手が一紙だけにしか目を通さないというのも考えづらいし、向こうの一紙だけがHikaruがカトリック教徒になったと誤報するのも無理がある。どうやって式次第がそんなにすぐに外部に漏れたのかは謎だが、手続き自体は通常のものなので担当した神父に訊けば答えてくれるだろう。参加者は兎も角、彼を口止めする事は出来そうもないし。

で、三紙程に目を通してみたが、そのいずれもが式の厳戒体制について取り上げてはいるものの、何ら非難めいた記述は見当たらなかった。各国のVIPが来賓として招かれた際に新聞に書かれるような調子、といったら伝わるだろうか。ニュアンスとしては(と言ってもイタリア語を英語に訳して読んでいるのでどこまで細かなタッチが理解出来ているかというと心許ないが)、そんなのどかな田舎町(なんだろうな)で厳重警備が現れる物珍しさに焦点が当たってる感じ。普通に読者として接した人に「この日本人の歌手の事は知らないが、こんな警備体制を敷く位だから本国では余程の人気なのだろう」という感想を持たせようとして書いてある、と私は解釈した。それに不服をもつ記者の言葉も市民の言葉も書いてはいなかった。

Webでヒットする記事に目を通しただけなので、例えば一面・総合面の見出し下に書いてあるような内容だけしかない、という事はあると思う。もしかしたら記者が個人的に、取材が十分に出来なかった事について不服を漏らした内容が(日本でいえば三面記事・芸能欄や記者のコラム・エッセイなどに)書いてあったかもしれないが、それを新聞紙の論調として捉えるのはやや勇み足かもしれない。取り敢えず、事の真相はわからないので判断は読者諸氏に委ねておく事にしよう。

記事の中で興味深いなと思った点が、別に一つある。一紙では、「子(或いは子孫)にカトリックの洗礼を受けさせる」という誓約を交わしたと思しき記述があったのだ。文面からは、その誓約がカトリック教徒(つまり新郎)にのみ課せられたものなのか、非洗礼者(新婦)にも課せられたものなのかは判断がつかなかった。Wikipediaによるとこの誓約、昔は非洗礼者に対しても強制力があったようだがここ半世紀は教会法が改正された事もあってこの限りではないらしい。となると恐らく、誓約を交わしたのはキコの方だけ、という事になるがそれだとわざわざ記事にするのかな。そもそも、片親にだけ強制力を発揮する法って運用上どうなの、と思うが子の信仰に対して両親が裁判で争う場合とかあるのかな。うーん、わからん。Wikipediaちらっと斜め読みしただけで理解出来ると考えると考える方が浅はかか。すまぬ。

いずれにせよ、子の信仰という観点を考えた事がなかったので参考になった。結婚式で誓約があったという事は2人の間では話し合いは済んでいるのだろう。今後問題として浮上する事はないと考える。

…それにしても…日本人とイタリア人のハーフか…いつになるか知らんが、どんな感じなんだろうなぁ…。

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あらあら、幸せそうな笑顔じゃないの。こいつら、浮かれてるな(笑)。一生でいちばん浮かれてる瞬間のひとつだから当然か。やれやれ、これでまた一段落かな。

気になったのは、何故かGalleryだけでなくメッセ更新のお知らせまで@hikki_staffからやってきた事だ。うちだけか? ツイートが抜けてて表示されないなんてよくある事だからな。

取り敢えずそうだとして。これはどういう意味だろう。Message from Hikkiは開設当初から完全にヒカルのコントロール下に置かれていて、出すも引っ込めるも彼女の自由。言い方は悪いが、EMIのスタッフにとってあそこで何が起こっていようが"知ったこっちゃない"のが本来の姿ではないか。梶さんなんかは技術面でフォローをしながら"だから言わんこっちゃない…"と愚痴垂れてるかもしれないが。

そう考えると、このメッセはつまり、アップロードのタイミングを両者で相談したという事だろう。普通に想像すれば、まずHikaruがロレンツォから写真を受け取り、その中からアプルーヴを出す形で梶さんに候補を転送する。彼はGalleryのページを更新してその旨をHikaruに伝える。Hikaruはそれを受けてメッセージをしたためる…という流れ。こんなところだろうか。

そしてメッセ更新を見届けた梶さんがお知らせツイートをして。ここまではよいのだが、ここまで来れば@utadahikaruが@hikk_staffのツイートをRTするのが筋だろう。そうしていないのは、そもそもTwitterを開いていなかったか、或いは何か用が出来て出掛けていったかだ。

前者はちょっと考えづらいかもしれない。昨日の今日で自分への反応が気にならないHikaruではあるまい。ここは素直に「時間が無かった」と解釈するのが妥当だ。

このタイミングで忙しい事といったらアレしかない。新婚旅行である。もしかしたらここから1ヶ月、ピタッとツイートが止まるかもね。そう言いつつHikaruのツイートが来ないか今か今かと待ち受けてはいるんだが。ともあれこれで暫くはHikaruがこちらに姿を現す理由はなくなった。どうなる事やら。

そういえば、今のMessage from Hikkiの「立場」ってどこらへんにあるんだろうな。最初は勿論EMIが管理していたのだが2005年からはU3MUSICの自社サーバ(?)に居を移し、またこうやってEMIに戻ってきた訳だが、御存知の通り他愛のない話は総てTwitterで呟くようになった為、ここ数年(に、なるんだなぁ)完全に"連絡と報告"の為のページになっている。今回もそうだ。これは少し、何というか、、、

、、、寂しい、と書こうとして、とてもそれだけじゃない事に気がついてやめた。やめれてないけど。そういう話はまた今度だな。今はこの幸せそうな笑顔を眺めてニヤニヤニマニマニコニコしておく事にしよう。綺麗だね、ひかる。

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無宗教の3文字が見出しで踊っていた気がしたが、結局中身は一つも読んでいない。誤報を出した方はどういった経緯でそうなったのかを明らかにして欲しいもんだ。しかし、あれだけ発行部数は競うのにここで他紙他誌を叩かないのは、自分の所も叩けば埃が出るからなんだろうな。それだったら他の業界も叩かなければいいんだけどそっちにもならないのは、それだけマスコミの"権力"が大きい事を意味する。早い話が弱いものイジメだな。

事務所だかのバックアップのない宇多田ヒカルブランドがここまでやって来れたのは、彼女の好感度が高く、叩いてもあんまり支持を得られないとわかっていたからだが、今回の件でわかったのは、つまり宇多田ヒカルブランドのニュース価値がそれだけ下がったという事だ。好感度が下がった訳ではない。全体の関心が落ちたのである。そうなってくると、宇多田ヒカルブランドに好意的な記事を書いたからといってメリットはない訳で、ならば普段の弱いものイジメフェイズが登場しても何ら不自然ではない。いわゆるひとつの熱い掌返しである。熱いとはいわないかこの場合は。

これは、困った。今は、「叩いた方が売れる」までは行っておらず、「叩いても差し支えない」から叩いているだけだ。印象操作であれ市井であれ、多くは自分の意見など持っていない。ただ周りの空気を読んでいるだけだ。ある事件が起きた時にどちらを叩くか(そもそも叩くなという話だが)は、その時の空気が決める。ロジックではない。レッテルを貼り、同じ内容の違ったコメントを10個も並べれば世論はそっちに棚引く。言い換えれば最初の10個が勝負である。

ヒカル本人は昨日のツイートの通りだ。特に何も変わっていない。行き過ぎると、「ファンに対して"結婚したからって私は何も変わってないですよ"と伝える必要があった」という所から活動再開する羽目になるが、それはまぁまだ必要ないかな。しかし、昔と較べて(メディアとの)パワーバランスが変化しているのは事実だろう。

問題はレコード会社だ。今までのマーケティングからして、そういったマスメディアの助けが必要不可欠だからだ。Mongol800みたいにマスメディアに頼らずダブルミリオン、みたいな事になったら格好いいのだが残念ながらそんなパワーはない。レコード会社がマスメディアと「もちつもたれつ」である以上、余程売れなければ好意的な記事は書いて貰えない。スキャンダルの方が売れるんだからね。ただ、まだまだ過渡期である。ここからのフォローで状況は幾らでも変化する。昨日の連ツイのように、徐々に溶かしていけばいい。理想を言えば、さっさとマスメディアとの縁を切って地道な活動をしてしまうのがいちばんなんだが、無理なんだろうな。暫くは、仕方がない_

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…そら俺(すら)もやっとかないかんやろ…(笑)

という訳でHikaruはカトリックに改宗していなかった。昨晩スナックひかるで非改宗に一票入れといたんだが、ぶっちゃけ改宗したらしたで面白いなと思っていたのも事実だ。今だから言えるんだけども。

というのも、人類史上最高の作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハが敬虔なクリスチャンだった為だ。彼の最高傑作と言われる作品は受難曲(Passionな)であり、つまりキリストをテーマにした楽曲である。Hikaruが今後キリストをモチーフにした楽曲を作る事で大バッハの領域に近づけるならそれはそれでアリかもしれないと思っていた。それ程までにキリスト教というのは音楽にとって強力なモチーフたりえるのだ。これがカトリックとなるとまた話は違ってくるのだがややこしい話はもう無しにしよう。

気が楽になったので"もしHikaruが改宗していたら私はどうしていたか"について簡単に書いておく。もうそうする必要はなくなったんだけど。

まず、当Blog最長エントリーのひとつ(制限字数ギリギリ)「You Make Me Want To Be A Man PV」の削除である。日本語で書かれているとはいえ、あの解釈が教会に知れたら多分破門だ。流石にそんな事に加担はしたくないのでね。勿論、カトリックが気に入らなくなってきたら英語で書き直して拡散するつもりだったですが。

他にも、ぼくはくまや愛のアンセムの歌詞についてのエントリーもどうにかするかもしれなかった。Be My Lastもかな。勘のいい方はお分かりだろう、これらは総て輪廻転生をテーマとして扱っている。しかし、キリスト教全般は(だよね?)輪廻転生の思想をキッパリ否定しているのだ。カトリックに改宗したらここは間違い無く相容れない。削除するなり何なりしていたかもしれない。

考えてみたら、ぼくはくまの『前世はきっとチョコレート』の部分の変更をNHKに迫られた際には『みんなのうたを諦めようか』とまで考えたHikaruが、この歌詞を歌えなくなる宗教を信仰する可能性は限り無く低かった。輪廻転生はHikaruの「くま」における中心となる思想である事は今日のツイート(『そうして「くまのこ」として生まれ変わるのです。』)からも明らかだ。わざわざこんな事書くのだから、輪廻転生を奉じる仏教寄りだと言い放ってしまうのも無理からぬ事である。



しかし、、、これはシリアスな問題なんだが、そんなんでキリスト教徒の夫やその家族とうまくやっていけるんだろうか。Hikaruのクレバーさは信じているが、宗教というものの恐ろしさをどう回避するかは非常に難しい。それは限り無く優しいからこそ怖いのだ。はてさて、どうなりますことやらだわ。

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どれ位の報道量だったのかもよくわからないが、概ね結婚式と披露宴は無事終了したようだ。よかった。

問題はこれから、である。三年半ぶり?の公式写真を公開したのは意味が大きい。新曲をリリースした時でさえ頑なに近影の公開を避けてきたHikaruが自ら現在の姿を晒したのだから。色々な捉え方があるけれど、復帰は近いとみていい。

ただ、常識的な観点からみるとそれも不自然だ。結婚して新婚旅行に向かい新しい家庭を持ち事情が噛み合えば次は妊娠出産子育てで…となる。いつの時代のどこの常識なのかと言われそうだが、あたしゃ南欧の片田舎(なんだよね?)の常識なんて知らないから、そんな風に捉えられてるんじゃないのと想像しているだけだ。

結婚して退職や休職する女性は多いが、結婚して仕事に復帰する女性は珍しい、というまとめ方をすれば今の日本の常識にも合致するかな。Hikaruが今からやるかもしれないのはそういう事だ。

これは各家庭の問題に過ぎないのでキコをはじめ家族の皆の了承を得ていれば何の問題もない。今後2人が他の家族と離れて例えばロンドンで暮らすとなれば尚更だ。

復帰したとしたら、インタビューの質問は2人の結婚生活に集中してしまうだろうからまたもオフィシャルインタビューの出番にはなりそうだ。今までの経緯からして、一般人(非芸能人)であるキコの、キコとの話わHikaruから話し始めるという可能性は薄い。照れてるというより、彼の普段の生活を守る為の措置、という事になるだろう。流石に彼をつかまえる為にイタリアやイギリスに特派員を、という事にはならないと思うが、今回新たに浮上した問題点は地元イタリアのマスコミである。

そもそも、最初に雑誌にこの話をすっぱ抜かれなければこんな大騒動にはならなかったのだ。幾ら日本のマスコミが目ざといとはいえイタリアの街出身の青年をマークするのは難しかっただろう。イタリアマスコミへのリークがなければ、もっと静かに挙式を行えていたかもしれない。

今回の件で、彼らが「ウタダは取材しようとしても無駄だ」と思ってくれればありがたい。端々から、この話題は地元の観光資源の売り込みに有利そうだから取り上げてますという空気が漂ってくる。となると、その役割が果たせそう/果たせなさそうと判断がついた時点で取材攻勢も止むだろう。つまり、騒ぎは今回ばかりなりとなる。それならso-so、オーライといった所か。


取り敢えずキコとHikaruには暫くの間2人きりの時間をタップリ満喫して欲しい。8月以降はまた会えない日々が続いていくかもしれんので。新婚なのに辛いなぁもう。

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あー今頃光はイタリアの空の下で結婚式真っ最中かー


…ってベッタベタな書き出しだけどこれ本当に書けるタイミングって私の一生のうちで本当にこれっきりなのだから本当にこれでいいのだ。バカボンのパパか俺は。

とはいうものの、他人様のプライベートなイベントについてあーだこーだ言うのは気が引ける(さんざ言うてきた癖に今更何を)。いや本当に。特に、スポーツ紙の詳細な記事を読むと「何してんねんあんたら…」という気分になる。何故それだけ街や教会の名前を出しておいてフランチェスコ君だけFなのか。気の使い方が間違っているのやら何か他に理由があるのやら。

いやそんな事はいい。冷めた事を言うようだが&酷い事を言うようだが、確かに、大半の女の子にとって結婚式は"一生のうちで自分がいちばん主役になれる舞台"だからそこに幸せの絶頂期が来ても不自然ではないのだが、その気になればいつでも数万人規模の人間を集めておめでとうだのありがとうだの言って貰える"スーパースター"にとって結婚"式"がどこまで意味のある事かわからない。寧ろ、(何だかいつものように)光の周りに居る人達にとっての特別さの方が大きいような。光は、家族や友人が泣いて喜んで祝福してくれるのを目の当たりにして「あー結婚式やってよかったなー」と思うかもしれない。自分の曲がヒットした時に「周りの人達が喜んでるのを見てあぁヒットしてよかったなーって」思う子なので。流石にそこまでクールじゃないか。でも31だし再婚だしなぁ。

でも、やっぱり結婚って生活の事でしょう。結婚式の事ではない。ならば、これからどう生きていくかが重要であり、式はその日々の中の1日に過ぎずしかし1日であって。よかったかどうかは日々感じながらみていく事であって。

しかし、カトリックか。大丈夫なのかな結婚観。単に式は形式的な事だから、と光がやり過ごすのは何となく違う気がする。一字一句、一所作一動作の意味をちゃんと把握して式に臨むように思うんだがどうするんだ。儀式。光は、自分に馴染まない思想に基づいた言動が取れるだろうか。かたちだけだから、と思っていられるのやら。最後に残るのはそのかたちの方なのだ。結婚そのものである。愛情が残っていようが消えていようが増していようが、結婚という形式、かたちが先に来ていて、そして最後までそれは確実に残る。カトリックなら、神に対して永遠の愛を誓うのだろうか。お互いに対してではなく。

私が今回の結婚も気に入っているのは、キコが2人の共通点として「お互いへの深い愛」があると書いている事だ。これは慧眼であり真実であり、肝心な時にこの一言が書けたコイツは、どんな人間なのか全く知らないが、素晴らしいヤツだと断言出来る。本人は若く、もしかしたらその意味もよくわからず書いているのかもしれないが、残るのはその時のあやふやさではなく、こう書いたという事実の方だ。ズバリ、この2人は結婚に向いている。

そこまで立ち返って考えるのであれば、今日の結婚式は非常に大きな意味を持つ。その意味を光が未来に裏切るのであれば大変危険だが、つまり大丈夫なのだろう。お互いへの愛が2人の共通点であるのなら、総てはここから始まるのだから。

ひかる、結婚おめでとう。影ながら応援していきます_

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あーもう一部スポーツ紙には今日挙式と確定的に出ちゃってるのね。2014年5月23日金曜日、光とキコは結婚します。

にしても内容が現地レポなのはどういうこっちゃ。コレポンが欧州に居るとしても大掛かりというか大変というか。本当に"ファン"が来ているのかね? 1日早いからまぁいいけど、イタリア旅行に行くついでに見て来ようという物見遊山の人じゃないんか。まぁそれもファンっちゃファンだが。「今式やってるみたいよー」「へー」ってやりとりしながら遠巻きに見ている、という程度なら害はないし、いっか。

それより、余程の田舎なのか(失礼な)、街の人たちのテンションが上がってるという記事を見るにつけ不安になるわい。そんなに盛り上がるもんなんだろうか。ビヨンセじゃあるまいし、極東の島国の歌姫ってイタリアの人にとってそんなに…ねぇ? あなたの街に「タジキスタンの国内チャートで10週連続No.1の歌手がお嫁に来るよ」って言われても「へ~、そうなんだ~」で終わりだよねぇ。新聞雑誌で無駄に盛り上げているのだろうか。別にその街に住む訳でもないんだろうから、今回ひと騒ぎして収束、というのならよいか。

挙式の後の披露宴がどれだけオープンなものなのか。南欧の披露宴というと町中の人たちが繰り出してドンチャン騒ぎ、花嫁はウェディングドレスのまんま飲んだくれ、みたいなのを想像してしまうが、どうなることやら。いや、挙式だって教会で行われるなら一般信者さんが見てる前で、かもしれないし、無防備なんだろうなとしか思えない。


…人にあれだけ「お前ら不安と心配ばっかだな」と普段から言ってる私が不安と心配ばかり書き綴っている時点でそわそわ度が伝わっているとは思う。自分でもやんなっちゃう。やっぱこれも娯楽の一部なんかいなぁ…。兎も角式と宴が無事に終わりますように(=人=) …何度目だよ祈るの…

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久々にマハヴィシュヌ・オーケストラの1stを聴いてテンションが上がっている。メロウな曲もドラマティックで泣かせるが、やはり冒頭一曲目とB面で聴かれる、キチガイとしか思えない楽器陣総攻撃ハイエナジーユニゾンとそれを背後から更に攻め立てる「叩きゃいいってもんじゃな"ぁ"」なビリー・コブハムの火事場泥棒のようなドサクサ感満載のブルータル・ドラムの破壊力。ジャズ・ロックの頂点と呼ぶに相応しいとんでもないハイテンション。思わず「いやっほーっ!」と叫んでしまいたくなる。これなんだよなぁこれ。

という私は勿論インスト大好きっ子である。特にベースラインには五月蝿い。TM NETWORKのGet Wildもこの日記で何度「あのブリッジのベースラインがいいんだ」と力説した事か。Led ZeppelinだってDazed And Confusedだ。どこまでも終わらないあのジョン・ポール・ジョーンズのベースラインがあればこそジミー・ペイジとジョン・ボーナムがあそこまで暴れられる。破天荒は支えられる大地があってこそ成し遂げられるものなのだ。

ヒカルとは、そこの趣味が大きく違う。何度も論じてきたように、ヒカルはまずパーカッションからリズムを作り始める。「スネアの切なさ」なんていう名言が生まれるのも、リズムの中からメロディーを導き出すからだ。となるとベースラインは、ルート音主体の、時にキックの陰に隠れる程度にしか鳴らされない地味なものになりがちだ。ひとつだけの楽器を抜き出して聴いた時、いちばんヒカルの曲名がわかりづらいのは間違いなくベースだろう。それ位に特徴がない。


桜流しにおいて、Paul Carter as BENBRICK によるアイデアは後半の主題ではないかと指摘したのも、以上の事が念頭にあったからだ。ヒカルは、あんなメロディアスなベースラインを骨格にした曲の作り方は(あんまり)しない。フレーズ自体が他人のものかもしれない、というのと同時に、あれが最低音部として楽曲を支えているという構造自体があまりヒカルらしくないのである。

実際、フレーズ自体の「ヒカルらしさ」を汲み取ろうとするのは危険である。確かに、特有の音運びがあるようにも時々思うが、それはコード進行レベルのようでもあり、ヒカルの"癖"とまでは言えそうにない、というのが正直な所だ。だって、PassionとWonder'Boutを書いたのが同じ人っていうんだよ!? 経緯というかヒカルの作曲の歴史を知っているから受け入れられているけれども、もし今挙げた2曲を一度に聞かされていたとしたら私は決して同じ作曲家が書いたものとは信じられないだろう。そこが凄い。

例えば、モーツァルトはいつどこで聴いてもモーツァルトだ。残した楽曲数が膨大な為、未だに彼の曲の大体は知らないのだが、いつ初めて聴いても「あ、モーツァルトかな」とわかる。それ位に特徴のある音運びをする。それが偉大な作曲家というものだ。

ところがヒカルにはそれがない。たったひとつ、総てを"あの声"で歌っているからというのが、我々に認識出来る共通点である。もし他の歌い手に歌われていたら、まず間違いなくヒカルの曲だと認識出来ない自信が俺にはある。自慢にも何にもならないけれど。

ならば、こんな壮大なプロジェクトも思い付く。十年位かけて、総て異なる偽名で年一曲ずつ位誰か他の楽曲を提供し続ける。そして、10年経ったらそれらの曲をヒカル自らが歌ったアルバムをリリースするのだ。最初、過去10年のヒット曲を宇多田ヒカルが歌う作品が出るものとばかり思っていたリスナーは、そこで初めてそのカバーアルバムがセルフカバーアルバムだと、いや"オリジナル・フル・アルバム"だと気付かされるという…壮大だが、まぁ実現は無理かなぁ。素晴らしくドラマティックだろうなぁとは思うのだけど。


話が逸れた。ベースラインの話の筈だったのにいつの間にか…いや、元々今週はブライダルの事を話す週間じゃなかったっけ。逸れた話をそこまで戻す必要はないか。兎も角、無事に式が終わりますように。(祈&願)

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カトリック教徒は離婚に厳しいらしく、今回の式もHikaruは一目見てバツイチとわかる花嫁衣装を着る事になるのが普通らしい。こういうのは地域差や時代差が大きく、また、極東の無宗教の人間に対してどれくらいに寛容かもわからない。がしかし、わざわざ主義主張を押し通すのはHikaruの流儀ではないだろう。This Is The Oneの時もまず当時のメインストリームの空気に合わせて一応の成功を収めた。ビルボード69位というのはLIVEツアーなしでの記録と考えると結構健闘しているのだ。いや本当。その話はいいか。

ましてや家族。これからずっと付き合っていく相手に対して波風立てるような事はないだろう。だからこそ言うべき事は言い、言わなくていい事は言わない。どの程度の距離感/DISTANCEを保てば皆がうまくいくか見極めるのはHikaruの得意とするところだ。

まさか結婚当初から離婚を視野に入れている人は居まい。養育費狙いとか財産分与とかを計画的に狙っていない限りな。向こうはどうやら生まれついてのクリスチャンらしいし、離婚する気なんてサラサラ無いだろう。宗教の縛りは強い。Hikaruの結婚はこれで最後になると考えておいた方がいい。

Hikaruはコスモポリタンというかボヘミアンだから、うまくいかなくなればやめちゃって他に行けばいい、というのを案外あっさり実行する。雑誌に投稿するくらいに入れ込んでいた漫画家の夢もスパッと諦めたし、大学に入ってみてもこっちじゃないと判断するととっとと休学・退学してしまう。ここらへんがサッパリ理解出来ない日本人が多かった。特に大学をブランドだと考える人が大半だから、そして、ブランドとはそう考える人が多ければ成立するものであるからして、それが日本での現実だった。「家から近いから」という理由が冗談だと思っていた人も少なくないだろうが、勿論これもヒカルは本気で言っていた筈だ。そういう、自分の感覚に基づいた実感と判断で動いている人を理解できるかどうか。

ボヘミアンである事も、日本人にはピンと来ない。定住による農耕生活から長期雇用形態にシフトしていった日本はどこまでも一箇所に留まるのが流儀だ。どこか「離婚は2人がよりよい人生を送る手段のひとつ」として捉えていたヒカルの感覚を理解しろと言っても無理がある。

今回、こうやって、意外な方向からHikaruのボヘミアンな"自由"が奪われた。勿論これは象徴的な書き方であってHikaru自身がそれを自由の中で選んだのだから奪うというのはおかしな話だが、事前の判断と実際の生活の間の乖離によってはまたストレスもあるかもわからない。そこをどう折り合いをつけるか。相手の家族観とHikaruの家族観にある大きな違い。それを、まずは結婚式を通じてまたひとつ実感する事になるのだろうか。なんだかんだで幸せにやっていく気がするけれどな。こうやって縁起でもないワードを伏せ字なく遠慮なく並べているのも、大丈夫だろうと踏んでいるからだし。無事式が終わりますように。写真楽しみ~。

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ヤンキースの田中投手が負けた。前に負けたのがどれ位前かというと何と桜流しのリリースより更に前である。人間活動中の宇多田ヒカルの新曲リリースペースより長い期間負けなかったとは天晴れだな。号外出たのかな?(負けで出たら史上初ちゃうやろか)

更にその前の新曲となるとSCv2になるのか。桜流しより更に二年前。人間活動中だからマテリアルのリリースがあるだけでも有り難いが、改めて気長な感じではある。間に熊淡なんて挟んだから尚更だ。

更に々々。「宇多田ヒカル名義のオリジナル・アルバム」となるともう6年も出ていない。今日がPrisoner Of Loveのリリース6周年だから、つまり最後のCDシングルからもう6年経ったという事でもある。宇多田ヒカル史上最高の一枚でシングルCDの歴史の幕を閉じていたというのなら美しい。即ちもうCDシングルのリリースは未来永劫ありません、というのならね。

当日記では繰り返し「アルバム」という形態の必然性について議論してきた。組曲やコンセプト・アルバムなら兎も角、どういう因果で集められたかも定かではない楽曲群をまとめて聞かされて、というのは配信時代には似つかわしくない。いや、CDプレイヤーにスキップボタンが出来た頃からかもしれない。カセットプレイヤーにもあったけどねスキップボタン。

6年という歳月である。Utadaをスルーしている人は多かろうし、HEART STATIONとSCv2の売上の差を考えると、何というのだろう、「いちばん大きなニーズはどこにあるのか」という不安に駆られる。折に触れて指摘してきたように、小中高校は6年とか3年とかが基準となっている。これ位のサイクルで人の生活スタイルは変化し、交友関係も入れ替わったりする。そんな中で「宇多田ヒカル」の居場所とは一体何処なのだろうかと。

若い子たちには若い才能が沢山居る。彼らに15年選手は必要ない。そして、ヒカルのファンだった人間の殆どが社会人になったり、或いは結婚したりして離れている。かなり空洞である。

欧米のトップアーティストを讃える常として、その世代の幅広さがある。父が息子を母が娘を連れて、或いは兄が弟をとか姉が妹をとか何でもいい。上の世代が自分たちにとっての偉大なアーティストたちのライブに下の世代を連れていくのだ。つまり、彼らの場合3年とか6年とか経つと、或いは結婚して家庭を持つと「ファンが増える」のである。結婚を気にファンをやめるどころかめっきり音楽を聴かなくなるのがスタンダードな日本とはえらい違いだが、確かにそう考えでもしないと50代60代の大物アーティストたちが毎年のようにワールドツアーの規模を大きくしていける理由がわからない。この差はデカい。

やはり、今週のキーワードは「新しい家族」なのだ。何でよりによってTBSドラマのタイトルが「家族狩り」だなんていうネガティヴな方面への繋がり具合を感じさせているんだろうという疑問(不満)は尽きないものの、今回の結婚は前回にも増して「新しい家族との結婚」という色合いが強いように思う。というか私が思いたがっていると言った方が正確か。

キコとヒカルの間に子が出来る前に、彼らに甥や姪、歳の離れた従兄弟従姉妹などは出来やしないだろうか。新しく家族親族になった日本人のお姉さんの歌声はどんなのだろう。興味を持ってもらった時に、ヒカルに彼らに聴かせたい持ち歌はあるだろうか。そこが鍵になる。まずカイより始めよ、だ(変換がわからなかった)。

そう考えると、多国籍歌詞に生まれ変わった(らいいなと私が勝手に思っている)"ぼくはくま"はやはり最強の歌ではないか。あの曲調は、万国共通で童謡だと思う。そればかりという訳にはいかないだろうが、新しい家族と出会って、彼らにも聴いて貰えるような歌が書けたらなとヒカルが思い始めれば、日本邦楽市場での「宇多田ヒカルの立場」が劇的に変わるかもしれない。6年という歳月を、逆手に取ろう。

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