無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ここ2週間ほど"杞憂"の数々を書き連ねてきてみたが、その殆どは"自分以外の代弁"のつもりだった。特に、活動場所として日本が除外される、或いはそこまでいかなくても"来日"しかしない事態なんかは懸念でも何でもない。普段会ってる訳でもないのだし、ライブは行ける距離であれば地球上のどこでやって貰っても構わない―そう思えるのは私だからであって、読者の大半はそうは思ってないわな。まぁそんな私はWILD LIFEは自力で当てて交通費0円という圧倒的に恵まれたシチュエーションを味わっているので「お前は何を言っているんだ」状態ではあるのですが。

いやそんな話はいいんだ。歌は日本語でも英語でもいい、ライブは行く、と言い切れる私はUtada Hikaruファンとして最も幸せなパターンである。日本のファンの殆どは日本語で歌って貰いたがっているし、日本以外の国々のファンは「ワールドツアーはよ」と思っている。どちらに転んでもどちらかに不満や寂しさが残るのだ。

音楽性についてもそうだ。もう2年も5年も前の曲なので参考になるかどうかは最早定かでも何でもないが、GBHやSMLNADやCWTCや桜流しでの私の"はしゃぎぶり"からしても、もう完全に「次の新曲なんだろな。わくわく。」状態である。なかには、「次の曲は気に入れるかな…」と不安になっているファンも居るだろうにな。

宇多うたアルバムにしてもそうだ。勿論今でも、というかこれからも愛聴させてもらうアルバムになったがそれもこれもヒカルの書く曲が好きという基本があるからだ。「ヒカルちゃんの歌声でないと」と歌手・宇多田ヒカルに重きを置くファンは余り楽しめなかっただろう。残念。どんだけ聴いても井上陽水の凄さがだな…。

うーん、私って実はヒカルからしたら「望ましくないファン」なんじゃないかという気がしてきた。書いた曲によってファンひとりひとりの反応が違うのをヒカルは楽しみにしているんじゃないの。「今回の新曲は、あの人はダメかもしれないけど、あの人は気に入ってくれるはず!」みたいな事考えて曲作ってるんじゃないの。だとすると、何をしても喜んでる私はイエスマンと変わりがなく、いちばん反応が参考にならないのでは…。

まぁそれはしゃあないか。

なので、私の杞憂には切実さやリアリティが無い。仮想的なものなので。ただひとつ、今回真剣に加わったのは「マスメディア不信」であり、こればっかりは杞憂ではない。ここは本当に真剣に考えなくてはならない。

他の国のメディアだって、とイタリアの記事を読んで思ったが、まずは日本でどうするか。出来れば、まず新聞社との縁は断ち切りたいのだが、無理だろうなぁ。露出は音楽誌だけ、と決めるのは多分不可能で、「あれもこれも」が現実になる。何とかならんか。

32歳以上のバツイチ再婚女に果たして今後需要はあるのか、というのもあるのだが、多分ある。いや、だからこそある。一度以上ゴシップに絡め取られ、知名度にかげりがない存在なら必ずやまた餌食になる。弔いの移動者に立ちはだかられるだなんて、常識的に考えたらトラウマものである。普通の人間はそんなことしないよ? できないよ? 車の中に居るとはいえ周囲をゾンビに取り囲まれたようなもんだ。マスメディア不信になったとしても私はヒカルの心が弱いとか一切思わない。どう申し開きしようとも、言い訳なんてできないよ。

何かいい方法はないものか。その点についてだけは、杞憂の代弁ではないので、引き続き考えたい。レコード会社がYoutubeチャンネルやニコ生チャンネルをもってそこでインタビューやらPVやら流す番組作れば十分な気がするんですが、無理かねぇ…。いやその番組やる事をテレビや新聞で告知しないと、ってなるのかな。いやそれはHikaruがツイートすりゃ十分であってだな…

あーわからん。マスメディア恐るべし。ここから逃れる術はないのか。こうやって過去の人たちは戦争に巻き込まれていったのかと思うとなんだか同情してきたわ。確かにこれはどうしようもないわい。それとこれとは関係ないけれどなっ。

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歳声  


元々私はヒカルの歌声の声色を特別好んでいる訳ではない(喋り声は特別好んでいる)が、もう最近はこの歌声を聴くだけで自然と安心してしまうようになった。あの声のホッとする感はまるで毎日飲むお茶の如し、だ。

習慣によって身についた習性とでもいいますか、第二の天性といいますか。好みというのも後から積み重なるものだなぁと。パブロフの犬と言ってしまえばそれまでだけど。

ヒカル本人はどう思ってるかというと、小さい頃友達のお父さん(有名な演歌歌手)に声を咎められて傷ついたとかで―たぶん、言った方は声色があんまりにも藤圭子に似ていたもんだから癪に障ったんだと思うが―複雑な感情を抱いていたようだが、恐らくデビュー後はスタジオでの三宅彰's「もう一回」攻撃を受け続けて、或いは自分でプロデュースするにあたり何度も自分の声を聴き直していくに従って自分の声に慣れていき、好き嫌いなんて言ってられなくなっていったんじゃないかと思う。

となると、もし他人のプロデュースをしてその人の声が気に入っていたら、自分で歌った曲と違って完成後もプライベートで聴いたりするのかな。ただ、他人の、それも歌手のプロデュースとなると「自分で歌った方が早い」って事になるかもしれん。この妄想の前提が、結構危うい―そもそも他人のプロデュースをするかどうかというのが。

ただ、上でも少し触れたが、ヒカルの歌声の声色は随分とお母さんに似ていて(歌い方はかなり違うが)、自分でそれを感じる事はないのかな。そして、30代の今の時期は、お母さんがその年齢の時にはあまり歌ってなかった頃なんじゃなかろうか。踏み込んで言えば、自分の歌声を聴いてお母さんの事を思い出したりはしないのだろうか。ないかな。わかんない。歳をとると顔が親に似てくる、とは言うけれど、歌声に関してはどんなものかな。そのうち意識する時期も来るだろう。ヒカルには、お母さんが歌声を残していない年齢でもバンバン歌って貰って歌声の記録をどんどん残していって欲しい。将来娘に「あなたの年頃の頃、お母さんはこんな声だった、おばあちゃんはこんな声だった」って聴かせてあげられたら素敵じゃないっすか。

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Hikaruが自ら「音楽をやろう」と初めて決断をしたのは、Hikaru曰く“大学を辞めた時”だったと。それまでは周囲からの依頼や家庭環境の中で必然的に音楽に携わる事になってきていたのを、生まれて初めて"自分で環境を選んだ"という事なのだろう。えぇっと、もう13~14年前の話になるのかな。

ここは、所謂"世間"とは価値観がズレる所だ。コロンビア大学といえば名門で、そこに入学したからにはというのが"一般常識"であり、そもそも大学休学や大学中退は誉められたものではない、というのが真っ先にくるようだ。どうも、ここらへんからヒカルと日本の大衆との間に"意識のズレ"みたいなものが出てきていたように思う。多分、"堂々と交際する為に結婚する"という意図も伝わっていなかったし、交際が終わったから離婚したというのも伝わっていないだろう。今私は私でちょっと端折り過ぎてるけれど。

それでも次々と大ヒットを飛ばし続けた…というか、真の意味で、バブルも消えていたのにヒット曲を連発した2001年以降の方が凄みがあった。ただ、シングルコレクションの発売を急いだあまりあそこで宇多田ヒカルの時代に一区切りがついてしまった感は否めない。


話が逸れた。そっちじゃなかった。もしHikaruが次に復帰するならば、それは大学を辞め(て音楽に集中しようと決断し)た時、人間活動宣言した時に次ぐ、Hikaruの人生の中で大きな決断になるだろうという事だ。正直、結婚と離婚と結婚についてはわからない。どちらから切り出したのかが判然としないし。なのでそれは置いておいて。


今思えば、"宣言"をして大学を辞めていたらどうなっていたか、ちょっと考えてみたくなる。点に書いてある通りの事を、あらたまった態度でMessageにしていたら。「大学を辞める事にしました。音楽に専念する為です。」と。うーん、確かに、入学してから日が浅すぎたかもな。実際、当時は大学を辞めたかどうか、ファンの間でも暫く議論になったほどだ。要はハッキリとした発表がなかったのである。UU06が終わった時に「あーこれから2年間休むのかー」と思っていたら新曲リリースペースが加速していったのと同様に、大学に入った頃も「あーこれで暫くは、まぁポツポツと新曲を出したりするかもしれないけど、アルバムやツアーは当分先かな」と一旦思ったのだ。それが2年連続オリジナル・アルバム発売(更にそこから結婚)である。嬉しい驚きだった。で、どちらのケースでも「あれれれれ? 休むんじゃなかったの?」と思ったのは、我々だけでなくHikaruもだった訳で、人間活動宣言は要するに「もうダラダラとせずにちゃんと言ってから動
こう」という事だったのだ。


となると、今年にもあるかと期待される(いや毎年期待してますねけどね)復活宣言もまた「これからこんな事します」というハッキリしたものになる筈である。そこにHikaruの"意志"があるかどうかだ。と同時にプロフェッショナルとしてオファーの存在は不可欠であり、ここからはバランスの勝負となる。

果たして、今年を逃して大丈夫か。知名度というのは10年でも20年でも維持できるものだが、オファーを出す方はリスクをより大きく抱える事になる。即ち、オファーはなくならないだろうがペースは落ちていくだろう。デビュー何周年とか節目の年は多少復活するだろうが。Hikaruにとっては、オファー密度の減少は、自分の望むタイミングでの復活を妨げる要因たりえる。

そこもまた"意志"の問題である。「注文が無いのに料理を作って道行く人に売り込む人」になる気があるのかどうか。プロフェッショナリズムのどの様態を"選ぶ"のか、だ。ぶっちゃけ、Hikaruに何のオファーがなくたって、レーベルに「アルバム作りたいんだけど」と言えば"待ってました!"となるし、梶さんの営業力をもってすればタイアップは確実に(楽に、ではないだろうが)決まる。物事の順序が入れ替わるだけだ。

しかし、音楽にとって重要なのはその"意志"の力である。大学を辞めてまで「やってやるぜ!」と打ち込んだ「DEEP RIVER」以降、Hikaruの音楽家としてのレベルは確実に上がった。まさに、"本当にやりたいことをやれている"状態だったのだ。次の復帰もそれがいちばん望ましい。更にここからレベルが上がるとか悪い冗談かと思うが、シンコレ2から桜流しに折れ線グラフを引くとどうしたってにんまりしてしまう。もうあとは、Hikaruが本当に「やりたい」と思ったタイミングを逃さない事だけだ。Hikaruにその気があるならば。


…今週ずっと、そういう話だったのだ。It's up to U, 総てはUtada Hikaru次第なのだと。明らか過ぎる程明らかだが、だからこそ極めて重要な論点なので、これだけ字数を割かせて貰った。後悔はしていない。Hikaruも後悔しないようにじっくり考えてあっさり決断して欲しい。

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ヒカルは「必ず戻ってくるから。」と約束してくれているのでそれはいいとして、では、具体的にどうやって戻ってくるのだろう?

ヒカルの場合、前回例に出したFlavor Of Lifeのように「休もうと思ってたのに、依頼が来て、受けちゃった」りする。活動を続けるか否かはオファーの有無に掛かってるといっても過言ではない。逆にいえば、オファーが無いのにヒカルが復帰する事は有り得ない。

昨年までメジャー・リーガーだった黒田博樹が広島カープに戻ってきたと今年は話題になっているが、それが可能だったのも、まず、広島側がダメ元でも何でもいいから毎年欠かさず黒田にオファーを送っていたからだ。幾ら黒田が自分のタイミングで広島に復帰したいと思っていても、オファーがなければどうしようもない。トライアウトとか入団テストとか、そういったものに応募するしか手段が無いだろう。それらは彼にとって現実的な選択肢ではなかった。

ヒカルの場合も同じで、どれだけ休業が長くても仕事のオファーが来続けているから復帰時期を"選べる"のである。今は、来続けているオファーを総て断っている状態である。

一度だけ例外があって、それが桜流しなのだが、その時は一切顔写真を使わない、取材も受けないというスタンスで未復帰である事を印象づけた。

極端な話、これからもずっとこの方法で行く事も可能である。一曲作っては本人の露出なしに売りまた引っ込む。ずっとこれの繰り返しでも破綻は確かに、ない。

一方で、現実には「必ず戻ってくる」約束があるんだから、どこかで顔を出してくるだろうが、問題は、いつまでオファーが"ひっきりなし"でいるか、だ。各タイアップ先は勿論宇多田ヒカルの知名度をアテにしてくる訳で、その点は5年経とうが10年経とうが大して変わりはないだろうが、旬であるかどうかとなると別である。果たして、それでもオファーは来るのかな?

で、ここで「マスメディアの情報淘汰不全」の話が出てくるのだが、まぁここでは省略しようか。話が(更に)長くなる。


それらとは全く別に、ヒカルが「新曲作る!出す!」と自ら言ってくれば、これは本当に新しい展開となるだろう。そして仮にそうなった時に、どのような方法でプロモーションをするのか、その点もまた懸念材料となる。過去にそんな例がひとつあって(他にもあったかどうかはわからない)、それが「ぼくはくま」なのだが、インタビュー等を総合すると、どこにも明言されていないが、ヒカル側からNHKにアプローチしたとも思える話が散見される。あの曲くらい本人が気に入っていればそういう可能性もあるという事だが…今はただひたすら待ちましょうか。

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あんまりにも書き散らしてしまったので論点を整理しておこう。

・宇多田ヒカルは誰もが認める超実力派ミュージシャンなのにファンベースのマスメディア依存度が高い。

・マスメディアに情報淘汰不全が起き始めている。

・新曲を出しても売れてるかどうかをはかる指標が無い。そもそも何を買えばいいかわからない。

・宇多田ヒカルは大衆を相手に曲を作っているのに数字には拘らない。即ち、消費者が大衆なのに一切大衆に媚びない。阿らない。非常に稀有な存在である。

とりあえずこんなところか。てな訳でこの国では八方塞がりなので大衆音楽に活気のあるどこか他の市場に行くのが解決策かなと弱気な事を言っている俺という構図だ。うぅむ。


7年前はHステ関連売上が2000万ユニット突破!などと記事が書かれていたが、まずユニットという数字に馴染みが無いし、説明を読んで納得しても、今度は比較対象がないから2000万ユニットがどれくらい凄いのかピンと来ない。多分、7年経った今でも状況は変わっていない。

例えばPrisoner Of Loveはミリオンダウンロード、即ち昔でいうミリオンセラー、特大ヒット曲なのだが、皆にそういう認識はあるのだろうか? Youtubeの再生回数を見れば今やFirst Loveに次ぐ、Flavor Of Lifeと同等以上にヒカルの代表曲なんだが、皆それを知っているのだろうか? この捻れは珍しい。皆がこの曲を愛しているのに、皆自分以外の人もこの曲を愛しているのを知らないのである。とてもとても、奇妙である。

年月は経ったが、相変わらずヒカルへの潜在的人気は高い。ただ、それがかなりの割合でマスメディア依存なので、火が点かない限り全く浮上してこない。そして、今や誰もマッチを持っていない。まさにミスマッチ。うん。(納得すんなや)

ヒカルの気質というのも大きい。UU06のあと2年くらい休もうかと思ってたのにぼくはくまをリリースしてしまい、花より男子2のイメージソングの依頼もOKしてしまう。そのままズルズルと3年間活動していった。ズルズルの割に曲の質の高さは異常極まりないが。

確かに、自分の好きな音楽を追究するタイプではない。注文も無いのに料理は作らない、工場も動かさない、という結構徹底したプロフェッショナリズムが背景にある。しかし客に媚びない。という風に書くと依頼に忠実な職人気質のミュージシャンか、となるがそうでもなく「宇多田ヒカルであること」へのこだわりは相当のものだ。前世を変えられそうになって危うくみんなのうたがおじゃんになるところだったり。

んで客に媚びないというから一見さんお断りの閉じた商売なのかと思いきや相手は大衆なのだ。うぅん、やっぱり八方塞がり。


これらが、16年前は総て裏返しだったのだ。八方塞がりならぬ八方美人、それも全方位美人というか、全部の方向が宇多田ヒカルを支持した。どちらを向いても宇多田ヒカルは凄いという声ばかり。気が付いたらFirst Loveを持ってレジに並んでいるのだった。

だから、ほんのちょっとの事なのだ。ほんのわずか、皆の期待を吸い上げて集約するシステムが出来上がれば、First Love, Flavor oF Life, Prisoner Of Loveに続く代表曲が生まれる、いや認知されるのである。そして今私はその希望を日本のマスメディアに対して持てない。そういう事だ。何か新しい手はないものか。まだまだ模索は続いていきそうだ。次回へ続く。

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要はいつもの、「宇多田ヒカルは讃えられるが羨ましがられない」論なのだがな。生き方ってなそういう事だ。

応援する方としては矛盾している。作品のクォリティーを上げるには生き方を犠牲にする位までいかなければならないのだし、事実ヒカルはそうしてきた。締切間際は人相も人格も変貌する位に荒むと。テイク5制作時には曲の為に自分を落とし込むまでしたんだと。そこまでいくと徹底しているけれど、だからこそひとより図抜けた曲が書けているのだ。バランスをもって眺めなければならない。


しかし、実際「大衆音楽」というジャンルはマスメディアなしではありえない。マス=mass=大衆だもんね。新聞雑誌の全国流通やラジオテレビの全国放送のない世界でそんなものが成立するかさっぱり定かではない。そして、宇多田ヒカルと宇多田ヒカル陣営はマスメディアに対してこれからどう接するのか。

大衆は移り気だし無責任だし、何の執着も持っていない。ヒカルが居ないからといってどうという事はない。それはこの4年間が証明している。そこに戻っていくモチベーションは何なのか。残っている幾らかの熱心なファンに向けての活動ではダメなのか。

責めている訳でも、修正を迫っている訳でもない。何も考えずに飛び込んでみるのもまた一興、とすら思う。何より、大衆そのものより、メディアの中の人間の宇多田ヒカルに対する関心が、根強いだろう。それに抗うのは、容易ではない。

実はもう(この国に限れば)四面楚歌なのだ。どちらに転んでも具合が悪い。人生そんなに長くない。当然、ある程度は売れるだろうが、先細りそうなのは何となくわかる。

先の事を考えても仕方がない、やってみるしかない、というのがヒカルの基本姿勢だろうか。しかし、だからといって4年前以前のやり方をまたやる理由にはならない。それらは総てレーベルに任せて…と言うには、タイアップに配慮した楽曲作りをし過ぎでいる。以前の"いつも通り"がこれからも"いつも通り"とは限らない。もしかしたらもう少し、一連の15周年企画のような"実験と観察"が必要なのかもしれない。ここまで来たんだから、復帰を焦る必要なんてない、のだ。私もまだまだじっくり考えるよ。

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例えばヒカルがクラウド・ファンディングといっても似合わない。先行投資した人たちに何らかの「優先権」を与えるのが要なのだから、なんか違う。いややるんなら私勿論のりますけどね。

…という感じで、プロ・ミュージシャンとしての"生き方"というのがさっぱり見えて来ないのだ。これからのな。つくづく、98年デビューというのは奇跡的だったと思う。きっと藤圭子のデビューも奇跡のタイミングだったのだろうな。

海外での活動には私は何ら不安を抱いていない。This Is The OneもIn The Fleshも、本人の体調以外は順調以外のなにものでもなかった。69位という順位に不満がある人はビルボード・チャートを知らな過ぎだ。私だって知ってる訳じゃないがね。

次に英語圏で活動を始めるなら、置いたバトンをまたそのまま拾って進めばよい。CDよりダウンロードになっているかもしれないが大した違いはない。日本という国が特殊なのは、大衆が音楽を消費しなくなった事であり、宇多田ヒカルの収益源はまさにそこにあったのだから。

なので、日本という国を特別視するのをやめ、数多ある国の中でプロモーションの一環として立ち寄る、みたいなスタイルだったら"生き方"に悩む事はない。この国で売れなくても、他の国で売れればいい。


こういう話を私が何度もしたがるのは、多分吉良知彦を間近に見た影響が大きい。ZABADAKの2分の1である。彼はとても"生き方"がはっきりしている。55歳を超えた今も年間80本を超えるライブを行い、新しいアルバムをレコーディングし、様々なミュージシャンたちとコラボレーションしセッションをし、妻とのユニットを前に進め、息子を立派に育て、決して多くはないファンたちの心を確実に掴んで、活動開始から四半世紀を経てなお最高傑作を更新し最高のコンサートをする能力がまだまだある。いや、ぶっちゃけ今がピークなんじゃないの? 彼のキャリアのハイライトは来年のデビュー30周年コンサートになるだろう。居ない女房を質に入れても観に行くぞ。

で、ポイントは。彼は、昔は兎も角今は全くマスメディアと関わらない活動をしているという点だ。大手レコード会社にも広告代理店にも頼らず、ファンにしろ音楽家仲間にしろ"地続きの繋がり"をどんどん手繰り寄せて音楽活動を充実させているところだ。決して演奏力や歌唱力が秀でている訳ではない彼の基に、難波弘之や渡辺等や楠均といった一流ミュージシャンたちが喜々として集まってくるのをみるにつけ、凄い才能だなと痛感せざるを得ない。そして事実彼は現在進行形で最高の曲を作り最高のライブをしている。

正直、負けてる気がするのだ。

勿論、現時点で既にヒカルは歴史に名を残しているし、彼女の与えた社会的影響の大きさは最早計り知れず、彼女は音楽業界的にはいつ年金生活に入ってくれても構わない程の貢献を成してきている(残念ながらそんな制度は無いけれど)。このあと更に吉良氏が30年頑張っても、ヒカルが12年間で成し遂げた音楽業界への貢献に追い付く事はない。そういう意味での勝ち負けは既についている。

しかし、若い時に売れて、あとは…っていうのは、どうなの?と思う。非常に嬉しい事に、桜流しまでのヒカル、WILD LIFEまでのヒカルは成長し続けていていずれも過去最高のクォリティーを見せてくれている。その点に関しては不満も不安もない。しかし、残念ながら彼女は宇多田ヒカルなのだ。レコード会社はマスメディアを使って売り出す。曲の良し悪しより歌の出来よりイタリア人と結婚したとか母親が自殺したとかいう話の方が遥かに話題になる世界に生きている。そして、そこで制作の資金を調達しているのだ。これはもうどうしようもない。


吉良さんの"地続きの繋がり"とは正反対の世界。電波を飛ばし新聞をねじ込み露出を稼いで関心を引く。そうやって得る"本当に熱心なファンの数"は多分、吉良さんとあんまり変わらないのだ。いやそれは言い過ぎだけれども、何十万枚何百万ユニットを売っても、商売としては正義だし社会的貢献度も大きいし社会的地位だってそりゃあ高いが、音楽家の生き方としては何とも。だってそれなら秋元康は偉大だなぁという話になってしまう。それは極端だと思っていたが現実の方はその極端に収束してしまった。そっちで勝負したって勝てないし、勝ったとしてもそんなに嬉しかないだろう。

なんだろう、あれだ、ヒカルには、息子や娘に胸を張れる生き方をして欲しい…のかな俺は? 昔私は凄かった、もいいけれど、たった今生きてる自分の姿が、自分の背中が、我が子にとってどう映るか。過去の実績など関係がない、"たった今の私の充実"を、見せつけて欲しい。そう願っているのかもしれない。まぁいいや、続きはまた明日書く。

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自分も1年近く行ってない(バーベキューソース&マスタードソース目当て)ので詳しい事はわからないが、マクドナルドの没落が激しいらしい。鶏肉や異物が直接の原因だろうが、それより前から長期低落傾向にあったとみる向きが多いようだ。HPに値段が載ってなかったり手元にメニューが無いなど売る気が無いというか購買者を騙して売る気満々というか兎に角そういう空気はずっと漂っていたがでも原因は一言「割高感」に尽きるだろう。セット価格の600円700円ともなると他店ではもっと鱈腹食べられる。結局それだけな気がする。

CDも結局それなのだろう。90年代はCDというものもまだ目新しかったし、そういうもんだと思われていたが、これだけ他の娯楽が出揃ってきたらやっぱり割高に感じる。アルバム一枚3000円(今だとこれに240円)シングル一枚1200円…うーん、高い。

しかし、だからといって安くしたらその分買ってくれるかというとわからない。今のマクドナルドの味で値下げするとなると、きっと昔のように60円前後まで下げないといけないだろうが、厳しいわな。CDも結局、売れなくなったからといって値段を下げる勇気もタイミングもないのだろう。そりゃまぁそうだわな。新規客を獲得するより如何に既存客を離さないかが大事になっている。これはどの業界にも共通だろうが。

ヒカルが16年前に売れた時に大きかったのは同世代だけでなく親世代まで巻き込んだ事だ。ここの世代は普段はお金を使わないが、いざ大ヒットとなったら恐ろしく食いつく。千の風とか中島みゆきとかそういうのな。まぁそういうのは逆に若者の瞬発力を利用出来ないのだがヒカルの場合はその両方がいっぺんに起こった。確かに、空前絶後の特大ヒットになる筈である。

あの頃10代だった層が30代になりつつあり、購買力自体は上がっているが音楽を買うという習慣は廃れた。今の10代は無料文化に慣れきっている。となるとやはり40代50代以上のファンをもう一度、となるかもしれない。しかし、ここは本当に火が点くまでが険しい。なかなかどうにもならん。

今復帰してもこのように八方塞がりだ。EVA&KHのコラボのみ、ほぼ成功が確約されていてそこは頼もしいが、そこから先どうするか…今誰にとって宇多田ヒカルが必要なのか、見えない。期待している人間は数百万人単位で居るだろうが、ほぼ全員が遠くで眺めているだけである。

取り敢えず最近では、宇多うたアルバムの売上が指標の一つとなるだろう。単純に、ハマれば10倍は売れるとみるべきだがどうやってそこまで持っていくか。

活動のスケールを気にしない、というのであればこれらの事は何の問題でもなくなる。しかし前回指摘したようにヒカルの売り方は大きくマスメディア依存で、そこを抜けると途端に規模が小さくなるだろう。

…いやそれも悪くないんだが。またライブハウスでHikaruの歌聴けるだなんて最高じゃんね。うーん、結局のところヒカルはどうしたいの? どうありたいんだろうかな…。

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こういう、情報に淘汰圧が掛かって情報の精度が上がっていく機構が機能しない事を「情報淘汰不全」と名付けよう。以後使わないけれども。(ならこの段落何やねん)


さて。宇多田ヒカルというアーティストは誰よりも実力派だと認知されている。あの井上陽水が飯の味もわからなくなる位緊張するというのだから相当である。しかし、その割にその実、物凄く"マスメディア依存"の商売しかできないタイプのミュージシャンだ。要するに常に人気がバブルなのである。

要因は皆の知る通りで、ツアーの本数が極端に少ない事とファンクラブが無い事だ。よって"ファンベース"なるものは他の一流と目されるアーティストたちと較べても取り分け脆弱である。本人がほぼ望んでそうしてるのだから文句はないのだが。いやライブは増やして欲しいけどね。

その為、もし新曲をリリースするにあたってタイアップがつかなければ売上は悲惨な事になるだろう。まぁ、ファンベースという点では日本屈指のGLAYも、一週間で全国で売る新曲CDシングルの枚数より一晩のライブで集める人数の方が多かったりするので何とも曰く言い難いのですがね。

試しに、ノンタイアップでCDシングル出してみたらどうなるのか、というのは興味のあるところ。ちょっと違うが、昨年の金爆のような実験的リリースだな。勿論、現実にそんな馬鹿な事をしろと言っているのではない。曲自体の宣伝を自社予算で総て賄うのは相当な負担である。CMのタイアップがつけば契約金が貰えて曲の宣伝も出来て一石二鳥。しかも、宇多田ヒカルのネームバリューが欲しい企業は2015年現在でも幾つもある筈だ。ドラマにしろTVCMにしろ映画にしろ、ヒカルが曲を出すのなら必ずタイアップがつく。

一言でいえば、テレビの拡散力に頼って曲を売ってきたのだ。もう14年前の話になるがCan You Keep A Secret?が年間1位を獲れたのは何といってもタイアップ先であるドラマ「HERO」のお陰である。全話30%超えの視聴率の恩恵は計り知れないけど。勿論楽曲も図抜けて魅力的であって、聴いてくれた人の中でCDを買ってくれた人の割合は普通に較べて非常に高い"高打率"だったろうが、幾ら打率が高くても沢山の人に聴いてもらわなければ安打数自体は伸びない。安打数=打席数×打率なのだから。そうやってヒットは生まれてくるのだ。


なんだか、悔しいといえば悔しいのだが、それが現実だ。私は桜流しをDVD20枚買うべきな位繰り返し聴いているが(いや流石に20枚は買わないけどな)、果たしてこの曲はEVAQなしだったらどれだけの売上だっただろうかとなると「ぐぬぬ」となるのだった。

それですらもう二年以上前の話。脆弱なファンベースからはどんどん人が居なくなっていく。勿論新しく入ってきてくれる人が居てそれは非常に嬉しいのだが、それ以上に人が離れている感触がある。これはもうどうしようもない。かといって今更ファンクラブを作ろうとはならんだろうし。

5年となると長い。6年となると宇多田ヒカルを知らないまま幼稚園児が中学生になっていくのだ。あな恐ろしい。


一方で、先に述べた「情報淘汰不全」の問題がある(お、使ったやん)。不全に陥ったマスメディアとこれから心中しながら、それでもやっぱりCDシングルは売れなくて(皆CDプレイヤー持ってないしなぁ)、ズブズブとキャリアが沈んでいくのだろうか。

元々がバブルな人気なだけに、逆に、ハマった時の爆発力は凄まじい。それが日本一のブランドたる所以だろう。しかし…爆発って、どうやって? 今更みんなCDシングル買わないよ。何がどうなったら「宇多田ヒカル新曲人気爆発」といえるのか、今の時代そもそも根本的な手段がない。配信だってそんなに普及していない。

多分、"特大ヒット"となる可能性がまだあるのは、スマートフォンのアプリとして新曲をリリースする事だ。それだったら、宇多田ヒカルの知名度と伴走する"爆発的人気"を期待する事も、薄々ながら可能である。

勿論、アプリというからにはただ歌を入れただけではどうにもならない。何より、最初から有料というのはとてもハードルが高い。しかし、今のところ私には今のヒカルに"大ヒット"を望めるのはそれ位しかないんじゃないかという気分なのである。如何にCMが沢山流れてもドラマや映画がヒットしても皆歌にお金を出してくれるとは思えない。何かいい手は、ないものかなぁ…。

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先週の続き。スキマスイッチがMCの内容で炎上したというニュースを読んだ。詳細については知らない。…と、いうのが普通である。日々ニュースを読む中で、それ以上に突っ込んだ"調査"をする人なんて、そうそう居ない。

果たして、このニュースはどこまで事実を的確に伝えているのだろうか。そもそもこんな出来事本当にあったのか? このレベルから疑わなければならない、としたら、相当重傷だよね、という話である。

今に始まった事ではない。それはわかる。しかし、限度というものがある。今の状況はそれを超えてしまっているのではないか、という懸念が現実味を帯び始めた。

考えてもみて欲しい。ヒカルのライブでのMCが取り上げられる。何ら事実と関連がない噂が一人歩きを始める。ここからだ。HikaruがどれだけMessageやTweetで誤解を解こうとしてもそちらは全く拡散されない。記事にもならない。歩き始めた誤解は走り始めて辺りを覆い尽くし、それが事実とされ定評になり活動を蝕んでいく。この、"第二段階に歯止めがなくなった"かもしれない事態を憂慮しているのだ。

果たして。まだわからない。しかし、スポーツとか文化とか科学とかは、政治的な意向が挟まれる傾向が他の報道セクションに較べて相対的には少なく、従って真実を追究するにはよりよい環境である筈だ。そこがそうならないとくれば、末期とまではいわないし、まだまだ重傷でもないが、警戒しておいてもいいだろうというのが現時点での見方である。

しかし、現実は厳しい。EMIがレーベルとしてUtada Hikaruを手放す筈もなく、従って今までの販売戦略から逸脱する事は考えられない。本来なら、活動の拠点を日本以外の国に移すか、日本ではインディーズとして活動するか、そういった選択になると思うのだが、うーん、無理だな。

何といっても、今私の抱いている"危機感"がただの"杞憂"とほぼ区別がつかない事が第一のネックである。これが本当に杞憂に終わるには、Web上での意見交換システムの世代交代が必要だと思うが、まだその時期でもなさそうだ。外向きのTwitterやFacebook、内向きのLINE等、まだまだ元気一杯である。寧ろ、一般的な普及はこれからだろう。

2ちゃんねるを"メジャー"にしつつあるのはまとめブログ機能だ。あれを基にしてオピニオンや騒動を察知する流れが一部で出来つつある。もともとにちゃんねるは高齢化が進んでいたのに2015年に至って影響力が増すだなんて事になったら浮上した時点で老害確定だろうな。皮肉な事に。


なんだか、復帰のタイミングがまた無くなってしまったように、みえている。宇多田ヒカルの居場所はどこ? どれだけ小さくても自分で作り始めるよりないと思うが、それが許されない位にこの看板は大きい。やれやれ、負け戦とわかって挑むのもやる気が出ないだろうに。どうしたものか。2015年からの"黄昏の時代"にどんな生き方が望ましいのか、模索は始まったばかりだ。

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前回からの続き。私は勿論、卓球の選考の話をしているのではない。情報流通の致命的な崩落の予兆ではないかと危惧しているのだ。縮めていえば「良心の崩壊」である。

誰かが自分が得する為に情報を操作するのはまだいい。本当に問題なのは、自らを価値無き者と見積もる中でどんどん周囲を巻き込んでいく事だ。

21世紀は自爆テロと共に始まった。国と国との戦いではなく、地球上のあらゆる場所で内側から崩落していく恐怖と戦わねばならなくなった。誰も生き残るつもりのない戦いを仕掛けられたら"勝ち目"はない。


敢えて話を大きくしてみた。今回の件が私に与えた心理的インパクトの表現である。

情報が是正されず劣化に加速がかかる一方であるならば、有名人は真剣に生き方を考えねばならない。私は今、かなり真剣に、宇多田ヒカルは一切のマスメディアへの広告を止めるべきではないか、総ての取材を断るべきではないかと考え始めているところだ。この国から出て行くのも一案である。

我々平民からは考えられないレベルの話だが、有名人になると弔いの歩みさえ物理的に阻まれるのである。そもそも、この国の、国レベルでのマスメディアに居る人間は、個々としては常識人なのかもしれないが、組織や集団を単位とした時、元々からして全く一般人的常識を持ち合わせていない。

だが、彼らには"公"という建て前があった筈である。建て前というのは、見栄や世間体が機能している社会では超強力である。原動力と言っていい。良心の崩壊は、それをあっさり崩し事態を暴走させる。水流のようなもので、一ヶ所でも堰が破られれば誰も止められなくなるだろう。

何をスポーツニュース如きで、と思われるかもしれない。逆である。こんな些細な事ですら修正できないのならもっと重大な問題ではもっと難しい。

些細な、誰でも出来る簡単な事を人にやらせるのは恐ろしく難しい。今回必要だったのは、インターネットでJTTAにアクセスして選考基準を確認する事と、ITTFにアクセスして女子ダブルスの世界ランキングを確かめること。たったこれだけなのだが、それをした人がごく僅かであり、しかも、これこそが最も危ういのだが、その僅かな人々の声が全く拡大されず収束した事だ。どれだけ他愛のない話題だろうと、事実誤認は事実誤認だし、誤解は誤解である。記事の中に各ペアの世界ランキングを掲載するだけで、読者の印象はガラッと変わる。本当にそれだけなのだ。初動において混乱があるのは仕方がないが、この話が出て1ヶ月である。寒気がする。


これからは、あらゆる情報に気をつけねばならなくなるかもしれない。まだ、重要な話題なら、いい面もあるかもしれない。良心の砦みたいなものが最後まで機能してくれる期待も持てなくはないのだから。だったら今すぐ機能して欲しいんだけど。

げいのうじんはそうはいかない。歌手の嘘ゴシップなんて誰も気にかけんぞ。それどころか「有名税なんだから我慢しろ」と支離滅裂な事を言われる。これらを防ぐには、国レベルのマスメディアとは一切縁を切るしかない。

しかし、難しいだろう。商売上というより、単純に、ヒカルにメディアの友人や知り合いが居るだろうからだ。彼らと"縁を切る"だなんて、きっと出来ない、彼らの職業が何であれ、その前に一人の人間として友人であるならば。友情に職業なんて関係ないでしょう。

やっぱり、国ごと捨てるのがいちばんかなぁ。ヒカルなら立場的にはあっさり出来るだろう。やって欲しいかと言われればやって欲しくないが、背に腹は変えられない。この国の情報劣化合戦からどうやって逃れるか、また次回考えるわ。

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危惧の話。

一昨日、昨日も世界卓球個人戦選手選考の記事がヤフトピトップに出ていて驚いた。まだやってる…。

最初に記事が出た時には「そのうち正しい情報が定着するだろう」と高を括っていたが、一向にそうはならなかったようだ。これはマズい。

論点を整理しておく。今年春に行われる世界卓球個人戦の女子ダブルスに、全日本選手権女子ダブルス2連覇中の石川佳純平野早矢香組が選ばれなかった事に平野早が所属するミキハウス側から抗議が選考側に対して出されたという話。

心情的にはよくわかる。所属チームの選手が選ばれて欲しいと。問題なのは、この件を各紙が無検討に取り上げている事だ。

誤解が蔓延しているようだから整理しておくと、そもそも全日本選手権は世界卓球の選考会ではない、という事だ。唯一、男女単優勝者のみ自動的に選出される規定があるが、これは例外的措置であって、単2位以下については結果を勘案するとすら(選考基準には)書かれていない。ダブルスについては一切全日本選手権に関する基準が無い。その為、石川佳平野早組が全日本で何連覇しようが選考基準的には何ら関係がない。

実際に選出されたのは皆様お馴染み中学生コンビの伊藤美誠平野美宇組と福原若宮組である。どうやら伊藤平野美ペアが若手であり、また、その全日本選手権で石川平野早組と直接対決で敗れている為誤解が止まらないようだが、直近のダブルスの世界ランキングを見ると伊藤平野美組が堂々の世界1位、福原若宮組が世界7位、石川平野早組が世界13位である。何の事はない、今回の女子ダブルスの選手選考はただ単に世界ランキング順に上から2組選んだだけのものであって、これ以上ない明確な基準で行われたのだ。批判が起こるとすれば寧ろ「そんなに機械的に決めていいのか?」という点の方であろう。


この、「全日本選手権は世界卓球の(特にダブルス種目は全く)選考大会ではない」という事実と、「女子ダブルス世界ランキング」は検索すればすぐに確認できる。今回非常に大きな問題なのは、こうやってすぐに確かめられる資料をみた人間の見解が多数派に転じられなかった点だ。人間なので、早とちりや勘違い、おっちょこちょいやうっかりはあるだろう。しかし、時間をかけて議論していく中でそれらは徐々に修正されていき、全体として正しい見解(というかただの事実確認)に近づいていく筈である。しかし今回それが1ヶ月経っても起こっていない。これはゆゆ式、もとい、由々しき事態である。

ん。枕の話が長くなってしまったな。でもごめん、もうちょっとだけ続きます。(←何その亀仙人的詐欺台詞は)

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歌詞の話やメッセ開通など、どれも16年前の話かと思うと…いや、別に何もないな。随分昔なのは間違いないが、それが歴史というものだ。変な話、3年前も16年前も大して変わらないようにみえる。歳とったんだろうか俺。

実際、なんかこの20年くらいって妙に"止まって"いる感じが拭えない。インターネットが急速に発達し、今やもう携帯電話やスマートフォンがなかった時代どうやって生きていたかさえわからない。若い子たちにとっては蛇口を捻ると水が出るのと同じ感覚でタップして情報を得ていて、それが極々普通の事なのだ。隔世の感がある…筈なんだか、なんなんだろうこの感覚。

ひとつには、自分の聴いてる音楽にあまり革命的なものが出てきていないからではないか、というのがあるのではないかと考える。個人的な視点である。1995年にIN FLAMESがデビューして以来、彼らよりドラスティックな新しいメタルは生まれたか? The Flower Kingsより活動的なプログレッシブ・ロックは生まれたか? なんだか、あまり変わっていない気がする。それはなんというか、自分の望んでいた事でもあるのだろう。Arch Enemyがデスメタルを捨てずにきて来年で20年。彼らに望んでいた事が、貫き続けられてる。この分だとゆかちんが50歳になっても七森中☆ごらく部が元気に活動してるなんてきっと既定路線なんじゃないか、と夢想してしまう。それはさておき。

なんだか、儚さが消えている。自分の趣味のせいだろうか? 彼らは20年30年追い掛ける価値があるとみたアーティストたちが、残念ながら総てではないにせよ、実際に四半世紀を駆け抜けている。つまり私は、20年30年前に見た景色を今も見ているに過ぎない。確かに、"ずっと止まって"いるのかもしれない。


宇多田ヒカルはそれらと全く相容れない。今32歳だって? ヒカルが16歳の頃、倍の年齢なんて想像もしていなかったし、まず何より引退してるか否かもわからなかったのだ。ここである。「ずっと歌っているだろう」とも「きっと引退しているだろう」ともどちらも思えないのだ。いわば、全く"予感"がないのである。"期待"は幾らでもある。100歳になっても歌っていて欲しい。言うはタダだが、確かなものは何もない。一体これは何なのだろう。

そんなだから、ヒカルが16歳の時も32歳の時も「ああ、そう」としか思えない。時間が経っているかとか、そういうのが無いのだから。多少化粧のノリが悪くなったかな?とか言われても俺きっと気付けないし。


時間を何とか感じられるのは、ライブだろうな。どの時代の曲もひたすら歌われ、その2時間の厚みが歴史の厚みになる。ベテランアーティストのコンサートなんて、毎回仮面ライダー全員集合編やってるようなものだ。ヒット曲が沢山あればあるほど厚みは増す。ヒカルなんか無敵である。


ライブという"今"を感じて初めて時間の厚みを感じる。普段の私は、年月を数字としかみていない。なんなのか、自分で言っててよくわからない。ただそれはあるし、ただあったのだ。歌の繋ぐいろいろな時間。相変わらずヒカルはいつ戻ってきてくれるか、戻ってきてくれたとして、次は何年やってくれるのか。何の予感もはたらかない。ただし、ライブはいつだって素晴らしい。また時間を感じたい。今という瞬間の覗き穴から。

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Message from Hikki が"開通"して今日で16年になる。最近は専らTwitterメインで、節目の長文以外はこのページに書く事もなくなってしまったが、昔はあらゆる意味でこの"メッセ"が主役だった。冗談抜きにここを中心に世界が回っていたと言っても過言ではない。曲がどうのライブがどうのという話もまずはMessage from Hikkiが動いてから、だった。

書かなくなってしまったのは…今のところ、"たまたま"なのかも、しれない。人間活動宣言からTwitter開始、そしてすぐにアーティスト活動停止という流れなので、その時点(2011年1月)でメッセが止まったまんまでも不思議ではない。2013年の事は、一生に一度あるかないかの出来事だったのであそこに書くしかなかっただろう。

つまり、今後もメッセが稼働するかどうかは結構"未知数"だという事だ。たまたまTwitterならという感じで軸足を移しているだけで、また戻ってくる事もありえる一方、やっぱり今のスタンスのまま行きそうという雰囲気もある。どちらに転ぶかはわからない。

しかしそもそも、今後あそこに書くしかないような長文、メッセージを書きたくなる事があるのだろうか?という疑問は残る。140字以上を費やして何を伝えたい? 大抵の事は呟きひとつで事足りるし、リーチだっとずっとよい。反応だってすぐ返ってくる。そりゃあ、ある程度まではだが、居心地もよいだろう。Webなのだ、新しいシステムの方が優れていなくてどうするというのだ。

ノスタルジックに懐かしむのは私らしくないが、そういう感情もある。だからといって今また急にMessage from Hikkiが復活したら少し戸惑うかもしれない。すぐに慣れると思うけど。

しかしTwitterのせいで、くだけた話が減り、かしこまったメッセージが増える、というのはあるだろう。ある意味それこそ、初期の頃に呼んでいたように"掲示板"の役割―メッセージを張り出して、通りがかった人に読んでもらう形式―に先祖帰りするかもしれない。なんだかそれはそれで、という感じだ。

年齢によるノリの違いもある。若い頃に較べれば間違いなくテンションは落ち着いている。別人じゃないかと思う位だが、確かに、メッセの長文はあのテンションに支えられていた面もあると思うので、今何かを書こうとすると"寄稿文"みたいな体裁になるかもしれない。まぁ、わからんわね。

しかし何より、我々が「メッセージを送りたいと思われる人々」でないと話にならないよね。話は、それからだ。

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更に次である。Movin' on without youの歌詞構成の妙はここに極まる。

『くやしいから 私から別れてあげる』

まずこれである。前回触れた「順接で油断させて突き刺す」パターンの強化型。なんだろうね、これ。この歌の"結論"とでもいうべきセンテンスだ。よくある流れは「くやしいけれどあなたに/お前に夢中」だ。くやしい+逆接からの流れだと夢中なのだからくやしい+順接なら逆に離れていくのも実は当然なのだが…みんな、この歌聴くまでにこのロジックに気付いてた? 俺は気付いていなかった。しかし、これはもう至って順当な事しか語っていないのだ。くやしいなら別れるしかない。くやしいにもかかわらず夢中になるのだからかかわったら離れる。いやはや、言われてみれば当たり前なのに言われるまで気付いていなかった。

ここに至るまでの流れが秀逸なのである。逆接と順接の絡み合いに翻弄されてきているから、もう、なんていうの、"降参状態"で『私から別れてあげる』のフレーズを受け入れるしかないのである。

1番は3時の話で2番は4時の話だ。これを踏まえてみてみると、

3時は『いいオンナ演じるのはまだ早すぎるかな』。ちょっと訊いてる。疑問形である。演じるかどうか一応逡巡しているのだ。

4時になると『いいオンナ演じるのもラクじゃないよね』となる。実際に演じたかどうかは兎も角、演じる方にぐっと傾いた発言だ。勿論、演じる事を決意したとか、或いは演じた後だと解釈してもよい。要は、1時間の間に心境に変化があり、それが対比されて描写されている訳である。

しかし、この1番と2番の対比も更に最後のリフレインで"戻る"。『いいオンナ演じるのはまだ早すぎるかな』にまたなるのである。

ここは、ただのリフレインなんだからと納得するのもありだろう。というか普段そんなに歌詞を聴き込んでいる訳ではないから気にしてないと言ったらいいのかな。いずれにしてもですね、それはそれで考えるべきポイントが、あるのです。


本当に本当のこの曲の要、それはここ。

『とまどいながら でもいいから愛して欲しい』

これですよ。

まず、この文章は叙述トリックである。最初、『とまどいながら』と聴いた時それは"私"だと、リスナーは思ったはずだ。この物語の主人公、たぶん女の子が、とまどうのだろうと一瞬でも思った筈である。違う。仮に、ではあるがとまどうのは男の子(たぶん)の方なのだ。この視点の展開が、この曲では最も極端である。

この叙述トリックは、曲全体の構成によって仕掛けられている。文頭にくる『鳴るの待ってる』『切なくなるはず』『用意した』『分かってる』『返す』『くやしい』『別れる』総て"私"のする事だ。それが刻み込まれているから、『とまどいながら』もてっきり"私"の事だと思うのだ。

しかし、ちゃっかり伏線も忍ばせてある。実は、『見つけて』『構う』などは、彼の用言なのだ。なくはなかったのであるが、そんなにアピールされていない。彼のすることもなくはなかったが殊更アッピールはされていない。ここらへんの微妙な印象の付け方が『とまどいながら でも愛してほしい』のインパクトに結実するのである。ここでも、"でも"と言われた瞬間のぐわっと総てが裏返るような感触が、ただただ素晴らしい。

そして、『別れてあげる』がこの曲の"結論"ならば、本当に言いたかった事、本当の本音は『愛してほしい』なのだ。だからリフレインは戻るのである。一時間前の心情に。この歌は、午前3時と午前4時の間で、本音と結論の間で揺れ動く乙女心を的確に描写しきっているのである。にしたって夜更かしし過ぎだと思うけどねw

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