無意識日記
宇多田光 word:i_
 



何でライブ・アルバム出さないんだろうねぇ。

今やコンサートDVDは一大産業で、アーティストによっては売上高でCDを上回る。そんな時代に、今更音だけの「ライブ・アルバム」に需要があるのやら。ただでさえ、"音だけ"のコンテンツではスマホ世代にアピールしづらいというのに。

それに、ライブ・アルバムという体裁自体を嫌う層が居る。拍手や歓声が煩わしいと。ごもっとも。特に、音楽が「別世界に連れて行ってくれる系」だと尚更だろう。妙に生々しくなられても困るわな。

あと、ヒカルファンだと、もしかしたら「自分以外の誰かに向かって歌って、自分以外の誰かと喋ってる音声だけを聞かされるのはつらい」なんてこともあるかもしれない。ないかもしれない。いずれにせよライブアルバム嫌いは一定数以上居てはって、その理由も納得できるものが多い。

でもあえて、ここで「ライブ・アルバムのよさ」をアピールしておきたい。こういう時いろんなアピール・ポイントがあるものなのだが、今回は「慣れ」を挙げさせてうただこうか。

ウタユナで私の見た3&4公演目の静岡と22、23公演目の代々木アリーナでは特にバンドサウンドが雲泥の差であった。まさに見違える程に。同一人物たちが演奏をしているとは思えなかったよ、いやはや。

それ位に差が出る。人は2ヶ月あれば学習して成長するのだ。どれだけ技術があろうと、音楽の事を理解し、メンバーの事を理解しなければいい演奏は出来ない。その事をツアーを通して教えられた。

則ち。皆が演奏に慣れた頃のテイクで録音すると演奏の出来が全然違うのである。今回ライブ・アルバムを推す理由はそれである。レコーディング時は何が何だかわからないまま録音していたとしても、ツアーを通して何度も演奏をしているうちに「そういうことだったのか」と気付く場面が多々出てくる。その積み重ねの結実がライブ・アルバムになるのだ。複数人の"息の合った演奏"は本当に凄い。それを音源として円盤に封入すべきだろう。


さてここまでは一般論だ。ヒカルは常識外れの才能を持っているので、果たしてこの論が通用するかどうか。

まず「レコーディング時点での音楽への理解度」だが、ヒカルはバカ高い。当たり前だ、作詞作曲してプロデュースまでして更に自分でパフォームする(歌う)のだ。この世の誰よりも目の前の楽曲について熟知している。従って、ツアーを重ねても理解度が上がる事は、他のツアー・メンバーに較べて遥かに期待できない。

しかし、それでも"歌い慣れる"事はある筈だ。最初は意識的にコントロールしなければ出せなかった声や節回しも、何度も歌っているうちに無意識に出来るようになってくる。そうなると歌唱に余裕が出てきて新しいフェイクやよりダイナミックな歌い回しなどが登場してくる。緊張して歌入れをしたスタジオ・バージョンより成熟している可能性は、ある。

しかし、それももしかしたらヒカルには通用しない一般論なのかもしれない。特にヴォーカル・プロデュースが三宅さんの時はヒカルは同じ歌を何度も何度も何度も何度も歌わされている筈。レコーディングが終わる頃には「もう歌いたくない!」となっている事もまた、考えられる。

テイクとしては、歌に対して新鮮な気持ちのままレコーディングしたものの方がよりよいケースもある事もまた事実。本当にケース・バイ・ケースだ。

だがしかし、それも含めて、結局ライブ・アルバムを出す理由になるのではないか。慣れたら、よくなるのか、ならなかったのか。それを確かめる為にも、新しい曲をライブでやった分だけでもライブ・ヴァージョンをリリースしていってみては如何だろうか。つまり、何が言いたいかといえば、ヒカルの曲全曲についてライブ・ヴァージョンが欲しいなぁと。それだけだな。その為には全部の曲を一度はライブで歌ってみなくてはならないし、それらが録音されていなければならない。大変な手間だなぁ。おいそれとお願い出来る事じゃない。だからこうやって自分の日記に綴るだけに留めておきますね。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




今年のプロ野球はソフトバンク・ホークスが強かったのねぇ。あっさり日本一。一試合も見てないけれど、下馬評の時点で圧勝が予想されてたからよっぽど図抜けてたのでしょう。特に、あれだけ鳴り物いりで獲得した松坂大輔を一試合も起用せずに勝ったのは凄い。来年以降の事はわからないが、今年に限れば4億円溝に捨てたようなもんでしょ。4億のハンデがあっても勝つ、みたいな。圧倒的な差だったんだねぇ。

松坂大輔といえば「松坂世代」として同年代の才能たちにも注目が集まってた気がするが、そういえばヒカルも大体松坂世代だっけか。時の流れを感じるなぁ…いや別に感じないかな。そんなもんだよね。

プロ野球選手だと、この年齢になってくれば引退を決断するかもう一花咲かせる為に移籍するか、みたいな流れになる訳であの怪物と言われた松坂も同様だった訳だが、山本昌やイチローといった桁外れのレジェンドたちのせいでそこらへんの感覚がちょいと曖昧になってるかもわからんね。

ミュージシャンは勿論、ここからが本番というか、本格派という目でみられていく年齢だ。アイドル文化が主流な日本ではスポーツ選手と同じような感覚でみられがちかもわからないが、文化・芸能の類いは伝統があればあるほど「60歳で一人前」と呼ばれる世界だ。地上波テレビではかねてから「上がつっかえててなかなか若手が飛躍する場所がない」と言われてきたが、これは地上波テレビが芸能として成熟してきていて、それだけ学ぶべき事が増えた為、と言う事が出来る。まぁそれでいいんだろう。

世界になだたる超高齢化社会を迎える日本だが、その年代構成に呼応する為には文化・芸能の分野をもっと手厚くするのが得策かもしれない。

ヒカルの場合、高齢者に対してはどう思っているのだろうか。もとより、あまり対象年齢を考えずに活動している方だが、少しずつではあるにせよ、高齢者にもわかりやすい音楽になっていくだろうか。単純に、年々ヒカル自身が加齢していくからには自然に徐々にそうはなっていくだろう。

若い頃のヒカルは「とても15歳とは思えない」というほど大人びた歌を聞かせていた。では今なら逆に、「33歳とは思えない」というほど若々しい声を出せたりするのだろうか。或いは更に老成した歌声を聴かせてくれるのだろうか。もっといえば、自らの実年齢とは異なる雰囲気を歌で表現できるのだろうか。ちょっとそこらへん興味があるのですよ。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




ホーン・セクション、来るかねぇ。

読者によっては馴染みが無いかもしれない。要するにラッパ隊の事だ。トランペット、トロンボーン、サックス、ホルンetc... まぁヴィジュアル的には東京スカパラダイスオーケストラを想像してうただければ。打ち込みをやってる人はどうしたって合成音で代用というか、そっちの音を使いたがるからなのか何なのか、ヒカルはあんまりホーン・セクションを使ってこない。最初に思い浮かんだのが"First Love"のデイヴィッド・サンボーン・ヴァージョンだ。オリジナルやなくてリミックスやねこれ。しかもセクションじゃなくてサックス・ソロですね。あの、破裂音満載の華やかなサウンドからは距離がある。

勿論費用がかかるという事もあるだろうが、それを言うならあんなにストリングスを従えたレコーディングはしない。Flavor Of LifeやPrisoner Of Loveの事ね。そもそもからして、ヒカルの編曲志向にホーンセクションが最初っから入っていないとみるべきかな。

先述のサンボーンのようなケースなら、今後大いに有り得るだろう。リミックスでなくオリジナル・ヴァージョンで、でもだ。間奏部でトランペットなり何なりのソロを響かせる。よい。まぁサックスになると思うけれども。

しかし、ビッグ・バンドとまで言われるような豪奢なホーン・セクションはどうだろうか。そもそも、あまり主流でもない気がする、日本の商業音楽市場では。ストリングスは、特に2003年頃以降は60年代70年代のように"臆面もなく"使われるようになった。邪推だが、クラシックの人たちがポップスを演奏するのに抵抗が無くなったからかな。二つくらい前の世代の人たちだったら音を聴くまでもなく断りそう。偏見かな。そうでもないような。昔は昔。いい時代になりました。

現実的な問題もある、という事か。いざホーンセクションを起用しようと思っても、引き受けてくれる人(たち)が居ない、というのもあるかもしれない。でもまぁヒカルに限っていえば「本当はここに本物のホーンセクションを入れたかったけど仕方無く断念した」みたいなケースは思い当たらない。"You Make Me Want To Be A Man"の時も、スタジオエンジニアアシスタントの男の子だか誰かをひっつかまえて「え、吹けるの!? 吹いて吹いて!」と頼んで(?)演奏して貰った、という経緯があった。まぁこの時は運が良かったのだろうな。なお、どんなプレイだったかは同曲のサビを聴けばわかります。正直、「別にシンセでよかったんじゃ…」と思われる事必至のシンプル至極なラインを吹いてくれていますよ。

何だか話が脱線してるな。

まぁ暫くはヒカルもホーンを使って来ないだろう。「それだったら」という事で逆に、「ホーンしばりのコンサート」をやってみる、というのはどうだろうか。過去のヒカルの名曲をホーン・セクション向けにリアレンジしてライブを敢行するのである。勿論撮影・録音・リリースは必須だ。キャンシーとかトラベとか"劇的に"生まれ変わるんじゃないか。一方ではやとちりやドラマはサックスソロをフィーチャーしてしまえばバッチリだろう。あれ、なぜかDistanceの曲ばかり思いつくな。他意はないぞ。

でも、きっとそういう企画は「出会い」から生まれるものだ。ヒカルがいつかどこかで実際に「この人に私の曲を吹いてもらいたい!」と思える人に出会えるまでは、そういう話にはならないだろうな。


もっとも、ヒカルがサックスを練習してたら別だけどな! …ないかな? ないか。そうか。どうだろうねぇ…?(笑)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




映画「春の雪」公開から10年と言われてもピンと来ないな。映画自体の出来も悪くはなかったが、やはり主題歌の方に耳がいく。

"Be My Last"は、母親を『かあさん』と呼ぶ事で歌の冒頭からいきなり語り手が男性視点である事を宣言する。そして、ヒカル曰く「最初の3行で言いたい事は言えた」その冒頭部がそのまま楽曲への世界観を決定づける。ヒカルのこういう曲は珍しい。他には、ややアカペラ気味に始まる"Can You Keep A Secret?"や"Flavor Of Life"などがあるが、これらはあクマで「サビから始まる曲」であってBe My Lastとはやや様子が異なる。こちらはただのAメロの歌い出しだ。そこで言いたい事を言えてしまった以上、サビで言う事がなくなる。したがって、英語のリフレインになった。

そのサビで挿入される日本語は『どうか君が』だ。意味上で繋がっていて「どうか君が僕の最後の人でありますように」という願いの曲になっている訳だが、それらも含めてこの曲の歌詞に込められた思いの数々は総て冒頭の『育てたものまで自分で壊さなきゃならない日がくる』によって文字通り壊される。切ない歌。

実際、この歌は宇多田ヒカルのキャリアをごっそり壊した。CDシングルの出荷枚数と売上枚数の落差は有名な話(?)だ。一方でiTunes Storeでは年間トップクラスの売上を記録する。過去のキャリアを壊して新しい方法論へと移行したのだ。その積極果敢が後のFlavor Of Lifeの大成功を呼んだと考えると、ヒカル自らが『かあさんどうして』の問いに自ら実践で答を返した事になる。それが生きるという事だから、と。

『何も繋げない手』という一節は、世界に対してはたらきかけられない辛さを伝える。恐らく、幼少の頃のヒカルの無力感が根底にはあるのだろう。ヒカルの大好きなフレディー・マーキュリーがかつて在籍したバンドQUEENが、愛する日本に日本語で捧げた楽曲のタイトルが"TE O TORIATTE"("手を取り合って")であった事をなぜか思い出す。どこか、とても対照的だ。

映画も大して話題にならなかったし、CDシングルの売上も散々だった(割には1位取ってるんだけどね)ので、もしかしたら黒歴史扱いされているかもしれないBe My Lastだが、勿論ヒカルの歴史上欠くべからざるべき楽曲だ。10年経った今聴いてみたら、何かまた新しい発見があるかもしれないよ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




人気の出方にはトップダウン型とボトムアップ型があって、ヒカルはトップダウン型である。

トップダウンとは、全国的な宣伝網と流通網をもつ組織が売り出すタイプだ。いきなり日本全国各地に彼・彼女(たち)の名前が響き渡る。全国ネットのテレビ、全国ネットのラジオ、全国で販売する新聞社、出版社、広告代理店。彼らがリスクをとって多大な宣伝費をかけながら売るのがトップダウンだ。

ボトムアップはそれとは対極で、例えば路上ライブから出発してインディーズのCDを手売りして、という感じ。それがいつのまにか地元のコミュニティーFMで取り上げられて、みたいな展開をしつつライブの規模が大きくなっていくパターン。もっとも、情報網の発達した現代では早い段階から食い付かれてすぐにトップダウン型に巻き込まれていってしまうのだけれど。なお、余談になるが、そういったボトムアップの手法を擬似的に模倣してトップダウンで売り出したのがモーニング娘。やら秋元康プロジェクトのやり方だった訳だ。いいとこどりだね。

で、ヒカルがトップダウン型だと言ったのは、いきなり日本の大手レコード会社の東芝EMIと契約して活動を始めたからだ。確かに、そこに至るまでの過程で、1000枚しかプレスしなかった(んだっけどうだっけ)Cubic Uの「Precious」を作るなどはインディーズ活動で、ここまではボトムアップといえるが、同盤は結局EMIとの契約に至る為のデモテープとしての役割を果たしたといえるから、結局はEMIが(人気の出ていないアーティストを)一本釣りしてリスクを取ったという事が出来る。EMIはこの一世一代の大勝負に出て見事賭けに勝ったのだ。


トップダウンの利点は、当たればデカい事だ。ヒカルが最上の例である。下積みから地道に、なんて必要ない。ヒカルが苦労していないという意味ではない。ある日突然風景が変わっている事に気付く。そのインパクトはトップダウンでないと味わえない。ボトムアップはまさに、毎日一人ずつ々々々々ファンを増やしていく行為なのだから。

欠点は、予想できるだろう、故に人気があぶくのままだという事だ。熱しやすく冷めやすい。人間のいちばん不安定な部分に訴えかけて売るのだから当然か。落ちる時はそりゃあすぐに落ちる。目も当てられない。一人ずつ々々々々増やしてきたならば、減る時も緩やかだ。なお、メンバーがスキャンダルを起こしたとかの決定打を放った場合はこの限りではない。

ヒカルの場合、ファンという言い方が難しいならば「音源購入者」とでも言おうか、彼らの数が数分の一、いや数十分の一に減っている。こんなことって、こんなことって。トップダウンだからこそ起こった事だ。

そうなると…あ。「いや、ヒカルちゃんは"Automatic"が北海道をはじめとした全国の各ローカルFM局でオンエアされた事で売れたのよ。トップダウンなんかじゃあないわ。」と反論される方も在るかもしれない 異論は無い。でもやっぱり、インディーズ・レーベルとメジャー・レーベルでは違うんだよね。


…って話が2つに分裂しちゃうなぁこれ。これらの続きはまた次回。或いはまたいつかのお楽しみという事で。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「ジョジョの奇妙な冒険」と「BASTARD! 暗黒の破壊神」はジャンプ漫画の中でも異例の長期連載で、80年代スタートながら形を変えて現在でも続刊中の化け物作品だが、両者には共通して「洋楽アーティストの名前やグループ名や曲名を作中の固有名詞に引用する」という特徴がある。それが過ぎてジョジョなどは海外版ではキャラの名前が差し替えられていたりする。吹き替えだから出来る芸当だわね。

なので昔からその元ネタ探しは楽しみのひとつだった。まぁ大体は見た瞬間にわかるような直接的な引用ばかりだが、中には「ブラゴザハース」みたいにすぐにはわかりにくいものもあったな。今のの元ネタは「ブラック・サバス」だ。

そんな縁(?)もあって、「ジョジョの奇妙な冒険」のアニメ化にあたってはエンディング・テーマに洋楽のスタンダード・ナンバーを取り上げるのが定番になりつつある。イエス、バングルズ、パット・メセニーとなかなか渋い処をついてきている。

この度そのジョジョの第4部のアニメ化が発表された。当然エンディングテーマを誰にするかに興味が集まる。ラスボスのスタンド名からしてクイーンの"キラークイーン"と"アナザー・ワン・バイツ・ザ・ダスト"が思い浮かぶところだが、イエスの起用からもわかるとおり、そういう単純なセレクトは来ないように思える。

では、ここは身内贔屓で(?)、Utadaの曲でジョジョのエンディングテーマに合いそうなものはないかと考えてみよう。第4部は長いので展開のどのあたりにもってくるかで変わってくるが、最終盤では"Kremlin Dusk"が合う。切迫した曲調もそうだし、家のドアをノックする音や電話といった小道具、何より「名を呼ぶ」というコンセプトが展開に合っている。

もう一曲選ぶなら"Devil Inside"か。人間の心のうちに住まう悪魔。小さな街で起こる連続殺人事件の犯人を追い詰めていくという第4部のストーリーに違和感なくハマるんじゃあ、ないかな。

ただ、当たり前だが、まだUtadaの曲は「洋楽のスタンダード・ナンバー」としての地位を確立していない為、現実には起用される望みはない。寧ろ、まだUtada・Hikaru名義でまっさらな新曲をオファーしてくる可能性の方がある。話題性は十分だが、今度は深夜アニメのエンディングだなんてタイアップ、レコード会社が受けてくれるかどうかの方が心配だ。ま、どちらにせよ可能性はゼロに近い。今はただ妄想として楽しんでおくだけにしとこうっと。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




英語でツイートしないねぇ。

一応、2010年にEMIレーベルと世界契約をしていて、EMIがUMG傘下となった今でもその契約は有効なのだと思っているのだが、違うのかな。アルバムに取りかかっているとか何とか、全部日本語で言っている。普通に考えれば、日本語の歌を書いて日本で売るのが基本なのだろうな、と思わせる。

勿論各国で販売されるのだろうが、日本語アルバムであるならばプロモーションは限定される。日本と、日本語にある程度慣れている一部のアジア諸国、という事になる。諸国は侮れない。日本国内では「First Love」アルバムの売上は765万枚とかなんとか言われてきたのだが、全世界の売上ともなると1000万枚とも言われている。200万枚以上もの上乗せがどこで為されているかといえば、それはアジア諸国だろうというのが蓋然性の高い推測だ。それだけの大きな市場(の可能性)が在るのである。

それならそれでいい。英語主体のアルバムとなると最大市場である日本での売上がガクンと下がる。UMGとしては、世界規模企業体なだけに、どこで売れようが一枚は一枚だ。それに、CDの単価となると日本がいちばん高額なのだから、どうせ売れるなら日本で売れて欲しい、という思惑もあるだろう。

しかしいちばんの必然性は、タイアップのオファーが日本語圏内である事にある。そうなればプロフェッショナルとしては日本語の歌を作るのみである。選択肢は他に無い。事実今それが起こっているのかもしれない。

ただ、それに引きずられていていいのかどうか。わからない。UMGが世界契約をどう捉えているか、U3が世界契約をどう捉えているか、である。話し合いが深くなければそこに齟齬があるかもしれない。Utada The Bestみたいな事態にはくれぐれもならぬよう。

世界のファンがUtada Hikaruを取り合う、という構図をよしとするかどうか。素っ気なさ過ぎたら流石に離れていくんじゃないか。いや、In The Fleshまで10年待ったというロイヤルなファンが世界中に居る。Hikaruが彼らを蔑ろにするとはどうしても思えない。やはり、どこかで英語詞アルバムを作ってくるだろう。

日本語と英語をどんな風に使い分けるかについては過去に書いたので繰り返さないが、コアなファンばかり見ていると「言語の違いも何のその」がジョーシキになってしまうので感覚が麻痺する。特に日本では、言葉の壁は高く分厚い。これだけ英語の授業のコマ数を増やしても洋楽市場の割合は相変わらずだ。それはもう、それはもう。何かいいアイデアが出てくるか、それともコアでロイヤルなファンばかり相手にするか。そここそはもう、Hikaruの意志次第だろう。本当に好きにやってくれたらよいのですよん。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




モチベーションのもう一つの課題として、ヒカルの制作における完成度の高さがある。何の話かというと、リリースに漕ぎ着けた楽曲に関して"次への課題"が存在しない点だ。

ヒカルの場合、ある着想がやってきたらそれに食いついていけるとこまでいってしまう。よって、後の楽曲に「なんとかのパワー・アップ版」みたいなものが存在しない。要は、一曲リリースしたらその上位互換は作らないのだ。

課題を次に持ち越せないとしたら、次の楽曲に取り掛かる時は「一から白紙」である。何だか「はいからはくち」みたいだがそれは関係ないぞ。「今回こうだったから次回はこうしよう」というものの質が限定されるのである。

完成度の高い作品は周囲を黙らせる。あそこはこうした方がいいとかの議論も巻き起こらない。ただひたすら、好みかどうかだけが問われる。それがヒカルの狙いだからそれはそれでいいのだが、出来上がった作品同士の対比、つまりリリース順やアルバムの収録曲順などについては考えられるものの、なんというのだろう、炎上商法なんていう言葉が流行るような今のご時世では地味にすら映る。

それでも昔のように力づくで売れるなら問題はないのだが、果たして現実にそうなるのか。

にしても、ここは本当に、モチベーションの維持をどうやっているかが謎な部分だ。恐らく、貰って受けたオファーは必ず果たすという性格が起因だろうか。つまり、意地である。モチベーションの維持の為に意地を張っているとしたら…駄洒落だな…。

でも、そうなんじゃないかと思う。母・藤圭子の性格からして「目の前にあるもののクォリティーを上げる事にこだわる」人だったのだし、ヒカルにもそれは受け継がれている。それがあるのなら、モチベーションの維持も心配ではない。

ただ、そのやり方は確かに疲れる。今までそうだったからといって、これからもそうなるかどうかはわからないが、もうほんのちょっぴり緩めれたら、更に持続可能なスタイルになるだろう。意地も張らなくて済む。どちらに転ぶかは、結局わからない。それがいい。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




ん、何でそんなにヒカルのモチベーションが気になるかって? まず、この5年間主として桜流しとKuma Power Hour以外こちらに届く仕事をしていない。それだけでも有り難いという気持ちは勿論あるが、常識的に考えるとこれは「アーティスト活動休止中」であり、アーティスト活動に対してやる気が漲って仕方がない、という状態ではない。

創作意欲が湧いてしまうとアーティストは止まれないものだ。借金をしようが離婚しようが体調を崩そうがどうしても没頭してしまう。ヒカルがそういうタイプではないから、モチベーションが気になるのである。

ここでいうモチベーションは「不特定多数に対して発信すること」について、である。幾らヒカルが自宅でクリエイティブでも、我々に届かないのであれば意味がない。幾らヒカルが元気でも、その報告がなければどうしようもないと以前言ったがそれと同じことである。そして「対不特定表現」は、それを選択し実行する事自体が表現の質を、作品の質を大きく変える。分かち難く作品の、作品創造過程の一部なのだ。

ここを取り違えてはいけない。ヒカルが家で熱心に絵を描いて日々を過ごすとして、描いた絵を我々に見せる予定があるかないかで、どんな絵を描くかが変わるのだ。描きたい絵・見たい絵と見せたい絵・見せる絵は別物なのだから。

それを考えれば毎度モチベーションを心配する理由がわかるだろう。その原因は我々である。ヒカルが、「またあの人たちに歌を聴かせたいな」と思って貰える我々でないといけないのだ。ヒカルがどうこうというのは二の次だろう。ヒカルの創造性やそれ自体に対するモチベーションは心配していない。それを"発表"してくれる動機を我々が削いでやしないか、というのが心配の主要なのである。もしダメになったら、悪いのは多分、十中八九、我々だろう。

「我"々"」だなんて、巻き込んですまない。殆どの人が、「私が宇多田ヒカルの人生に影響を及ぼす事なんて有り得ない。彼女が私の人生に影響する事は幾らでもあるけれど。」と思っているのではないか。そして、それに基づいて行動する。それは、裏を返せば、ヒカルを無視しているのに近い。ヒカルがそこに居て我々もここに居るなら、原理的には相互作用が有り得るのだ。それをあたかも無いように振る舞うのは、想像以上にヒカルにダメージを与えるだろう―モチベーションを削り取るだろう、それが私の見立てである。

だから、心配なのだ。あとは、マスコミの皆さんに言いたい事があるのだが、折角なのでここは堪えておこう、かな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




70年代にプログレッシブ・ロックを牽引したアーティストたちは80年代に入って続々と"セル・アウト"した。その代表格はASIAだが、1982年のデビューアルバムは全ジャンルを通しての年間全米No.1というロック史上でも稀な出来事を成し遂げた。

彼らの本当の気持ちはわからない。しかしこちらからみれば、70年代にアーティスティックな追究を終えた天才たちが試しに「売れれるかどうか」やってみた、ように思える。「シンプルに3分でまとめればいいんだろ?簡単だよ。」とでも言わんかのように。

モチベーションの推移というのは、あるだろう。或いは、70年代も80年代もモチベーションは同じで、時代に合わせて音楽性を変化させていっていたのかもしれない。本当のところは、わからない。


逆に、1stアルバムでいきなり超大ブレイクした場合のモチベーションはどうなるか、というのがこの日記で綴り続けてきたテーマのひとつだとは言えるのだが、本当に、何なのだろう。

プログレッシブロックの猛者たちは、音楽を追究してから商業的成功、という流れだった。しかし今の彼らは、特に日本に来る時は70年代の曲を中心にしてやってくる。やはり、ロイヤルなファンがつくのは音楽性にこだわった時期なのだ。

となると、ヒカルは、例えば売れなくなったらやめるのかな。それは、どの程度だろうな、となる。In The Fleshの感じだとライブハウスツアーは心底楽しそうだったから、あの規模なら全然モチベーションに響かないようにみえた。ならば、日本では安泰である。余程のスキャンダルがない限り、知名度は落ちない。

安泰は、でも、モチベーションを下げるかもしれない。ミュージシャンは新しい刺激を求め続ける。寧ろ、モチベーションを保ち続けるには、スケールダウンであれスケールアップであれ、状況が変化し続ける事か。常なるチャレンジがモチベーションを維持すると考えると、その貪欲さに応え続けられるかどうかにかかってくる。

だから、ヒカルの場合、ただひたすら音楽性を追究するターンと、売れ線の曲を作るターンが、交互にやってくるのがいいのか。プログレッシブロックアーティストたちが40年かけて体験してきた一生を5年くらいに圧縮して繰り返す。密度が、濃い。

しかし、それすらもルーティンワークになってしまったらそれもまた"安泰"で、刺激が少なくなる。どこかでまた、新しい着想を得なければいけない。で、そのプロセスが延々続くなら、もうモチベーションの心配は要らない。心配は、こうやって消せるものになるからだ。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




日曜日にmiwaがヒカル特集をしてくれていた。NHK-FMの「ミューズ・ノート」ももう四代目のパーソナリティなのか。初代の島袋寛子がヒカルの曲を紹介してくれた時はSPEEDの方が先にブレイクしていただけあって尊敬はしているけれども同時代の人間を紹介している感じがしたが、miwaの場合は小学生の時にヒカルの歌を聴いたという事でかなり見上げるような感じ、伝説的な人なんだけど気が付いたらそんなに歳が離れている訳でもなかったわみたいな距離感でトークをしていた。

番組の内容はといえば、miwaのトークが稚拙というか、貰った資料台本をそのまま棒読みしてるだけ感が強く、あんた実はそんなにファンじゃないんじゃないのと思ったが、冒頭一曲目の"Automatic"を、よりにもよって「オートマ"チ"ック」と発音して紹介するのを聞いて、「あぁただこの子が天然なだけか、微笑ましーじゃねーか」と和んでしまった。よいなぁ。こういうボーっとした子に好かれているというのは、ヒカルが異常に才能に溢れた天才なだけに、嬉しくなってしまう。高度で高品質であっても、誰も騙してはいないのだ。その事の証明。嬉しい。にしてもパーソナリティとしてのマニュアル免許くらいは取れてから一時間番組のDJをするべきではあるけれど。今はせいぜいオートマチックの仮免程度か。

なんて言ってるけどmiwaはパーソナリティとして既にしっかりとしたキャリアがある。あのオールナイトニッポンでもDJを務めていた。しかも、あれは丁度3年前だが、生放送でFirst Loveを弾き語ってくれた事がある。嬉しくてしつこくRTしてしまったな。まぁ、喋りは拙くてもヒカルのファンである事には間違いがない。

それに、人気だって高い。それこそ今回のオリコンの「好きなアーティスト・ランキング」でもしっかりTop20にランクインしている。あのグループやあのバンドより上なのだ。かなりのものである。ヒカルを随分上に仰ぎ見ていた少女が今やそろそろ次の世代に影響を与えるような位置まで来ている。時は流れているのだな。

聴いているとついつい夜空に流れ星を探してしまうのがテイク5なのだが、定番のシングル曲がまだまだあるのを押しのけてmiwaは選曲してくれた。番組の最後に自身の楽曲をオンエアした事からもわかる通り、「ミューズノート」は本来、パーソナリティの歌姫のファンが聴く番組である。NHKらしく大体な構成で特集を組むとはいえ、「自分の好きなアーティスト(歌姫)に影響を与えた(昔の)アーティスト(歌姫)ってどんな感じだったんだろ?」という動機で聴くリスナーを対象とした1時間だ。したがって、ケイト・ブッシュを特集するならまず嵐が丘から入るように、宇多田ヒカルならオートマチックから、いやさAutomaticから入るのは正しい(なお、曲あけからはちゃんとオートマティックと発音しようとしていた。初期のヒカルのように英語発音でとはいかなかった)。そういう場所でテイク5をかけるのはかなりの冒険であるが、そこがこの番組のよさでもある。なんだかんだでパーソナリティなので、貰った資料を読み上げるだけでなくちゃんと自身の意
向も番組に反映されるのだ。いい事だ。

この番組は普通に毎週放送だが、では出張版として「宇多田ヒカルのミューズノート」が特別番組とし編成されたらどんな選曲になるかは楽しみである。「それ大体Kuma Power Hourや」という正しいツッコミはこの際スルーして考えると、もしかして案外難しいのかなとか思ってしまう。Groove Theoryから入るのも違うし、かといってマライアからはヒカルがどう思うか。万全の最適解としては「一曲目・藤圭子“面影平野”」で曲あけフェイドアウトに重ねてヒカルが一緒に歌っているという展開がいちばん熱かろう。したがってヒカルのミューズノートは「藤圭子特集」が相応しい。ただ、それでNHKの編成を通るのか、果たして藤圭子を“ミューズ”として認めてくれるのかという疑問は残る。いっその事、「今日は一日藤圭子三昧」のパーソナリティとしてヒカルを呼んじゃうのがいいかもしれない。本人による7時のニュースあけカバーライブ40分公演つきでな。あーまた505スタジオに行かなくっちゃだわぃ。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




オリコンの毎年恒例「好きなアーティストランキング」が発表されて、ヒカルは5位。アンケート方法にもよるけれど、活動休止5年でこの順位って人気が根強いにも程がある。その点については嬉しい限りだ。と同時に、これでいいのかという疑問もある。

ランキング上位Top20をみると、如何にも変わり映えしない面子だ。一応10代からアンケートをとっているようだが、割合はどれ位なのだろう。単純に考えて、そもそもオリコンランキングに興味を持っている層がこの10年間入れ替わらずにそのまま来てるんじゃないかと。同じ世代に訊ね続けたらそりゃ大体同じ面子になるか、と。

変わり映えの無さから、即ち、オリコンランキング自体がオワコンランキングだと断じざるを得なくなる。言いたい駄洒落を言い終えたのでこれで終わり、でもいいんだけど、如何に10代であろうとオリコンに興味を持ってる時点でかなりのマイノリティ、異端なんじゃないかと思われる。いや、上の世代でだってマイノリティだろうけれども。

そういう偏ったサンプルに基づいたランキングだと認識して読むべきだろう。にしても5位は出来過ぎなんじゃないの。周りをみたら今年も元気に活躍していた人ばかり。出来過ぎじゃの。

裏を返せば、ヒカルの支持層は「昔からオリコンランキングをチェックしているような」人たちの割合が多いのだ、とも言える。彼らに着実に支持をされるようにもっていくのがプロモーションの基本になるだろう。

でもそれはそれ、かな。音楽消費行動をとる人たちの中でオリコンに関心がある層がどれくらいなのか。本当にマイノリティであるのならそのつもりで取りかからねばならないだろう。

多分、支持層がいちばん被りそうなのはいきものがかりなんじゃないかと思うので彼女たちの前座でもやってあげれば…うーん、悪い冗談だが、取り込み方って結構難しいから何ともいえないのよね。ミスチルでさえ、ヒカルが前座だったらイヤだろうなぁ。誰得ここに極まれっり。(イタリア風語尾)


いずれにせよ、忘れ去られてはいない。それだけで十分だ。また大ヒットを飛ばすポテンシャルはある。寧ろ、これだけ待たれているのにヒットしなかったらヒカルの責任、みたいな風にすら捉えられるかもしれない。それはそれでイヤだねぇ。やっぱり今は喜んでおいて、普段は意識しない、という感じで進んでいけばいいのだろう。お待ちしておりますですよ。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




今日はイチローの誕生日か。42歳おめでとう。来年も期待しています。今年は、特に打撃は酷かったみたいだが、チーム最多出場選手になったのかな。彼の最も偉大な美点は技術や走力ではなく試合に出る事である。グラウンドに立たないと始まらない。当たり前中の当たり前だが、それを15年間メジャーリーグで、となると話が違う。最高峰かつ超長期間。スケールの違いは何気ない事をも異様にむつかしくさせる。

うさぎとかめではないのだが、愚直さもまた才能だ。少々センスに乏しかろうが才能に恵まれていなかろうが、出続けたら勝ちである。私はそういうのが好みだ。だって、まだ生きているんだからね。

例えば、たった今から私が死ぬまでヒカルが何の情報も与えてくれなかったら、私にとってヒカルはたった今死んだと位置付けても何も変わらない。「何の情報も与えてくれない」事態が非現実的だからなかなかピンと来ない話だが、本当に一切何も無ければ、そうなのだ。私が彼女の友達なら自分から連絡を取ってみればいいのだが、そうではないので。ので。

そういう意味で、出続けて貰いたい。なぁに、情報と情報の間の空白は何秒だろうが何年だろうが構わない。出て、引っ込んだら、またいつか出てきてくれればいい。

どうしても、作り手として、沈黙を守りたい時期がある。それはわかる。でも、ヒカルにそれは必須ではない。そのバランスはよくわからない。メッセの数を考えると、Distanceを作ってる最中でもメッセは頻繁であった。Deep Riverを作っている時に急に減った。EXODUSなんて5ヶ月何もなかった。

今思っても、あの5ヶ月がいちばん長い。この5年なんてそれに較べればどうという事もない。一応、夏場にDVDのリリースはあったのだが、録画を見直したみたいなライブレポを書いた私にはそんなに大きな事ではなかった。記憶の確認作業みたいなものだ。いや、それは確かに私個人の都合か…。

便りのないのはよい便り、なんてウソである。よくない便りでもいいから声を聞かせてと叫ぶのが人のワガママというものだ。内容なんて、どうでもいいのだから。カレーを零しただけの報告だって嬉しいものだ。


でも時代は変わった。ネット黎明期は、出来るだけ誤解されないように、丁寧に説明しようとするのが作法だった。今は、何を言っても揚げ足をとられるのだから、嫌われないように振る舞って、余計な事は喋らない。これでは、実生活、実社会と変わらない。市民権を手に入れると共に、失ったものは大きい。

またヒカルが言いたい事を言える、伝えたい事が伝えられる時と場所は生まれるのだろうか。そうなったら、(今と違って)遠慮無く言えるようになるよね、「早く更新してくんない?」って。

…今の時代の空気では。黙っているのが金だから、ワガママを言いづらいのだ。何かいい方法は、ないものかね…。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「まくらくま」は回文だ。

『まくらさんがいるよ』は度々メッセージにも登場したフレーズだ。くまちゃんとまくらさんはセット。ひかるからするとまくらさんは、己の肉体の形状をそのままふんわり受け止めてくれる存在。或いは死。確かに、それは棺かもしれない。くまちゃんにはブランドものの"棺"があるし何が何だかもー。

まくらで連想するのは「眠れ」という命令系。小さい頃のひかるにとっては、話し相手のひとつだったかもしれない。そういや、馴染んでしまったから感覚が麻痺してしまっているが、まくらのことを『まくらさん』と継承不略で言うのって、一般的だったっけ。ひかる以前は、覚えがないなぁ。

擬人化による存在の尊重。くまちゃんに至っては、おやすみとおはようを言う相手。絵本の中で、水面に向かってぼんじゅーるする名場面があるが、つまりくまちゃんの家には鏡が無い。まくらさんは、最初対話の相手だったのかもしれない。

眠る為だけの、或いは抱き付く為だけの道具。基本的には暖も凉もとれない。ふんわり。ふかふか。もふもふ。それだけ。

じゃあ、まくらさんの歌は、ないものか。さんづけされて、擬人化された。ぼくはくまの歌詞だって、そんなに明快な意味はない。ライバルがエビフライだという理由が「毛並みの色合い」だなんて、知らなきゃわからない。我々にも知らない情報がたくさんあってのあの詞だ。全部わかってしまってもつまらない。

ならば、まくらさんで幾ら私的な歌を披露しても、大丈夫ではないか。まくらもかまくらもあったかい、とか、まくらさんにうもれておさきまっくら、とか何でもいいじゃない。ある意味それも、ぼくはくまの立派な続編と言えるだろうて。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




櫓っていう字、「上に魚、下にお日様、左に木」だと見るとかなり奇天烈な景色だけど「上に魚座、下に太陽、左に木星」だと(宇宙から見れば)綺麗にハマる。物事見方次第という事か。

そんな枕は本文とは全く関係が無く。

この日記では常々「物語をくれ」「ストーリーが欲しい」と懇願してきた。余り自らの人生を意味づけたがらないヒカルの代わり(?)に、これにはこんな意義がある、ああすればこんな影響が考えられる、といった"物事の見方"を提案するのがこの日記の(私が課した)役割である。ヒカル自身がそういうのを嫌がるまではいかないまでも積極的ではないのは、例えば母との歩みの相似など「運命」としか言いようがない事柄が黙っていても人生についてくるからである。意義付けや物語りなど、敢えてする必要もないのである。寧ろ、もうこれ以上背負わせないでくれという気分なのではないか。

で。そう言ってる割に私は、インストを好んで聴く時期があったりする。歌詞があるとどうしても人がそこに物語や意義を付与してしまう。そのリアルさが煩わしくて器楽演奏に"逃げて"しまう事が、よくある。

器楽演奏自体には、それはそれで物語がある。構成と展開である。それを楽しみに聴いていると言ってもいい。純化された物語といおうか、物語性を付与したがる人間がそこに居ない感じが、"本当の物語"をそこに顕現させているように思うのだ。

もっとあっさりした表現を心掛けるか。熱闘甲子園て番組あるじゃん。高校野球の裏には、こんな人間模様がありました。それを知った上で試合を見ると、どうですこんなにも感動的でしょう。そんな番組じゃん。時々ああいうのを見て「ほんによう頑張ったんやねぇ」と感情移入して貰い泣きする事もあるけれど、タイミングによっては煩わしいと思う事もある訳よ。「そんなん知らんでも野球は楽しい!」て言いたくなる時があるんよ。球を投げる、打つ、走る、捕る、追い掛ける。それ自体が面白い。バック・グラウンド・ストーリーとか蛇足だよ!って。それが私がインストを聴きたくなった時の気分なんよ。


つまり、器楽演奏自体に(或いは、野球の試合自体に)既にドラマがあるのだから、それでいいでしょってこと。貴方がいつも欲しがっている物語やストーリーは、もうそこにあるでしょうと。


考えてみたら、音楽においてメロディーってものが既に小さな物語。音が来て、また次の音、次の音。その高低前後強弱こそ音符の紡ぎ出すストーリー。それさえあれば、それ以上のストーリーは必要ない。

そう思えれば、それ以上のストーリーも、例え必要がなくても楽しめる気分になるので、また詞のある歌の世界に戻って来れる。これ以上ないシンプルなストーリー=メロディーさえあれば、私は既に満足していて、でもそれ以上も楽しめる。悪くない。よい。

いい曲がそこにあれば、もう力む必要が無くなる。それがつまりヒカルが教えてくれた事だ。例えば桜流しのメロディーがあったから、EVAQの重く当て処無い世界観も難なく飲み込めた(私は零時に先に歌を聴いたのである)。多くの人が「破の続きはどうなったの!?」と物語欠乏症に陥っただろうが、私は平気だった。歌が混迷の予告として機能した、という面もあるにはあるが、やはり、『私たちの続きの足音』と歌われてしまっては、そして、映画のエンディングがその歌詞と足並みと歩調を揃えててしまっていては、納得する以外に自然な方法は無かったのである。Casshernもそうだが、歌が強すぎるともうそこから物語を与えてしまえるのだ。物語に助けられて歌に感動できる、というのとはまるで逆である。スケールの大きさが桁違いで、発想はそうして逆転される。

光の歌は強い。ならば無理に物語を求める必要はない。歌が生む物語について語ったらいいんだ。今の私は過去になく肩の力が抜けている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ