無意識日記
宇多田光 word:i_
 





ほんのさっきワタシがメッセンジャー(チャットね)で書いた文。

「去年のちょうど今頃だ。ときたふじおさん(日本昔話のナレーションのひと)によるBLUEの歌詞の朗読がついたバージョンがラジオで放送されたのだよ。」


で、ふと調べてみたら、
本当に“去年のちょうど今”だった(汗爆)


>> 2006年6月12日放送分「BayFMOn8(オンパチ)」


、、、だそうな。
もう時効だろうから(そ、そんなのあるのかっ!?)
聴いてない人の為に概要をメモしとくね。
このヴァージョンは、ヒカルが涙(と鼻水)を流して「いや~全然涙こぼれるんですけどっ(鼻水を啜りながら)」と漏らしたいわくつきの逸品なのだっ!

・総演奏時間(7:17) 内訳(常田 富士男パート2:04、普通に“BLUE”5:13)

*****

(ぼうや~よいこだねんねしな~♪(と、おなじみの歌をBGMに))

むかしむかし あるところに それは かわいい かわいい おんなのこが おってな
その おんなのこの なまえは ひかる ぴかぴかひかるのひかる
ひかるちゃんは いいうたをつくってはうたう おんなのこでな
そりゃあもう みんなが すきじゃった

(BGMフェイドアウト)

歌詞冒頭の「見慣れた」~「ブルーになってみただけ」まで朗読。(アルファベット除く)


“BLUE”(5:13)

*****


これを聴き終わったあとのヒカルの感想が凄い。ここまでいうか。


「いや~全然涙こぼれるんですけどっ(鼻水を啜りながら)」
「わたし、わたしもうダメ」
「え~ウソ、もう信じらんない!」
「ヤダ、これ同録もらわなきゃ」
「いや~すっごい感激。」(じんわりと)
「なんだろう、なんか、今までの、好きな歌手のショウを見に行って、ステージに上げられちゃって、1曲生で(目の前で?)歌われた人の気持ち・・・。」(随分と取り乱した感じ)
「こんなに、なんか、誰かのスター性に圧倒されたっていうか、なんか、、、」
「あ~~(搾り出すように)、この仕事やってて何て幸運なんだって(以後聞き取れずw)」
「あたしのもう、子供時代のいちばんの、いちばんの思い出を、もう~(感極まって笑い出すw)」
「このご恩をどうお返ししたら、、、うわ~ナンマンダ~ナンマンダ~」(壊れました(爆))
「(常田さんの朗読で聞いて)やばい今、自分の詞にぐっときちゃった(爆)」
「あたしが歌うより常田さんに詞を全部朗読してもらったほうがいいんじゃねーかな、と(笑)」(ぉぃぉぃ)
「今すごい脳内ホルモンがなんか、血圧とかなんか、不整脈が(以下略」(もはや意味不明(汗))
「オンパチありがとう!常田さんありがとう!!!」(異常に高い声で)



・・・もうこれを上回るテンションを生み出すにはフレディを生き返らせるくらいしかないんじゃないか
というくらいに感動・興奮しておりました。こんな感動的な放送が千葉県近辺でしか
聴けなかった、というのは非常に悔しいであります!(もう1年前のことなんだけど;)

このテンションを知っていれば、2005年12月7日のメッセ
気持ちがよくわかる、というものなんですよはい。
(放送があったのはこのメッセの半年後なんですけどねw)


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避難所で姐さんたちが「ULTRA BLUE」の収録インスト曲“Eclipse”について
議論しているので、板越え(?)ではあるが僕の見解も書いておこうかと思う。
明日の天啓にまわしてもよかったんだけど(笑)、まぁそこはきまぐれで。

まずはEclipseを辞書で引いてみる
次のようにある。一部省略割愛&編集。

1 食;(星の)掩蔽(えんぺい)
2 (一般に)光の消滅.
3 (地位・名声などの)失墜, (権勢などの)衰え

要は、日食(日蝕)とか月食(月蝕)とかのことで、
そこから2や3の意味が派生している訳である。
(ちな!みに蝕という字は虹という字同様、天の虫の仕業と考えられていた事に由来する。
 天の虫が星を食べてしまうというわけだ。
 蝕の訓読み“むしばむ”はそのまんま“虫が食む”からきている。)

3から逆に見ていこう。

3に失墜とか衰えとかあるが、
日本語に訳すときは大抵「没落」とか「斜陽」とかに近いニュアンスになるだろう。
陽が落ちるのと勢いが衰えるのを準えるのと同様、
日食によって陽が遮られるのを勢いの衰えに準えている。
「ULTRA BLUE」でも「どんぶらこっこ 世の中浮き沈みが激しいなぁ」(“Keep Tryin’”)とか
「この身はいつか滅びるものだから」(“This Is Love”)とか
「栄光なんて欲しくない」(“BLUE”)とか、
いわゆる“盛者必衰の理(ことわり)”を表現した歌詞は幾つも出てきているから、
(特に最後のBLUEの歌詞は逆説的で面白いと思う。余談。)
“Eclipse”に失墜や衰えの意味があることも視野に入っているかもしれない、とはいえるだろう。

次の2番、「光の消滅」ときいてピンときた方もいらっしゃるかもしれない。
Hikkiも私が以下に示すような考えを持ってただろうと思う。
そう僕が捉える理由はUBの前作「DEEP RIVER」にある。
こちらにもインストゥルメンタルのインタールード曲“Bridge”が収録されていた。
殆どの人はこの曲を、“FINAL DISTANCE”から“光”への
文字通り『橋渡し』と考えていたことと思う。それは勿論正しいのだが、
もうひとつ意味がある。ファンならご存知のとおり、Hikki自身は
このアルバムのことを(「ULTRA BLUE」を“画集”と喩えたのに対して)
“詩集”的な作品である、と表明している。いわば、彼女の歌が、詞が、ことばが、
大きな音楽の大河の流れに沿って流れてくるイメージである。
インスト曲ということはつまり、彼女の歌声が、ことばがない。
ことばがどんどん流れていく大河から一旦岸辺に上がり、
“河に掛けられた橋の上から”その流れを眺めているような、
そういうイメージが託されているわけだ。河から離れた橋の上にはことばの流れはないのだ。
「曲と曲の橋渡し」という意味と「大河の上に掛けられた橋」のダブルミーニングによって、
インスト曲に“Bridge(Interlude)”というタイトルがつけられている、と
そう私は解釈している。

これと同じ発想がUBにもある、といえば勘の鋭い読者の方ならピンときたかもしれない。
今度は、“画集”と喩えられた「ULTRA BLUE」アルバムのインスト曲なのだ。
青い空や青空、白いキャンバスという風に、この「ULTRA BLUE」、
“ことばの流れ”を重視した「DEEP RIVER」から一転
今度は大空の広がりを思わせるイメージが主体となったアルバムとなった。
大空というキャンバスにヒカルの歌声が様々な彩りを見せるような作品なのだ。
その大空から光が、“ヒカルの声”が失われた楽曲だから、この作品の
インスト曲には「Eclipse」という名前がつけられているのである。

ことばの流れから離れた河の上の橋「Bridge」と、
彩りの舞台である大空から光消え去った「Eclipse」。
共にラストのキングダムハーツのテーマソングの前に置かれたインスト曲、
名前の由来からして見事に対をなしているわけである。


最後に、1番の本来の意味である「日蝕・月蝕」について触れねばならない。
というより、ヒカルの一番の意図はここにあったのではないかと踏んでいる私だ。

その為には、もう一度「ULTRA BLUE」というアルバムの全体の楽曲構成について
振り返っておかなければならない。

まず、三宅プロデューサが設えたというアルバム全体の円環構造を踏まえる必要がある。
別に難しいことじゃなく、“Eclipse”から“Passion”を経て“This Is Love”へと
流れるように聴ける、という程度の話なのだが、その見事さは
“Opening(UtaDA)”~“Passion(United Version)”~“This Is Love”という
UTADA UNITED 2006のオープニングをDVDで(或いは生で)体験すれば明白だろう。
お陰様で発売当初は(実は今でもだったりするが)リピート再生にしっぱなしで
このアルバムを聴き終わるタイミングがまるで掴めなかった(掴めないで居る)私だ。

で、そのように“わっか”になっているアルバム構成を真ん中で取り仕切っているのが
アルバム中一番最初に出来上がった楽曲“COLORS”である。
これがアルバムの“ヘソ”となって、作品全体を見渡す格好となっている。
(いちおう、この日この日の天啓も参照のこと。)

以上2点「円環構造」と「COLORSが真ん中」を踏まえた上“Eclipse”の話だ。

秘密は、COLORSより前と後の楽曲の歌詞にある。

実は、この「ULTRA BLUE」アルバム、
“COLORS”より前にある楽曲は「夜から朝へ」という流れの内容の詞で、
“COLORS”より後にある楽曲は「朝昼から夜へ」という流れの内容の詞で、
それぞれ構成されている
のだ。
羅列してしまえば一目瞭然だろう。

まず前半である。夜から朝にかけての詞たち。

―― 夜と朝の狭間 ~ 次の瞬間 もう朝なの (“This Is Love”)
―― 十時のお笑い番組 仕事の疲れ癒しても ~ ちょっと遅刻した朝もここから
―― ~ 毎朝弱気めな素顔映す鏡 (“Keep Tryin’”)
―― 砂漠の夜明けがまぶたに映る ~ 遅かれ早かれ 光は届くぜ
―― どんなに長い夜でさえ 明けるはずよね? (さあね)  (“BLUE”)
―― ゆっくり過ごす日曜の朝だ (“日曜の朝”)
―― ピアノがまだ鳴ってるのに もう起きなきゃ (“Making Love”)

“誰かの願いが叶うころ”のみ昼夜の表現がない。
“小さな地球が回る”のを外から眺める曲だからだろう)
そして“COLORS”を挟んで後半だ。朝昼から夜に向かう内容となる。

―― 今夜ドウ? ~ おれたちの一夜漬けの魔術 (“One Night Magic fYM”)
―― 春の日差しが私を照らす ~ 今日という一日も最初から決まってたことなのか (“海路”)
―― 明日に備え出来る事もあるけど 早めに寝るよ、今日は (“WINGS”)
―― いつか結ばれるより 今夜一時間会いたい (“Be My Last”)


そして、ここから“Eclipse”を挟んで時間を超越した楽曲“Passion”を迎える。
これ以降また“This Is Love”に戻り夜から朝への流れが甦る。
繰り返す。前半は「夜~朝」であり、後半は「朝昼~夜」なのだ。

立ち返ってみよう。“Eclipse”とは日蝕・月蝕のことであり、
特に日蝕とは、日中太陽が覆い隠される現象を指す。
つまり、“Eclipse”によって、昼は夜へと変えられてしまう。
UB全体の円環構造の中で、まず“COLORS”で1回、
そしてもう1回、この“Eclipse”で昼夜が逆転するのである。
だから、この場所にあるインスト曲には
昼を夜へと変えてしまう「蝕」という名前が付けられているのだ。
 
宇多田ヒカルはこういうことまで踏まえてタイトルを考えている、、、



、、、んだと思う、たぶん。いや、きっと。(笑)




内容に関係のない追伸:
避難所は毎日見ているのだが、
あそこが一番いろんな考察が飛び交う活発なファンサイトになっている。
読んでいて楽しいし、そういう場所があるのは嬉しいのだが、
やっぱり匿名掲示板なのでなぜか悔しい。(笑)
ココの読者にも参加者は結構いるはずである。(ていうか何人かいらっしゃるw)
ここはやっぱり、ハンドルネームで書く掲示板でも、ああいう議論が
活発な雰囲気が欲しいなぁ、なんとかならんかなぁ、とついつい思ってしまう。
んで、気がついた。ていうか、気付いてた。
私がこまめにコメントにレスをつければそれで十分ココが活発な議論の場になるじゃないか。
今コメントに一切レスをしていないのは、私のワガママによるものだが(すいません)、
なんとか今月中にレスを再開したいと思ってます。
んだもんなので、皆さん、レスが始まった暁には、今まで以上に
好き勝手にコメント欄使ってやってくださいv 避難所は避難所で楽しんで(笑)、
ここはここでもっと楽しめる場所になったらな、って思います。なんとか頑張るぜっ。ぶいっv(^^)

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パットさんからの質問も締め切られそうだし、日記の訪問者数も落ち着いてきたことだし、そろそろ更新を再開しますかな。いや別にそれが理由で書いてなかったわけではないけれどね。

*****



ZABADAKの曲“遠い音楽”が好きだ。たくさん音楽をきいていると、そこに込められたいろんな感情と出くわす。激しさ落ち着き曲明るさ暗さ速さ遅さ長い曲短い曲低い音高い音実にさまざまだ。特に私個人は分け隔てなく偏りなく音楽をききたがるタイプで、いわば似非音楽グルメである。そして、グルメになればなるほど、好みの中心はシンプルさを極めたもの・ニュートラルネスを湛えたものに集約していく。たとえば私が好きな食べ物は何かと問われれば、結局白いご飯・おにぎり・おかゆ・お茶漬け雑炊、といった、毎日食べるさりげない主食を答えることになる。副食では豆腐なんかもたまらないね。お茶も好きだ。そう、私にとって、食における米や豆腐や茶にあたる存在が、ZABADAKの“遠い音楽”のスタイルになるのである。(他に似たスタイルの曲といえば“森とさかな”&“エピローグ”っていう大好きな2曲があるんだけど、それについてはまたの機会に)

この楽曲、とにかくありとあらゆることが淡々としている。無為に盛り上げるわけでもなく、妙に鬱々とするのでもなく、音がきて、次の音がきて、また次の音がきて、ある程度まとまったら終わる、といういわゆる「感動的」とか「刺激的」とかいう形容からは最も無縁なスタイル。テンポも中庸すぎるほど中庸、音も低くもなく高くもなく。アレンジもうるさすぎず静か過ぎず、メロディと、ちょっとの伴奏と、ひかえめなリズムで構成されている。しかし、私はこの曲を毎週のように聴く。

思うに、そういう「何の特徴もない」ものを魅力的にするのは、いちばんむずかしいのではないか。美味しいカレーを煮ようと思えば、たとえ安いお肉や見切り品の野菜であっても、とびっきりのスパイスやら調味料やらを取り揃え、手間をかけよりをかけ腕をふるい汗をぬぐい精魂込めて時間を費やせば結構美味しいものができあがる(と思う)。しかし、最高級のおかゆを炊こうと思ったなら、米・水・塩といった素材そのもので勝負するしかない(と思う)。刺激的に飾り立てることをすべてとっぱらって、特徴もなんにもなくなった真っ白なものを“美味しい”と思わせるためには、結局その一番難しいテーマを達成することが必要となろう。

“遠い音楽”は、そういう最高の素材なんだと思う。だから、音に静かな静かな自信が漲っていて、力む必要がどこにもない。ひたすら淡々としていて、盛り上がらず落ち込まず焦らず弛まず怠らず、音が音を呼び音と音とを紡ぎ合わせていくプロセスの中に時間の感覚と無時間の感覚の両方が生まれてゆく。音楽の音楽たる所以がここには表現されているのだ。原マスミ(ストレイシープでひつじのポーの声やってる人ねw)による歌詞もいい。そこで何が歌われているかというと、音楽について、である。なぜ歌を歌うのか。なぜ音を奏でるのか。そこに音楽があるからだ。なんだか登山家みたいなセリフだけどね。自然があっていきものがいて人がいてそこに人工がうまれて、その中に音楽が鳴っている。壮大なのに身近、身近なのに壮大なテーマを、やっぱりたいした抑揚もなく淡々と綴ってある。曲調にすんなりと合うテーマとことばの選り方だと思う。

なにより、そのバランス感覚が稀有に思える。さっきから私、この曲をどれだけ気に入っているかを書き綴りたいと思って筆を執っているわけだけど、いっこうに筆致が盛り上がらない。いつもの私の文章をご存知のかたなら、宇多田ヒカルの音楽を絶賛するときのあの熱情の渦の落し胤のような抑揚がすぐ思い浮かぶことかと思うけれど(たとえばこんな感じにね)、今回はそれができない。音を知っていれば知っているほど、自然とそうはならなくなってゆく。大袈裟につづろうと思えば思うほど、抑えようというきもちがはたらく。だからといって、つまらないと切り捨てるだなんてこともとてもできない。どちらにも傾けないのである。ただ、次の字を書きたい、この曲について語りたい、そう思うだけなのだ。こうして、見てのとおり文章の字数だけが増えていっている。妙に熱くなったり、斜に構えて冷めた目でみたり、ということが、この楽曲に対してはまるでできない。適度にユーモアの感覚も残し、けれどもどこかに真剣さもちゃんと備え、有機的になりすぎて流されることもなく、無機的になりすぎて硬直してしまうこともなく、音楽がそこにあって、それに耳を傾ける私がいて、こうやってそれについて語る私とそれを読んでくれるあなたがいて、そしてまた日が昇り日は沈み眠りについてまた朝を迎える。そんな「時の営み」がすんなりと封じ込められている。こういう感覚を、音楽に込めるのは、ひたすらにむつかしいと思うのだが、そんな力みはどこにもない。実に稀有な楽曲だ。今日こうやってこの日曜日にこの曲を聴いたのと同じように、また来週や再来週の日曜日には、この曲が聴きたくなって再生ボタンを私は押すのだろう。余計なことはそこにはない。音楽があって、聴く私、メロディを何気なく口ずさむ私がそこにいる。ただそれだけなのだ。そして、何よりそれが貴いことだと思う。また聴こう。常に私にそう思わせるたった4分42秒の奇跡的な音空間。それが、ZABADAKの“遠い音楽”という楽曲なのである。


宇多田ヒカルが最新作「ULTRA BLUE」において、彼女自身が一番聴くのが好きだといっているのが“日曜の朝”だ。このアルバムのバラエティ溢れ返る作風の中でも、ひときわ異彩を放つ、しかしちょっと前の彼女の作風を懐かしませるような、独特の立ち位置の楽曲だ。このアルバムの百花繚乱とすらいえる幅広い風味たちのなかで、なぜ彼女はこれを聴くのが一番好きなのだろう? それは僕が思うに(そして多くの人も思うだろうに)、この楽曲がニュートラルでフラットだからなんだと思う。私がZABADAKの“遠い音楽”に常々(というかたぶん、ここ数ヶ月なんだけどね)感じてた感覚と同じなわけだ。そういうバランスを彼女が自分自身で生み出しそれを音楽に込められた満足感、なにより、誰よりもいろんな風味の楽曲を生み出してきたおかげで――“Be My Last”で暗くなってみたり“Keep Tryin’”でみんなを応援してみたり、“Making Love”で愛の告白を爽やかなメロディに載せてみたり、もうとにかくいろいろである――「じゃあ結局私って、シンプルにいえばどういう人?」とふと疑問に思ってしまったときに、この“日曜の朝”という楽曲を聴いたら、彼女はふぅっと安心できるのではないか。様々な角度からにいろんな自分の横顔をひとつひとつの曲で描いていってその肖像画群で自らの周りを取り囲んでみたとき、真ん中にぽっかりできた穴に、この曲がちょうどすっぽり入るんじゃないか。そんな風に思うのだ。

歌詞を見ていても、そういうニュアンスがよく込められているように感じられる。「お祝いだ、お葬式だ ゆっくり過ごす日曜の朝だ」という一節は、僕にも特に印象深い。まるで、“This Is Love”や“Keep Tryin’”のような華やかな楽曲もある一方、“海路”や“Be My Last”のような鬱々とした深みのある楽曲もあるこの「ULTRA BLUE」という作品について象徴的に語っているかのように思うのだ。そしてその中に、このゆっくり過ごせる“日曜の朝”という楽曲も鎮座している。「締め切りとか打ち合わせとか やることがある方が僕は好きだ」と積極的な姿勢をふと見せたかと思いきや、次の行では「愛情に疲れたなら ひっそり眠るのもいいもんだ」と力の抜けたところも見せる。相反しているようで整合性が取れている、自分自身を多角的に表現しようとしたこのアルバムの中で、すんなりとした本音が語られている、という点では、この“日曜の朝”が一番なのだろう。だから、彼女はこの名曲ぞろいのアルバムの中からこの曲を選んで「いちばん好き」というのではないか。その“いちばん好き”という感覚は、他の12曲との比較の中で“こっちよりこっち、あっちよりそっち”という過程を経て選ばれた“1番目に好きな曲、2番目に好きな曲、3番目に好きな曲、、、”の中の1番目の楽曲なのではなくって、「13曲の中からどれか1曲選んでみせて」と訊かれたときに、すんなりと抵抗なく挙げられる楽曲・・・それが“日曜の朝”なんだ、という意味かと思う。多角的な魅力を常に発しているお陰で常にアイデンティティ・クライシス(“結局私ってどういう人間なの?”)と相対している宇多田ヒカルという存在、宇多田ヒカルという音楽の中で、いちばんひとつの楽曲の中でバランスと均整を保ち、さりげなく力みなくほんわかぼんやりと“軸”として佇んでいる、、そんな雰囲気を醸す珠玉の4分42秒の楽曲がこの“日曜の朝”なのだ。


、、、そう、お気づきだろうかな、ZABADAKの“遠い音楽”、宇多田ヒカルの“日曜の朝”、両者ともランニング・タイムが同じ4分42秒なのである。初めて知ったときは、ちょっとのけぞったよ。これに気がついたのは、「私からみて、冷たさや熱さや激しさや落ち着きや、そういった総てから等距離にある、フラットでニュートラルな魅力をもった音楽の代表格としてこの2曲をピックアップして比較するエントリを書こう」と思い、メディアプレイヤーに両方のMP3ファイルを入れて聴いたときだった。流石に、びっくりした。「偶然とはいえ、これはよい縁(よすが)だ。」と思い、このリラートのアイディアをずっと暖めてきたわけだけど、今日ようやくカタチにして日の目を見させた次第である。素敵な偶然の一致は、ひとを元気にしてくれるね。

この2曲、両者とも私はなぜか日曜日に聴きたくなる。“日曜の朝”なんかもうまさにタイトルからしてそのまんまなんだけど、それだけ曲調と歌詞のテーマが一致しているということなんだろうな。この、いろんなことが混ざり合った挙句にできるぽっかりとした静謐・・・ただ静かなのではない、いろんな動的なもの、さざめくものひしめくものせめぐものたちのどれからも等距離にあるような感覚・・・両方の歌詞において、これは共通しているな、と思わせるのがそれぞれ次の一節である。

----- 聞こえない ダイナモにかきけされ 人は何故 歌を手放したの (“遠い音楽”)
----- なぞなぞは解けないまま ずっとずっと魅力的だった (“日曜の朝”)

ここには、何か、失われて二度と戻らないものに対する郷愁とも諦念ともいわくいいがたい、達観めいた感覚が込められていると感じる。感情的にいきり立つこともなく、厭世的に眉をひそめるわけでもなく、ただ言葉が心に響き印象に残るこの感覚、私、たまらなくいとおしく感じます。そしてやっぱりまた、この2曲を聴きたくなって再生ボタンを押すのだった。まる。


*****


これを読んでくれているほぼ全員が、“日曜の朝”は知っているけれど、“遠い音楽”、及びZABADAKについてはよく知らない、というひとたちかと思う。彼らについては、Hironが専用エントリを作ってひかえめに(しかし熱くw)語ってくれているので、そちらを参照されたし。どうやら、20周年記念ベストに引き続いて、「Pieces Of The Moon」が廉価版再発になるようですね。同作の1曲目が“遠い音楽”なので、気になった方は(以下略(笑))。以上っ。


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コアなファンからは概ね大好評(どころか大絶賛か)のこの「ULTRA BLUE」、ふつーのファン、もしくはもっと一般人(ヘンな表現(笑))な人からの反応はどんな感じなのだろうか。

*****


・・・と思ったので、どうやったらいろんな「ライト・ファン」の意見がきけるかなぁ、とウェブを調べようとしたら、“はてなダイアリー”があるじゃないかということに気づいたので、それのリンクを張っておくのが得策、ということに相成りました。(笑)

はてなダイアリー 「ULTRA BLUE」

・・・↑これはパーマリンクなのかな? キーワード「ULTRA BLUE」でひっかかるはてなダイアリーのページを羅列してくれるんだけど(しかも随時更新)、やっぱり相当の注目度なのか、6月13日以降のヒットはかなりの数に上ります。

この“はてな”を使ってるユーザが執筆者、っていう時点で少々バイアスがかかっちゃってるだろうけど、一応、一般的な「ライト・ファン」からの声が集まってると考えても、差し支えないでしょう。

で、普段巡回してるヒカチュウBBS&ダイアリー/ブログの中での好みとの大きな違いは、「This Is Love」がCDで聴けるということへの期待感。ヒカチュウの中では「日曜の朝」あたりが一番人気っぽいんだけど、僕の知らないうちにどうやらTVでかなりな頻度で「FREEDOM/カップヌードル」のCFが流れていたらしく。大半のエントリが同曲への評価に触れていたのが印象的でした。

あとは当然、「期待はずれ」「昔のほうがよかった」というご意見もちゃんと拝聴できるのが、個々のはてなダイアリーのよいところ。(笑) こういうのも参考にしてファンサイト運営していきたいっすね。


しかし・・・やっぱり「海路」人気ないなぁ。(笑)


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なんだか、方々の板に感想を乱発してしまってるので(汗)、自分の日記で、ちゃんと少しずつまとめていけたらな、と。

***** *****

 とにかく、1時間弱、全く切れ目がない! 今までのアルバムの中で、「最も退屈な時間が少ない」作品だと思う。端から端まで、どこをとっても宇多田ヒカルの集中力の冴えが感じられる。それこそ、先日の「うにといくらの絵」じゃないけれど、どの音にも彼女の魂の跡が真摯に埋め込まれていて、その密度たるやフリーキーとすら形容したくなるほど。しかしながら、どの音も吟味に吟味を重ねまくって選びに選び抜かれた音が残っているので、重厚さを感じさせながらくどさやしつこさが相対的には少なく、聴後の印象は、必ずしも尾を引くような後味は残さない。全体的に柔和な音の使い方がうまく、本来ならシャープな輪郭を描こうとする様な旋律も、うまく“まるめこまれて”聴き手の耳に届くおかげでどれもオブラートに包まれたごとく、するっと心にまで響き届いてくる。自ら創造した音楽に対する自信がありつつ、それを押し付けがましくない形でどうやって聞き手に届けるか、それを熟慮した結果なのかもしれない。そういう世界観をあらかた通過したあとで、輪郭をまるめこんでいない「Be My Last」と「Passion」により、作品の大団円を迎える。最初入れておいた砂糖を徐々に減らしていけば、ブラックコーヒーもいつのまにか自然に飲めるようになる、とでもいったところか。もしかしたら、この曲順のおかげで、この2曲に対する評価は、シングル盤発売時より、格段にあがるかもしれない。まさに、「入り口は広く・出口は狭く」を体現した1時間の中でのサウンドメイキングの連続的変化と曲順になっていると思う。

***** *****

・・・少しずつ書いていこうっと。(笑) これで原稿用紙2枚弱かぁ・・・。所要時間約8分で・・・。

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 5月8日から解禁らしいので、今のうちに「30秒だけ」の現時点での感想や妄想などをつらつらと綴っておく。

 前のシングル「Keep Tryin’」を、宇多田ヒカルは雑誌「INVITATION」での対談記事で“パロディ・ソング”だと言い切った。巷間で言われている応援歌の手法を意図的に盛り込みまくった、というニュアンスだろうか。そのわりに茶化しているような嫌味がサウンドから全く感じられないのは、手法がどれだけパロディックであろうとペダンティックであろうと、歌詞の真剣さをはじめとして楽曲全体に集中力を行き渡らせ続けた結果だろうと思う。それを反映したのがPVの方向性だ。ドリーミィでポップな作風はインファンシー・スピリッツ満載なのだが、細部にまで凝り尽くした演出の徹底振りは瞠目に値した。パロディだと自虐的に自覚することで逆説的に全力を出し切れた、とでもいいたげな完成度だった。

 しかしそれはつまり、この「Keep Tryin’」という楽曲には宇多田ヒカル自身の直接的な表現によるエモーションが封じ込まれていないことの裏返しでもある。ここが一番難しいのだが、手法は非直接的でも、主張自体に嘘があるわけではない。わかりやすくいえば、これは腹話術なのだろう。コスプレや自身の過去のPVのパロディを一旦経由し、自らの作り出した偶像(アイドルである。私が先ず初めに喜んだのはここであった。)に思いを託し語らせる手法である。岩下光さんは本当に「がんばれ」と思っているのだが、それを直接的にいうのではなく、腹話術の人形に言わせているのである。思えば、コスチューム・プレイというのも自らの思いを託さんとするキャラクターになりきることで自らの感情を解放する手段であったのだから、この曲の映像表現としては実に妥当といえた。そういう心理的プロセスを経ての“直接的”な「がんばれ」応援歌であるから、これは「手法はパロディ/エモーションはリアル」という奇妙で重層的な楽曲となった。一筋縄ではいかな過ぎるが、私が嘗て「コインの裏の裏」といったのは、この重層性を指していた。暗喩の暗喩が直喩に移り変わる様子を比喩したものだったのだ。

 なぜこんなまわりくどいことをするのか。表層的には単純に「照れ隠し」だと思えばよい。宇多田ヒカルがかなりの照れ屋さんであることは周知の通りだ。しかしもっと切実な理由がある。それはひとえに、彼女は自らの成長に妥協したくないからなのだ。「Passion」のような、如何にもPopsになりづらい素材が自らの中に沸きあがってきても、その自分の才能から逃げずに、“音楽におけるポピュラリティ”と真摯に向かい合った結果があの独特の日本語詩を載せた「Passion ~single version~」に結実した。その真摯な姿勢の継続性は、「Keep Tryin’」の導入部に顕著である。あれは「Passion」のテーマメロディのパロディだからだ。あの精神を受け継ぎつつ「どポップ」な曲を創るにはどのような手法がいいか。根底に流れる自身の潜在的ポピュラリティへの希求と資質、それに「Be My Last」と「Passion」で学んだそれとは相反すると伺える超越的世界観、これを結び合わせる為に、日常的風景を一旦超越的視点で捉え直しもう一度日常的風景に立ち返る、という手法をとった。その結果があのドリーミィでスウィートなサウンドでありミュージックビデオだった、とみるとわかりやすい。結果、この楽曲は200万ダウンロードという数字を叩き出す。(5月2日の共和国掲示板への書き込みより/日経エンターテインメントからの情報だそうな) 多くのライト・ファンが「あの宇多田ヒカルが帰ってきた」とこの楽曲を受け入れてくれた。見事な新手法の成功である。

 ここで「立ち返る」と表現したが、帰ってくるのは実態ではなく虚像・腹話術の人形なのだ。「Passion~single version~」に於いては、超越的視点(「思い出せばはるかはるか」「未来はどこまでも」)から日常的視点(「冬に子供が生まれるそうだ」「年賀状は写真つきかな」)へ舞い戻る様子が生々しく捉えられていた。しかし、その手法はまさにそのとき「見つけたばかり」という感が強く、よくいえば新鮮、悪く言えば消化不良の感があった。それだけこの楽曲の骨格となる楽想の超越感が甚だしいかったからだろうが、ここで一旦「Keep Tryin’」を通過しその手法を隅々まで検討しその手中に収め、満を持して送り出してきたのがこの「This Is Love」なのではないだろうか。

 嘗てのエントリで私は、宇多田ヒカルの出すシングルは大きく分けて2種類ある、と指摘した。片方は「For You」や「誰かの願いが叶うころ」のような内向的で私的、つまり売る気のない路線と、「traveling」や「COLORS」のような外向的で公的、つまり売る気満々の路線である。PrivateとPublicという表現でもいいかもしれない。しかし、そのエントリでは触れなかったが、彼女のシングルにはもうひとつ、僕が「激情爆発系」と勝手に命名する(ちな!みに別段このネーミングは気に入っていない)路線の楽曲が、数は少ないものの必ずアルバムごとに1曲存在する。2ndシングルの「Movin’On Without You」、4thシングル「Addicted To You」、11thシングルの「Letters」、UtaDAの4thシングル「You Make Me Want To Be A Man」の4曲である。これらはどれも、女性ならではの感情の爆発、激しさを表現した曲であり、どれも突き刺さるように直接的なエモーションが印象的な楽曲だ。そして、宇多田ヒカルという女性の“カッコよさ”を最もわかりやすく教えてくれる作風でもある。当然、2006年の宇多田ヒカル4thアルバム「ULTRA BLUE」にも、この路線の楽曲が収録されるものと期待していた。そこに降って沸いたように飛び込んできたのがこの「This Is Love」の30秒だった。突き刺さるようなエモーション、ダイナミックなリズムの躍動、ひさびさにあの“カッコいい”宇多田ヒカルが還ってきたように思う。

 しかし、“自らの成長に決して妥協しない”彼女が新しく作り出した作品だ、もちろん従来のままであるはずがない。「Passion~single version~」で得た、超越的視点から日常的視点への推移で生まれてくる情熱的表現の創造過程を把握し直し、「Keep Tryin’」で習熟した腹話術の人形を操る傀儡師の手法の両方を見事に融合してこの「This Is Love」の楽曲は構成されている。(たった30秒だけの話だけどね)

 それにしても、この「激情爆発系」のメロディを“超越的視点で捉え直す”というのは、最も難易度の高い作業だったに違いない。もともとがこの系統の楽曲たちは自分でもどうしようもないような感情の滾りをメロディに託すことで生まれてきたものである。「Movin' On Without You」にみられた焦燥感、「You Make Me Want To Be A Man」に歌われるもどかしさなど、実に人間的、女性的で切実だ。これらの感情表現は時間の流れから隔離された超越的視点からは最も遠い位置にあるといえるのではないか。しかし、その二つをつなぐ糸口を宇多田ヒカルは「Passion~single version~」で垣間見たのだろう、この「This Is Love」のメロディの伝えるエモーションは、切実でありながら、且つ全体の音像の中での役割が異常なまでに明確である。躍動や叙情の配置が、音空間の中でダイナミックに拡散し収束していくさまは、今までの彼女の作品の中でも最も壮大な風景を描く。広大な大地と大空に挟まれて、非常に私的な恋愛模様が描かれる様は既にこれだけで1本の映画を見ているかのような錯覚すら覚える。歌詞と歌唱の視点は個人の目線であり、編曲は超越的視点からなされている。各々の音色が、まるでひとりひとりの登場人物を表現してるかのような存在感を示し、かつそれらが有機的に、ドラマティックに絡み合ってゆく。人の作ったパノラマが現実と区別がつかなくなってしまったような、ヴァーチャル・リアリティの究極はジャスト・リアリティだといわんばかりの大迫力だ。このたった30秒で判断するのは早計に過ぎるが、この堂々とした風格と威厳とスケール感を持ち、なのに私的な切なさと感情の機微をも併せ持った、今の宇多田ヒカルにしか作り得ないこの楽曲をニュー・アルバムのトップに持ってこられるとは素晴らしい。いやはや、やっぱりこの才女はタダモノではない。


 しかし、30秒聴いただけでこのインパクトなのだからフル・コーラスはどれほどのものになるだろう。こちらの膨らみ切った期待を受け止めてくれるだけの完成度になっているだろうか。不安と期待が溢れ返って止まらないが、彼女はいつも(少なくとも僕個人に対しては)期待を裏切ることなく、殆どの場合期待を大きく上回る上質な作品を作り続けてきてくれた。だから、今回もそれをたがえることはないと思う。これは、僕の自らの感情の漲りを抑え込んで為された冷静な判断だと信じているっ!

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