無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ステレオと"3D"を比較する時に最も忘れてはならないのは、我々が聴覚と視覚によって何をしているのか、という点だ。

今。議題に上っているのは「作品鑑賞」の話なのである。ここが肝心だ。何が「作品」として提示されているか。ここをまずはっきりさせる必要がある。非常にシンプルにそれは音楽と映画である。映画といってもTVドラマでもアニメでもよいんだが呼称としておさまりがいいから便宜上そう呼ぼう。

基本に立ち返る。聴覚と視覚。情報入力装置としての特徴はそれぞれどう違うか。

聴覚を司る「耳」は、我々人の場合頭部の左右に配置されている。回転座標でいえば180°反対側についている。一方、視覚を司る「目」は顔面前方に2つ左右に並んでついている。

耳は、左右それぞれの耳が180°(本来なら立体角で語るべき所だけどもね)の広角を担当できる為、基本的に周囲総ての音を拾える。言わば聴覚には"死角"がないのである。一方視覚は、前方のある一定の角度しか見えない。どれだけ頑張っても前方180°以上は見えない。後方180°はまるごと"死角"である。聴覚に死角なし視覚に死角あり、だ。瓜に爪あり爪に爪なしみたいだな。

後方の情報を得る為には、人は首を回さなければならない(他の生物―例えば哺乳動物でも馬などは左右に目がついている為視野が人間とはかなり異なる。昆虫類の複眼なと言い出せばキリがない)。耳にそんな事は必要ない。後ろを向いたら左右と前後が逆転した音が聞こえるだけである。

究極的には、適切なヘッドフォンを用いる事で人はあらゆる聴覚体験を"リアリティ100%"で味わう事が可能だ。(実際はそこに加えて外耳の形状に依存する情報処理も行われている為そう簡単には問屋が卸さないのだが)。つまり、音楽はサウンド・プロダクションを研ぎ澄ませれば研ぎ澄ませる程"リアリティ"の再現度、或いは表現度が高まっていく。音は音。何がどう鳴っていようが鼓膜に届ける時に適切な波形になっていればよい。

視覚はこうはいかない。どれだけ工夫を凝らしても、それが映画である限り空間的にはスクリーンという"枠"の外には出られないし、時間的にはカット割りは自由にならない。つまり受け手はやる事が制限される。リアリティを感じようとしても。

プラネタリウムのようなスクリーンを想像し、そこで"3D"映像を流せばよいのではないか、と閃く向きも在るだろう。しかし、そんな所に放り込まれたとして、我々はその一瞬々々、天球のどこをみればいいのかわからない。スクリーンが平面なのは、それは制限なのではないのである。我々受け手が「其処だけ観てればいいですよ」と言ってもらう"赦し"の為にあの「枠」は存在するのだ。視覚は、そうやって固定されねばならない。従って「映像作品」とは本質的に&不可避的に2Dにならざるを得ない。"飛び出す絵本"の21世紀バージョンである"3D"映画とは、結局の所どこまでいっても絵本でしかないのである。それが絵本として読まれようと思っている限り。


…あれ?こんな所で俺週と月跨ぐの? 大丈夫かいな…。

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ぶったぎったところをフォローしとくか。また完全に横道だけど。

音のステレオも映像の"3D"も"疑似"である事に変わりはない。ステレオは左右のスピーカーから等距離の位置に居ないと音のバランスは狂ってしまうし、"3D"も専用眼鏡が必要だったり真正面から鑑賞せねばならなかったりと制約が多い。そういった"制限下での効果"という点では同じである。

しかし、実際にその制限を満たした地点で鑑賞した時にそれぞれで感じられる"リアリティ"は随分違う。

ステレオの場合、上手く嵌ればまさに演奏会場に居る時とほぼ同じ音像が得られる。部屋に居ながらにして。しかし、"3D"ではそうはならない。理由は2つある。

まず、画面の大きさが有限である事だ。画面の枠から外は見えない。"3D"という奥行きの話をしていたのに詐欺みたいな話だが、そここそが視覚が聴覚と異なる点である。聴覚には方向性がない。基本的に2つの耳で360°全方位の音を捉えるからだ。後ろを向けば左右は逆転するが音自体は相変わらず聞こえるし何より"後ろを向いた事"も人間側が自然に計算に入れて情報を処理する為鳴らす音を変える必要はない。

しかし映像作品は違う。小さな画面という枠を首も動かさずじっと見据えるしかない。銀幕の大画面なら隅と隅を見やる為に首を多少動かすかもしれないが。もし、後ろを向いてしまったら何も見えない。ここが音と完全に違うところだ。ステレオを聞いている時に部屋で後ろを向いた時に聞こえてくるのは演奏会場で後ろを向いた時に聞こえてくる音とほぼ同じだが、部屋で"3D"映像を見ている時に後ろを向いたら真っ暗だ。つまり、そこで"リアリティ"の質がまるで違ってくる。

それが映像作品というものの本質であり、2Dか"3D"かによらず襲いかかる視覚体験の"リアリティ"の課題である。そこでもう一つの理由の話になる。それは"カット割り"の存在である。

映像作品では、カット毎に"視点"が切り替わる。部屋で後ろを向いても何も見えない代わりにカメラの方が動いてくれるのだ。そして、それは視聴者の意志によらない。映像監督の見せたいカットを我々は見るしかない。地味だが、とても本質的な点である。視覚体験のこの自由度の低さが、"リアリティ"から物事を遠ざけている。

大体匂ってきたかと思うが、リアリティの追求においては、聴覚作品と視覚作品の鑑賞方法の本質的な差異が重要なのだ。次回、になるかどうかはわからないが、またの機会にこの話の続きをしよう。

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何だか凄くニッチな話に終始してる気がするが、気にしない。

ステレオでなくては伝わらない事って何だろうか。

まず、モノラルで何が伝わってくるか。メロディーの美しさ。これはモノラルステレオほぼ関係ない。メロディーはどちらでも美しいままだ。リズムやグルーブ。これも、余程音像が混み合わなければ十二分に伝わってくる。音楽にノる為にはステレオは不可欠ではない。モノラルで十分だ。ハーモニー。音を複数重ねる訳だが、前に述べたように寧ろこれはモノラルの方がいい場合すらある。溶け合う魅力にステレオは必要ではない。アンサンブル。楽器の絡み合いだが、これも一つ一つの楽器のフレーズが拾い切れる程度の混み具合ならその良さはモノラルで大体伝わる。問題はないだろう。

つまり、音楽の基本的な要素、即ちメロディー・リズム・ハーモニーを表現する為にはモノラルは必ずしも必要ではない。しかし、では、ステレオを鳴らした瞬間に感じる"あの迫力"は何なのだろうか。恐らくそれは"リアリティ"なのだ。

つまり、"あたかもそこにバンドやオーケストラが居て演奏してくれているような"感覚。それは、モノラルではなかなか味わえない。ステレオでなくては伝わらない魅力、それはリアリティ、"LIVE感"なのだと言う事が出来る。

シンセサイザーミュージックのように総て打ち込みの場合に生じるモノラルとステレオの違いは何なのだろう。それは、自分がその作り出された"音の世界"の中に居るように感じられるかどうか、なんだと思う。演奏者が想定されていなくても、あの音がこっちで鳴っていてその音があっちで鳴っている、という状況が"世界"を作り出す。擬似的とはいえそれはやはり"リアリティ"と呼ぶべきものだろう。

そこが、昨今言われてきた「"3D"映像と従来の2D映像の違い」とは異なる点なのだ。普通に考えれば、2D映像とは音でいえばモノラル、"3D"映像とは音でいえばステレオで、音楽の世界でモノラルは姿を消し(少なくとも制作面では)ほぼ総ての音源がステレオかそれ以上(5.1ch等)で残されるようになったのに対し、映像の方は2Dから"3D"に移行していくようになったかといえばさにあらず。相変わらず、というか"3D"はかなり下火になってきていて従来の2Dを脅かすような雰囲気は今のところ、ない。

それはあクマで「今のところ」の話であって、もう少し長いスパンでみれば徐々に"3D"が普及していくだろう…という見方もあるかもしれないが、私の見立てでは「それはない」と断言できる。音楽がモノラルとステレオへ移行したように、2D映像が"3D"映像に移行していくとは到底考えられない。

…ここから先の話は長くなるので一旦切る。要点を先に述べておこう。復帰後の光は、もしかしたらMusic Video Producer、或いは映像作家として、あの素晴らしいGoodbye Happiness PVに続く映像作品に携わるかもしれない。宇多田光というクレジットで。その時に、どういった理念・哲学において映像の手法を選択するか、という点について掘り下げてみたい訳だ私は。"3D"映像に取り組むのもひとつのチャレンジとなるかもしれない。その時を夢想して、まずは音楽との対比から映像面の哲学を探っていきたい、と考えている。果たして"PV監督:宇多田光"のクレジットはGBHPV一回限りのものなのか、はたまた今後も継続していくのか。今から楽しみでしょうがないんです。だってGBHPVのあの素敵さを考えたら、ねぇ?

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モノラルだステレオだというのは、イヤフォンやヘッドフォン、または一式揃ったオーディオコンポーネントを利用した時に意識にのぼるもので、例えば昔でいえばラジカセからのステレオ、なんてのはそんなにモノラルとステレオの違いはない。とはいっても更に昔はラジカセもモノスピーカーで、ステレオスピーカーが出てきたときには「随分迫力のある音が出るもんだ」と感心したのだけれど、実際のラジカセ世代はそういうのも体験していないんじゃないかな。

そして今、音を聴く機会といえばテレビを観るかパソコンで聴くかという所に落ち着いていそうだ。テレビはまさに映像モニター主体の商品だから仕方がないとしても、パソコンの方は別に出力は視覚でも聴覚でもよいものだ。本来なら。しかし現実には、ディスプレイの性能はこの30年でこれでもかて進化し色数や画素数は飛躍的に進歩したのに、スピーカーはといえば売り場の隅の方にあるオーディオに特化したスタイル以外はしょぼいものだ。これは日本のパソコンに限った事ではなさそうで、全世界的な傾向だろうか。インターネットが世界中を席巻する中、その音声再生装置であるスピーカーは全くと言っていいほど進歩していない。多くの人がYoutube等で音楽に触れている中でこれは相当痛い事のように思える。人は、事実として、画質にはこだわるが音質にはこだわらないのだ。

実際、パソコンから出ている音声がモノラルなのかステレオなのかなんて、殆どの人が気にしていないんじゃないか。ノートパソコンなら尚更である。タブレットも今のところその点を前面に押し出してはきていない。

こういう"聴覚軽視"の文化は、そりゃ勿論パソコンはまず画面で文章をタイピングする所から始まっているからそもそもスタート時点では音声出力装置が必要なかった、という事情もあるだろうけれどそれ以上にミュージシャン側がIT技術を軽視してきた事の表れなのかもしれない。iPod & iTunes (Music) Storeだって本来なら音楽業界から出てくるべきシステムだが実際に打ち出したのはパソコンメーカーであるアップルだった。何か、ずっとこの業界はITに対して躓き続けている気がする。

そういう風に考えると、桜流しをDVDで発売したのは、実は音質面でいい事だったのではないか。CDで発売しても多くの人々はリッピングしてそれっきり、となりそうだがDVDならテレビで観て貰える為パソコン周りよりオーディオ環境が整っているかもしれない。聴き手に対峙を要求する重い作品なだけに、パソコンのちゃちな音質をある程度避けられたのなら、楽曲の本来の姿にとってよい事だったのではないか。尤も、そのDVDも、パソコンで再生して観ている人の方が多いのかもしれないけれど…。

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最近わざとモノラルで音楽を聴く、なんて話を前からしているが、慣れてくると「音楽って別にステレオでなくてもよいなぁ」と普通に思えるようになってきた。

そもそも、ステレオが主流というかポピュラーになってまだ半世紀も経っていない、というのが実状ではないか。有名どころではThe Beatlesがアルバムをモノラル盤とステレオ盤で出していたが、彼らの活躍していた60年代以降にステレオというスタイルが定着していった気がする。

当欄でも何度か取り上げてきた、「三宅Pは音を波の重なりのように捉え、ヒカルは音を風景のように捉える」という対比のルーツも、もしかしたらモノラルとステレオにあるのかもしれない、と思うようになってきた。

三宅Pがこどもの頃というのは、まだまだステレオが普及しきる前で、音楽を聴く時にはモノラルである事が多かったのではないか。最初のカルチャーショックが例えば先述のThe Beatlesだったりすれば、それはモノラルの音源だった可能性が高い。例えば黎明期のAMラジオでは、それぞれモノラル放送だったNHK第1とNHK第2を同時に鳴らせば、即ち、高価なラジオ受信機をわざわざ2台用意して周波数の異なる局を同時に受信して鳴らせばステレオになる、だなんて番組もあったらしい。ホントかどうかしらないが。それくらいステレオはまだまだレアで、かつ何らかの需要はあった。しかし三宅Pの幼少の頃はやはりモノラルが主流だったと考えていいのではないだろうか。

一方、ヒカルはといえば生まれた時からステレオに囲まれて育ってきた筈だ。何しろ元歌手と音楽プロデューサーに育てられ、宿題をスタジオでやる生活をしていたのだから。好むと好まざるとにかかわらず音楽は自然とステレオで耳に入ってきただろう。

モノラルとステレオで何が違うかといえば、音像の空間的な広がりである。モノラルだと、あらゆる楽器が一ヶ所にかたまって鳴っているように聞こえる。他方ステレオは、適切な位置(即ち左右のスピーカーから等距離の地点)で聴取すれば音像は立体的に、即ちいわゆる"楽器の定位"というものが定まる。右手にピアノ左手にチェロ、左奥にパーカッション右手前にアコーディオン、とかそういう"風景"がみえてくる。それがステレオだ。

つまり、三宅Pの小さい頃は、ヒカルのように音楽を風景で捉えたくてもそもそもそういう風に音が鳴っていなかったのである。そこで必然的に、音像を波の重なりのように捉える習慣がついた。ヒカルにとっては、最初っから音楽は空間的な定位を与えられて鳴っているものだったから自然と音を風景として捉えるようになったのだろう。2人の個性の違いも勿論あるかもしれないが、それ以上にこの"モノラル世代とステレオ世代"という年齢の違いが大きいのではないだろうか。

三宅Pといえば"ハーモニーの鬼"として有名だが、彼の嗜好もそういった音の原風景と強く結びついているように思う。特にボーカル・ハーモニーというのはそれぞれの声部が空間的にバラバラに位置していたのではいまいち美しくなりにくい(それを狙う場合もあるだろうが)。例えばアカペラグループがマイク一本だけを立てて五声部のハーモニーを奏でるなんて光景は見慣れているが、あれなんかはまさに"マイクは一本でいい"="モノラルでいい"ケースの典型だ。多声とは一ヶ所に綺麗に重なりあった時に美しさが増す。実際、モノラルで聴いていてもコーラス・ハーモニーの魅力というのはそんなに損なわれないものだ。一度聴いてみるといい。

三宅Pのコーラスハーモニーセンスというのは、そういった"音を波の重なり合い"とみて捉える方法論に基づいているのではないか。モノラルとステレオを聞き比べていて、そんな風に思った次第である。

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さて昨日は少し暴走してしまったので今日はほんの少しだけ軌道修正。

今のヒカルの支持者には政治的な匂いも宗教的な匂いもない。社会的に利用できる要素もないしカリスマとして持ち上げられる事もない。ただひたすらに圧倒的な知名度が残るのみ、と言ったら言い過ぎなのだが、ありていにいえば、世間的にはヒカルに起こる事は「他人事」である。少数の支持者たちだけが、その動向に注目している。

これは単純に、テレビに出ないからだ。もし秋元康プロジェクトの数々が現場だけで完結していたらここまで"疎まれて"いたのかどうか。テレビに顔を出し話題になるから疎ましいのだろう。一方ヒカルはテレビをそんなに使ってこなかった。各番組に高視聴率を振り撒いてはきたんだけれど。

最初の知るキッカケとしてテレビなどの全国的な巨大メディアは有効だ。しかし、一旦知ってしまったら、それ以降テレビを主戦場としない限り別に気にする必要はなくなる。本来、そこで何が起こっていても"他人事"で済ませればよい。

圧倒的な知名度と薄い支持基盤。果たして、桜流しはEVAQなしだとどれ位売れただろうか。

一度くらい、インディーズ的な展開をみてみたいものだがそれも無理な話か。つまり、大型タイアップもなく、テレビで広告を打つ事もなく…例えばネットで自前からの宣伝のみで新曲を発表したりライブツアーの告知をしたりして、どれくらいまでいけるか。最早、日本でそれを望むのは無理なんだろうか。

過去どれだけビッグでも、すぐに忘れ去られて売上が10分の1、100分の1になるひとたちだって在る。ヒカルは、どうなるのだろう。First LoveアルバムとSCv2の売上を比較すれば10分の1だろうが元が超巨大なだけに今でも十分にビッグ・アーティストだ。何より、実力に何の陰りもみられない。周りが放っておかない、、、今後アーティスト活動に復帰しても、忘れ去られるというのは難しい。

この、重心の高いほんわりとした感覚。確かに、活動規模というのは問題ではないかもしれない。フォロワー数の多さをみれば、不安を感じる場所を間違っているのかもしれない。にしても独特過ぎるのだ。言語化するのも難しい感覚。新しいのか古いのかもわからない。

とはいえ特に不満でもないからこのままでいくんだろうな。なぞなぞは解けないまま…。

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"居心地のよさ"。人は情報に接する時、その具体的な詳細を知りたい訳ではない。本当に知りたいのはその情報の価値加減の方である。

つまり、端的に言ってそれはいいことなのかわるいことなのか。今後その話が出た時に怒ればいいのか笑えばいいのか泣けばいいのか。冗談をいえばいいのかもっともらしい顔をした方がいいのか。本当に知りたいのはそちらの方である。何時何分いつどこで誰と誰がどう何をしたか、ではなく、それに対して「私はどう反応すればいいのか」を知りたいのである。

そして、そういった情報の価値加減を与える人は、名前を出さない方がいいのである。何故なら、もし名前が書いてあればそれは"その人の"価値判断であり、私の価値判断はまた別に作り出さなければならない。人は、それができない。面倒だったり能力がなかったりで。自分で考えたくないのである。その時、誰かの価値判断をインポートするのがいちばんラクだ。そしてその時、誰かが表明した価値判断に名前がついていなければ、それを読んだ"私"がその文章に共感した事にして"自分の意見"として取り入れられる。この心理の構造があるから匿名文化は根強い。新聞記事をみた時、いつどこで何があったかという情報の具体的な記述が記名原稿である一方、社説やコラムなどが匿名なのはこのカラクリを体現しているからである。無記名が生む"大衆意識"はこうやって敷衍する。つまり、2チャンネルまとめサイトの"偏向"はそれがまとめサイトである限り必ず増長していく。まとめサイトの特徴、アイデンティティと言っ
てもいい。そこでは、両論を満遍なく併記して「あなた自身の頭で考えてみてください」と放り投げるスタイルはウケが悪い。偏向は、読み手からの無意識な要請によって形作られる。それは、メディアが新聞雑誌からまとめサイトに移行しても変わらぬ匿名文化の"伝統"なのである。

一方、名前と顔を出して自分の意見を堂々と表明する人が重宝がられる。所謂"ご意見番"の存在だ。日曜の朝に故・大沢親分と張本勲が喝を入れるコーナーがウケたのは偶然でも何でもなく、一週間の情報を価値判断と共に頭に整理する際に、日曜日の緩んだ空気の中でご意見番に価値判断をインポートして貰うのは非常にラクでよいものなのだ。TBSがどこまで意図してあんなコーナーを作ったのかしらないが、非常によく出来ていたと思う。

匿名による価値判断との違いは、つまりこちらが議論に参加するかしないかだ。ご意見番に対して「ええこという」と頷いて終わり、という人間は議論なんてしない。信奉者を造って精神環境を整える。これが宗教の構造である。従ってそこにはご意見番のカリスマ性、顔と名前が重要になってくる。即ち神である。

匿名文化の方は大衆意識に基づいた"議論への参加"が基礎となる。そうやって醸成された思想は全体をうねりとなって覆い込む。人はそれを政治と呼び、1人々々は純化された数、"1票"へと転化してゆく。様々な政治制度が最終的に民主制に落ち着いていくのは偶然ではなく、情報の流通が保証されてゆく中では必然的な帰結なのである。それを妨げるには情報の統制が必要になるが、しかしそれすらも内在しているのが匿名文化の特徴だ。民主制が煮詰まってくると匿名のお化けによる独裁、即ち無責任の暴走が始まる。それをどうリセットするかで話は決まってくるのだ。

…前フリ話が長くなり過ぎたのでそろそろ打ち切ろうか悩み中。でもここ読んでるような人って案外こういう話って好きじゃない? どうなんだろうねぇ…?

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メディアとの付き合い方というのは、時代が下った今となっても相変わらず難しい。ヒカルが毎度憤ってきたように、人は何故か、自分が好きになった/信じている筈のミュージシャンやらアイドルやらの直接の発言より、何処の誰が書いたんだかわからない新聞や雑誌の記事の方を信じる。成る程これでは新聞に煽られて世論が戦争に傾く筈である…ってこれは逆の側面もある。新聞が大衆に迎合した結果戦争礼賛に至ったのかもしれない。当時の記事を文章として読むだけではどちらかはわからない。投書欄だって選別されているだろうし。

そういう意味では、この"伝統"は、新聞をはじめとしたメディアが、大衆側に阿ってくれるという"安心感"によって支えられているのかもしれない。特に、社説やコラムをはじめとした匿名記事の体裁は、読み手もまた匿名の"大衆の一部"としての側面を無意識裏に浮かび上がらせる。匿名同士の共犯関係である。そんな中で有名人たちは時に堂々と自分の名と顔を出して声明を出す。どちらが信用できるかではなく、匿名社会に生きる人間からすればそれは別世界の出来事なのだ。

そして、インターネットの登場によって匿名社会が意識化される。日本では2チャンネルが巨大になったが、それは新聞等との関係における匿名文化の正統的な後継者であったともいえる。ただ様子が違ったのは、発信側と受信側の数的非対称性だった。これは急速に是正されていき、すぐさま2チャンネルは様々な情報を虚実ない交ぜにして提供する新聞雑誌の代替者となった。今や、2ちゃんねるでニュースを知りそのニュースの反応を知り見知らぬ他の匿名と居酒屋談義に興じる風景は一部で日常茶飯事になっている。

しかしそこで今イニシアチブを取っているようにみえるのは2ちゃんねるの発言を編集したまとめサイトの方だ。これもまた匿名メディア文化の伝統で、殆どの人たちがまとめサイトの編集者の顔も名前も知らないだろう。まとめサイトが有用なのは、知りたい情報を得る為の手間暇が省けるからだが、それ以上に、内容が偏向しているからこそ注目を集めるのである。

まとめ元の実際のスレッドを覗きにいってみると、賛否両論様々な意見が飛び交っている事が多いが、まとめサイトではそれが綺麗に編集され、ある一定の方向性をもって読み手に提供される。その"居心地のよさ"こそがまとめサイトの人気の秘訣なのだが…なんだか話が込み入ってきたので続きはまたいつか。次回かどうかは、わからんねー。

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@utadahikaruからのツイートが途切れて1ヶ月が過ぎた。人間活動中だしそもそも期間限定の約束で始めたTwitterなんだから別に呟く義務なんてものはないけれど今回ばかりは体調不良で番組ひとつ飛ばしたんだし説明も兼ねて何か発言した方がいいんじゃね?というのが多分大方の意見だと思うのだが私の意見はちょっと違うかもしれない。今の時代、黙っておくのも一つの策だ。

この間から乙武洋匡氏が炎上している。要は「銀座に飯食いに行ったら店主の態度が気に入らなくて店名をツイートした」というだけの話なのだが氏は60万ものフォロワーがある為凄まじい影響力だったようだ。確かに本人も認めるように店名を呟くのは軽率な行為で褒められたものではないが、その後の火消しの為の釈明文もとてもマズい。いやはや、こんなていたらくでははるかぜちゃんに先生面し続けるのも難しいかも。

何が言いたいかといえば、今の時代、下手に発言すればどんどん揚げ足をとられて泥沼に入り込んでしまう、という話。@utadahikaruに至っては、フォロワー126万超え。氏の倍である。影響力は更にとんでもない。発言にはよくよく気をつける必要がある。

ただ、勿論うまく使えばメッセのみの頃より上々の効果をあげられる。メッセというのは、基本的にファンでなければアクセスしない空間だ。一般人は何で知るかといえばスポーツ紙とかを情報源としたWebニュースである。そこでは、メッセへのリンクも張られずお馴染みの「にじませた」攻撃で書いてない事を書かれる。ニュアンスも何もあったもんじゃない。しかも、殆どの人はその記事の本文すらみず見出しだけしかチェックしない。ヒカルの発言の伝達は、顔も名前もわからない記者の皆さんと大手ポータルサイトの担当者の皆さんの手にかかっている。正直、どうなるかわからない。

その点、Twitterは発言がそのまま受け手に伝わる。勿論それでも誤解や曲解は満載なのだが、ある程度までは自分の責任だと割り切れもする。こちらから127万近くのフォロワーにプッシュしているのだから。

だから、この特性をちゃんと頭に入れておく。裏を返せば、こちらから何も発言しなければ、みんなこちらを覗きにくるなんて事はしない。@utadahikaruからの各方へのメンションのRT数は普段のツイートとは一桁、或いは二桁違う。みんな、自分の所に来るツイートしか読まない(最近はそれすら読まない人が増えている)のだから、黙っていればみんな「こちらのことは忘れてくれる」のである。ここがポイントである。

最初はラジオが休止だというニュースを耳にして「本人からツイート来るかなー」と言っていた人たちも、次から次へと押し寄せてくる情報の波の中ではそんなちらっとしたニュースはすぐに忘れてしまう。一週間もすれば気にもとめなくなり、10日もすればすっかり忘れてしまうだろう。未だに気にしているのは直線ツイートやメッセを見に行くような熱心なファンだけだ。

そして、そんな熱心なファンは待つ事にすっかり慣れているし、何より心の優しい人たちばかりだ。大抵はヒカルが元気になるまでツイートもメッセも気長に待つし、仮に@utadahikaruへの不信感が募ったとしてもそんな事陰で言うだけで表立ってヒカルに聞こえるようには一生言わないだろう。そんなファンを獲得してきたのだから、フルスロットルで甘えておけばいい。他の誰あろう、宇多田ヒカル自身の努力で手に入れてきた真の財産なのだから。

私は残念ながらそんなに心優しいファンではないのでヒカルにも照實さんにも耳の痛い事を遠慮無く名指しで書き続けているが、まぁそんな人間は極少数派だし気に留めなくていいだろう。じっと黙ってやり過ごせばよい。それでも忘れてくれなかったファンは、ただヒカルが元気になるのを待っているだけで、特にややこしい説明なんか要らない。だってみんな貴女の事を心底信じてついて来ているのだから。

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照實さんのツイートは相変わらずだが要するに体調不良の時の自己診断は危なっかしい、という常識的な事を言っているに過ぎず、医者がそんな「診断」を下したかどうかは疑わしい。せいぜい、「油断は禁物ですね。少し体調がおかしいと思われたら早めの受診をお勧めします。」と言われた程度ではなかろうか。

バイアスという言葉が意味を持つのはそれで一定の集団単位に一定の傾向をもたらす場合に限られる。ある人は過敏に反応しある人は鈍感で反応せず、という状況ではそれはただの個々人の個性に過ぎない。つまり、今の場合は宇多田光が自身の体調に対してどうみる傾向があるかという話に限定すればよく、正常性バイアス云々といった一般性を持ち込むのは無意味である。なので、安心バイアスという造語を造った照實さんはある意味正しい。光にはそういう独特の傾向がある、という事を暗に示唆しているのだから。

とはいえ、再三指摘しているように、今回の1件に限っていえばそんなに大きな被害が出ている訳でもなく、果たしてこれを教訓にして何を改善すればいいのか判然としない。扁桃腺に気をつける、と言っても元々年に数回発症するいわば持病のようなものだというし、いつか治るまで細々と付き合っていくしかないだろう。切除手術というテもあるが、メリットよりデメリットの方が期待値として大きくなりそうなので現実的に判断に踏み切るのは難しい。発症自体をどうやって抑えるか、は既に何年も前から医師にアドバイスを受けているだろうから今更だろう。最近大丈夫そうだったから対策を怠っていた、というならまた対策を再開すればいいだけの話だ。

もう一方の処方はこれも繰り返し書いてきた通りキャンセルを土壇場でなく早めに通知する事だ。流石にこれだけ"実績"を積み重ねてきてしまった以上、そうしないと言う訳にもいかないだろう。

こちら側の対処法でいちばん簡単なのは「慣れる」事である。あらゆる光の予定はいつドタキャンがあってもおかしくない。そうなったらそうなった時だと胸に刻んでおく事だ。というか、既に今回の時点でみんな慣れてる風だったようにもみえる。「またかー」と思った人は結構な数居そうだ。


ともあれ、今回は徳島の時のような経済的に大規模な影響を及ぼした訳ではないのが不幸中の幸いだ。将来そういった時に判断を見誤らない為のよいテストケースになった、と解釈しておけばよいのではなかろうか。

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思い出話。最初にWebで聴いた"Devil Inside"は、リミックス・ヴァージョンの方だった。しかし当時は情報が錯綜していて、私はそれをアルバム・ヴァージョンだと勘違いしていた。「おぉ、手堅い出来ではないか。まずは順調な滑り出しだな。」と結構余裕で構えていて、後日Officialで'真の'"Devil Inside"を聴いて、文字通り固まってしまった。マウスを持つ手が動かせなかった。何これ。衝撃。リミックスの方を先に聴いていて油断していたところへの見事な"不意打ち"だった。ここまで特別なミュージシャン(しかもまだ21歳!)を抱えておきながらまともなプロモーションを(以下いつものヤツなので略)

不意打ちといえば、Sanctuaryもまたこちらの油断をつかれた記憶がある。「まぁ、Passionは隅々まで聴き込んでいるし、サウンドはそれと同じな訳で。日本語が英語に変わるという事で光とSimple&Cleanみたいな感じかな~」と高を括っていたのに、いざ聴いてみたら滂沱の涙。何これ凄い。音楽にあそこまで"神々しさ"を感じさせて貰える瞬間は人生のうちでも数回あるかないかであろう、という程特別な体験だった。まさにタイトル通り、この曲はこの世界の"聖域"だったのだ。


何を言いたいかといえば、何なんだろうな。自分でもよくわからない。

多分、Utadaがとても好きだった、という事を言いたいのだ私は。英語で歌う光は、英語の歌を作る光には、何か特別で、何か特別なものがある。桁違い。天空の向こう。All of the Above. 言い方は何でもいいけれど。

冷静に指摘すれば、彼女の好きな音楽は9割5分以上英語で歌われているものばかりなのだから、彼女が自分の好きな音楽を自分で作る場合、英語の歌を載せたり中心にしたりするのがいちばん自然で、何よりも音楽そのものとの親和性が高いだろう。日本語の歌を書く時の孤高性(しかもあんまり後ろに誰もついてきていない)に較べ、今まで聴いてきた音楽を参照できるという意味でも、洋楽としての"UtaDA"の素晴らしさは、語るに余りある。事実、このblogで山のように語ってきたが、その魅力の千分の一も伝えられた気がしない。

そのキャリアが、今後どうなるか。Kuma Power Hourを通じて、少なくとも"洋楽リスナー"としての宇多田光のスタンス(というには自然体だが)は朧気ながらみえてきていると思いたい。

それは、例えば"アメリカ人として"英語で歌われるジョーク・ソングに爆笑したり、父から受け取った英語で歌われたレコードに母に似た匂いを感じ取ったり、その母の日本語の歌を英語圏の友人に聴かせたり、といった事だ。他にも、グラミーをとるようなメジャーなアルバムを"2012年のTop3"と位置付けたり、前から話題のスーパーグループの曲を冒頭に持ってきたり、といった"ちゃんとシーンの流れを把握しながら音楽を聴いている"事を伺わせる選曲も重要だし、"父に貰ったのは数年前だけど急に最近聴き出して"みたいな'自分の感情の流れに素直な'側面もしっかり備えている。様々なエレメントに支えられての選曲。これを参考にしながら次のUtaDAのサウンドを妄想し始めるともうニヤニヤが止まらない…ハズだったのだが御存知のようにもうこの名義では作品を発表しないのかもしれない訳だ。ちょっと、どころか凄まじく物凄く心の底から残念である。嘘偽り無く。泣く泣く諦めるしかない、のか。


Utada Hikaru名義で、どこまでいけるか。桜流しを聴く限り…いやいや、英語の曲創っても凄まじい事になるんじゃないの。何さっきの「諦める」発言。速攻撤回。名義なんて何でもいいや。すぐにでも光の英語曲が聴きたいぜ。

ただ、名義が違うという事は、だ。クオリティが低ければ私は安直に「UtaDAの頃はよかったなぁ」と呟けてしまう。これは痛い。幾つかの意味で。UtaDA時代。そう言い切れてしまう事が名義変更の功罪である。最大のライヴァルは過去の自分だ。それを明確にする為にも、いいことだったのかもしれないな。名前が喪われてしまうのも…。

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大体、テレビならCSやBSで再放送・リピートなんて当たり前だし、昔のドラマの再放送なんて帯番組でやってるじゃないか。ラジオでそれをやっていけない道理はないだろう。NHKFMなどは週2回同じ内容を放送するのが基本、という枠もあるし。熊泡やS&Sを再放送してはいけない訳がない。まぁ性質上ドラマとかとは意味が違ってきちゃうけどね。

でまぁ。何度も述べてきた通り、15年もやってりゃ体調不良で仕事キャンセルなんて往々にしてある訳で、ヒカルの場合も例外ではなく、またその回数が極端に多い訳ではない。ただ、いずれもドタキャンな為受け手側の期待が最高潮の時に突然消えてしまう為印象が強いだけだ。これを改善するだけで随分よくなるだろう。

ここで悩ましい事がある。以前同様野球で喩えるならば、ヒットを打つ為には必ず「試合に出て打席に立つ」事が必要不可欠なのだから、仮に4打席4三振に倒れようが監督が使ってくれる限り打席に立ち続けるべきだという考え方と、選手としての名を守る為にも万全の状態が整うまでしっかり休んでヒットが打てる状態になるまで試合に出ずに過ごす、という考え方の、両方がある訳だ。

今回の熊泡でいえば、少々クオリティが落ちてもいいから時間配分を削って、不慮の事態に備えて代替予備エピソードを予め一話用意しておこう、というのが前者、いやいや、1ヶ月に一話分の時間しかとれない以上そんな事はできない不慮の事態になったら潔く再放送で代替しよう、というのが後者だ。

どちらがいいのだろうか?

後者の考え方をする最大の理由としてひとつ考えられるのは"ブランドイメージの維持"である。観てる方の印象を下げる事は長期的展望からして得策ではない。つまり、安打数より打率重視という価値観だ。前者は打率より安打数重視。あの人ならやってくれるという期待を裏切らない為に何もやらない、と。

前者と後者の何れが望ましいか、というと本当に難しい。これは、生き方の問題である。作曲でいえば、玉石混交覚悟でコンスタントにリリースを続けるのと、一曲々々吟味して質が保証されるまでリリースしないというのと。ヒカルはどちらかというと後者かもしれない。意図してこうなってるのか、やってるうちに自然とこうなったのかはわからない。しかし、クリティカルな問題ではある。急病の為ラジオ番組キャンセル、という世間的にみれば「あら、そう」という程度の関心しかひかないような話題ではあるが、その対処方法の選択からも、みえてくるものはあるということだ。例によって、いつもの考え過ぎなんですけどね。

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で、その具体的な対処方法なのだが、色々考えた結果、今回の「前回分の再放送」が結局いちばんよかったのではないかという気がしてきた。これ、別に誰もマジに怒ってたりしなくね? 大体、ラジオ番組をわざわざその時間その周波数に合わせて聴こうなんてヤツは余程のファンなのであって、そういった人間たちは漏れなく「新しいのが聴けなかったのは残念だが、それよりも何よりもヒカルに早くよくなって欲しい」と思っているのではないか。穴埋めが再放送だった場合、じゃあもう一回聴くかと思うもよし、もう一回聴いたからいいやと思うもよし。CMも控えめにしか入らないのだから聴取率がそれで一回下がってもスポンサーから文句が来るなんてこたぁあるまい。

そもそも、ライブの当日キャンセルと違って、今回のep2ppによって実際の損害を被った人間なんてそうそう居ないのではないか。せいぜい、残業をキャンセルして早めに帰ってきたのに聴けなくて「残業代貰い損ねた」とか、塾を休んでスタンバイしてたのに聴けなくて「勉強が遅れた」とか、そんな程度だろう。いやそれはそれで本人たちからしてみたら切ないだろうが、やはりそこまでするファンともなればヒカルの体調をこそ気がかりであって、それで怒り出すとかあんまりなさそうな気がする。おとなしい人多いもんね…。

まぁ、なんだろ、怒ってるとすればピーター・バラカンさんで、新執行役員としての肝煎りで連れてきたDJが2回目でいきなり穴をあけたとあっては「顔に泥を塗られた」と憤っても不思議ではない。いやあの人実際はそんな事で怒りそうにないけども、礼儀と筋として彼をはじめとして今回の事態にあたってくださったInterFMの面々に対しては菓子折り持って謝りに行くべきだろうな。

しかしそんなこたぁ我々にはまるで関係がない。そっちで勝手にやってくれ。無料で垂れ流すラジオ番組がひとつキャンセルになるからって別に何という事はない、というのが平均的な感想だろう。

ただ、熊泡を聴くためにLismoWAVE等の有料サービスを利用している人たちは恨み節のひとつも吐きたくなるかもしれない。そこは存分に吐き出せばいい。@utadahikaruに向かってツイートしてやれ、お前のお陰で350円損したじゃないかと…

…って考える人間もこれまたあんまり居ないだろう。熊泡聴きたさに有料サービスに加入するとか熱心なファンにも程がある。そうなればやっぱり、冒頭に書いたようにヒカルの体調を気遣う方に気持ちがいくだろう。穴埋めが再放送だからどうの、までは考えないだろうて。

それに、第一回を聞き逃していた人々にはその再放送のアナウンスは朗報だったようだ。今回の放送でやっと初めて聴けた人たちがかなり居るのかと思うと、やはり再放送というのは良質な選択肢になるなぁ…。


無理に色々考えてはみたのだ。例えばトークなしでヒカル自作の自分の曲を使った「宇多田ミックス」を作るとか。なんかどっかで聴いた事あるな。そこまでいかなくても、例えば昔のLIVEの未発表音源を一部だけ、1時間分だけ流すとかでもいいだろう。Inter FMで流せる音源ないかな~。

その路線でいちばん秀逸なアイデアは、昨夜@Mikihhiがツイートしていた「Hikki's Sweet & Sourの音源を流す」である。98年秋から半年InterFMで放送されていたという15~16歳の宇多田ヒカルによるラジオ番組だ。これなら、我々は是非聴いてみたいし、ヒカル本人は恥ずかしくて恥ずかしくて「二度と番組に穴なんてあけてやんない」と決意を新たにするだろう。いいことづくめである。いやはや、これ以上秀逸なアイデアはないだろう。次の機会はどうですか?>Inter FMさん

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ミュージシャンの場合曲作りのプロセスそのものがセラピー(療法)たり得るという。ヒカルは人間活動中とはいえ、曲作りをしているのだろうか。精神構造上、作曲を仕事として生活の中で切り離して考えるのは多分、難しいだろう。

ep2ppについてのWeb上の反応は未読だが、普段のバ結リレーぶりからしてそうそう糾弾されているという事はないだろう。というか、何かみんな乙武さんの方行ってないか…ある意味ラッキーだった? いや不謹慎だなおまえ。

しかし、冷静に考えれば月一1時間の収録番組を当日に落とすだなんて常識でいえば有り得ない事だ。制作を総て1人で賄う中で扁桃腺等を患えば間に合わなくなる事態はあり得る。しかしそれなら何故放送まで半日もない中での発表になったのか? 「ギリギリまで放送を模索していた」のだろうが、それは"そちらの話"でしかない。それで間に合ったのなら貴方方は賭けに勝った事になるが、今回"事実"、貴方方は賭けに負けたのだ。掛け金は支払われなければならない。

しかも、これは前例のない事ではない。今までだってギリギリまで粘って失敗した例があった。その経験から学んでいない事になる。体調不良によるキャンセルをするなと言っているのではなく早めにキャンセルの判断を下して周囲への影響を最適化しろ、と先日から言っている訳だ。

兎も角、起こってしまった事は仕方がない。今後は、こういった事態を想定して事前に方策を練っておくべきだろう。ここから先は、理念・哲学の領域の話になるが、やはり穴を開けた時の対処法は予め用意しておかなければならない。漫画でいう「富樫先生急病の為急遽読み切り掲載」みたいな方法論を確立しておきたい。なんでそこ固有名詞なんだ。

次回はその方法論を具体的に考察してみるか。

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「Kuma Power Hour」の韻の踏み方についてもう少し具体的に。

「くま・ぱわー・あわー」と3語の語尾が総て"a"で揃えられているのはすぐにわかるかと思う。しかし、そこで留まっていてはいけない。

後ろの2語の語尾は「わー」と、母音"a"だけでなく子音"w"も同じである。今は平仮名で書いてるから同じ「わー」になっててすぐにわかるけど元は"power"と"hour"だからな。

で、だ。"w"という子音は少々特殊で、子音でありながら"二重母音"というものを構成する。一つの音を母音2つの組み合わせで発音するのだ。ひらがなで書いてみよう。"w"の音をもつひらがなは「わゐうゑを」である。「wa-wi-wu-we-wo」ね。これを母音2つの組み合わせで書くと「うぁ・うぃ・うぅ・うぇ・うぉ」となる。つまり、日本語のわ行の音というのは「う」+「ぁぃぅぇぉ」という2つの母音で出来ているのだ。

同様に"y"の音、即ち「やゆよ」も「いぁ・いぅ・いぉ」つまり「い」+「ぁぃぅぇぉ」の二重母音である。


ここまで書けば私が何を言いたいかは明らかだろう。
「くま・ぱわー・あわー」というのは、大袈裟に書けば「くぅまぁ・ぱうぁー・あうぁー」であり、つまりこれは3語とも語尾の母2つが「うぁー」で揃えられているのだ。「ぱわー」の「ぱ」や「あわー」の「あ」に惑わされてはいけないのである。


この韻の踏み方を踏襲して、「Kuma Power Hour with Utada Hikaru」冒頭に流れるヒカル渾身のジングルは構成されている。発音をよくよく聞けば大袈裟に「くぅま~・ぱぅわ~・あぅわ~」と言っているのが聞き取れるだろう。この韻によって生まれるリズム感がポイントである。

そのリズムを引き継いで「76.1 InterFM」を挟んで「with Utada Hikaru」となる。これによって「くぅま・ぱぅわ・あぅわ・うた~だ」の流れが完成する。「Utada」の母音も、みてのとおり「う-あ-あ」の形なのだ。

それを強調するためのディレイド・エコーもまた凝っている。もしかしたらこれエコーをかけながら左右にパンさせてないか? そういう所にも全力で仕掛けをしてきそうだからヒカルは油断ならない。「渾身のオープニング・テーマ」と自負するだけの事はあるな。


…という感じで、冒頭の「Kuma Power Hour 76.1 InterFM with Utada Hikaru」のジングルをもう一度聴き直してみては如何だろうか。多分、そのまままたAtoms For Peaceを聴いて…気が付いたら1時間経っていた、なんて事になるんじゃないかな。何度聴いてもいいもんだねぇこの番組ってばよ。

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