無意識日記
宇多田光 word:i_
 



「わぁい、ヒカルの生の声が聞けるぅ!」としっかりシンプルに喜んだ上で言わせて貰えれば。

サブい。何なんだこのノリは。

随分と姐さんとして慕われてきたのにここに来てパイセンかよ。なんだよそれ「ちょっとお時間よろしいですか?」じゃねぇんだよまったくよ。


えぇっと。

新曲2曲がシリアスで格調高いもんだから相変わらずの親しみやすい空気を作ろうって算段だろうが、そうやって繕えば繕うほどやっぱり重いのかなと思ってしまう。明るい人にも色々あるが、ヒカルの持つ明るさはそのまま影の濃さでしかない。ウチのように毎日ジメジメした日記を書いているような人間の方が、案外何も背負っていないものだ。ヒカルは、重い。

それはそれとして。早速沖田さんが幾つか質問をしてヒカルが答えてくれたので素直にそれを見ていく事にしよう。

生楽器が増えた理由。端的に言えば「コミュ障が改善されたので」となる。まぁ本当にそうなのだろうが、何というのだろう、人とコミュニケーションを取るのが苦手だったというよりは、専門用語を含め“ミュージシャンとのコミュニケーションの仕方”を学んだ、という至ってストレートな話な気もする。性格の改善より知識と経験。あと、機械を使ってもテンポや音程は幾らでもズラせるし、予想外の事だって起きる。ただ、人間がやった方が何百倍も早い。人の人生を借りてくるのだから当然だ。

で、この流れだといつか「バンドを組もう」という話になりそうだ。ヒカルの事だから「どう?私とバンドをクマない?」と誘う事だろう。バンド名は「LIGHT(E)NING BEARS」、
「ひかるくま」で決まりだな。いや決まるなよ。ちゃんと考えてくれよそこは。

声が変わったか。『妊娠をきっかけに前より健康的な生活習慣も身についt』待て。妊娠したの一昨年の夏とかだろ。2014年。それまで4年間近くあって生活習慣改善しとらへんだんかい。ちゃんとやりなはれや。やはり子育て恐るべし。ヒカルが健康的な生活習慣を手に入れるとは。ありがとうダヌパ。君のお陰でヒカルが健康だ。何よりも欲しいものを君はくれた。まだ0歳児なのに既に大きな大きな一仕事。君はもう既に大物だよ。

あ、でもいちばんの理由はヒカルの言う通りミキシングの違いだと思います。ヴォーカルの解像度がぶっちぎりで過去最高です。凄い腕。いいエンジニアを雇ったものだ。

好きな歌詞の一行。2曲とも多分、私当てられなかった一行を持ってこられた。なんか、作詞者をちゃんと理解できてない感が半端じゃないんだが敢えて気にしない、気にしないぞぉ。そんなの気にしはじめたらこんな日記一筆も書けなくなってしまうからな。


こうしてる間にも次々ヒカルパイセン宛ての質問や相談が舞い込んできているのだろうか。返信貰えると、嬉しいもんだぞ。ただ、経験者として言わせてもらえれば、ヒカルパイセンに質問して本気で答えて貰いたい人は、予めリツイートとハートのメール通知をオフにしとけ。またたクマに何百とリツイートされるから。まぢで気をつけて下さいなっと。

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「とと姉ちゃん」第21回では結局松竹騒動は長谷川が原因て事で決着してた。包装紙問題に触れれる尺はなかったようだが、そういう所が気になり始めると視聴者が離れる。もうちょっと丁寧に作り込みたいところ。

ピエール瀧についても、竹客謝罪に激怒するのであれば予め「弁当作りには没頭するが商いには疎い」風なエピソードがひとつ欲しかったな。それがないとただ怒鳴り散らすおっさんでしかなく視聴者が感情移入しづらい。という訳で、常子が森田屋に気に入られるという大枠の意図は掴めたが全体的に雑なせいでいまひとつ感情移入しづらい。このままだと視聴率は落ちるだろうがそれも、前に触れた通り想定の範囲内なのでのんびり構えておく事にしよう。

でもいちばんの問題はあれだ。シベリア食ってた時の白い息問題。ぼーっと見てたのでぼんやり冬かなと思ってたよ。編入試験前だから夏なのか。脚本や演出については才能の問題だが、これは対処できるだろ。氷食えとは言わないが、こういう所が雑だと積み重なる。小さいうちに摘み取っておきましょう。

ただ、役者陣の芝居はなかなかに堅実で好印象。そういった粗をある程度カバー出来ている。大地真央のマンガみたいな存在感も意図的だろう。還暦なんだって。恐ろしい。


いい息抜き(笑)。


さて前回のエントリーは我ながら詰め込み過ぎた。数千本日記を書いてきたが密度としてはトップクラス、というか概略を伝えたいがために細部は端折りまくった。意味がわからない、という読者も在りそうだ。私だってそうだもの。これから敗戦処理として勝てぬ戦に身を焦がし続けようと思う。焦土作戦だな。

いちばんきがかりなのは旧世紀版エヴァンゲリオンのネタバレである「綾波レイは碇ユイのクローン」の部分をあっさり書いちゃった事である。よかったのかな。ここで初めて知った人が居るとしたら、大変申し訳ない。ごめんなさい。これ、今世紀版では活きてる設定かどうかも定かではない。なにしろレイちゃんシンジにぽかぽかしちゃってるからな。アスカは暴力的にポカポカしてて、しかし名字が違っていたりして。まだ終わっていない物語に対してどう向き合うかは難しいが、『真夏の通り雨』の解釈が成立すれば恐らく、両世紀のエヴァンゲリオンを総括する事は一気に容易くなる。同作に興味のある方は是非同曲の歌詞を読み込んでうただきたい。きっと新しい発見が、あることだろう。

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読みたくない人は読まないで下さい。




…ほんとに、いいの?




諦めた。やっぱ無理だ。手強過ぎて手に負えない。『真夏の通り雨』。私はもう、若くない。

本当ならちゃんと解読した上で書きたかった日記をもう書いちゃう。自力で読み解きたい人はここでブラウザのバック・ボタンを押そう。


『真夏の通り雨』は、娘が愛する母を喪う物語であると共に不倫の歌でもある。というか、私にとっては最初不倫の歌だった。だって真っ先にNEWS ZEROで聴けたフレーズが『誰かに手を伸ばし あなたに思い馳せる時』だったんだもの。ここまで聴いた時点で「おぉ、こっちは不倫の歌か。抱かれてる時に他の男の事を思い浮かべるだなんて背徳的だな。」と解釈した。つまり、実際の不倫というより精神的不倫だな。過ちは起こしていないけれど心ここにあらず、みたいな。スタートの解釈はそこだった。

で、NEWS ZEROの時点で『自由になる自由がある 立ち尽くす見送り人の影』まで行ったから、「あぁ、この歌は桜流しの続きで、大切な人を喪う歌なんだな。自由になる自由とは自ら死ぬ事だろうからそのままお母さんの事かな」となったのだ。そういう順番であった。

果たして、フルコーラスで聴くと、隅から隅までヒカルのお母さんに対する思いが溢れていてもうその時点の表現力だけで異次元なのだが、それとともに幾らかの描写が艶やかともとれるところもあった。『汗ばんだ私をそっと抱き寄せて たくさんの初めてを深く刻んだ』だなんて、やはり『幸せになろう』を書いた人ならではの筆運びだなと。『深く』は『Deep River』の『Deep』かなと思ったり。

もしヒカルが、この歌全体をダブル・ミーニングに仕立て上げたならそれだけで既に驚異的である。母への想いを100%綴り、その上恋の歌にも聞こえるとは。キャンクリをはじめとした「2つの横顔を持つ歌」の中でもぶっちぎりの最高傑作である。それだけで既に。

例えば、有名所だと、古くで申し訳ないが、RCサクセションの「雨上がりの夜空に」などは、車に乗る事とセックスのダブルミーニングで歌詞を作った古典であり、ヒカルもその日本の伝統(?)に倣って『traveling』を書いている。あんなエロい歌が年間2位の超特大ヒットとか日本人どうかしてる。

その2曲は結構コミカルにダブルミーニングを描いているが、『真夏の通り雨』はどちらの横顔を眺めてもシリアスなドラマだ。もう既に格が違う。

この時点でこの曲は常軌を逸しているが、本当の神髄はそこからの話だ。

思うにヒカルは、喪失と不倫の物語を重ね合わせる事で人の「愛」の誕生と変遷を描こうとしたのではないか。それは、庵野秀明がエヴァンゲリオンで20年以上かけても描き切れなかった、人の根源的なテーマだ。

エヴァンゲリオン最大の発明は「綾波レイ」である碇ゲンドウの妻にしてシンジの母ユイのクローンである彼女はシンジの同級生として現れ、アスカと共にシンジの恋の相手として描かれる。

人の愛の形の原初形態は親子愛だ。そこから人は愛を知り、思春期(14歳)の頃には異性や同性に恋をし愛を自ら育む事を知る。その過程を解明するのは心理学の主要なテーマだが、エヴァンゲリオンは綾波レイを発明する事でそのプロセスをグロテスクなまでに表現しきろうとした。何十時間のアニメーションを何万時間の手間暇をかけて作る事で。

それを、エヴァンゲリオンのテーマを、ヒカルはたった5分あまりの歌に封じ込めようとしたのではないか。



だとしたら、だとしたら余りにも野心的だ。もうレベルが違うなんてもんじゃない。文学的な価値と言うのさえ憚られる。寧ろ人類にとってそれは文学の次のステップへの足がかりとなるだろう。桁が違う。次元が異なる。住んでいる宇宙が別だ。



そこが「そうなっている」事を、歌詞を分析する事で明らかにしたかったんだが、無理だ。手強過ぎて手に負えない。ギブアップします。そぃで、今もう結論書いちゃったけど、そこに至れはしないんだけど、兎に角ここからは私に見えた範囲だけでもつぶさに書いていく事にしますね。敗戦処理だって人の大事な営みなんですよ、ええ。

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もう第21回の放送が2回終わった時点で第20回の放送を書くなど。

最大の問題(?)は、なぜ松と竹で仕出しの包装を変えなかったのか。第21回でフォローがあればいいんだが、尺的に入んないかな。

まず、見栄の問題があるだろう。大口顧客なら(今回も一軒で60個とかな)仕入れる時点で御近所さんの目にとまる。そこで「まぁあそこのお宅は松なのね」「ああ、竹なんだ」と察されるのは何かと体裁が悪い。外側からぱっと見で松か竹かわからないようにしておいて欲しいところだ。

それなら仕出し屋にだけわかる程度の小さな印をつけておくとか。今度は手間暇の問題となる。包装紙を2つ用意するとなると結構なコストがかかる。現代でもBlurayとDVDで同じパッケージを使う企業がある位なので(買う時間違えそうだからやめておくれ)、手作業中心の当時でも切り詰めたければ包装紙を一つに統一したい。なら例えばその後から松と竹のハンコを押すなどすればいい、という事になるが、数百個に判子押すのはかなりの手間だし、やっぱりそれだと松竹の区別がついてしまうリスクが出る。それに、判子を押す時点で間違えていたらどうしようもない。となると、結局、どの方法も、劇中にやっていたように大きな紙を置いておくのとリスク的には変わりないのでいちばん手間取らないやり方を選ぶ事に…

屁理屈。(笑)

こんな余計な事考えなきゃいけないエピソードはおいらならボツにしたいところだがまだ話の途中なので第21話を観てからにする。もう観た皆さんは如何だったでしょーか。



…ふむ。そのうち「とと姉ちゃん」ブログになりそうだからとやってみているが、長続きしないなこれは。歌について語れる事が山ほどあるのに悠長にやってる場合じゃない。しかし、今回は兎に角沢山ポイントがあるのでどうにもたじろいでいるところ。こうやって朝ドラの話をして息抜きできるのは、有り難いのでした。また語りますわ。

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「名曲だっ!」と膝を打って絶賛する事が出来たらどんなに楽か。どうにも、凄すぎて評価を着地させる事が出来ない。歌と向き合う度に心から言葉がベリベリと剥がされてどこかに行ってしまう。この歌は言葉で出来ているのに言葉を拒絶するのだ。もう、手に負えない。

『真夏の通り雨』に対して『花束を君に』が助けになればいいのだが、聴けば聴く程この2曲は表裏一体で、分かち難く背を合わせている。助けを乞おうにも、すぐに力を合わせて強くなってしまう。するりとすり抜ける。

ひとつひとつの言葉を拾っていきたい。同じ旋律を各場所でどのように歌い分けているか解説したい。でも、それをしてもますます遠ざかる気がする。黙って聴けという事だろうか。ならばハッシュタグなんか使わない。サイトに歌詞掲載したりしない。語れ、と言っている。今の私には騙る事しか出来ない。


考え過ぎ、と一蹴するのもいいだろう。形態はどうであれ、これはポピュラー・ミュージックなのだ。何も考えずに聴けるのがいちばんである。それに、歌だけで伝わらない事を伝えられてもそれは歌の力ではない。なんでもない、のだ。

しかし、歌について、ヒカルの意図が知りたいと思うなら、語るべきだ。しかし、言葉ではもう包めない。詞の化け物である。

『若葉』は初夏の事かな、真夏より前だという時系列の説明かな、はたまた新しく生まれた幼子の手をとって、この子の顔を母に見せたかったと涙ぐんでいるのかな、そうかそうかと書くのか。年下の男の子の事だと解釈したら、だとか、バリエーションだって出せる。そういう話じゃない。そういう話じゃない。

言葉の限界を見ている。詞と詩の世界において、この威を上回るには世界自身と繋がるしかない。

そういえばこの歌は世界と繋がっていない。ここにあるのは普遍や抽象ではないのだ。剥き出しの言葉がごろごろ石のように転がっていて、ひたすらにその存在を否定出来ないのである。

『桜流し』と聴き比べれば、如何にあの曲が室内楽的な、守られた美に根差していたかを痛感する。ごろごろと、言葉が転がっている。そしてそのまま触れろと。私の気が触れているというのに。

『月日巡る』とは、螺旋のように季節が一巡して、しかし我々は決して同じ場所に居るのではないと伝えている。若葉に、木々に。『開いたばかりの花が散るのを「今年も早いね」と残念そうに見ていたあなたはとてもきれいだった』。この歌詞は2012年以前に書かれたものだ。決して2013年の夏より後ではない。そうもなる、のだ。総ては繋がっている。なのに、言葉はごろごろ、ごろごろと転がっている。私はその重い重い石ころを抱えるように、自らの頭を抱えたままだ。

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とと姉ちゃんの話をするとどうしても1日遅れになってしまうのだが、ハッシュタグを見ると夜11時組が結構な割合でいらっしゃるのでこれでいいような気がしてきた。

月曜日の第19回は新しい生活がドタバタ始まる様子を描いた回。早くも寺内一家だと揶揄されているが、カメラのアングルがそれなので仕方ない。狙い通りだな。隈井の申し出は如何にもご都合主義だが、今までの性格描写からすれば唐突でもないので許容範囲か。木村多江のお嬢様系おっとり演技にだいぶ騙されている感があるが。というか、君子の性格を把握する為の尺が足りていない為木村多江の演技力に頼らざるを得ないというのが実際のところ。秋野陽子(あの字出ないので旧表記)の老けメイクの馴染み具合をみれば、大地真央のあのコントみたいな白髪鬘がわざとである事がわかる。屈強のコメディ要因だすな。

んで、平岩紙さん? 難しい演技を難なくこなす様子をみるとキャスト的に一本釣りのような。或いは彼女がキャラクターを食ってしまったか、どっちだろう。ググったら大人計画の人で、さもありなん。昔どこかで見た事があるかもしるないが記憶にないが、“怪演”枠女優として期待ですわな。あと川栄可愛い。ピエール瀧は持ち味を出すとしたらこれからだろう。まずはステロタイプから無難に入った印象。

今週から更に喜劇的な展開に入る、と判断してよいのかな。主人公の格からして視聴率がなだらかに落ちていくのは避けられない。特に、「先が気になる展開」になっていない為ゴールデンウイークに行楽に出掛けている間にごそっと視聴者が離れるかもしれない。しかし、このドラマは話の大筋は把握できていなくてもその都度小ネタで笑わせてくれる(今回だと、秋野と瀧のやりとりとか)ので、なんだかんだで「テレビがついてたら見ちゃう」視聴者が一定数残りそうだ。視聴率は中空飛行で安定するだろう。

こういう空気だと、『花束を君に』の冒頭の歌詞『普段からメイクしない君が薄化粧した朝』は「お嬢さんの初デート」と解釈する方で聴いておけば小気味よい。人と別れるのも人と(出)会うのも日常である。そのどちらのエピソードも同じ歌で幕を開けるのが、なんとも、じんわりといいよね。第19回は月曜日という事で楽曲のエンディングまで聴かせてくれたが、これ土曜日の次回予告のバックに流してもいいんじゃないの。くどいか。


朝は朝ドラの話題。気が楽(笑)。

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手強い。『真夏の通り雨』は本当に手強い。

今まで何度も書いたしこれからも何度も書くだろうが、自分の人生で出会った日本語の「歌詞」の中でも紛れもなく最高傑作である。宇多田ヒカルの歴史上でも、最も歌詞に傾倒傾注した楽曲。歌詞に全振りである。

どれだけ手強いか。これほどまでに豊かな内容に触れておきながら、未だに実感を持って「自分が日本語を解する者でよかった。日本人でよかった。どうもありがとう。」と言い切れないのだ。勿論、自分の中にそのような気持ちは存在するし、事実たった今そう書いたばかりなのだが、気持ちが全く追い付いていないのだ一言で言えば、怖い。本当に、手強い。

正直、もう自分が生きてる間にこの歌の凄さを全部受け止め受け取れ受け入れ切れる自信が全く無い。もっと自分が若かったら、自分自信の容量を自らの成長と共に拡張していこうという気分も持てたかもしれないが、もうそんなエネルギーが自分に残っている感覚が無い。この歌を語るには、私は、力量不足であるばかりか、そもそも本来持つべき「自分の気持ちを表現し切れないもどかしさ」すら持ち切れない。スケールが大きすぎるのだこの歌は。

だが、「語る資格が無くとも語る」と宣言してここに居るので、足掻いてみよう。全く、あるべき語りに辿り着ける予感がしない。誰か他に、もっと若い適任が居てくれればよいのだが。居ないものか。

もう出来上がった歌。その解説をする事すら難易度が高過ぎて諦めなくてはならないほどなのに、ヒカルはこの歌を何も無いところからほぼ一人で作り上げ歌い切ったのだ。信じられない、という言葉にすら実感がこもらない。最早遠い星での出来事のようだ。


この歌の歌詞は、それだけで感傷的で、感情的で、構成があり、構築性があり、含蓄と機知があり、遣る瀬無さともどかしさがあり、美しさと禍々しさが同居し、野心に満ち、諦観を塗り越え、深みと広がりをかけあわせ、切なく、愛おしく、切り刻むように刺々としていて、泥のように優しい。恨みと怒りと自傷を乗り越え取り込み、美に涙し、美に包まれ美を包み、それでも零れる想いの数々に音で出来た生命(いのち)を与える。それは慈雨であり、のた打つ雨であり、ぬかるみに口づけして拭い去る悲しみの結晶だ。即ちそれは、荒々しき言葉の宝石である。

挑戦的な目線が、どこまでいっても見つからない。確実にその視線が私の背中に突き刺さり続けているのに。振り返っても闇しか見えない。

エヴァンゲリオンを「出汁」だとヒカルは言った。ならばこの歌は「泥」である。真実に生々しく、水と土で出来ていて、生命が蠢き、毒となって沼となって生命を外と内から奪っていく。止まない真夏の通り雨が形作る水溜まりは底無しの泥、泥、泥。沼の底の沼である。そこに生命は還りまた生命が生まれてくる。恋の真実と向き合った、えぐるような傑作だ。


これだけ書いても、遠くて大きくてまるで掴めない。悲しむ為の涙すら出て来ない。雨でも降って、私の涙の代わりをしてくれないかな。笑うしか、もう、ないじゃないのさ。

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とと姉ちゃんは第18回(先週の土曜日)にいきなり話が動いた。週末までに区切りをという事で詰め込んだのだろうがお陰で全体的に説明不足で脚本の意図が視聴者に伝わっているとは言い難い。しかし、プロット自体は大変面白い。家裏手の犬猿の仲宅に居候とはまるで80年代ドタバタラブコメみたいな舞台設定だ。その頃漫画を読んでいた世代が今30代40代なのだからマーケティング的には的中である。大地真央と片岡鶴太郎が出てきたお陰でシリアスからコメディまでぐっと可能性が広がった。今週は更に新キャラ投入のようなのでこのままシャキシャキと話を進めてうただきたい。

そういうコメディ的展開でも、『花束を君に』のメロディーはほっとさせてくれる。その気になればメイクも薄化粧も死化粧と思わなくて済むので、単に「新しい旅立ち」や「日常でのささやかな挑戦」という風に捉えて耳を傾ければよい。そういう意味で先週もぴったりだった。あんまり考え過ぎると深刻になるが、常に日常の中で常子たちはとととの約束と共に生きていると踏まえれば、『忘れぬ約束』の重みも、1日々々にちょっとずつ負っていくものだと実感できる。なんか、よく出来た歌だ。便利と言ってもいい。

取り敢えず、最後の3分の1しか知らないが、「あさが来た」にはまだまだ及ばない。主人公の華の違いというのがいちばん大きいが、やはりまだ男の子たちがかっこよくない(清は違う意味で大人気かもしれないが)。女性の物語たる朝の連続テレビ小説で、いわば“働く女性に都合のいい旦那”を卑屈にならず嫌みなく演じた玉木宏の威力は凄かったんだなと回顧。演技自体はギリギリだったがあの笑顔はズルいよね。「とと姉ちゃん」も女性陣は既に分厚いのでここから男性陣がどれだけ充実するか、だ。向井理の使い方が勿体無いと言わせなくなるところまで持っていけたら合格点だろう。

『花束を君に』を母と娘の死別の物語と捉えるならば、男子の陰がどこにもない歌になる。勿論物語の対応を考えれば父と娘なのだが、どうしてもそれだとメイクと薄化粧に違和感が残る。寧ろ、娘がメイクを始めた朝だとすれば相手としての男性を思い浮かべるのも可能になってくる(勿論相手が女性でもいいし寧ろそっちが私の大好物)。つまり、『花束を君に』を明るい歌だと捉える事で男性の顔が見えてくるようになり、それにつれてドラマ本編もコメディ色が濃くなるのではないか、つまり、このドラマは男性陣がコメディパートの肝を握っているのではないかという予想。今週の展開に期待です。

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照實さんまた呟いたのか。「多分、順調にいって夏過ぎくらいになる」、か。そんなもんだろうな。

ついつい、気が早いが、アルバムタイトルを考えてしまう。真夏を通り過ぎてしまうと『真夏の通り雨』はちと違うだろうかな。過去最高の歌詞を持つ金字塔的楽曲なので、タイトルトラックでも構わないが。『桜流し』はややEVAQのイメージが強く、そぐわないか。今のところ、曲名からなら『花束を君に』が無難だが、これだと初めての日本語タイトルのアルバムになる、か。助詞のあるタイトルも初めてだ。英語なら『This Is The One』が“文章”だけれども。

アルバムの作風から考えてみる。どんなアルバムになるだろう。

それを占う上で、という訳でもなかったのだが新曲2曲がリリースされてすぐさま次のトラックリストを作った。多分、この4曲、この曲順でトラックリストを作ったのは私だけではないはずだ。

1.嵐の女神
2.桜流し
3.真夏の通り雨
4.花束を君に

約20分だったかな。ちょっとしたミニアルバムだ。やはり、2~4曲目を繋げると『嵐の女神』を入れざるを得なかった。『お母さんに会いたい』歌詞の上でも、生音主体のサウンドメイキングの面でも。なお、「今聴くと『嵐の女神』の歌唱は雑に聞こえる」と書いたのは100%このトラックリストのせいである。あそこからどうやって歌が上手くなるんだ、と思っていたが本当に上手くなった。最上階無いんじゃないかこの階段の先には。

さて。この4曲をこの順で聴くと、本当にストーリーがあり、統一感があり、この延長線上に素晴らしいアルバムが待っている予感がしてくる。麗しい。

でも、だとしたら、『嵐の女神』を宇多田ヒカルの6枚目のオリジナルフルアルバムに収録すべきなのだろうか。『Single Collection Vol.2』に入っていたのに。しかし、『COLORS』の例があるから油断できない。音楽的必然性が強ければ、再録かどうかは兎も角、入れてくるのではないか。そして実際、強い。可能性はあるとみる。

もうひとつ、方法がある。流石に他の曲(Show Me Love, Goodbye Happiness, 愛のアンセム、Can't Wait 'Til Christmas)の手前、『嵐の女神』だけ特別扱いはできない、5曲入れたらそれこそ金返せと言われかねないし、無理だとなったら、『嵐の女神』をアルバムタイトルにするのはどうだろう。アルバムタイトル曲が収録されていない、他の作品に収録されている、という奇妙な状況。前例の無い話ではないから、有り得るといえば有り得るが、そういうわかりにくい事をヒカルが敢えてやってくるかというと厳しい。まぁそういう論理的可能性もあるよという程度に聞いといて。

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照實さん朝から何を呟いておるのだ。「いよいよアルバム制作も佳境に入ります。」とな。彼の日本語だと“佳境”は何を意味するか。本来なら「ええとこ」てくらいの意味なんだが彼の感覚からするとたぶん「終盤」だ。うぅむ、発売はいつになるのやら。流石に6月はない。7月頭や8月下旬に発売すると狙い過ぎだろうし、そもそも水曜日じゃないから無理か。いや、国際的には金曜発売かもしれぬが。その場合日本先行発売にするかな。

でも逆に、7月6日発売だと祝い方が控えめになって逆にいいかもしれない。最速の場合ここになるか。8月の方がきっと遥かに有名だからこちらは避ける方が無難だ。無難をよしとしないならば知らんっ。

そこらへんは「もう大体作業終わってますよ」という前提だ。9月10月あたりが現実的なラインか。TVガイドでの梶さん沖田さんの口ぶりだと今年中にアルバムが出るのは間違いないだろう。

前に指摘した通り、『花束を君に』と『真夏の通り雨』のCDシングルを発売しないのならば、とと姉ちゃんとNEWS ZEROでヒカルの歌声が流れている間にCDでアルバムを出してCD購入層のニーズに応えるべきだろう。特にドラマの主題歌はドラマの放送中にフルで所持できるか否かは大きいような気がする。こちらは普段テレビドラマを観る習慣がないので想像で言ってますが。逆に、アルバム曲を朝ドラ視聴者層に聴いてもらうチャンスだから、この機を逃す手はないだろう。


だなんて盛り上がってるが、ずっと先だったらどうしよう。12月発売とかね。でももしそうなったらなったで照實さんには、「あの時佳境に入ったって言いましたよね?」というツッコミに対して、上記の通り、「いや、あれって“ええとこ”まで来たって言いたかっただけで、まだ終わりまでは遠かったんだよ。」と正当な言い訳を繰り広げてあげてほしい。それはそれでいいから。

さて、心の準備ですね皆さん。
オリジナルフルアルバムとしては、8年ぶりになりますよ~。北京オリンピックから、ロンドンオリンピックを素通りして、今年はリオデジャネイロオリンピック。五輪二回分ですよ。長かった。どうなりますやら、今から楽しみでなりません。

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前々回は「世代交代」という書き方をしたが、事はそう単純ではない。この最初の2曲、『花束を君に』と『真夏の通り雨』が連れてくるオーディエンスは、タイアップの性質上、年齢層がかなり高い。普通世代交代というと若返りを指すが、今回の場合平均年齢が上がるかもしれない。

実際、この2曲は若い人には厳しいと思う。自分ですら、仮に14歳の時にこういう曲を聴いて気に入っていたかと言われたら確信が持てない。難しいというより、捉え所がないかもしれない。

難しい面もあるが、それは歌詞全体がダブル・ミーニングである点で、それは別に片方の意味の取り方を知っていれば十分に楽しめるのだから、いわば聴き込むマニアの為のマニアックな楽しみ方だ。それが本質でもあるのだが、なんだかんだ商業音楽なのでそこまで考えなくても楽しめるものでなくてはいけない。

あとは、毎度お馴染み文脈依存性である。我々はつい、2曲が母親へ向けた歌だと捉えがちだが、それは我々がバックグラウンドをよくよく知っているからそう受け取るだけであって、知らない人はそんな風にとらない。

と言ってはみるものの、現実に日本語を聴き取れて、かつ藤圭子と宇多田ヒカルの事を知らずに、尚且つこの2曲をフルコーラスで聴いた人は一体世の中に何人居るのか。かなり少ないのではないか。でも、だからこそ訊いてみたいものだ。何も知らなかったら、この2曲の与える印象はどのようになるか。知ってしまったらもう元には戻れない。

その点を、ヒカルがどう考えているのかも知りたいものだ。中には、ヒカルと藤圭子の関係性を知りつつも、お母さんについて歌っているという視座にまで及ばない、という人も居るだろう。こちらはかなり現実的だ。その点に気がついた時、見える景色がどのように変わったのか、教えて欲しい。

ポピュラー・ミュージックでは、聴き手が歌い手の物語を知っている前提で歌が歌われる事は多い。「伊代はまだ16だから~♪」とか何言ってんねんという感じだが、アイドルとしての彼女のストーリーを知っているなら感情移入できるだろう。いやもう30年前の曲なんですが。

ヒカルはあからさまではない。知っている人に伝える事がある、という程度か。でも、確かに、そんな事前知識、聴く前提なしにシンプルに楽しめる曲もあった方がいいかもしれない。そこはまた、アルバムのリリースまで待つがよろしかろう。

今のところは、いろんな事を読者が知っている前提で書いている。それなしでの楽しみ方とありでの楽しみ方と、明確に区別しながら書き進んでいこうかな。そういう意味では閉じたコンテンツなんだが、それでヒカルがよしとするなら、どうにか意味があるんだろう。ゆっくり探っていきましょうかねぇ。

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片岡鶴太郎と大地真央が加わって、途端に画面がコントっぽくなるかと思いきや、なんのなんの。カメラアングルは相変わらず好調で、広大なセットやロケ地を綺麗に切り取っている。夜の君子など見事なものだ。

第1回から思ってたが言うのを我慢してた。監督、絶対小津好きだろ。あー言えた。でもそんな年齢だっけ?

という感じで『花束を君に』は毎日画面から流れてくる。すっかり馴染んだという人も多いだろう。ここからだよね朝ドラの主題歌は。156回の刷り込みの威力たるや。ただ、そう簡単に口遊めないので、かなりの部分鼻歌でごまかさざるをえない。花歌だからちょうどいいってか。言うとる場合か。

最終盤になると『花束を君に』の『君』は君子の事を指したりするかもしれないな、とネタバレなんだかよくわからない事を書き記しておく。たぶん、これ書いた本人もその頃には書いた事を忘れているので、大丈夫だろう。

『花束を君に』のメロディー構成が基本的に2つのパートしかないのは、90秒或いは60秒の枠の中にひとまとまりの流れを封じ込める為で、恐らく、意図的だろう。『真夏の通り雨』のNEWS ZEROでの1分が(フルで聞いた今となっては)ブツ切り気味と思えるのとは対照的だ。流石に日曜日の一週間まとめにまでは気が回らなかったようだが。

こうやってみると、当初の印象より、更に更に歌とドラマが深く関連しあっているように思えてくる。今度はドラマの方で歌の歌詞を拾い上げてくれる展開があるかもしれない。EVAQがシンジとカヲルを一緒に寝させて『Beautiful World』の『君の側で眠らせて』の部分を拾い上げたように。引き続き、『花束を君に』を気に入っている人は、『とと姉ちゃん』も注目してあげて、くださいな。

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そして本文とタイトルは関係ない。羊頭狗肉(笑)。

でも気分的には関係あるかな。

前回触れた通り、と言っていいのかどうかわからないが、『花束を君に』と『真夏の通り雨』の2曲は、賛否両論というよりかは“聴き手を選ぶ”という言い方が当を得ているかもわからない。

ブランクとしては3年半、或いは5年だ。プロモーションの規模からするとSCv2に新曲が入っていたのを知らない層も居そうなので(でもNEXのCMくらいは目にしてるかな)、ことによると8年ぶりという層も一定数居るかも。なんだこの桃栗柿な感じ。

こうなるといきなり「ファンの世代交代」の話になりそうだ。「やっぱり宇多田は人活前だよな」と人をイラつかせる要素が3つくらい入った一言を書き捨てる年寄り&それを鵜呑みにする若い衆が、このままだと大量に出てくる。正直、新曲が気に入らなくて離れる、或いは一旦距離を置く人が出てくるのはある意味健全でよい事だ。ヒカルの曲調は幅広い。全曲気に入る方が稀である。それは、確かに気に入って貰えなくて残念ではあるものの、次への発憤材料になる"いい残念"だな。

厄介なのは、新しい曲をさほど気に入ってないのに離れない人の方だ。ヒカル自身は厄介だなんて1ブランク長程も思っていない、いつの曲であっても自分の作った曲を気に入って貰えるのは嬉し過ぎるもしできるなら一人々々駆け寄って堅い握手を交わしたいと思っているに違いない、ので、私が代わりに、じゃないな、思ってないんだから代わりじゃない、私が赤の他人として言い添え(てヒカルの機嫌を著しく損ね)ると、つまり、もう“今の”ヒカルに大して興味がないのだけど昔の曲は気に入ってるからとコンサートに彼らがやってきてショウ全体の雰囲気を盛り下げる可能性がある事が、懸念されるのだ。くどいようだが、ヒカルは1ピコプランク時間ほどもそんな事は思っていない。あクマで私が言ってる話。

チケットが余るようなコンサートならまだいい。客は1人でも多い方がいいのだから、極一部の昔の曲にだけでも興味を示してくれるなら。しかしソールドアウト公演となると話は違う。“今の”ヒカルが大好きなファンを蹴落として古参の、「大昔の曲以外はずっと地蔵」なファンがチケットをゲットする可能性が出てくる。いやさそういう人たちの方がチケットの取り方を知っている分、"可能性が高い"と言ってしまった方がいいかな。

どうにも、世代交代とはそういう悩みの種を運んでくる。解決法は二つ。昔からかのファンに気に入って貰える曲も(今)書くか、チケットをソールドアウトにしない事だ。結構単純。需要と供給の話だったな。

桜流しに3年半満足を与えられ続けた身としては新曲2曲はまさしく「その続きの足音」であり、沁み沁みとした感動が拭えないので、正直、離れていくファンとはリアルには共感できなくても納得はできる。反して、気に入らなくて「昔の方がよかった」と言い続けてる人に対しては遣る瀬無さと同情を禁じ得ない。もしかしたら、いつか自分もその立場になるかもしれないからね。次にヒカルが書く曲を“気に入れる”保証はどこにもない。その時潔く“一時離脱”を宣言出来ていなかったら、どうかどなたかこのエントリーを引っ張り出して私に見せてくださいな。厚かましいお願いです。

幸い、というべきか、今の私は今の新曲2曲への興味に飽き足らず、来るべき次の新曲、更にはそれらの集大成たるニューアルバムに対する期待で胸が胸がだ(なんだその表現)。桜流しから引いた延長戦がまるで万華鏡のようなカラフルさで辺りを満たしていく夢想に浸っている。気に入ってくれなかった人の相手をする暇も気もない。でもヒカルは、きっちりそこまで考えてくれてるから胸一杯にご安心を。


でもいちばんの僥倖は、今のところその「昔はよかった」と愚痴り続けて居座り続けるファンが1人もまだ視界に入っていない事、かな。そう、今回のエントリーの"主役の人(々)"は、私の妄想による全く架空の人物達なのでした。これからも現れない事を祈る。

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あら、新しい企画が立ち上がったのか。まだ詳しくは見てないので特に何もないが、父の日母の日のギフトに、被災地支援かな。抽選でアマゾンからくまグッズが届く、なんてことしたら両方へのサプライズになるんじゃないかな、とか考えてしまうが、詳細はまた。


未だにiTunes Storeでは『花束と君に』&『真夏の通り雨』がワンツーフィニッシュだ。梶さん嬉しいだろうな。でもヤフトピ記事の直リンクはやめておいた方が。コメント欄読まれたら面倒くさいよぉ。

こちらとしても開口一番「2曲とも売れねぇだろうなぁ」と言った手前、このまま配信が好調だったら予想を外す事になるな。

毎度難しいと思うのは、評価というもので最大多数派は常に「周りの雰囲気と顔色を窺う人たち」なので、何かの拍子で絶賛勢が有利な絶賛の嵐、酷評勢が優勢になったら袋叩き、という風に、情勢は極端に傾きがちだ。各々が自分の耳と心にしたがって好き嫌いを勝手に言えるところから始めないとどうしても、そうなる。

更に悪い事もある。先述のヤフトピの記事のコメント欄は、反応の大きいコメントほど上位に来るシステムだ。勿論時系列順など他のソートも出来るのだが、こういうのは初期設定でしかなく幾らでも変えられる事すら認知されないまま読まれるケースが大半で、小さな集団が頑張れば幾らでも偏った意見を上位に固める事が可能だ。一昔前は2ちゃんねるのまとめサイトが偏向していると話題になった。実際にコメントを抽出したスレッドでは様々な意見が渦巻いているのにまとめサイトでは非難一辺倒に、とかそういう具合。手法は異なるがヤフトピのコメント欄も同じ事になっている。歴史は繰り返す。

非難だらけなのは精神的に堪えるが、絶賛一辺倒もそれはそれで居心地が悪い。「それほどでもないと思う」とか「いやそれってやっぱり間違ってるよ」と素直に口に出せないのは辛い。皆がもつ興味がバラバラだから世の中成り立っている訳で、その多様性を失えば後は死ぬしかない。

特にヒカルの場合、同業者や識者で絶賛しない人は皆無な為、気軽に歌謡曲やPopsのひとつとして触れて「つまんないな」と思った人の居場所がなかなかない。その遣る瀬無さを拾ってくれる場所があれば、どうしてもそこに縋る事になる。しかし、それが肥大化した時に、ヒカルの音楽は残酷になる。もしかしたら、まだまだスケールアップの余地があるのかもしれない。そういった事ですら新しい成長の契機と捉えられるならば、ね。


音楽は実在する。それだけの事なんです。

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『真夏の通り雨』を聴いてると、「歌」って何だったか思い出すよね。枚数でも金額でも評判でも話題でもなく、歌は歌なんだと。


『桜流し』を中心にして聴く、というのは難しい事ではない。ただ感想に「『桜流し』と較べて」と付け加えるだけだ。やってみよう。

『花束を君に』は、『桜流し』に較べて、朗らかで優しく、包み込むようなあたたかさがある。アルバムの中でも「陽」の部分を担う曲になるだろう。歌詞にも『太陽』が出てくるし。ピアノと歌で始まって、やがてストリングスにベース&ドラムスが入ってきて盛り上がっていくのも『桜流し』と同様の構成である。しかし、歌メロの配置がやや異なる。『花束を君に』では、基本的にはメロディーが2つしかなく、それらが交互に押し寄せてきてそのバリエーションがどんどん豊かになっていくのが特徴である。最初に呈示した主題に帰還していく『桜流し』とは対照的である。


『真夏の通り雨』も、同じように見てみよう。これもまた、ピアノと歌から曲が始まる。タイトルのままに、『桜流し』と同じくピアノの音色は雨の音とイメージだ。やがてこちらもベースとドラムスが入ってくるが、こちらは楽曲を盛り上げるというより、楽曲全体の重心を下げる効果を齎している。これは、『桜流し』で第二主題たるベースラインが後半どんどん降下していく様と軌を一にしている。ストリングスが分厚くなり、ベースドラムのキックが淡々と打たれていくが、そこでは激情に身を窶すというよりは、どこまでも沈んでいって終わりのない感情の渦に飲み込まれていくかのようだ。

何よりも、『真夏の通り雨』の低音部のいちばんの特徴は、スネアドラムが一度も打たれない事である。「Kuma Power Hour」で“スネアドラム特集”があった時にヒカルが言った事を覚えているだろうか。「スネアが鳴り始めると、あぁ、曲が始まったんだなって感じになる」みたいな事を言っていた(書いてる私がよく覚えていないというね)。確かに、スネアがリズムを刻み始めたら我々は曲にノレる。裏を返せば、バスドラが打たれるにもかかわらずスネアドラムが一度も打たれない『桜流し』は、「始まってすらいない曲」であるともいえるのだ。

『真夏の通り雨』から『花束を君に』の順に聴くと、最初のサビが終わって『花束を君に…』と歌われたところで漸くスネアドラムが打たれる。この時の解放感、「始まったな」感は甚だしい。そこから『花束を君に』は様々な歌唱法を駆使しながらどんどん感情の機微を描いていく。ある意味、この2曲を連続で聴くと、『桜流し』が単独で齎してくれていたオーセンティックでダイナミックなドラマツルギーをより振り幅を広く聴かせてくれているようにも思えてくる。

となると、『真夏の通り雨』は『桜流し』から歌の中でも言葉と詞の美しさをより受け継いでいて、『花束を君に』の方は器楽演奏の齎すふくよかな感動の方を継承していり、ともいえる。『桜流し』から詞の『真夏の通り雨』、音の『花束を君に』の2つに分裂した、とでも言い換えようか。勿論、『真夏の通り雨』の音作りも素晴らしいし、『花束を君に』の歌詞が感動的なのはわざわざ言うまでもないのだけれど。


斯様に、『桜流し』を中心にして新曲2曲を聴くと、それぞれの楽曲としての特徴を網羅的に把握し易い。果たして、この3曲はアルバムの中でどんな風に輝いていくのか。今から聴くのが楽しみでならない。いつになるやらですけれどもー。

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