無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ヒカルのコンサートは毎回セットリストの新旧硬軟のバランスがいいのでそれを変えて欲しいとは思ってはいないが、一方で思考実験として「〇〇縛り」みたいなセットリストをよく妄想したりもする。

これだけ二十余年毎日かと思う程歌声を聴いていると、曲が有名か無名かというのも殆ど問題にならなくなってくる。どの曲も大体等しく慣れ親しんでいるのでその曲の個性以外の情報は消え失せるのだ。

そうなってくると、「マニアックな選曲」というのも特に響かない。シングル曲じゃないからどうというのが無くなると、自分が聴いてどうというよりは、コンサート会場で周りの皆さんがどう反応するかを楽しむ事も視野に入ってくる。

そう考えた時に、「シングル曲縛り」のセットリストでコンサートをやった場合1万人とか3万人とかの観客がどんな反応を示すのかというのは興味をひかれる。基本ヒカルはファンクラブをもたず純粋な抽選なので1万人も集めればそれは多様な客層になるだろう。有名な曲は幾つか知っているんだけど、という人達も相当来る。

となると、宇多田ヒカルという人は、その「有名な曲」だけで2時間半のセットリストを組めてしまうので、オーディエンスの反応は「次から次へと知ってる曲ばかり出てくる!」という風にになりやしないかという期待が持てる。一、二曲だけならまだしも、何曲歌ってもどれも知ってるとなったら、二時間かけて醸成されていく会場の雰囲気はどんなものになるだろうか? 妄想するに、「異様」の一言ではないかなぁ。

シンプルに『Single Collection Vol.1』と『Single Collection Vol.2』に収録されている歌をひたすら並べるだけでいいのだから、強い。ファンでなくてもどこかで耳にした事のある歌ばかりが目白押しなのだから。

最初述べた通り、(妄想の中で)居合わせるこちらは、シングル曲だらけだからといってマニアックさが薄くて物足りないなんてことは全く無く知名度に関わらずどの曲も楽しめる為あとは会場の雰囲気次第になる訳で、そうなると、その「シングル曲縛り」で作り出された「異様な雰囲気」みたいなものを味わいながらコンサートを楽しめたらちょっと面白いな、なんて風にちょっと変わった思考実験を楽しんでしまうのでした。いやはや、こういうのを「一周まわって」とか言うのだろうか。そう言えるのも、何の情報も付加されない状態で聴いてもどの曲も素晴らしいと感じられるように作詞作曲してきてくれたヒカルの力量のお陰である。いやぁ、本当に優れた音楽家ですねぇ。…当たり前過ぎる事も、こうやって何度も明らかに書くことが、いつでも大事なのでした。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




『COLORS』生誕から18年か〜。成人直後のシングルで今年38歳だからそりゃそうなるわな。なんだか「自分の生まれた西暦年に今の自分の年齢を足すとちょうど2021になる」みたいな当たり前の話だが、こういうのって言われてみるとそれはそれで違うもんで。大体、数学ってのは当たり前過ぎる事をいちいち敢えて言う(書く)事で違う世界が見えてくる分野でな。でなきゃ公理系定めた時点で全ての定理が見通せるのかと…って朝から何言ってんだ俺。


『CCLORS』は『ヒカルの5』以降、『UTADA UNITED 2006』『WILD LIFE 2010』『Laughter In The Dark Tour 2018』と宇多田ヒカル名義のコンサートでは必ず演奏される人気曲だ。だが、例えば同じく人気曲の『First Love』が極力そのイメージを崩さないようにスタジオ・バージョンに忠実に再現されるのとは対照的に、コンサート毎に大胆にアレンジを変えてくる曲であったりもする。

そうなっていった発端は、発売前に執り行われた『20代はイケイケ!』にあるとみる。ここでは生中継スタジオに大所帯な弦楽隊を迎えて『少年時代』『Simple & Clean』と共にこの『COLORS』が歌われたのだが、今考えるとCD発売前にオリジナルとは全く違うフルストリングスのバラードバージョンを披露していた訳で、えらい大胆な事しとったんやなぁと。ここでの好評を受けて『COLORS』はどう演奏しても大丈夫という印象を確立したのではないかな。

その後『ヒカルの5』では演奏編成の違いを活かしてドラムスとパーカッションのダブルリズムで会場を熱くし、『UTADA UNITED 2006』や『WILD LIFE 2010』では『20代はイケイケ!』に準じたストリングス編成でのバラード寄りのアレンジで熱唱を聴かせてくれた。

そして驚くべきは『Laughter In The Dark Tour 2018』のバージョンだった。一番AメロBメロをすっ飛ばし『traveling』からそのままメドレーでいきなりサビから突入するというかなり斬新なアレンジでインパクトを醸成した。小袋成彬がセットリストの素案を作ったということはこれも彼のアイデアだったのかもしれないが、やはり『COLORS』というのは「どうアレンジしても大丈夫」という楽曲の骨格の丈夫さに対する信頼感が根底にあったのだろうという気がしている。

もうここまで来ると、観に行く聴きに行く方も、「今回の『COLORS』はどんな風に料理されるんだろう?」という期待を胸にしてライブ会場に赴くようになるのではないか(毎度ながらそれが実際いつになるかわかったもんじゃないが)。まさにその名の通りその度々ごとに色とりどりに変化する虹色の魅力を放つ名曲だと言えるだろう。18歳の誕生日おめでとさん。こう書いて振り返ってみると、あんた胎児の頃からえらい大活躍だったんだなw

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




時々Utadaの作詞術が恋しくなる事があってな。いや私英語の歌詞は殆ど聴き取れないから(何しろ日本語の聞き取りもあやしい)、そこに紡がれるストーリーというよりかは、耳当たりの良さや語呂の良さみたいなのが。

日本語の歌の方ではなかなか発揮されてない才能なのよコレ。リズムやフロウに合わせて言葉を乗っけてくんだけど、ラップではなくって。具体的には『The Workout』や『Dirty Desire』みたいな曲ね。ダンサブルなビートに小気味よく言葉を音を絡ませていくあの感覚と快感よ。

日本語で、となると例えば『Making Love』の『ヒアタリヨシモヨリエキチカク…』とかみたいに少し限定的な使い方になってしまうんだが英語詞だとこれがナチュラルでな。意味もわからず口遊んでるだけで意味もなく気分がアガってくるのよ。いやホントこういう才能、日本語曲でも発揮してくれたらなぁとも思う。あたしは何語だろうといいんだけど、中には英語詞だとハナから聴こうとしない人もいらっしゃるから。勿体無い。あたしだって意味もわからず聴いてるってのに。

やっぱり、日本語だと作るの難しいのかねぇ。わかりやすいのが『Hotel Lobby』と『Kiss & Cry』でな。同じメロディを使ってるのに生まれるグルーヴに結構な違いがあるように感じられる。『Hotel Lobby』の方の『It's only for the money, for the money, for the money...』と『Kiss & Cry』の『いつのまにやらハイテンション…』では、なんというか、重心が違う感じ。英語の方が腰ダメが利いてるというか、日本語の方は結構美しく耳に心地よい感じで。

…嗚呼、でも『Kiss & Cry』の歌詞も結局大好きなんだよね。英語のそれとは風合いは違うんだがコレはコレで凄く練り込まれていて。さっきの『Making Love』の歌詞みたいにカタカナで書いてみたらわかりやすいかな。

『コマクニアタルバスドラット
 ココチヨクツクハイハット…』

この言葉の乗せ方の巧みさたるやねぇ。確かに英語とは違うけど、やっぱり凄い作詞力だわ。特に、こういうノリがライヴ映えしまくるというのを、二年前の『Laughter In The Dark Tour 2018』で皆が知るところとなったので非常に嬉しいのでした私。

なので今度は『Hotel Lobby』の方をライヴで聴いてみたいなぁ。日本じゃやらないかもだから、また海外に行って観るか。いつになるやらだけど(この締め方何回目だ俺)。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヒカルの食べ物の好き嫌いについてはなかなかに理解が出来ない事が多い。ハンバーグやケーキが嫌いとか言われても、過去の発言と噛み合わない事も多い。

前々から言ってる通り、味の話ではないのだろう。エピソード記憶との結びつきで食の印象が左右されているように思える。

例えば昔。もずくや納豆が好きだとヒカルが言う。多分それは冷蔵庫を開けたらすぐ食べれたからだだったんだろうなと推測した。基本的に、食生活が安定していなかったのだろう。随分経った頃でも冷蔵庫に林檎しかなかった風な事を呟いていたしなぁ。幼い頃は、食事を用意して貰えなかった時に冷蔵庫を開けてもずくや納豆に助けられていたのではないかなと。パックだったら包丁はおろかお皿すら出さずに腹を満たせるし。

2005年くらいだったか、テレビ出演時に「ケーキ大嫌い」と言い放っていたが、辛党ならさもありなんとも思いつつ、これも幼い頃にパーティが台無しになったとかそういう逸話があるんじゃないかなと勘繰った。思い浮かぶのはお母さんの癇癪とかなんだけど、これもヒカルはきっと一生教えてくれないだろうか。

ヒカルも若いうちは料理苦手だったけれど、25,6歳頃からそこらへんも身につけるようになって食生活はかなり健康的になったようで。今や息子が居るのだから四の五の言ってられないし。そうやって他者が介在して、ドライに言えば“仕事として”食生活を用意する立場になれば、仕事人間なヒカルはちゃんと火がついたんじゃないかなと想像する。

本人が余り語りたがらない分野なので妄想での補完度がいつにも増して甚だしいな。

餃子は好きだろう、というのも、単に両親のクレジットからの想像の域を出ない。ラーと酢キングね。そもそも、家族ぐるみで食への執着が薄いという根本的な論点に帰着してしまう。

ある意味、それでよかったのかもしれない。食生活から得られなかった精神的充足を音楽と常に触れる事で充たしてきたと考えれば。それが家風であったというのも。過酷といえば過酷かもだが、そもそも日本の文化が国際的相対的に豊か過ぎるというのもあるだろう。その分、大衆音楽文化は(これも国際的相対的に)貧弱になっているのだけど。純粋な邦楽なんてリスナー少ないもんねぇ。

そんな人が『飯食って笑って寝よう』と歌うのは、いいとこまで来てるなぁと感慨深くもなったり。パクチーの唄なんかも、カレーが出てきたりして食欲満載だしね。打首獄門同好会並みにとまではいかなくとも、今後はもっと食べる描写が増えてきたりするのではないかなぁと、勝手に思っているのでありましたとさ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先週から?流れている新しいテレビスポットでは本予告では聴けなかった新しい『One Last Kiss』の一節が聴ける。曰く、

『Can you give me one last kiss?
 燃えるようなkissをしよう』

だそうな。歌詞カードではkissなのかキスなのかどちらでしょーね。

なかなかに扇情的というか……いや、エヴァだし“戦場的”な場面か? 戦火の中で実際に燃えながら二人が……いやあんまり冗談にならないかもしれないなこういうの。あの映画ならやりかねない。


他に連想されるのは、例えば『二時間だけのバカンス』の

『砂の上で頭の奥が
 痺れるようなキスをして』

あたりもあるかな。描写が独特ですよねこういう場面。


何しろ宇多田ヒカルという人は16歳の時にリリースしたデビューアルバムのタイトルトラックの冒頭で

『最後のキスは
 タバコのflavorがした
 ニガくてせつない香り』

と歌ってその詩情が絶賛され周縁にまで歌が届いてしまった為「未成年がタバコとか」などと色々言われてしまう程に、キスについてはエピソードに事欠かない人だ。そういう作詞家の書く一節なのだから、それはもうやはり今回も一際耳を引くフレーズとなっているわな。

で、今引用した通り『First Love』の出だしは『最後のキスは』なのだが、『One Last Kiss』というタイトルも「(もう一度)最後のキスを」という意味だから、『Can You Keep A Secret?』から19年の時を経て『誰にも言わない』がリリースされたように、この『First Love』と『One Last Kiss』の2つの曲の間にも何らかの因果があるのかもしれない。

例えばこのあと『One Last Kiss』の発売日が3月10日や4月28日になったら面白いぞ? 前者はアルバム『First Love』の発売日、後者はシングル『First Love』の発売日だ。お誂え向きに、今年は両日が水曜日だったりする。まぁ、そんな速さで事態が動くなんてことは願望でしかないのだけどね。

『First Love』から『flavor』を抜き出して『Flavor Of Life』のタイトルが作られたようにも思えるし、『初恋』はそりゃ『First Love』から来ているだろうけれど、今回の『One Last Kiss』は果たしてどうだろうね。早く歌詞の全貌が知りたいよ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『One Last Kiss』には『Can you give me one last kiss?』という歌詞が出てくる。歌詞の世界観として、直接的にkissを取り扱ってるとみてよさそうだ。

kissについて近年のヒカルの歌詞で印象的なのは例えば『誓い』&『Don't Think Twice』の

『Kiss me once, kiss me twice.
 Kiss me three times, cross the line』

などがあげられるだろうか。或いは『Time』の

『キスとその少しだけ先まで
 いったこともあったけど』

あたりか。こちらはカタカナか。

これをみると、『Kiss/キス』というものが何らかのボーダー、境界線という意味を持たせられている事が読み取れる。『Cross the line』というのはそのまま「一線を超える」という意味だろうし。

その境界線とは例えば親愛と性愛の境界線だったりもしそうだ。一度のキスなら挨拶かもしれないけれど、そこから二度三度と重なる事で意味合いが違ってくる。「キスより先」というのは、ただの友達以上の関係性に発展したという意味だろう。

このような最近の(といっても年単位だけど)ヒカルの『Kiss/キス』の使い方からすると、この『One Last Kiss』における『Can you give me one last kiss?』というのは「最後の一線を越えてみない?」という意味で使われているとみるのが自然であるように感じられる。

また、『Can you 〜?』という言い回しから長年のファンなどは即座に『Can you keep a secret?』を思い出すだろう。来月には発売二十周年を迎えるこの名曲の響きは昨年発表になったアンサーソングのタイトル『誰にも言わない?』が今もって引き継いでいる。これを踏まえるとするなら、この『誰にも言わない?』という邦訳に感じられる“共犯意識”からして、動詞としてgiveを使ってはいるものの、「一緒に最後の一線を越えよう」という“共に最後まで”の意識の強い訳し方がより適切になるかと思われる。

“共犯意識”といえば

『上目遣いで誘って共犯がいい』

の『Kiss & Cry』を思い出す向きも多かろう。今話題に出した『Can You Keep A Secret?』をフィーチャーした『Laughter In The Dark Tour 2018』での目覚ましいパフォーマンスも記憶に新しい。ここでの『Kiss』は、フィギュアスケートの語源通りに『祝福の証』としての意味が付されているが、「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビシリーズの最終回が「おめでとう」と「ありがとう」で彩られていた事を思い出すと、今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」において、最後の一線を越えて作品の完結を祝福するキスを捧げよう、最後までお付き合い下さりどうもありがとう、という意図もヒカルにはあったかもしれない。やはり、ひとつのシンプルな単語に多義的な意味を付与していく方がヒカルの歌詞の読み解き方としては王道だろうね。もうはよフルコーラス聞かせろや待ってられんわぃ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




LGBTQ...が市民権を得ていく過程は、個の帰属分類の精微化の過程でもある。「男らしさ」「女らしさ」という二分類が多様化し情報の精度が上がる。ここに於いて肝要なのは、精度を上げる事で倒錯を解消する事だ。

何故「男らしさ」「女らしさ」が煩わしいかといえば、規範として個に強制力がはたらくからだ。元々個体情報の把握の一助に過ぎなかった“性別”という概念が、その高い利便性故に規範として扱われ圧力として個体情報の改変を強いてくる。もともと自分の体型に合った服を見繕って居たはずが、服に体型を合わせようというフェイズに相転移するのだ。故にダイエットは倒錯の一種ではあるのだが話が逸れるからそれは置いておくとして。

LGBTQ…も結局カテゴライズの罠に陥り倒錯が起こり強制圧力が生まれ始めればそれは単に性の種類が増えただけで、生きづらさは依然残る。結局はどこかで倒錯を克服し「もともとただの方便じゃん」と開き直らなければならない。だったら最初っから性別なんてカテゴライズやめときゃいいじゃんね、人を直接見ようよ、というのが「究極的には男も女もない」という立場であり、そこに立てて漸く、本来の問いに戻れる。「男であること」や「女であること」とは、一体何であるのか。

差別と帰属意識は常に表裏一体である。何れも、ほぼ幻想に支えられた概念でしかないが、人は理想無くして生きるのは難しい。こうあるべきという規範は、人は弱さ故に常に追い求めるものなのだ。自由は辛いのよ。まぁ、ダイエットの話だねこれ。

つまりこれは自己と他者の物語であって、性とは「あなた」と「私」で作られた空間において脆弱性からの要請で生まれる何かなのだ。そこから作詞をするからヒカルの歌詞は性別を変えても普遍性を保てるし、弱さと不安で疲れた人の心の奥底に直接響いてくる。同性愛を描こうが異性愛を讃えようが特に形を変える必要は無い。どちらから光を当てて眺めるかが変わるだけだ。


そういう観点から『Kiss』という言葉、ヒカルの使う歌詞としての『Kiss』を眺めてみるのが、『One Last Kiss』という歌の本質にダイレクトに迫る道筋のひとつになるように思うのでこんなややこしい前段を書いてみた。

例えばUtadaの歌詞のように直接『Sex』と言い切るよりは、日本語の歌詞の中で『Kiss』を駆使する方が応用範囲は広い。それは親愛にも性愛にも当て嵌るからだ。異性との時間でも同性との時間でも、母娘の時間であっても『Kiss』は挟み込むことが出来る。『誓い』でも『大空で抱きしめて』でも『Time』でも。

『One Last Kiss』は「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」のテーマソングだからして、まずはシンジくんとカヲルくんのキスシーンがあるかどうかに注目が集まるところだが、勿論組み合わせは他にもありえるだろう。レイでもアスカでもマリでもユイでも誰でもだ。そのどのパターンが来ても『One Last Kiss』は光り輝くだろうことを、はてさて90秒と15秒の音楽から紐解けるだろうか私は。気が向いたらまた続きを描きますね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




毎度書いてる事だが、Pop Musicの歌詞がラブソングをメインにしている以上、その歌詞で使われている言語の言語圏に於ける恋愛事情というのはクリティカルな問題になる。

例えば日本の演歌などは、当時の日本の恋愛観を幾らかは反映していた筈だ。何故悲恋の物語が多いのかといえば、結婚と恋愛が結びついていない慣習を引き摺っていたからだろう。恋愛自体が悲しいものだったということだ。藤圭子はその世代の怨念の頂点だったから「怨歌歌手」などとまで言われた。

欧米化した日本の歌謡曲、Pop Musicにおいてその様相は変わる。演歌ブームのあとにきたフォークミュージックやニューミュージックの台頭は新しい世代の恋愛観を背景にした歌詞が受け入れられた。「大恋愛の末結ばれる」とかいう、欧米型の、演歌では希少なパターンが散見されるようになった。そこらへんの移り変わりを上手く捉えたさだまさしの……って各論は長くなるから省略するとして。

そこから昭和平成令和と流れてきてジェンダー観や結婚観が多様化し、Pop Musicで描かれる恋愛も様変わりした。宇多田ヒカルって、平成の3分の2を担っていた人だから、ある意味そろそろ前時代的になっていたとしてもおかしくなかったのだが、ご存知の通り、寧ろ時代に先んじすぎないように調整してる節すら窺える程現代に適応している。『Time』や『誰にも言わない』はまさにそこらへんの調整の賜物になっていて、あまり旧時代的な感覚はない。

週末に「ネットの音楽オタクが選んだ2020年のベストトラック100」というのをみつけた。200人余りに対するアンケートのようで統計的な意味があるかはわからないが、こういうタイトルの元にしっかりヒカルの『誰にも言わない』と『Time』がランクインしているのはなんだか面映ゆくなった。ベテランの上に「お茶の間でもお馴染みの」なアーティストが音楽オタクたちからも高い評価を受けていると。

何よりもサウンドが常にアップデートされてきているのが大きいだろうが、それと共に、歌詞の世界観、恋愛観に違和が無いのもあるのではないか。今の若い人たちからみても恋愛観が身体性を伴って実感されやすいというか。それと伴に、時代に左右されにくい普遍的なテーマが根底にあるというのも。まぁそれは伝わらないとわかってもらえない要素なので今の風景の中でどれだけ効き目があるのかはわからないが。

でも、もうロンドンに住んで長いだろうに、よく日本の空気とかわかるよねぇ。いや、「ネットの音楽オタク」にウケるとか、電脳空間の中での話ならどこに住んでようが関係ないのか。恋愛ドラマや恋愛小説なんかも電脳空間は最早切っても切れない関係になったし、案外そこから結構なところまで見通せるのかもしれない。おぢさんには遠い世界の話だけれども。

もうちっと具体的な話に踏み込みたいところだが、さてどうしようかと思案中。何しろ次の新曲がカリカチュアライズされたフィクションたるロボットアニメ(エヴァはロボじゃありませんが)のテーマソングなので、そこから現代日本の恋愛観との親和性について語るのは骨が折れる。まだ歌詞も一部分だけだしね。まぁ考えときますわ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




インスタライブというのも、見ているとそれぞれ人によって大分力の入れ方が違っていて。ふらっとその気になったら気楽にオンエアする人も入ればYouTuber並に凝る人も居る。

ヒカルの場合は結構下準備を入念にしていた感じでしたね。始まるまでけっこう時間が掛かったりして。スタイリングも自前だろうからそこは仕方がないのだけれど、こちらとしては酔っ払ったテンションでピアノ弾き語りするくらいのフランクな感じでもいいのよ?という気でいる。なんだったら音声のみでも良いわけでね。それならスタイリングも要らないし、ヒカルも歌声で勝負ならのぞむ(望む/臨む)所だろう。

でも、例えばカバー曲を歌おうとかだと色々と制約があるのかもねぇ。ヒカルはプロのミュージシャンだし、直接はお金取らなくても宣伝活動の一環になってしまう。未だに昔のストリーミング(動画のダウンロードだったけども)で心残りなのが、グリーン・デイの「ブールバード・オブ・ブロークン・ドリームス」のカバーがDVDに収録されなかった事だ。本家より遥かによかったから怖気付いたのだろうな。(と言っておきます)

というようなこともある為、インスタライブでカバーを歌うといっても素人のように気楽には出来ないのかもしれない。自分で書いた曲の方が権利処理については気楽なのかなぁということになるが、こちらはなんかキャリアの一環というイメージがついて本気度が上がってしまうので、その意味で気楽じゃなくなりそうなのよねぇ。うぅむ、結構難しいな。

ならば例えば「詩の朗読」とかやってくれたらかなり嬉しいのだが。でも十中八九ヒカルは恥ずかしがってやらないだろうなぁ。『Deep River +』のオープニングを飾る散文詩や『UTADA UNITED 2006』の『Untitled』とかをインスタライブで朗読してくれたらかなり痺れるんだけどねぇ。

『夕凪』を、カラオケをバックに歌詞朗読してくれたら、なんてことも思う。あれ、ガイドヴォーカルならぬガイドヴォイスが歌詞を先んじて呟くパートがあるから、だったら全編呟いても面白いんじゃないかなとね。

同様に、『誰にも言わない』をバックに国木田独歩/ワーズワースの詩を詠むのも乙なものだろう。「サントリー天然水」CMの完全版みたいな感じでね。


しかし大本命は宮沢賢治の『春と修羅』の朗読だろうか。『ヒカルパイセンに聞け!』で

『なんだかんだ言って宮沢賢治の「春と修羅 mental sketch modified」以上の衝撃を受けることはないぜ。』

と宣ってた1篇だ。これをヒカルが朗読したら強力だろうなぁ。いや、これだけ思い入れが強いと、本気でいつかバックトラックを自作した朗読をオリジナルアルバムに収録してしまうかもしれん……インスタライブで気軽にやれるヤツじゃないのかも……。

嗚呼、なんだろう、色々考えても、自分で自分のラジオ番組のジングルを作曲してしまう凝り性のヒカルが「気楽に歌って/詠んで配信する」イメージが湧きづらいんだよね。「やるからには」ってなっちゃうんだよなぁ。まぁ仕方がないか。昨年5月のように、しっかり準備されたインスタライブを、1〜2年に1回くらいのペースでやってくれる事を祈っておきますわ。ほんと、今考えても「五週連続」は贅沢だったなぁ……夢だったのかもしれない……(<気を確かに持ちなさいな)。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨年音楽業界で盛んに言われていたのが「オンライン・ライブ・コンサート」で、2020年に現れた新業態みたいな扱いすら受けていたのだが、10年以上ニコニコ動画の生放送に親しんできた身からすれば今更感が凄かった。コンサートのオンラインチケットは早い段階で利用していたしね。日進月歩どころか秒進分走のWebの世界では周回遅れどころか前時代の遺物であったとすらいえる。

なのだけど、ニコニコ動画の凋落ぶりは周知の通り。「どうしてこうなった」と言われて久しい。単純に中の人が入れ替わったかららしいのだが主だったサービスは日本国内でもYouTubeなど他の動画サービスに取って代わられつつある。どれだけ時代に先んじていてもそこから規模を拡大するのはまた別の話なのだ。技術や発想は真似されてるだろうけどね。実況コメントで生放送を双方向で楽しむというのも然り。

「それを言うなら宇多田ヒカルは18年前にもうやってるじゃん。双方向生配信。」と言われそうだが、ほんとその通りでな。2003年1月19日のライブストリーミングイベント『20代はイケイケ!』は、なんと自前のプラットフォームからの配信だったのだ。htmlサイトに動画URLを埋め込んで自前のチャットルームを設えて。どんだけ金使ったんだという話だが視聴は無料で会員登録やログインすらなかった。アクセスURLを打ち込むだけで誰でも観れたのだ。結果百万人だかのアクセスがあったらしいが、当時はスマートフォンなんてものはなく、ガラケーでは動画生配信はほぼ観れなかった事を考えるとこの視聴率は驚異的だった。今の感覚でいえば1000万人くらいの感覚だろうかなぁ。

そんなことが出来たのもちょうど特大のスポンサーがついていたからで、当時『COLORS』をCMソングとして提供していた『TOYOTA Wish』が、その『20代はイケイケ!』配信中、視聴者一名様に抽選でプレゼントされる位だったのだ。地上波ゴールデン番組並の太っ腹であった。更に各地のレコードショップと中継を繋いだりね。それだけ予算がかかっていたのだ。

その後もヒカルは何度かストリーミング企画を催すが、時代と共に配信プラットフォームも整備されていき自前で用意する必要はなくなり、今やiPhone一台で配信と双方向対話と中継まで出来るようになった。弾き語り程度なら歌まで聴けた。ほんと、インスタライブすげーよな。まぁ、それも大体は10年以上前からニコニコ動画生放送で出来てた事なんだが、時代の流れを掴めるかどうかって大きいんだねぇ。

今年もまた5回とまでは言わないから、1回くらいインスタライブやってくんないかなと、しつこく言い続けようと思いますデス、ハイ。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




世が世ならばこの後日付が変わるタイミングで「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」が公開され『One Last Kiss』の全貌が明かされていた筈だった。恐らく、伏せられたままのトラック2&8も。

このタイミングで新しいCMが流れ『One Last Kiss』の新たな歌詞が判明するというのも、当初計画されていた通りなのかな。しかしその後は総てが先送りだ。

ただ新曲を待つだけなら生きてさえいればいつの間にか辿り着けるのでそうそう痺れは切らさないが、この、ほんのちょっとだけ知ってる状態で待惚けというのはなかなかに焦れったい。慣れよう。


事態は総て流動的だ。一向に感染症禍が収まらなければ映画は公開されないままずっと行く。一方、ヒカルは新曲を重ねて新しいアルバムを発表することは出来るだろう。となると、どこかで『One Last Kiss』が映画と無関係に全面公開され先行発売される未来も大いに有り得る。

どのタイミングで決断するかが難しい。どうにも映画の見通しが立たないとなれば一日でも早く出したいだろう。恐らく、後がつかえている。一方、どこまでも一蓮托生を貫いて、アルバム本体発売ギリギリまで待つというのもひとつの手だ。その場合、EPICSONYはEP『One Last Kiss』の存在を一旦忘れて、宇多田ヒカルの他の新曲を予定通りにリリースしていく事になる。映画の公開が決まればさこですかさず、ね。

どちらも茨の道だよねぇ。プロモーション日程を策定する部署は気が気ではない。タイアップ相手との事もあるし、同じレコード会社の他のアーティストたちとの兼ね合いもある。そうそうビッグネームを時期的に偏らせる事も難しいだろう。

本当に詰んでるなぁこれは。

我々の方は、でも、のほほんと待ち続けるだけなので気楽なもんだわな。ロンドンは世界の中でもかなり酷い状況のようだし、昨年に引き続いて今年も多くの活動が一時停止されたままになりそうだ。だからこそヒカルはますます歌うだろう。それはきっと揺るぎない。感じる心は留まれないのだから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『22 by Hikaru Utada』のラストを飾る22曲目は『Time』だ。最新シングルのうちの一つ。「あら、『誰にも言わない』じゃないんだ?」と思ったのは内緒。アピールするならこっちってことかな。勿論、トラックとして誇りに思っているのは言うまでもないだろうし。

あと、ミュージック・ビデオで苦労したってのも大きいかもねぇ。『誰にも言わない』ではビデオを作っていないから、現状最近影はこの『Time』のミュージック・ビデオになる。一応インスタライブはもう観れないんでね。 


さて22曲みてきて全体の傾向としては。


・お気に入りだと公言してきた曲は大体入ってる
・コラボ曲が多い
・各アルバムから満遍なく
・とはいえ『This Is The One』からはゼロ
・王道Popsな曲も遠慮無く選出


みたいな点が挙げられるかな。この基準からするとコラボ曲かつ王道Popsな『二時間だけのバカンス』が選ばれていないのは不思議な気がするが、それだけ『Fantome』の曲は層が分厚く各曲思い入れが深いということか。あれだけ重要だった『人魚』も入ってないしね。


データ的には、

・シングル曲(CDか先行配信)が9曲
・アルバム曲が10曲
・カップリング曲が3曲

という構成。うちミュージック・ビデオが作られた曲は6曲。キスクラは外した。ここが結構妙ちきりんでねぇ。『Letters』は両A面シングルだったけどビデオなし、『忘却』はシングルリリースでもなかったのにビデオあり、なんていう風に結構捻れがあったりするので。

なんだろう、J-Popにカテゴライズされてきたアーティストが自らのプレイリストをアピールする時にシングル曲が半分以下ってそうそうあることでもないような。基本シングル曲で固めてそこに隠れた名曲としてアルバム曲をもってくるみたいなのが王道なんでないの。ヒカルはそういうノリとは無縁だったということがよくわかる。

でも、私としてはコラボ曲ってのは変化球みたいなもので、アルバムの中に一曲あったらいいアクセントになるのだけれど、こうやって単曲で持ち出されて並べられると、そこでなんだか芯を外されてるような気分になったのも事実。こっちは耳がヒカルの歌声全受け入れ態勢になってるんだよねぇ。特に最後に「丸ノ内サディスティック」と『Too Proud L1 REMIX』を並べられると、ヒカルの歌声がメインでないからなんとなくしょぼくれてしまった。これが『Too Proud  Laughter In The Dark Tour 2018 Version』だったら全然違ったんだけどねぇ。全部ヒカルだからねアレ。

などと文句を言ってはいるけれど、今のヒカルの感覚が知れてこのプレイリストは大変貴重だった。企画してくれた方々に御礼申し上げたい。ありがとう。何年かしたらまたやって欲しいぜ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『22 by Hikaru Utada』の20曲目は『丸ノ内サディスティック』、言わずと知れた椎名林檎のカバーだ。そして21曲目は『Too Proud L1 REMIX』。ここらへんはアルバム収録曲じゃないんだよね。

ほんとにこのプレイリストにはコラボ曲が多い。『One Night Magic』はTHE BACK HORNの山田将司との、『忘却』はKOHHとのの、『丸ノ内サディスティック』は小袋成彬と、そして『Too Proud L1 REMIX』はXZT, Suboi, EKとのそれぞれコラボレーションだ。あれ?もしかして宇多田ヒカル名義のコラボ曲全部入ってる?? あ、『二時間だけのバカンス』が入ってないか。

思い出深いのだろうかな。作詞作曲編曲プロデュースに歌入れまで孤軍奮闘する中でひとと一緒に歌った時間が楽しかったのかもしれない。もっとも、データが電送できる現代なので一緒に歌入れしたかどうかとなるとわからんわね。『Too Proud L1 REMIX』は確実に違うだろうし。

ここまでくれば『By Your Side』とか『Do You』とかも入れて欲しかったし、ならば『I won't last a day without you』や『PROMISE "I DO"』や『風が吹いてる』や『浪漫と算盤』なんかも…って多分、それらの曲はどれもヒカル主導の曲じゃないからなんだろうね。あクマで相手の名義の、相手方のトラックにゲストとして招かれたという意識の曲は選曲基準からして弾かれたのだろう。勿体ないような、そうでもないと22曲に収まらないから仕方なかったような。

ただ、ヒカルのペンによる曲ならいいんだけれど、どうせカバーを選ぶなら尾崎豊の『I Love You』がよかったんじゃないの。歴代屈指の名パフォーマンスだし……って嗚呼、サブスクに尾崎豊トリビュートアルバムがないからか。それが外れた理由だとしたら痛いな…まぁこれもまたしゃあない。


そう、なりくんをいじると薮蛇になりそうなのでよしましたとさ。(笑) 大体、ラジオでのカラオケの方が気に入ってる私としては正直スタジオバージョンは微妙ななんすよ……まぁこれもしゃあないわな。やれやれですわ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




米国大統領就任式は無事終わったようで何より。ナショナルアンセムはレディーガガが歌ってた。素晴らしい歌声でした。この季節のワシントンDCはきっと寒いだろうにねぇ。映像からではわからないけれども。

米国の地理でまずややこしいのはこの首都「ワシントンDC」の名称で、これはどの州にも属さない合衆国直属の特別区。日本でいえば皇居が東京都に属さないみたいなことなのだろうか。これが国の東北の端っこにある。一方で「ワシントン州」という州も存在してこれが国の西北の端っこにあるのだ。名前がそっくりの癖に場所は反対側でそもそもあんまり関係ないというね。まぁ日本にも草津とかいばらきとかややこしいとこあるけどさ。

でそのワシントン州最大の都市がシアトル。今日1月21日は『Utada In The Flesh 2010』シアトル公演から11周年記念日だ。同ツアーにおいては1月15日のホノルル、1月19日のロサンゼルスに続く3公演めとなる。このあと2月のロンドンまで走り抜けるのでつまりUtadaは1ヶ月弱でハワイ州から太平洋を渡って西海岸へ、中央部から東海岸へ、東海岸から大西洋を渡ってロンドンへと旅して行ったわけだ。ツアー後はそのままフランスを訪れたということだったかな。東へ東へと地球儀を半周した感じだろうか。

私はシアトル公演には行ってない。その前のホノルルに行ってたからね。FFさんではMikihhiとHironが行っていたのでそんときのレポートをリンクしておこう。相変わらずgooブログでは地の文にハイパーリンクされないけど、今のブラウザならなぞれば飛べるからそんな問題でもないか。

https://mobile.twitter.com/Kukuchang/status/1352023103317057537

いやはや、臨場感あるよねぇ。こういうのを書いて残しておくというのはやっぱり嬉しい。あたしも毎日の日記を記すのも、未来にこういう嬉しさが生まれるのを知ってるからでもあるわな。シアトルが暖かかったとか、現地に行ってないとわからんもんな…。

ピンクのUtadaが眩しいねぇ。

https://t.co/UY55C5obNl?amp=1

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」が延期になったお陰で『One Last Kiss』がお預けになったまま。聴きたくなったら「本予告・改」を聴くことになる。しかし、ずっとこればっか聴いてるといつかようやっとフルコーラスで聴けた時に違和感がモリモリになってるんでないの。どうしたってこの続きを脳内で勝手に補完してしまい(ラスキス補完計画!?)、それは恐らく本物とは全く違うあらぬ方向へと妄想を推し進めてしまっているのではないかと。「思ってたんと違う!」と叫ぶことになりはしないかと気が気でならない。もっとも、予想を裏切り期待に応えるのが宇多田ヒカルという超一流音楽家の手練手管。なんだかんだで遠慮無く聴いている。この90秒で既に楽しいしね。


さて『22 by Hikaru Utada』、次は19曲目だ。『嫉妬されるべき人生』である。この歌もラスキスと同じく映画のエンディング・テーマ曲だった。映画本編は一風変わったタイムリープもので、輪廻転生を得意とするヒカルの芸風がバッチリ嵌っていたな。エヴァの世界もループ世界なのではないかと昔から言われているので、そこらへんもバッチリシンクロしてるだろうなぁ…っていかんいかん、ついつい新曲の方を気にしてしまうな。

ヒカルが名曲だらけの『初恋』アルバムの中でこの『嫉妬されるべき人生』を選んできたのは、非常に単純に『母の遺影』という歌詞が含まれているからではないかと推測している。目の前の在りし日の母の写真を『遺影』と呼べるのは、つまり、母が死んだと漸く納得した、腑に落ちた、現実だと受け入れられたという事だったのではなかろうか。アルバム『Fantome』では母の死に対して感じたあらゆる感情に基づいて歌が作られていたし、アルバム『初恋』に於いても『大空で抱きしめて』などは、言い方は悪いが、まだまだ未練が残っているようなそんな感触があった。しかし、この『母の遺影』という言葉が出てきた『嫉妬されるべき人生』においては、なんだか母の死が過去の思い出であるかのような感触がある。勿論母の不在を日々痛感して毎日を生きてはいるだろうけれども、やっとそれが軌道に乗ったというか。そうやって振り返ると、周りになんと言われようと母の人生は『嫉妬されるべき』素晴らしい人生だったし、自分自身の人生もこれから『嫉妬されるべき人生』にするんだという静かで強い思いも感じる。そういう、ちゃんと気持ちに踏ん切りをつけられた区切りの歌としてこの『嫉妬されるべき人生』はヒカルにとって思い出深い一曲になっているのではないだろうか。それはまた、『あなた』と併せて、自分が父や母と共に育ってきたように、今度は自分が周りの人達と共に息子をすくすくと健やかに育てていく人生を今歩んでいるのだということなのだろう。なかなかにじぃんとくる『初恋』からの二曲のチョイスであった。


余談になるけど、ダヌくんの初恋って間違いなくお母さんだよねこれね。こんな魅力的な母に毎日世話を焼かれたら好きにならない筈がない。ただ、ダヌくんちょっと老成しすぎてて定番である「ボク大きくなったらお母さんと結婚するんだ!」を元気よく宣言するキャラじゃなさそうなのがね。それはそれで楽しいけどね。いやはや、誰がなんと言おうと、ダヌくんの人生こそが宇多田ヒカルファン全員から『嫉妬されるべき人生』だと思うよそれは。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ