無意識日記
宇多田光 word:i_
 



人間活動が2年になるか5年になるか、当人もわからないままそろそろ3年が経過しようとしているが、1年前に産み落とされた"桜流し"という爆弾のせいで、その"待ち方"が大きく変わった。もしまっさらな新人がこの曲を書いていたら完全に私は宇多田ヒカルからその彼女に"浮気"していただろう。同一人物で本当に助かった。

この曲をどれ位評価しているかといえば、レッド・ツェッペリンの“天国への階段”と聴き比べて「…まだちょっとかなわないかな…」と呟く程のものである。もし生きていたら、カラヤンに桜流しを聴かせて感想を訊いてみたいものだ。(註:彼は天国への階段を聴いて(或いは楽譜を見て)「この曲のアレンジで直すべき所は1つもない」と言ったそうな。ほんまかいな。)

桜流しの欠点といえば、何よりもそのダントツな音の悪さだ。なんでこんなに低音が濁ってるんだ。べろんべろんである。早々にリマスターバージョンか、いっそのことライブ・レコーディング・バージョンを聴いてみたいものだ。まぁこの愚痴は散々書いた気がするのでこれ以上蒸し返さない。

あとは、構成がちょっとわかりにくい所か。「サビはどこだ」と二言目に訊く日本人リスナーは完全に病気だと思うが、実際日本人の殆どはサビ探しに夢中なので、現代日本で現代日本語を駆使して歌うのならばリスナーのそういった側面にも配慮すべきではなかったか。ったく、それなら天国への階段のサビはどこなのか言ってみろっつーの…(ブツブツ)…

あとは、やはりドラマーの力量不足だろうか。いや、別に下手だと叩いている訳じゃない。何しろ、私はこの曲を「天国への階段」基準で評価しているのだから、その真意は「ジョン・ボーナムと較べて」である。彼と比較すれば世界中のほぼ総てのドラマーが力量不足だ。バディ・リッチでも連れてくるしかない。最低でも、ジョン・セオドアクラスに叩いて欲しかった。いや、実は巧いんだけどこの程度にしておいてとHikaruが指示を出したのかもしれないので叩いている人に責任はない。ただ、ドラムをフィーチャーするのであれば、そういった点も視野に入れて欲しかったなと。

うーん、気の早い話だが、Hikaruは自分の楽曲がちゃんと「アルバム」の形でアクセス出来るように設えたいという意向が強い筈だから、桜流しも何らかの形でアルバムに再収録されるだろう。であるならば、バンドメンバーを一新して新たにレコーディングとミックスをやり直してみてはどうか。無理があるかなー。楽曲の素晴らしさは群を抜いているので、あとはサウンドと演奏のブラッシュ・アップが出来れば最高なんだけど。


それにしても、もし桜流しが今後何らかの形でアルバムに収録されるとしたらこれは相当なプレッシャーである。作曲家Utada Hikaruにとって。作品としてちゃんとバランスを取る為には、この桜流しに伍せる楽曲を後2,3曲は用意しないといけないだろう。これはキツい。相当キツい。人気活動中の現在は、このテーマについて頭を悩ますべきではないだろうな。うんうん。

しかし、過去を振り返ってみても「FINAL DISTANCEみたいな凄い楽曲作っといてあれ3rdアルバムに収録して大丈夫か?EPのみの方がええんとちゃうの?」と心配した時もきっちり"Deep River"という素晴らしい楽曲で出迎えてくれた人だったりするので、今度もまたやってくれるかもしれない。折角なので、期待して待っておく事にしよう。相変わらず、それがいつの事になるのかわからないけれどね…。

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たまに、ものすご~く軽い話題を提供したいな~と思ってみるけど、自分にそういう才能が全く無い事に愕然としてすぐ諦める。例えば、「宇多田ヒカルのバストサイズの変遷を推定する」なんてエントリーが書ければアクセス倍増だろうな~とかそういうことなんだけどそもそも毎日アクセス数チェックしていなかった。どっちに転んでも無理っぽい。

Hikaruが今音楽番組を提供しているのは、そもそもInterFMがReal Music Stationとしてそういう提案をしてきたからだろうが、それを、人間活動中にも関わらず承諾したのは、そのコンセプトがHikaruに合っていたからだろう。前回も話したように、自分について(近況報告などを)話すのではなく、自分の好きな音楽について語っていればいいのだから、紛う事無き得意分野である。要は、こちらからしてみれば、内容がどうあれ、ラジオ番組をやって欲しいか欲しくないかといわれれば、やって欲しいに決まっている…いや、決まりきってまではいないか、でも、大抵はやって欲しい。その前提に立てば、そもそも今の時期にラジオをやる気になってくれる企画が立案され提案された事自体が大きい。

人間活動を始めるにあたって、自分の得意な事ばかりやっていても、みたいなスタンスもHikaruは見せていたが、だからといって苦手な事ばかりに従事していると「やる気」そのものを失ってしまう。苦手を克服するプロセスが定常的にうまくいっていればいいんだが、それはつまりその人が「"苦手克服"を得意としている」に過ぎない。えらい立派なやっちゃ。

このように、アウトプットを奨励するには、そのコンセプトに賛同できるかどうかが鍵になってくる。我々は日々義務に追われ過ぎていて、Hikaruのように「イヤだからやらない、やめる」とすぐに行動に移せる立場の人間の行動原理や発想をなかなか理解できない。前にメッセで「つらいならやめればいいんだよ」と言い放って、多くの読者に「いやそんな事言われても」「それが出来るなら苦労はしない」と苦笑された事もあるHikaruだが、特に何も間違ってはいない。ただ、それをずっとやってきた人間とやったことのない人間では心理的な障壁に違いがあるだけである。


…ならば、私もその心理的障壁を取っ払って吹っ切れて「この15年間の宇多田ヒカルのバストサイズの変遷についての推察」エントリーを頑張って上梓してみ…やっぱやめとくわぃ(笑)。

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熊淡も6回を数えるが、ここまで、一度も特定のリスナーの名前が紹介された事がない。異例とまではいかないが、これだけポピュラーな歌手のラジオ番組でそんなコンセプトを押し通せるってInterFMの肝の座りっぷりったらない。

お陰で、と言うべきかはわからないが、ラジオにだけ耳を傾けていると、そこは「Hikaruと私」の空間になる。それを狙っての事かどうかはわからないが、あんまり「みんなとお喋りしている番組」という雰囲気ではない。一人宅録というスタイルの反映だろうけど、一人喋りの番組でリスナーの顔が見えないのは大胆だ。

実は、そこが、多くのファンが「物足りない」と感じる原因なのではないだろうか。音楽の話しかしない、というのも勿論あるだろうが、合間々々にリスナーからのお便りを十数秒だけでも紹介したりすれば、グッとHikaruの存在が近付く。「みんなでワイワイガヤガヤ」感が出てくるのである。

私は、別にそうして欲しいとは思ってはいない。皆でワイワイガヤガヤしたいのであれば、Twitterでハッシュタグをつけてツイートすればいい。実際そうしてるし。便利な時代になったものだ。"感"を出すのではなく"実際に"出来てしまう。それで十分なように思うのだ。でもそれは確かに、"ラジオ番組だけで楽しむ"スタイルには、なっていない。


…物凄いアクロバティック且つシンプルな事を言えば、同時期にもう1つラジオ番組を作れば問題は解決する。つまり、リスナーからのお便りを紹介し、リスナーに語り掛け、他のミュージシャンの話ではなく、Hikaru自身がどこに行った誰と会ったみたいな話をする番組。これと熊淡があれば皆満足。流石に人間活動中は無理だろうかな。

そこなのである。音楽番組をやって他人の音楽を紹介していると、なかなかDJ自身の話にならない。かけた曲を書いたアーティストと実際に知り合いだったりすると、例えば大正九年ちゃんとのエピソードが聴けたりするが、付随的なものだ。熊淡は、宇多田ヒカルの好きな音楽をかける番組だが、宇多田ヒカルについての番組ではないのである。もっと言えば、「私の事は置いといて、世にはこんな素敵な音楽が」というコンセプトなのだ。だから人間活動中でも引き受けられたともいえる。自分の事喋らなくていいから。いや勿論自分の歌もかけてるけども、特典的な扱いで、別にメインアクトという訳でもない。

これ、気楽なのだ。自分の事喋らなくていい。自分の好きなものについて語っていればいい、っての。いやそれって自分の好きなものを紹介している事で貴方自身を表現しているようなもんなんじゃないですか、と言われそうだが、違うのである。例えば、この無意識日記がよい例だ。私は私自身についての話より、Hikaruについてばかり話している。だから書く事に抵抗がない。連載が続いている秘訣のひとつと言っていい。その感情から鑑みると、熊淡は長寿番組になる可能性を秘めている。自分については語り尽くしてしまえるけれども、自分の好きなものについて語り終える事はない。この日記が何よりの証拠だ。だから熊淡は今のままでいいと思う。それはとても居心地のいい場所だからね。

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「曲毎に気に入ってもらえたりもらえなかったり」がHikaruのファンに希望(?)する態度だが、今の邦楽市場ではこんなアティテュードは殆ど消えかかっていると言ってもいい。各ジャンルの音楽ファンは兎も角として。

今はひたすらもう、特定のアイドルを如何に継続的に支援してもらえるかという点に意識が集中していて、楽曲の良し悪しは二の次になっている。その為、まるで売上と内容が反映されない。前の曲がよかったから今度の新曲は出荷枚数が大幅増、という事もあんまりない。売上という指標がないから聴く方の意識も離れがちだ―

―という現状認識を共有した所で(てさぐり部かよ)、ふと疑問に思ったのだが、果たしてうちのこの日記のテンションってどれ位共有されているのだろう。宇多田ヒカルのファンとはいえ、曲ごとに好みがあり、ひとりひとり、時期毎にテンションが上がったり下がったりがある筈だ。しかし、この無意識日記という場は、振り返ってみると、新曲が出る度に終始テンションが上がりっ放しだ。少し落ちたかな…と思ったのがFlavor Of Life -Ballad Version- が発売されてから数週間、だからもう七年近く前になる。これもOriginalが発表される頃になると「先にこっち聴かせなはれや」とすぐにいつもの感じに戻ったのだし、第一、世間はひっさびさの宇多田フィーバー状態だったのだからそれでバランスが取れていたともいえる。

となると、やっぱり新曲が出る度に、ここを読みに来たり読みに来なかったりといった取捨選択が起こるのかというとそれも違いそうで。一曲々々の前にヒカルのファンだという人間が相当数居て、今度の曲が少々好みからハズレていても、相変わらずヒカルには気をとられている、というケースが多数を占めているように思う。

―こんな事を書いているのは、では、Hikaruは熊淡のリスナーとしてどこらへんを想定しているのか?というのが気になったからだ。一応、まずは"InterFMのリスナー"が第一ターゲットになっているように思うが、果たして今やRadikoを使って"わざわざ宇多田ヒカルを聴きに行く"層とのバランスがどうなっているかはわからない。夜の22時の番組だとカーラジオ層がいちばん大きいか? いやそれともやはり一般家庭なのか…

ラジオ番組をやる以上、「誰に聴かせるか」をある程度想定していないと、やりづらいだろう。どこから喋っていいかわからない。しかし、今、宇多田ヒカルに興味がある人間とは、ヒカルのどの曲が好きだからというより、ヒカルが好きだからという人間が圧倒的に多い。最新曲のリリースが一年以上前なのだから当然だが、だとすると、そもそも「音楽番組」という枠組み自体が不適当となってしまう―ここらへんの葛藤については、また稿を改めて。

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いかんいかん、思わずきりやんに「Casshernの脚本は妥協の産物じゃなかったの?あれのクォリティーが高いと本気で思ってる?」とツイートしてしまいそうになった。あたしゃ映画はまず映像だと思ってるので脚本が酷くても笑って済ませるので同作品は高く評価してます念の為。

ま、そんな楽しくならなさそうな話は脇に置いておいて。今夜の話は「受け手の集中力について」。


年末が近付き今年を総括する時期になってきた。こと深夜アニメに関していえば「進撃の巨人」が今年最大の話題作だった事に異論を挟む人は少ないだろう。同作品の春夏2クール放送が終わり、どうも秋アニメは二期モノを除き話題性に乏しいが、なんのなんの、質は確実に向上している。とても見切れてないけれど、この業界はまだまだ発展成長中である。嗚呼羨ましい。

そんな秋アニメの中でツートップに挙げたいのが「キルラキル」と「のんのんびより」だ。この2作品は、しかし、視聴者に要求するものが全く対極にある。

「キルラキル」は画面が情報の洪水である。デシ秒単位で次々と小ネタを挟んでくる密度の濃さは、先日の第1~6話一挙放送終盤のコメントを「まだたった6話…見るの疲れた…これ2クール一挙放送やったら死ぬわ」で埋め尽くす程のものだ。確かに内容は抜群に面白いが、兎に角観てて疲れる。

一方「のんのんびより」は、タイトル通りの作品だ。美しい田舎の風景を描く背景美術、のどかなバックグラウンドミュージック、何も起こらない脚本、のんびりした空気。日々の生活に疲れた人が30分間何も考えずにぼーっとテレビをつけておくには最適な作品である。正直、面白いかと言われれば評価が難しいが、癒やされる事間違いなしである。


あなたは、どちらの作風が好みだろうか。受け手としての負荷に耐えてでも、超密度の意義在る内容を得たいのか、兎に角何も要求されない心の安寧を得たいのか。どちらが優れているという事はないだろう。それこそ、キルラキルな気分の日もあればのんのんびよりしたい日もある。人間、多面性が大切である。

さて、ヒカルの曲で、「聴き手に負荷がかかるが、それに見合うだけの感動を与えてくれる曲」は何かあるだろうか。すぐに思い付いたのは「Passion~after the battle~」である。6分34秒というヒカルの楽曲の中でも屈指の長編曲、という時点で聴き手に負荷がかかっているが、特に後半のインストパートの緻密な構築美を味わうには、ヘッドフォンをしてじっくりと耳を傾ける必要があるだろう。

同じ理由で、「桜流し」もまた、聴き手が集中力を注げば注ぐほど感動が増大する楽曲である。何度も聴き込んでこの楽曲の構成を把握した瞬間の感動は筆舌に尽くし難い。いや素晴らしい。


翻って、何も考えずに接する事が出来る、聴き手に全く負荷を与えない楽曲は何かあるか。これはもう答が決まっている。ぶっちぎりで「ぼくはくま」だ。この歌を聴く時、口遊む時、あなたは何か小難しいことを考えるか? 少なくとも私は何も考えていない。ただただ、気が付いたら鼻歌を歌っている。まさにそれだけの曲である。これだけシリアスに、極上の技術で歌い込む本格派の歌手のレパートリーにこんな"ふざけた"楽曲が存在するとは、いやはや、これまた素晴らしい。本人に至っては当時この曲を"最高傑作かもしれない"と言っていた程だ。いやはや、くまくま。


という訳で、恐らく、Pop Musician 宇多田ヒカルとしては、出来るだけ聴き手の負荷は減らす方向性で行きたいんだと思う。Passionや桜流しのような、聴き手に集中を強いるような曲はまだまだ本丸ではないのだ。1日活動して疲れて帰ってきた時に何気なく鳴らして癒やされるような楽曲。次の新曲はそっちの方向性でもいいな。まぁ私は、どちらのスタイルが来ても大歓迎ですがね。…いつになるやら。(笑)

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指が追いつかなくなってきたのでガラリと話題を変えて。

昨年のオフ会だったか、「好きなアルバムは」と訊かれてSCv2と答えた覚えがある。disc2は勿論、disc1も含めた正直な感想だったが、このアルバムを聴くと、馴染み深い楽曲たちでも本当に色々な見方が出来るものだなと感心させられる。

ぼくはくまは、オリジナルではその後に虹色バスだったからスムーズだったがThis Is Loveが来るとその落差には吃驚させられるとか、Be My Last から誰願叶の流れは、今聴くと、前者が切実な個々人の感情を唄い、後者が大局的な運命観を歌っていて、本来ならリリース順が逆になるのが自然なんじゃないの、それならここでやっとその"自然な"曲順に落ち着いたのかもね、とかそこからのBWPbAMの"エンディング感"の半端でなさ、ただボートラ的に最後に収録しただけの筈なのにEVA破からの先入観と相俟って見事な構成に結果的になってるな、とか種々の感想が込み上げてくる。ただ時系列を遡る曲順にしただけでここまで風景が変わるのか、と。

それなら、と考える。Disc2も含めて逆時系列順にしたらもっとその風景が際立つのじゃないだろうか。つまり、先にDisc2の曲を、そこの曲順も逆にして聴いてみるのだ。即ち、キャンクリ~愛のアンセム~グッハピ~SMLNAD~嵐の女神~Prisoner Of Love~Stay Gold~という曲順である。

いきなりピアノバラードから、というのも、キャンクリの朗らかなメロディーラインだと気にならない。寧ろ華やいだ幕開けの印象すら受ける。そこから愛のアンセム~グッハピの流れのよさは聴いてみれば一聴瞭然だろう。そこにShow Me Loveが畳み掛けてくる。その後に聴く嵐の女神はまさに台風一過という趣だ。こうして聴くと嵐の女神のエンディング感も素晴らしいが、その安寧をPrisoner Of Loveが切り裂く緊張感も素晴らしい。SCv2d2~HEART STATION~ULTRA BLUEという3部作をBWPbAMが締めくくるという構成。Disc1だけだと「2枚のアルバムからの抜粋」となってやや物足りなさが残るが、こうやって3部作で聴けばあの死ぬほどヒット曲満載のSCv1のボリュームを大きく上回る満腹感をこの作品は与えてくれる。個々の聴き方に大きく依存するものの、宇多田ヒカルの最高傑作は今のところやはりこれだろうなぁ、と私自身は納得せざるを得ない。

そして、この次が桜流しという事実が、このアーティストのとんでもなさを象徴しているんですけどねぇ。いやはや、どこまで行くんだろうかな。

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東京物語とは、つまり普通且つ普遍が具現化された作品なのだな…(ぶつぶつ)…

いや、まぁ独り言は置いといて。ってこの日記まるごと独り言だけどな。

今Hikaruがロンドン近郊に居るとして、どういう身分なんだろうね。VISAの事はようわからんが、学生なのか労働者なのか旅行者なのか。

いろんな話をすっ飛ばして、スコットランド国籍をとるとかいう話になったらどうなるんだろう。節税対策にはアイルランドの方がとか野暮な話も置くとして、どんな距離感がいいのかを見つける必要はあるだろう。「一生行かない」から「住む」まで色々有り得る。住みたい所に住む。なかなかこれが出来る人は少ない。進学出来た学校、就職できた職場に縛られる人生が殆どだ。Hikaruなら、好きにすればいい。尤も、いつマスコミに嗅ぎ付けられるかという不安と恐怖から逃れるのはどこに居たって難しいだろうが…。

ボヘミアン、コスモポリタンとしての移住生活からスコットランドでの定住生活へ…ないか…。


様々な妄想を展開したところで、いちばん現実的な路線を考えてみよう。スコットランドでのレコーディングである。スコットランド出身のアーティストたちは、そこで生活しているのみならず創作もしている。その空気感をHikaruが欲しがる可能性はある。そして、スコットランドのミュージシャンたちとのコラボレーション。そういうアルバムが出来ても不思議ではない。

勿論、ここで立ち返る。基本。熊泡で流す音楽はリスナーとしてHikaruが好きな音楽であって必ずしも作曲家Hikaruの傾向を反映したものではない、と。スコティッシュ・テイストは、スコッチ片手の時限定の"ルーツ"かもしれない。パソコンやピアノに向かった時には、また違うかもしれない。

ただ、ルーツへの自覚は、その"ズレ"を是正する方向にはたらくかもしれない。そこが、今回の(熊泡六で出迎えた)新しい局面である。スコットランドという気付き。そして、それがひとつの「国」として立ち上がるかもしれないタイミング。彼らにとっては当然アイデンティティの問題だが、Hikaruの"気分"もそちらに動く。つまり、このフィーリングを大切にしよう、自分の好みを重く見てみよう、という態度は、Pop MusicianとしてのHikaruのアイデンティティを少し書き換える。一方で、東京やNYといった"都会での(本来の)生活"もある。奇妙なバランス。

だから、次回の放送がかなり大事かもしれない。一旦、スコットランドから離れるだろう。「たった3グループじゃ足りなかったから第2弾!」というのでもアリだけどさ。その時に、曲を聴く事を考えているか、書く事を考えているのか。そのバランスがどうなるか。その答によっては復帰が近付くし、或いはまだまだじっくり行こうかとなるかもしれない。Hikaru本人も、まだ何も考えていないかな。

ただ、この考え方だとEVAやキンハは"邪魔"になっちゃうな。それも少しおかしい。私の考えがまだ足りていない。次は他の側面からアプローチしてみよう。

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スコットランド独立かー。"グレートブリテン島さん"の歴史は本当に(虚実含め)面倒臭いので門外漢として触れる気はないが、人が多く泣いたというのは事実だろう。どこの誰がとかは兎も角として。なので、このニュースを軽んじる気はない。どんな事情があることやら。しかし、こちらにはそういった小難しい事情はわからない。これから賛成反対諸意見が飛び交うのかな。平和に進みますように。

国というのは厄介な存在で。国際的には個々人のいちばんのアイデンティティ…だなんて言ってるとイスラエルはどうなるんだとかになるんだろう。厄介。

えぇっと、スポーツの場合。自分のよく知ってる卓球のケースから行こうか。あのスポーツは、政治体としての国ではなく競技の協会単位なので、イギリスという国は世界選手権には存在しない。元からイングランド、スコットランド、ウェールズ、、、という協会単位で参加している。そんなだから、随分前に変換されたのに今も香港チームは健在だ。しかも強豪。台湾/中国台北チームも中国とは独立に参加している。こちらも強豪。一方、過去一度だけではあるが韓国と北朝鮮が統一コリアとして1つのチームで参加した事もある。国という枠組みが基本にはあるけれど、それにとどまらない形態が動いている訳だ。これは、アイデンティティという抽象的な問題ではなく、各協会毎に参加選手枠数が割り当てられるので、選手にとってはまさに死活問題。帰化する選手が後を絶たないのもこの為である。

ミュージシャンには、そういった実務的な影響は少ない。ツアーでのVISAとパスポートの問題くらいだ。いや勿論これも侮れない。ポール・マッカートニー今回はひっかからなくてよかったねぇ。なので、Hikaruもこのニュースは気にしなくていいのかといえばさにあらず。今やロンドンに居を構えているとまで言われているのだ。今日本の、関東に住んでる人が、「関西が3年後から別の国になります」ときいたらどう思うか? それ位の距離感なんだと思われる。ロンドンに住んでてスコットランドが独立するというのは。そこらへんの話からまた次回。(そう言ってまともに話が続くケースが、最近はホント少ないなぁ)

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いや~びっくらこいた。まさか Linked Horizon が紅白歌合戦に初出場するだなんて夢にも思わなかった。どれ位意外だったかといえば、今日の3時休憩の時「自由への進撃」を聴きながら「そういや今日3時から紅白出場歌手が発表になるんだっけな~(Webにアクセス)~ありゃまだWebに上がってきてないな。また後でチェックするか。」とか言っていたのに、一瞬たりとも紅白とリンホラが繋がらなかったのだから。嘘のようなホントの話。これ、皆予想してたの? 私は全く考えもしなかった。いやすげーな。私はメタラーなのでSound Horizonの頃からRevoサウンドはお馴染みだが、いやはや、シンフォニック・メタル・バンドが紅白に出ますか。まるで洋食のパンに和食の餡を詰めたみたいなミスマッチ。いやそれアンパンやんけ。案外美味いかもわからへん。餡だけに。言うとる場合か。

それにしてもオリコンの記事には笑った。紅白取材の常連記者が皆リンホラを「誰?」扱いしたというのだ。50代60代であろう彼らに進撃の巨人をチェックしろというのは無理があるけれど、オリコン初登場2位で累計20万枚を売り上げた今年最大級の邦楽ヒット曲を知らなくて流石に恥ずかしくはならなかったのだろうか。ならなかったんだろうね。

何度も書いているが今邦楽市場でそこそこ面白いサウンドを見つけるならアイドルかアニソンを当たるのが鉄則である。アイドルたちは歌は絶望的に下手だがお金は払えるので才能のある音楽家が集まる。あの酷い歌に耐えられるならなかには一聴の価値あるサウンドが散見されるのだ。今回初出場のSexy Zoneなんかがこれに当てはまるかどうかは忘れてしまったけども。彼ら、確かにジャニーズ若手枠だけれど結構数字残してるから妥当な選択じゃないかな。バンド枠は世界の終わりが来るそうだが一年遅いよね。まぁ昔から紅白は一年遅いか。あと、シンガーソングライター枠でmiwaが選ばれたのはちょっと嬉しい。ちょうど去年の今頃ヒカルの曲カバーしてたっけか。数字的には足りないかなと思うので将来性込みかな。

なーんて話をしてても、Hikaruは全く関係ないけどね。ただ、藤圭子と石坂まさをを追悼するコーナーはあるかもしれないので、レア映像が使われる可能性を考えると藤圭子マニアとしては要チェックだろう。衛星放送等で海外でも見れるので、珍しくHikaruが紅白を観る事になるかもしれない。4時間は時間の無駄だから、Hikaruには番組を録画してもらって何時頃に圭子さんが登場したかを我々がツイートで教えてあげよう。そうしよう。

しかし、追悼特集となると、紅白における扱いでは島倉千代子の方が遥かに格上だろう。南こうせつを連れ出して最後の新曲を流すか。12月18日発売だっけ。なんで俺そんな事チェックしてるんだ。まぁ、毎年誰かは亡くなっているので、一瞬写真が映る程度が関の山かもしれない。それでもまぁ有り難いや。

いちばんぶっとんで話題性を振りまけるのはヒカルが出て藤圭子の歌を唄う事だが…うーん、何言ってるんだ俺。


という訳で、珍しく紅白歌合戦ネタに食い付いてみた。邦楽で「今年を代表する曲は?」と訊かれたら私個人は多分「組曲:自由への進撃」と答えるだろうから、紅白にリンホラが出るのは、Revoさんさえよければ大歓迎である。あとは水木TMRコンビが2曲をメドレーで歌ってくれれば満足だ。それただのアニメファンの願望やな。


しかし、今日いちばんのニュースは「スコットランドがイギリスから独立か」という一報である。まだまだ準備段階であり現実味は薄いようだが、Hikaruが「イギリス」でなく「スコットランド」をルーツ認定したこのタイミングでの報。書く方としては腕が鳴ると言わざるを得ない。前回からの続き、先週からの続きを絡めながら今週も参りますか。それにしても遅い時間の更新で申し訳ない。

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今年は新旧のアニメ映画がどれも好調で、相変わらずあの業界は(問題は多々あるにせよ)成長しているなぁと痛感せざるを得ない。その中でも、やはり世代毎の作品に対するアプローチの違いには目を引かれる。

「魔法少女まどか☆マギカ新編」は15億円を突破し深夜アニメ発としては異例の大ヒットとなっているが、中身の方はこの新作になっても"深夜アニメらしい"ノリを存分に発揮している。一言でいえばこの新編は「二次創作発想の公式認定作業」だったと言っても過言ではない。即ち、同人誌等で発露されていた視聴者側の願望や希望の数々が大きく取り入れられていた展開になっていたのだ。陰鬱かつ不気味な作風なのにどこかカタルシスを感じられるのはそういった要素が大きいからだ。

かたや今年最大のヒット作である「風立ちぬ」は、監督の作家性が前面に、いや全面に押し出された作品で、ファンのジブリに対する期待なんぞまさにどこ吹く風であった。俺アニメ描く、お前ら観ろ。そういう関係性が前提にあったといえる。

やや乱暴に対比化しているが、それだけ今の作品作りは、劇場映画ですら受け手との相互作用が強くなっているという感触が強くなっている。それは世代推移と技術進歩のかけ算だが、そこから生まれるグルーヴ自体は、何か馴染みのあるものを感じていた。それは何かなと思っていたら、何の事はない、深夜ラジオのあのノリである。

深夜ラジオといえば、リスナーの中から常連の投稿職人が生まれてきて、その人たちと一緒に番組を作る感じが強い。今でもそのノリは健在だが、インターネットや各種デジタル技術の発展のお陰で、アニメのような図体の大きなプロジェクトにすら、深夜ラジオのような"視聴者との一体感"が生まれつつある。このスピード感の違い。ついていく必要はないと思うが、そうなっているという認識はあった方がいい。


Hikaruは今、深夜ではないけれどラジオ番組をもち、一方で、本流となる音楽の創作活動には表立っては関わっていない。彼女は、そういったバランスの変化をどう感じ取って、どう活かしているだろうか。そんな話が次回のテーマと…なりますやらどうなるやら。書いてみないと、わかりません。

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先日話題になっていたワシントンポストのお悩み相談、確かに面白い。母が「息子がゲイなんだがどうやったら止めてもらえるか」と相談をもちかけた。そこで回答者(女性)はこう答える。「ではお母さま、あなたが自らの性的志向をお変えになってみては如何でしょうか。ヘテロをお止めになって、"ほら、性的志向なんて選択の問題でしかないのよ"と身をもって示すのです」と諭すこのやりとり。見事なものだ。

ここから後回答者は、「性的志向を否定するのはその人の全存在を否定するようなもので…」とお説教を始めるのだが、いやそれも興味深いんだけど、それ以上にこの冒頭の切り返しの鮮やかさである。性的志向(嗜好か寧ろ)の問題に限らず、このやりとりから得られる教訓は「視点を変えてみる」事が如何にダイナミックで大胆な出来事なのかという点だ。

つまり、母親はおそらく、「もし自分がそう言われたらどう感じるか」という視点がもてなかった。"何故もてなかったか"を分析するのも又大変興味深いだろうが、それもここではおくとして、本題に入ろう。"ぼくはくま"である。

いや、歌に限らない。HikaruとKuma Changのやりとりで見えてくるのは、くまちゃんから見たHikaruの姿である。つまり、くまちゃんを通して、Hikaruは、自分が外側からどい見えるかという視点を手に入れた…と言えるかどうか。ここがキーである。

つまり、どういうことかというと、メッセに登場するくまちゃんの台詞は、Hikaruが"耳にした"くまちゃんの発した言葉なのか、それとも、Hikaruがくまちゃんになって自らの言葉として発したものなのか、この2つの区別が非常に重要なのではないか。上記のワシントンポストのお悩み相談を読んで、私はその点に気が付いたのだ。そういえば今まで意識して区別してこなかったなと。

そこで思い出すのはギガントの存在だ。あれはまさしく、Hikaruがくまちゃんになって、くまちゃんの視点から世界を見る事を可能にした"装置"だった。くまちゃんのぬいぐるみを持っている人は世の中にたくさん居るだろうけれど、ギガントを持っているのは恐らく世界中で宇多田ヒカルただ1人だろう。(そりゃあね) この、大胆極まりない"視点の転換"の存在は、くまちゃんの言葉が、Hikaruがくまちゃんになってそこから世界をみて発せられているものだという気分を強くさせる。

であるならば、だ。Hikaruは、外側から自分を見る事が出来るのだろうか? 自分で自分を見ているのか? まるで幽体離脱だが、くまちゃんからみれば、Hikaruが「知らない人の顔」をしている事だってきっとある筈で、その寂しさと怒りの感情は、Hikaruが感じる事のできるものなのだろうか。知っている人間が知らないと言えるのか。難しい。こりゃ、難しい。しかし、ここから宇多田ヒカルの、多視点的歌詞世界観が生まれてくるのだとしたら、私は知らずにはいられない。知ってしまったらもう二度と戻れなくなる事を知っていようとも。

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寒い  


皆さん、お風邪などは召されていませんか。くれぐれも、お大事に。

では前回の続きから―。そういった伝統やルーツを否定するアティテュードから来るパンク/ニューウェイヴの流れを組む音楽にルーツを見いだすとは一体どういう事なのか…という続きの話はもっと込み入ってくるので今回はそちらから矛先を変えまして。もっとシンプルに「何故スコットランドなのか」について、基本的な所から立ち返ってみよう。

いちばんの理由は本当に単純で、「寒いから」だ。地球というのは広く大きい。ヒトが住むにあたって最も大きなファクターは気温である。熱帯に行けば夜寝るのにも布団はおろか家も要らない。道端に寝転べばよい。防犯上の心配は別として。一方で寒帯で服と家がなければ文字通り死ぬ。ここからして、あったかいところとさむいところでは「生きる」という事に対して基本的な所から違うのだ。

HikaruはNY生まれである。そして、(Hikaruも指摘されて気付いていたように)NYはアメリカの東北にあって、寒い。そこで生まれ育った部分から把握する必要がある。日本でも宮沢賢治に惹かれて(だけでもないか)東北地方に赴いたりしているが、何が共通してるって「寒い」のだ。人の感情の基礎はここで決まる。

ではスコットランドは寒いのか。私は行った事がないので知らない。しかし、スコットランド産の音楽は、幾らかその「寒さ」を運んできてくれる。如何に洗練された音楽といえど、その「寒い感じ」は消えないものだ。まずそこが基底路線である。(普通は"既定"路線ね)

しかし、ただ「寒い」だけなら他に幾らでもある。北欧諸国、同じイギリスのイングランド、ウェールズ、北アイルランド、そしてアイルランドにアイスランド、グリーンランドにカナダにアラスカ、シベリアでもいい。他に沢山の候補がある中でのこの「スコットランド」。これは何なのか。

実際、音楽ファンでも、かなり大抵、スコットランドが好きならアイルランドも好きだし、スカンジナビアンや、場合によってはカナディアンにも共通点を見いだして愛でる。特にトラディショナル系では、総てを"ケルティック"で括ってケルト系のファン、という自覚を持つケースが多い。Hikaruは、(少なくとも現時点では)そうなっていないのである。だから多分、ここから先の絞り込みは難しい。

そういった込み入った話は今回は置いておくとしよう。まずはスコットランドが「寒い」地域であること、NYや、日本の東北、場合によっては東京の冬も「寒い」こと。今回はそこだけ押さえておけば十分である。そして、これが何よりも重大なんだろうな。

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コクトー・ツインズは、Hikaruの走り書きにあったように「ポスト・パンク」「ドリーム・ポップ」そして「スコットランド」なバンドだが、ああいう幻想的な曲調を聴いてしまうと、何故あれが「ポスト・パンク」なのかイマイチぴんと来ない。日本でパンクのスタンダードを確立したのはザ・ブルーハーツだろうが、ああいうハキハキジャキジャキしたサウンドとは対極にすらあるといえる。

まぁ、彼らも初期のサウンドを辿れば「なるほど」となるのだが、そこからTreasure や Heaven Or Las Vegas などの名盤が生まれるとは予想もつかないと言える。何故こんな事になったかは、しっかりと歴史を見つめ直してみる必要がある。

ポストパンクの前は、後(ポスト)の前なんだから当然パンクで、この世代の音楽ジャンルは「パンク/ニューウェイヴ」と一括りにされる事が多いが、かなり音楽性の異なる2つがこうしていっしょくたにして語られるのは何故なのか。そこには「過去を否定する」という共通点があったのだ。

パンクとは、まぁタイヤのパンクを思い浮かべればいい、破裂するようなあの感じ。70年代にロックが様式技術を重んじるようになり、ロック本来のプリミティビティが失われてしまったと感じた新しい世代がパンクに走った。要は、肥大化したロックに風穴をあけて破裂せしめたのがパンクな訳だ。様式を無視し、技術がなくても音を鳴らす。そこにあったのは過去との決別と断絶であった。

「ニューウェイヴ」も実は、思想としては同じである。70年代のロックを古い時代の音楽、「オールド・ウェイヴ」として否定し、新たな音楽を創ろうという気風が70年代後半から80年代前半にかけて表れた。音楽自体はパンクとはまるで異なったりするのだが、それまでの音楽を否定した上で創作に入るアティテュードは共通していた。あクマで「否定から入る」。ここがポイントだ。

90年代にも似たような動きがあり、80年代後半に商業的に肥大しきったロックに原初性を取り戻すべく"オルタナティヴ・ロック"が脚光を浴びたのだが…ってまぁそれはいいか。

この、「否定から入る」アティテュードが最初にあった世代だという点は、コクトーツインズのサウンドを見極める上で非常に重要である。出発点が否定な為、音楽的に洗練を経て美学の表現に長ければ長けるほど、その耽美は退廃の度合いを増してゆく。そして、これが70年代のロックと大きく異なるのだが、曲に展開がないのである。あるフィーリングを捉えたら延々とそこに耽溺し、それに終始する。何しろ、過去の否定が出発点なのだから、「それまでの流れを"踏まえて"」次の音楽を繰り出すという発想に乏しい。これがパンク/ニューウェイヴ世代の退廃的な耽美性の正体だ。極端にいえば、意味を求めない音楽なのである。

そういった時代性、つまり、「ニューウェイヴ」とは「オールドウェイヴではない」という意味であり、新に新しい訳ではない。古さを否定しているのだからそこから何かが新しくなれる筈もない。ただ孤立した、「それとは違うもの」「それでないもの」の集積として、コクトーツインズの音楽をまずは捉えてみよう。それが入門編であり、同時に総てでもある。

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スコットランドをルーツとして語る時「土」がキーワードになるとの事だが、確かにブルー・ナイルなどは「ダウンタウン・ライツ」みたいな"ラウンジ・ミュージック"が代表曲なのに、どうしても隠し切れない地脈のようなものを感じる。それは伝統的というか、スコットランドに共鳴する総てのミュージシャンが語るキーワードかもしれない。いや別に皆にきいてまわった訳じゃないけど。

スコティッシュと共に、お隣のアイルランドや、北欧各国も巻き込んであの一体の伝統的な音楽を「ケルト」として纏めて認識している音楽ファンも多い。私もその一人だが、ケルティックと言った時にはそれに対応した音階が頭に浮かぶのだが、スコティッシュと限定すると逆にその統一感は抽象的になる。区分けの統括度が下がると曖昧さが増えるというのも奇妙な話だが、例えばコクトーズなどは寧ろケルトというイディオムから如何に距離を置くかといった点に注力しているようにも考えられる…

…話が小難しくなってしまったが、Hikaruの"ルーツ"らしきものに名前が付けられる状況になった事実は兎に角画期的である。今の話も、Hikaruが今までケルトというイディオムから距離を置いてきた事を想起したからだ。恐らくいちばん接近したのはGoodbye Happinessだろうが、あれがケルトだと言ったらケルトファンからは煙たがられるかもしれない。そうではない、のである。

お隣のアイルランドでは、真っ向からのケルトといえば、例えば大御所のチーフタンズが居たりするが、一方でその色に染まらないU2の存在があり、そういった音楽の中で"アイリッシュ"というイメージが醸造されている。いい対比が思い浮かばないが、スコティッシュでもそういった風景が広がっている、という事だ。

もっとシンプルに言ってしまえば、バグパイプが似合うとケルトである。スコティッシュ・バグパイプやアイリッシュ・バグパイプを積極的に使うとケルトっぽくなる。少し控えめだとそうはならない。それ位でOKだ。というか私もその程度の認識である。

そして、ケルトとは"土"なのだ。アイリッシュやスコティッシュは、その"土"を前面に出したり、土壌として下敷きにして成り立っている。Hikaruの言う"土"は、土壌として下の方に隠れている類の"土"であり、その意識づけ自体がルーツという物事の捉え方なのだ。辿っていった先、根の生える所である。それがNY生まれの人からきけるというのは奇妙な感じだが、そこらへんの所からまた次回。

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そうだな、あと飲んだくれタイトル候補としては「Kuma Power Sour」なんかもいいな。まるで「Hikki's Sweet&Sour」の続編みたいでいいじゃないか。同じInterFMだし。それなら「Warning Hikki Drunk」とかでもいいかな。いやこれは本気で危ないか。そりゃまぁさておき。


熊泡六はスコティッシュ・バンド特集で私の気分が盛り上がったかと思いきや。何とも妙なテンションになってしまった。昨晩は今後の無意識日記を睨んで敢えてうざめな、鼻持ちならないトーンで何度も呟いておいたと正直に告白しておく。予防線という奴だ。

先般から「もし英国特集だったら拍子抜け」と書いてはいたが、違った意味で何となく梯子を外されてしまった感じ。だってお馴染みの曲ばっかりなんだもん。熊泡の魅力といえば、私にとっては自分の知らない良質な音楽に出会える機会を得られる事だった。しかしこれがコクトーズにブルーナイルとくれば。冒頭2連発がピンクオレンジレッドとローレライだなんて気恥ずかしくって仕方なかった。何ていうの、学校できょうだいとバッタリ出会してしまった時みたいな。或いは、つぼんじゅーるで遂にみかしーとの共演が叶ったゆかちんの言葉を借りれば「家族に仕事場を見られた」みたいな。そんな感じ。どんなだよ。

んで最後の3つめがやっとモグワイということで、「やぁ、彼らの曲だったらそんなに知らないな。どれどれ。」と耳を傾けたら選曲は「キリング・オール・ザ・フライズ」(誰かファイルズって書いてた気がするけどそのタイトルもいい!)、即ち「総ての蠅を殺して」――ってそれ昔己が呟いてた奴やがなっ。初耳ちゃうわっ、とラジオに向かって突っ込んでしまった。とほほ。


…んでも、こうして書き下してみると滅茶苦茶番組を楽しんでるな俺…よかったんだなこれで…「もっとヒカルちゃんのトークが聴きたい」と尤もな意見を寄せてくれている皆さんすいません。めっちゃ楽しいんすこの音楽番組。


最後にもうちょい真面目な話題にも触れておこう。今回Hikaruのお蔭で、英語圏の人たちもリズの歌う歌詞が聞き取れない事がわかった。ずっと(でもないけど)気になっていたのだソコ。私なんぞはコクトーズに耳を傾ける時に言葉を聞き取ろうなんて思った事がなかったから、いや、そもそもコクトーズに歌詞があるだなんて発想もなかったから、そう改めて言われるとやっぱりそうなんだなーと溜飲が下がった。

なんでこんなヴォーカル・スタイルなんだろう、というのと、この独特な魅力は一体何なのだろう、という2つの疑問が必然的に湧き上がるが、私は1つの答えでその2つの質問にこう答えたい。恐らく、エリザベス・フレイザーのヴォーカルスタイルは、"歌から言葉が生まれてくる瞬間"を擬似的に表現しているのではないだろうか。彼らが意図的にそうしている訳ではないだろうが、それはまるで感性と感覚の海に溺れているようで、しかしまにまにふとソラミミで言葉のようなものがふと耳に飛び込んでくる。或いは羊水の中を揺蕩いながら、外界の音に耳を澄ましているような、そんなイメージがコクトーズの音楽にはあるように思うのだ。誰もが知っていた、みんな体験していて忘れ去っていた記憶を呼び醒ますような普遍性、そここそがエリザベス・フレイザーの歌声の、コクトー・ツインズの音楽の魅力なのではないだろうか。言葉が歌から生まれた瞬間、それは永い人類の歴史のどこかで必ずあった出来事だろう。そこを"思い出させる"プリミティビティ
。Utada Hikaruを魅了するのも無理のない事だと思われる。

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