無意識日記
宇多田光 word:i_
 



アルバム『Fantome』のテーマは「性と死」だと書いたが、今一度各楽曲の歌詞を振り返っておこう。性と言ってもセックスの方よりジェンダー論或いは性差や性の分類についてに比重が大きいかもしれないが取り敢えずそんな感じで。加えて「母」も勿論あるが、ひとまず「性と死」だろう。


『道』はダイレクトにお母さんに向けて歌った歌だ。居なくなってしまった人に対して力強く生きていく宣言をする歌。愛する人の死を受け入れる内容である。これは「死」の側だ。

『俺の彼女』は男と女の本音と建て前を歌った歌である。勿論「性」の側。ヒカルなりのジェンダー論、ステロタイプに対するアイロニーのようなものだろうか。

『花束を君に』は死化粧を思わせる歌詞を孕む「死」の側の歌だ。喪った人に対する感謝の美しい楽曲である。

『二時間だけのバカンス』は「性」の側だろう―と言いたくなるのはミュージック・ビデオの影響が大きい。「百合かっ!百合なのかっ!?」と百合男子を色めき立たせる。ただ歌詞は様々な性別の組み合わせを想像させるので必ずしも百合とは言い切れない。しかしジェンダーが鍵を握るのは間違いなさそうだ。

『人魚』は性と死、どちらでもないだろう。幻想的な風景と日常の景色を交錯させるスケッチのような楽曲だ。何より、「ヒカルがこの曲から曲作りを再開させた」記念すべき楽曲である点が何よりも重要だ。

『ともだち』はヒカルの宣言通り、同性愛を歌った歌だ。「性」の側の歌である。

『真夏の通り雨』。今まで触れたダブル・ミーニングの中でも最もゾッとした作品。「死」そのものでありながら、作詞者本人が「中年の女性が若い男子と」と言ってしまえるあたり、本当に恐ろしい曲だ。アルバム中唯一、「性」と「死」の両面を持つ歌である。

『荒野の狼』。ヘッセの"原作"を読んだ身としてはこの歌の歌詞をどう解釈したものか、ちょっと躊躇う。ただ、少なくともわかりやすく「性」や「死」を扱ったものだとはいえないだろう。どちらの側でもない。

『忘却』は男女のデュエットであるという点で聴き手に強く「性差」を意識させる歌だが、歌詞自体はそこまで直接的ではない。しかしやはり、その方法論をもってして「性」の側の歌と言った方がよさそうだ。『いつか死ぬ時手ぶらがベスト』という歌詞で曲が終わるが、『いつか』の話だからこそこの歌は「死」の歌とは言い難い。

『人生最高の日』はとても触れ難い。取り敢えず歌詞そのままのウキウキソングだと思っておこう。これは「性」以前の「恋に恋する」物語だし、死の影は微塵も…ない。

『桜流し』。圧倒的な鎮魂と哀悼の歌。「死」と、何より「生」の歌である。ここでは「死」の側に分けておこう。


以上。つまり。

「死」の側の歌は『道』『花束を君に』『桜流し』の3曲。
「性」の側の歌は『俺の彼女』『二時間だけのバカンス』『ともだち』『忘却』の4曲。
どちらでもないのが『人魚』『荒野の狼』『人生最高の日』の3曲。
両側に跨るのが『真夏の通り雨』の1曲。

という分類になる。これを踏まえて以降は議論が展開される(と思う)ので、読者諸氏は頭に入れておいてくださいな。

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ロジャー・フェデラーで驚かされるのは、「あんたほんまにテニス・ファンなんだねぇ」って事だ。ただテニスを愛しているのみならず、本当によく他のテニス・プレイヤーの事を知っている。確かに、対戦相手の研究に余念がないだけなのかもしれないが、プロツアーを転戦している選手がああも他人のプレーぶりをチェックできるかね。大抵、自分自身のケアで手一杯だろうに。史上最高のテニスプレイヤーは、史上最高のテニスマニアでもあるのか。

普段は表になかなか出さないが、ヒカルさんも音楽を愛している点に関しては人後に落ちない。それは『Kuma Power Hour』を聴けば明らかだ。よくもまぁあれだけ広範なジャンルから曲を拾ってこれるものだ。かつてインタビューで答えた『music is music.』をそのまま体現している。

それは『トレビアン・ボヘミアン』の頃から変わらないが、その頃と違うなと思うのは、今は作る曲に僅かずつだが聴いている音楽の影響が垣間見れる所だ。この間指摘した『道』がカルヴィン・ハリス的だという話もそうだし、ハープを用いた『人魚』などはスコティッシュ・トラッド風でもある。「Part Of Your World」へのオマージュがあるかと思ったらなかったけど。そこらへんは『Kuma Power Hour』で紹介されている。また、少し距離はあるが、番組でも流れたフランク・オーシャンのアルバムに『忘却』のKOHHが参加していたらしい。直接の繋がりではないが、ひょっとするとここからヒカルはKOHHの事を知ったのではという推測も出来る。真偽は別にして、トレボヘの頃とは違い番組を聴き直す事で新作へもたらされた影響を推し量る事が可能になった。…いや、トレボヘの頃もGLAYの曲をかけて後にTAKUROとコラボとかもあったか…まぁいいや(ええんかい)。

単純にトレボヘとの違いは『Kuma Power Hour』が音楽番組として作られていた為生じたと考えてもいいだろう。ヒカルの趣味が全開過ぎてファン全員がついていくのは無理だったが、大事なのはヒカルが楽しく番組作り出来ていたかどうかだから(断言)。言い方を換えると、この時にヒカルの趣味についていけなくなっていた人は『Fantome』での作風の変化にも戸惑ってしまったのではなかろうか。そういう点においても『Kuma Power Hour』は伏線として機能している。

本気の「気に入らなかった」という意見を集約するのは難しい。大概、聴いてみてピンとこなければそのままCDがお蔵入りになっておしまいである。わざわざ自分の気に入らなかった作品について延々語ってくれる人は稀だ。問題は、作り手側がそういう感想を聞きたがっているかどうか。うん、難しい。ただ、サンプルとして数は少なくともそこから読み取れる空気というものがある。次回作にはそれも反映されるかもしれず、となると、『Fantome』を気に入ったファンも『Fantome』を気に入らなかったファンも両方取り込める作品を作り上げてくるかもしれない。ヒカルならやれてしまえそうで怖い。そういう変化もリアルタイムのラジオ番組を持っていてくれればチェックできるのに、なんとも惜しいな。またラジオ番組を復活させてヒカルの音楽愛を見せて欲しい。

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昨日のラファとロジャーによる26本のラリーは感動的だった。特にラストのショットは圧巻。ラファからのクロスのボールをライジングのカウンタートップスピンでストレートに抜き去った。フットワークの衰えをカバーする為だろうか今のロジャーは昔よりライジングを多用しているかもしれない。ライジングをカウンタートップスピンするだけでも凄いのにそれをダウンザラインで切り返すだなんてもう目眩がする。それをグランドスラム決勝の最終セットでカマすのだから神なのだなロジャーは。普段やっても十分凄いんだけどね。

卓球の方ではライジングのカウンタートップスピンを両ハンドでかけられるかどうかが技術的には最先端だろう。基本的に様々な技術はテニスより卓球が先んじている。ビヨン・ボルグがトップスピンでもてはやされる10年以上前に卓球ではループドライブが編み出されていた。テーブル・テニスという位だから明らかにテニスより後に出来たスポーツなのに、興味深い話ではある。で、その両ハンドによるライジングカウンタードライブスタイルを今完成に近付けているのが平野美宇で、先駆者である中国の劉詩ウェン(←雨冠に文)に実力的にも肉薄し始めている。

嗚呼、ついでに言っておくと、ワールドカップと全日本選手権をとった事で美宇が一歩リードと思われているかもしれないが、総合的な実力では伊藤美誠の方がやや上である。現時点では。単純に、美誠の方が頭がいい。まぁその差はほんの僅かなので「ほぼ互角」と言っておけばいいか。なお、流石にまだエースは石川佳純だが、2年も経てば美誠美宇ひなの方が強くなっている可能性が濃厚だ。しかし、国際大会は経験がものをいうので大きな怪我が無い限り世界ランクは皆大体同じ位だろう。つまり、トップ10に日本人選手が3〜4人居る状態がずっと続くだろう。

という予言が当たるかどうか。自分で楽しみにしておこう。2年位前に「5年もあれば早田ひなはTop20に定着する」と書いてもうその状況が目の前なのでちと焦っている。爆発力では黄金世代随一なので5月の世界選手権シングルスで出してみて欲しかったなぁ。次回19年に出れれば優勝するかもしれん、が、日本代表になるのが今はいちばん難しいよね。兎に角故障しないことを祈りたい。皆。

石川はプレースタイル的にあまりもう成長の余地が無い。それは美誠も同じなのだが、頭脳の出来が違うので応用力に差が出てくるだろう。美宇とひなはまだ改善の余地がたんまりある。ただ美宇のスタイルはまだ誰もやった事のないものなので、選手生命が短い恐れがある。ひなはいちばんの有望株だが、生き方的に「美宇美誠の後を追う」クセがついてしまっているのでそこから脱却できるかどうかが鍵だ。あと濱本とダブルス組んで世界選手権とって欲しかったんだが、東京五輪までは組ませて貰えそうにないねぇ。

テニスに話を戻すと、こうなれば次の四大大会、全仏オープンはラファエル・ナダルが優勝候補に躍り出る。更に次のウィンブルドン、芝ではフェデラーがまた勝ち上がるかもしれない。10年前かよ。錦織が今年グランドスラムをとれる確率がぐっと下がったな。ジョコビッチとマレーが黙っている訳がないからだ。勿論ワウリンカやチリッチといったグランドスラマーも元気だし、今大会のプレーを見せられてはディミトロフにも可能性が出てきたと言わざるを得ない。デルポトロがどこまで復活するかも未知数だ。シーズンイン前は「世界ランク4位以内に入れればベスト4シードが貰えグランドスラムがぐっと近づく」と錦織は考えていただろうが、今やそれももうどうなるやら。ラファとロジャーが復活してしまうと、たとえベスト4シードを死守していても準々決勝までに彼らに当たってしまう。特にロジャーが試合数をセーブして世界ランクがあがりきらないまま次のグランドスラムを迎えてしまうと絶望的である。

このままだと、トップ選手の中で錦織だけがグランドスラムタイトルに手が届かない、という事態になりかねない。まずはマスターズ、というのが現実的だし、課題の心身のスタミナを考えるとツアーファイナル優勝の芽の方があるかもしれないが、やはり世間がみたいのは、そして本人が欲しているのはグランドスラム優勝だろう。年齢的にも、あの速いプレイスタイルを維持できる期間がそうそう長いとも思えないので、今年と来年の間にグランドスラムをとらないともう無理かもしれない。今回は千載一遇のチャンスだったのにそれを逃してしまい、眠れる獅子を起こしてしまった。兎に角、怪我無くシーズンを過ごして虎視眈々とチャンスを狙って欲しいものである。

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昨日は全豪オープンの男子決勝を楽しんでいたらタイムラインに次々にマイク・トランプによる大統領令に関するツイートが流れてきて「大変な1日なんだなぁ」と他人事らしく眺めていた。

テニスの方はロジャー・フェデラー対ラファエル・ナダル。10年前の決勝かよ、と思って10年前のメッセを繰ってみたらヒカルがナダルを「ハタチの若手」扱いしていて笑った。今30歳のナダルが10年前に20歳なのは当たり前過ぎる程当たり前なのにあらためて「みんな10年分歳をとったんだなぁ」と痛感させられたよ。ヒカルは今年の全豪は見ていたのだろうか。当日ツイートをしておきながら自分の誕生日を忘れているという構えでは、ネットに張り付いているような事はないだろうけれど。

子育て中、と言っててもヨソんちのガキは瞬く間に成長する。日々変わりゆくフェイズにヒカルもただでさえまぁるいおめめを更にまぁるくして驚いているんだろうな。すぐさま乳児期の無意識に気付くあたりは流石だし、育児日記を出版したら結構売れる気がするけれど世間的なイメージは「1児の母」より「圭子が母」なのだろう、未だに。別に悪いこっちゃないんだけどな。

テニスの試合は長い。グランドスラムの男子単ともなるとフルセットは5時間にも及ぶ。昨日の決勝も3時間38分、218分である。とても育児中のお母さんがゆっくりテレビ観戦できるサイズではない。その時間ちょうど寝ててくれりゃいいけどお母さんだって眠いのよ。

全米で移民排斥騒動があり、全豪で伝説がぶつかりあっている間、ヒカルは英国で子守歌でも歌っていたのだろうか。ユニオンジャックの旗の下、それぞれがそれぞれの人生を歩んでいる。こちらは極東の島国で眠そうに欠伸をしている。今日は暖かくなるらしい。有り難いけど、その分夜の冷え込みが怖い。雨が降る地域もあるという。皆さんくれぐれも体調管理にご留意を。




…なんて事を書きながら「今週は何書こうかな?」とあれやこれやと頭を巡らしているのでした。のんびりいきましょう。

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何だろう、今世界でいちばん『This Is The One』にこだわっている人間な気がする(笑)。毎度書いてるように、よく聴くのだこのアルバム。短いから。40分いかないくらいがちょうどいい長さというか。なんでアルバムって1時間もあるんだろうね。大抵長いよね。当然曲も短いからさらっと聴ける。

自分の嗜好だろうな。曲の長さは3分くらいがちょうどいい。4分5分になってくると「長いなぁ」となる。その割に「やっぱ大作は25分くらいないと」とか言い出すんだから始末が悪いんだが、そんな訳で『This Is The One』やSCv2d2などはよく回る。

何より、ツアーがよかった。何が特別って、今までのライブで唯一、「何を歌ってもよかった」コンサートなのだ『In The Flesh 2010』は。『EXODUS』や『This Is The One』の歌は当然歌うし宇多田ヒカルの歌も歌う。それが高じて『Passion』と『Sanctuary』がくっついてしまう、挙げ句の果てに『ぼくはくま』の大合唱まで巻き起こる。それ以上に歌ったのが『First Love』で、更に大声を出したのが『Come Back To Me』だった…それを、そのパースペクティブを一回だけとはいえ現地で経験しているから、持っている印象が異なるのだろう。

『Come Back To Me』がヒットシングルだった、という実感の有無。特に私が行ったホノルルでは現地のFMラジオのチャートで1位をとったらしい。情報だけだとほんまかいなという感じだが、“『First Love』を上回る大合唱で大盛り上がり”を目の前でみてしまうとさもありなんと納得する以外無かったのよ。

他の街に行った友人たちにも訊いてみるべきだな、『Come Back To Me』の受け入れられ方を。そこに更に『Passion/Sanctuary』や日本語曲への好反応が加わる、という感じ。くどいようだが(ほんまな…)、海外ではまずUtada Hikaruのヒット曲といえば『Come Back To Me』であり、そこに『Simple And Clean』と『Sanctuary』が加わって、という景色なのよ、うん。

勿論今はもう2017年だから2010年当時とは様子が違っている筈だ。そのまま印象を外挿するのは余りにも危険だ。しかし、2010年当時ですら、2001年の『Can You Keep A Secret?』に歓声が巻き起こっていたのだ。海外のUtadaファンは日本よりずっとロイヤル…そうだとすれば、あれから7年経とうが多くのファンが残っていると解釈したくなるんですよ、えぇ。


まぁムキになっていても仕方がない(ホントだよ)。今回は違ったが、そのうちHikaruは日本国外でも活動を開始する。世界契約を結んでしまっているのだから。勿論レコード会社も、ほぼノープロモーションで各国のチャートを席巻するのであれば、本格的なプロモーションを仕掛けたらどこまで行くのかと興味を持ち始めている、とみるべきだ。果たして今後のHikaruの活動バランスはどうなっていくのやら。海外で受ければ受けるほど日本国内での活動が減るジレンマに今度こそ本気で向き合わないといけないかもしれぬな日本のファンは。

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『Fantome』ではジェンダーが揺らいでいる。まず『俺の彼女』で「男と女」を描いているし、『二時間だけのバカンス』はミュージック・ビデオが百合だ。『ともだち』は同性愛の歌だとヒカル自身が公言しているし、『真夏の通り雨』は若い男の影がちらつく。これもヒカルがコメントしている。そして『忘却』は、『俺の彼女』がヒカルによる男女の演じ分けだったのに対して、正真正銘の(かどうかは知らないが)男女によるデュエットである。今までのアルバムでもそういうテーマを匂わせる曲は、例えば『Prisoner Of Love』など幾つかあったが、ここまで集中的に且つ多岐に亘ってテーマとして取り上げたアルバムは初めてだろう。コンセプトアルバムと言っていいくらい。

一方で『道』『花束を君に』『真夏の通り雨』『桜流し』(『人生最高の日』は?)といった、鎮魂の歌が居並ぶ所もまた本作の特徴だ。亡き母に捧ぐ作品だから当然なのだが、この大きな2つのテーマが交錯するアルバムを、どう解釈すればいいだろう。

この2つ、ジェンダーと鎮魂が絡み合う曲が1曲(だけ)あって、それが御覧の通り『真夏の通り雨』だ。ジェンダー、というと違うように思われるかもしれないがそうではない。女親への想いと若い男の思い出を重ねて女が歌う姿はジェンダーの根源の表現と言っていい程である。その意味において、個々人の好き嫌いはあるだろうが、ひとまず『真夏の通り雨』は『Fantome』アルバムの要、最重要トラックと言っていいだろう。

ただ、この"絡み合い"はそこまで計画されたものでもないだろう。ヒカルが曲を作っていく中で自然と出来上がっていった色合いが強い。『真夏の通り雨』を書き上げた流れでそのまま来た、というのがイメージに近い気がする。

計画性を感じないのは、歌詞は兎も角、サウンドの方がとっちらかっているからだ。バラエティーに富んでいるといえば聞こえはいいが、では塊で襲いかかってくるかというとそうでもない。曲同士の相乗効果も薄い。一方で各楽曲には固有のドラマ性と確固たるキャラクターがある。なかなかに評価の難しいアルバムだ。

いずれにせよ、どの曲を解説するにしても『性と死』という2つのテーマの両方に気を配る必要が、出てくるだろう。面倒臭いヤツだな本当に。それに疲れた場合は、『人魚』のハープに心癒やされるとするか。全く、本当によく出来たアルバムである。見事なものですよ。

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梶さんが『Fantome』の海外での成功についてYouTubeについて言及したのは、裏を返せば他にアクセスできるデータがなかったのではないか、という事になる。

YouTubeの法人契約がどんなものかは知らないが、アクセスIPの国別集計データなどは手に入れる事が出来るのかもしれない。梶さんがそれに基づいて「YouTubeでバズった」と結論付けるのは自然な流れだ。

一方、同じユニバーサルグループとはいえ、他の国でのiTunes Storeの売上データなどはなかなか手に入らないのではないか。もしかしたらそれ以前に、Appleからな情報提供も限定的なものなのかもしれない。iTunes Storeはログイン制なのだから、住所や年齢、国籍、予約の有無、購入の時期や時間帯、他の音源購入との相関など、データ取り放題である。約款の内容を今思い出せないが(よ、読みましたよもももちろんっ)、個人データをAppleが利用するまでは自由な筈だから。兎に角、それを分析できれば『Fantome』が誰に売れてるかなんてすぐわかる。梶さんの発言からは「いやそれは無理」感が漂ってくるので、できないのだろう、多分。

という訳で『Fantome』の海外での、特に全米での成功の理由はイマイチ判明しているとは言い難いのだが、なんか忘れてるよねぇ。昔から散々言ってるけど、一曲忘れてるんだよみんな。『Come Back To Me』を。

今やユニバーサル傘下で統合されているのだから、この曲のアクセスIPの国別データはすぐに手に入れられる筈だ。そしてここからは私の勝手な予想だが、ヒカルのどの曲よりもこの曲のアクセス分布が最も世界各国でのiTunes Store売上に近いと読む。

これは当然で『Come Back To Me』の再生回数はヒカルのTop10に入る程多い。実はこの曲だけ1年早い2009年からのデータだったり、他のヒカルの曲はこの1年のVEVOでのデータを合算しないといけなかったりで、視聴回数ソートで出てきた順序をそのまま鵜呑みにしてはいけないのだが、それでもかなり多い。そろそろ2000万回に届こうかという数字だ。

何故この曲がここまで人気なのか日本人にはピンと来ない。しかし、2009年にUtadaはIslandという名門レーベルからそこそこ期待の新人としてセカンド・アルバムをリリースしたのだ。ファースト・アルバムのプロモーションが皆無だった事を考えると、殆どデビュー・アルバムのノリで。

肝心なのは、Islandなんて古豪レーベルからデビューすると、何十ヶ国という規模でそれぞれの国で国内盤が発売され、その存在がアナウンスされるという点だ。『EXODUS』の時はなかったこの"当たり前のこと"が『This Is The One』では起こった。『Come back To Me』はそのリーダートラックだったのだから、熱心にリリースをチェックしている各国の音楽ファンからすれば、彼らがJ-popリスナーでなくても、記憶の片隅に残っている可能性がある。もう1度言う。7年前のUtadaは、アジアや日本の歌姫としてではなく、名門古豪レーベルであるIslandのそこそこ期待の新人として(仕切直しの再)デビューを飾ったのだ。つまり、音楽マニアからすればインターナショナル・アーティストの1人なのである。

iTunes総合18位、ビルボード69位というと大した数字ではないかもしれない。しかし、これ位の数字を出せればアメリカで2〜3000人規模のコンサートツアーをサーキットする事は可能だ。事実Utadaは800〜1600人規模のライブ会場を10ヶ所ほどまわりどこも満員の盛況だった(ソールドアウトではない)。それだけの成功を遂げたアーティストの新作が配信限定なら、iTunes StoreチャートでTop10に入ってきてもなんら驚く事ではない。そして、ユニバーサルのIslandから(欧州ではMercuryからだったりしたが)リリースされた以上、全米での状況と評判は全世界に伝播する。世界中の国でUtadaの知名度があるのも、『Come Back To Me』と『This Is The One』のお陰なのだ――――というのが、私個人の見立てである。

ここに各国のJ-popマニアとKingdom Heartsファン(これがデカい)からの参入を計算すれば、『Fantome』の全世界的な成功は無理なく説明できると思われる。なぜ皆、このわかりやすい所から話を始めないの?

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梶さんのセミナーレポートを読んだ。『Fantome』のプロモーションが随分計画的に行われていた事がわかった。ここで読み取るべきなのは個々のプロモーションのアイデア自体より、全体の設計からタイムスケジュールを組むセンスだろう。なるほど、そういう方法があるのか、と感心してもその手法はご覧の通り梶さんがやってしまっていて最早手垢がついている。自ら一つ々々のプロモーションプランを導き出す為に、梶さんがどういう思考順序でそこに至ったかをチェックしなければならない。

若人への助言はこれ位にして(?…わかってる人には釈迦に説法だし、わかってない人は馬の耳に念仏だから無意味なんだよねぇ、釈迦でも馬でもなく人が読めば或いは…)。

私が興味深く読んだのは二点。関東偏重と米国成功への言及だ。

梶さんによると、『Fantome』の売上の4割弱は関東でのものだったらしい。同週発売のEXILEファミリーさんたちが、「田舎のヤンキースに支持されている」イメージが強いので、その対極を行った訳だ。正直その発想はなかった。米国だとカリフォルニアとテキサスとニューヨークで売れる音楽がまるで違うとはよくきくが日本では地域格差の話は出にくい。逆に「今週渋谷で流行ったものが来週日本中で流行る」みたいな20世紀的発想がおっさんからは抜けない。

寧ろ"渋谷偏重"を痛感したのは『宇多田ヒカルのうた』アルバムの方だったか? 幾つかの地域で試聴会が催されたので痛感は過言なのだが、展示会やらDJイベントやらはやはり渋谷だった。『Fantome』でもそのノリを受け継いで、コラボカフェも渋谷だった。ある意味こちらからしたら昔懐かしい"中央集権型プロモーション"だなと思ったが梶さんからしてもそれは織り込み済みだったらしい。その後他の地域でも売上を伸ばしたとセミナーレポートには書いてあるので、作戦は成功といったところか。いずれにせよ、こういう売上の地域差という観点も見落としちゃあなんねぇなと改めて思い直した次第です。


もうひとつは、全米での成功について。

言っても高々iTunes Storeでの話なので実数はそこまで大きくないのだが、だからって全米3位だか6位だかのインパクトが薄まる筈もなく。

でなぜそこまで成功したかの分析なのだが梶さん曰く「海外のファンがYouTubeでバズった」くらいしか思い当たらないみたい。ふむ。

元東芝EMIの宇多田チームは、こちらが思っている以上にIslandのUtadaに対して思い入れがない。自分たちの仕事ではないから当然なのだが、それにしたって作品の存在自体を忘れるのはなかなかである。沖田さんに「2014年にEXODUS10周年企画をやる気はなかったのか」を問うたところ「頭になかった」とのこと。それ位の認識なのだ。

それを考えると…なんか長くなったな。続きはまた次回にしておくかな。

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小さい頃、音楽でメイン・テーマ(・メロディー)の事を“動機(モチーフ)”と呼ぶ事にイマイチピンと来ていなかった。大人になったら「そりゃあ作曲するにも理由が必要だわな」と合点が行くようになったが、そういう作り手側の目線に立つ事で見えてくる景色もある。

「スネアの切なさ」という超名言に代表されるように、ヒカルは、少なくとも昔は、コード進行と共に、リズム・パターンから曲を作り始める事が多かったのではないかと推理する。リズムが動機だったのではないか、と。

人が何から曲を作り始めるかは興味深い。歌詞から始める人もあればメロディーから始める人もある。最初っから歌って始める人もいる。いちばん多いのはコード進行からかな。コードというのはイマジネーションを喚起する。「ん?この先に何かあるぞ」と思わせる。そこからメロディーを掘り起こしていく感覚だ。

楽器をやる人ならその楽器ならではの曲の作り方がある。ピアノとエレクトリック・ギターでは出てくる曲がまるで違う。彼らにとって曲の動機は「この楽器を演奏していたい」という気持ちから生まれるものだ。

では、ヒカルが、仮に私の推理通りに、打ち込みのリズムパターンから曲作りを始めるとして、そこにはどんな感情があるのか。普通であれば、リズムから曲を作り始める時に重視されるのは"ゴキゲンなノリ"、即ちグルーヴである。思わず身体が動き出しそうなフィーリング、人を踊らせるようなセンスをそこに込めるものだ。

しかし、ヒカルは違うだろう。なくはないけどな、『甘いワナ』とか。例えば、『Never Let Go』はヒカルのリズムにスティングのギターを載せたものだが、こんかエモーショナルな曲にもきっちりリズムが入っているのは何故か。

思うに、ヒカルがリズム・パターンから曲作りを始めるのは、最初に怒りの感情があるからではないか。憤りや無力感、やるせなさと言い換えてもいい。そして、その行き場の見当たらない感情をリズムにぶつけるのである。有り体に言えば、『当たり散らす』のだ。そうやって、叩き付けるようにしてリズムパターンが出来上がる。

ここまでは、他のジャンルにも見られる事だ。ラップやパンク、スラッシュ・メタルなどはそうやって出来たリズムに怒りのままに言葉をぶつけていって形を成していくのだが、ヒカルは、自分が打ち付けたリズム・パターンを目の前にしてこう思うのだ、「あなたはどうしてそんなに怒っているの?」と。

感情を形にして目の前に表すと、吐き出した方は冷静になったりする。それが感情を表現するという事(そのもの)だが、ヒカルは自らの怒りの感情がリズム・パターンとして表現されたのを目にし耳にした時に、冷静にみつめるのだ、何故このコ(『私』)はこんなに怒っているのか。その怒りの向こうに、どんな感情が隠れているのか。切なさや、祈りの記憶。どうしようもない絶望の物語。怒りに任せた筈の打楽器の音の節々に、ヒカルはその人の胸に宿って隠されている感情を見抜いていく。だからヒカルはスネアの音色に切なさの記憶を見てとれるのだ。そうやって、あのリズムの上に切なさを凝縮したメロディーを生み出していく。例えば『BLUE』がそうだろう、例えば『Prisoner Of Love』がそうだろう。"当たり散らした"リズムの向こう側から、慟哭にも似た感情が噴き出してくる。


そして『Fantome』である。いつものようなヒカルらしいメロディーと、そうでもないようなメロディーが混在していて、戸惑う古参ファンも多いのではないか。思うに、ヒカルの曲作りのアプローチが変わったのが原因とみる。それはつまり、音楽を作り始める動機(モチーフ)が、昔のような祈りの記憶を封じ込めたやるせない怒りの迸り以外にもたくさん現れてきた事を意味する。感情が変われば動機が変わり、そして技術的なアプローチ方法も変わってくる。総ては繋がっているのだ。そんな視点からも『Fantome』を見定めていきたい所存です。まだまだ語るべき所だらけのアルバムよ?

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いかん、寒さで目眩がするわ。

あら朝から呟きが来てたのね。まだ学校行ってた時分にもこの季節に指を怪我していたなぁ。彫刻刀だっけ。大事に到らず何よりだが、ヒカルはiphoneを左手で操作しているのか。右手で何してるんだろ。赤ん坊を抱っこ…という歳でも、もうないか。歌詞を書きながらiphoneで辞書検索するとか、そんな感じかな。或いは、最近のアプリはいろんな楽器があるから、左手で音を確認しながら右手で楽譜を…いや歌詞と違って楽譜は最初から最後までMacで打ち込んでいるか。案外ご飯食べてるだけだったりして。いやそれなら左手で箸を持てばいいんじゃ。そもそもロンドン在住で食卓に箸が並ぶかも不明。話す言語も結局のところちゃんぽんぽいし、どんな文化で生活しているのだろうか…

…ってたった一つ呟いただけでこんなに色々考えられちゃうんじゃあ、やりにくいだろうな。すいません。

iphone、か。ipodを使い始めたのは比較的早かった気がするが、iphoneにしたのはいつだったかな。『This One (Crying Like A Child)』にはBlackberryが登場していたが、ヒカルはいつ頃使用していたのだろう。ヒカル自身は、兎も角、そうやってスマホライフを満喫していた訳で、ネット民とのつきあいかたを見誤るなんて事はもうなさそう、か。どちらかというと、mixi騒動を思うと、隠れてやっているだろうFacebookでどう振る舞っているかが興味ある。いや、やってたらすぐ見つかっちゃうかな。どうだろう。息子が居るので、考える事は多かろう。

この『Fantome』でファンになった人にとって、@utadahikaru の性格は掴みどころがないかもしれない。それは、『Message from Hikki』を書いてまとまった意見を表明する事がなくなったからだが、そんな人たちには遠慮なくメッセの過去ログにアクセスしてみて欲しいもんだ。結構いろんなところで"熱い"ヒカルがみれるもんだぜ。あと絵が上手いのも見物ですぜ〜。

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さて話を戻そう。なぜ『Fantome』は日本向けに作った作品の筈なのに、当代のアメリカ・チャートに登場するようなサウンドを志向しているのか。

インタビューを思い返してみても、そもそも海外のファンを意識した発言をしていない。それを言ったらファンを国内限定としてみている風な発言もまた無いのだが、少なくともプロモーション体制としては(即ち梶さんの意向としては)日本国内限定を想定していたようにみえる。

実際、タイアップに国際性が無い。『花束を君に』も『真夏の通り雨』も日本の地上波テレビ局とのコラボレーションだし、『道』を起用した企業はサントリーで、この曲を使って海外展開した跡はない。『人魚』は少し違いそうだがこれからの話だ。何より、歌が日本語だ。日本国内向けと言って何ら差し支え無い。それはもう前提にしてしまおう。

なら何故サウンドを"日本で受けるような"ものにしなかったのか。身も蓋もない答え方をするなら「そもそも今の日本はサウンドで受けが変わるような国ではない」という言い方も出来る。有り体にいえば今日本市場で"流行ってる"と胸を張って言えるサウンドがひとつもない、と。だから、サウンドをどんなものにしようがヒカルが書いたメロディーをヒカルが歌えば、それで受ける。だからサウンドは比較的自由だった、という解釈だ。要は、「どうでもよかったからこうした」と。

ではなぜどれでもよかったらこれになるのか。これも極ミーハーな視点で推測すれば、ヒカルがロンドン在住で、そこに居て音楽に触れていれば自然と今風のサウンドに馴染んでいったから、という考え方が出来る。ヒカルとしては、別に力まずとも今の自分の感覚で音作りをすれば普段聴いている音楽の影響が自然に出てしまう、というだけの事かもしれない。これも要約すれば「意図していた訳ではなく自然に出た」だ。

もうひとつ考えられるのは、参加ミュージシャンの性質である。どうにもこれについては私あまり詳しくはないのだが、イギリスのミュージシャンが多いらしい。地元であるロンドンでエージェントに頼んでミュージシャンをブッキングしたら流行に敏感な人たちが集まって、うちらが聴いているような『Fantome』のサウンドが仕上がった、という風にみる事もできる。要するに「そういう人たちが参加した」からだ。


取り敢えず今挙げた3つの仮説を纏めておこう。

・「どうでもよかったからこうした」
・「意図していた訳ではなく自然に出た」
・「そういう人たちが参加した」

いずれも、互いに原因にも結果にもなりえる理由である。これ、という決定打はない。


ちょっと違う考え方をした方がいいのかもしれない。つまり、「ヒカルは日本語アルバムを作りながら海外のファンの事を忘れていなかった」可能性も考えるべきだと。

そもそも、オリジナル・アルバムの制作は『This Is The One』以来である。制作過程の残像がいちばん強く残っている作品があるとすれば同作なのだ。しかも、フル・アルバム制作に7年のブランクがあるとなると、直近のアルバム制作プロセスをまずはなぞってみたくなっても仕方がない。そういう面もあったのではないか。また、前に指摘した通り、ヒカルはただ音楽を作るだけではPopにならない。意図的に"矯正"してPopに仕上げている人だ。そんなヒカルが"Pop化"にいちばん成功したアルバムとして『This Is The One』を心の中に留め置いていても不思議ではない。そうやって参照した可能性はある。



いずれにせよ、本当の理由はわからない。ただ、そういった推測から出発して演繹した事柄を現実のサウンドと比較する事で各仮説の妥当性を推測する事は可能かもしれない。次回以降はそれに挑戦してみますかね。ちと難しい話になるけど。

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前回の続きを書く前に、土曜日のオフ会で話した事の概要をここに記しておこう。ったく、ミキ太郎のせいで真面目な話になっちったよ…(笑)。

趣旨はシンプルで、宇多田ヒカルのアーティスト活動はインターネットの普及とともにあったという話。デビューは98年12月。当時としては非常に珍しかった「自前でサイトを持ってそこから情報発信をする」というスタイルでメディアを"出し抜いた"。『Message from Hikki』がスタートしたのが99年2月。確かDoCoMoがi-modeをスタートさせたのも99年だった気がするから、ちょうどパソコンに詳しくない人もインターネットにアクセスするようになる時期だった。

お陰で、「Hikkiのメッセが読みたくて」という理由でパソコンや携帯などのインターネット環境を整える人々が続出した。中にはその為にパソコン教室に通う人までいて、そこで出会った講師の人と後に結婚する、なんてエピソードまで生まれる始末。Hikkiは庶民をインターネットの世界に引き込む元凶のひとつとなったのだった。

その後も宇多田ヒカルのネット活用術は冴え渡る。2003年の生ストリーミング&8000人チャット、2005年のiTunes Music Store参加、2007年の着うた大爆発など、その時代毎にインターネットをフル活用して歩んできた。宇多田ヒカルの歴史は日本でのインターネットの発展の歴史と重なっている。

しかし、2010年に人間活動への突入を宣言。殆どインターネットに姿を現さなくなった(冷静に頻度を考えたらそこまで極端な差はなかったんだが、まぁ一応ね)。そこからである。本格的な庶民のインターネット使用が始まるのは。この頃からiphone以外のスマートフォンが普及し始め、誰もが手元にスマホを持って歩くようになる。駅のプラットフォームで何百人という人間がほぼ全員俯いてフリック&タップしている光景は、異様だが、今や見慣れた日常の風景となった。

これは、裏を返せば、宇多田ヒカルは"スマホ普及期"にごっそりアーティスト活動を休んでいた事になる。ほんに、Twitterがなかったらと思うとぞっとする。

こうやって去年復帰してきて、今改めてスマホ世代への対応をみてみても、うまくやったなぁと思う。しかし一方で、リスナーの利便性を無視した3DVRの無茶な導入のように、どこかチグハグな場面も散見された。思うに、なんだかんだ言って、こうやって活発にアウトプットをしていく記事にどうやってインターネットを活用するべきなのか、言い換えれば、新しいこの活動期にどうやってスマホ世代にリーチするのか、という点に対して手探り状態なんじゃないかと思う。流石に今年は更にアジャストしていくだろうが、徐々にスマートフォンを巡る状況も変わっていく訳で、これは、なんとしても、後ろから追従するのではなく、昔のように、先手をとってリードする位の気概を、みせて欲しい。3DVRみたいな事もあるんだけど怯まず前に進みたい所だ。

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『This Is The One』のコンセプトは「メインストリーム・ポップ」だった。ラジオオンエアでまず当時でいう所のリズミック・チャートに狙いを定めた(そして実際千回を超えるオンエアを獲得した)のも、そこらへんのラジオ局でかかるソウル/R&B寄りのポップスが、市場の主流だったからだ。

つまりHikaruは、当時何も本格的なソウル/R&Bに挑戦したかった訳ではなく、Popsを歌うに際しての一定のスタイルとして『This Is The One』の方向性を定めたのだ。それがスターゲイトやトリッキー・スチュワートの起用に繋がった。

それは『EXODUS』の反省を踏まえたものでもあった。『EXODUS』は余りに多彩多種多様に過ぎ、どのマーケットにアプローチすればいいのか本気で誰もわからなかった。結果まともなプロモーション戦略が機能せず、セレブの集まるパーティーに顔を出してみたりするにとどまったのだ。そんな事してても当時5万5千枚(今は確かもっと行ってるんだよね)を売ったのだから、コアなJ-popファンはどこにも居るものなんだなと妙に感心したのを覚えている。いやそんな話はいいんだ。

Hikaruは常に「自分のサウンドをどうポップにするか」に腐心している。それは即ち、Hikaruの音楽は意識して作らないとポップにならない事も示唆している。例えば『忘却』は「…インストじゃダメ?」と言って却下された為歌入りになったらしいが、この曲もきっとポップを意識せずにインストとして仕上げたら化け物のようなトラックになっていた事だろう。Utada Hikaruは、自らにPopを課す事によって自らの暴虐的な側面をコントロールしている、ともいえる。悪魔を飼い慣らしている、とでも言えばいいかもしれない。

であるからして。『Fantome』の楽曲もまた、Popに落とし込む為にあれやこれやの手を尽くしたのだと予測されるのだ。

昨日私(@i_k5)がツイートした内容は。『道』のサウンド・メイキングで参考にした或いは聴いてた事が自然に出てしまった特定のミュージシャンが居るとすればそれは『Kuma Power Hour episode8(2014.2.18)』でもオンエアされたカルヴィン・ハリスなのではないか、という話だった。彼は特に英国での人気が高く、昨年リアーナをフィーチャーした曲は大ヒットを収めた為(YouTubeの再生回数を見て笑ってしまった、文字通り桁が違う)、ロンドンに住んでるHikaruからすれば、まさに"今流行ってるサウンド"の象徴的存在になっていたのではないか、とそういう風に読むのである。

またそのリアーナとの曲が本当に『道』と同系統の曲で、お陰で自分も『道』を聴いた時に『This Is The One』のようなアプローチだ、と記した訳だが、それは上述の通り、ソウル/R&B風味を取り入れたという意味ではなく、今マーケットでポップ・ミュージックの主流となっているサウンドを意識している、という意味だった。

更にHikaruの場合それは付け焼き刃ではなく、ちゃんと3年前の時点でチェックしていたのだから、作るサウンドはそれは堂に入ったものだった。もっとも、3年前の時点でカルヴィンは既に押しも押されもせぬ超ビッグ・アーティストだったので、特別Hikaruが先物買いをしていた訳でもない。ただ、そのお陰で『道』のサウンドはスムーズかつナチュラルで、日本語を載せても違和感のないものになっている。

さて、ここで本来の問いに立ち返る。つまり、今回ひとつも話が進んでいない(苦笑)。Hikaruはなぜ、日本でいちばんに売る事を念頭においた『Fantome』のようなアルバムの1曲目に、アメリカ国内で売る目的で作った『This Is The One』に通じるアプローチを選択したのか、だ。次回はその話。

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『Fantome』が全米iTunes Storeチャートで全米3位だか6位だかを記録した時にほぼ総ての記事で『This Is The One』が無視されていたのは記憶に新しい。

重箱のクマを、いや隅をつついているのではない。そもそも今までで全米でいちばん成功した作品は間違い無く『This Is The One』であり、真っ先に引き合いに出され比較されるべきだったからだ。なぜか遡って『EXODUS』と比較する記事はあるのに、あれは一体どういう事だったのだろう。煽りではなく本気でわからない。

更に、名義をおくとすれば、『Fantome』は本来"『This Is The One』以来7年半ぶりのオリジナル・アルバム"である。オリジナル・フル・アルバムとして"一作前"は『This Is The One』なのだ。アルバムの作風を議論する時も、これまた真っ先に比較対象に選ばれるべき作品なのだ。勿論更にその後にSCv2d2や『桜流し』があるのを忘れる訳にはいかないのだが。

しかし、本当に不思議だ。売れなかったから黒歴史化していて誰も触れたがらない、のなら兎も角、『This Is The One』は十二分に成功している。iTS総合18位やビルボード69位を上回ったのはこの7年でBABY METAL1組のみだ。シングル・チャートはPPAPに完敗だけど。特に隠蔽するような歴史でもない。

それに、海外、特に全米のファンにとっては『This Is The One』は意義深い作品だ。『In The Flesh 2010』ツアーがあったし、ヒットシングル(YouTubeの再生回数を見たらそう言いたくなる)『Come Back To Me』が収録されているし、ボーナストラックにはディズニーから漸く許可の出た"Simple And Clean"と"Sanctuary"もある。キングダムハーツ関連の人気が高いのはこたびの『光 Ray Of Hope MIX』のiTS全米2位でも実証された所だ。これだけ思い入れ要素が詰まっていれば意義深いと言って差し支え無いのではないか。

で。更に踏み込んで何が言いたいかというと、フルアルバムとしての『Fantome』を語る時に『This Is The One』をオミットするのは非常にアンフェアである、という事だ。

昨日『道』のサウンドについて連続ツイートをしたが、同曲の音作りの傾向について「『This Is The One』に近いアティテュード」という旨の呟きを書きながら、「この一文が新鮮に響くだなんて間違っている」と痛感した。今後の日記ではやや意図的に、『Fantome』と『This Is The One』の共通点と相違点について多く語っていった方がいいのかな、と。まぁこればっかりはやってみなくちゃわかりません。取り敢えず『Fantome』複合ミリオン達成おめでとう。(何て今更なんだw)

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でも『忘却』の歌詞でいちばん衝撃的、というか気になったのは『出口はどこだ 入り口ばっか』だ。次に『深い森を走った』というLegendary Classの名詞、いやそれじゃnounだ、超名作詞が横たわっているのでそれが総て回収してしまい結局は何も問題にならないのだが、初めて聴いた時は「え!?」となったのよ。

常々ヒカルは「間口は広く、出口は狭く」と言ってきた。Pop Musicは色んな入り方が出来るように設えられているのが理想で、しかし、最終的にその種々の支流を本流に落とし込むのが"最終目的"だった筈だ。

なのにここでは、ひとつはある筈の出口を見失っている。「これはなんだ。」と思った訳だ。

いやいや、この『忘却』での歌詞はあクマでこの歌でのストーリーを歌ったもので、普段の「Pop Musicに対する心構え」についての歌詞ではないのだから、無理矢理結び付ける方がおかしいだろう、私も最初はそう思った。

しかし、この逆を考えるべきではないのか。ヒカルは、この歌詞を聴かれた時に、件の「Pop Musicに対する心構え」を想起する馬鹿(つまり例えば私)が存在するかもしれないと考えなかったのか。それが気になった。ヒカルは、結局どうしたいのか。復帰への根源的な問いはここに尽きる。

勿論、史上最高の日本語作詞家であるからには、前段に答えを述べている。『明るい場所へ続く道が明るいとは限らない』と。だから深い森を走るのだと。確かにそれでいい。それでいいのだが、その瞬間のヒカルは「自分の音楽をPopにする意義」を見失っていたとしか、結局の所考えられない。『Fantome』のモチベーションは、どこにあったのだろう? 『出口はどこだ』という問いに対する答は、未だに得られていない、のかもしれない。少なくとも私には見えない。

もしそれを指して『忘却』と言っているのなら、これはとんでもなくパワフルだ。どうなるか。普通忘却というと過去の記憶を葬り去る事、或いはしまってある場所の記憶を忘れる事だ。場所が異なるだけで何か有ったものがなくなっているのには変わりはないのだが、ヒカルの場合は「未来の記憶」「未来の思い出」というものがある。

『Passion』の時のヒカルが鮮烈な事を言った。「今の22歳の私には、2歳の私も12歳の私も、32歳の私も42歳の私も居る。」と。衝撃だった。過去の自分が今の自分を助けてくれる感覚はわかる。寧ろ、22歳の私のはたらきは、21歳までの私の積み重ねた層が厚さをなして機能し合う事で生成される。そこまでは理解可能だった。が、未来の私まで助けてくれるという発想はなかった。そんなヒカルには『未来の記憶』があるとしか思えない。

すわ。『忘却』の対象が、その『未来の記憶』だったら、どうなるだろう。確かに、今の私は『明るい場所へ続く道が明るいとは限らないんだ』と歌い、出口を見失っている。元々は、"未来の記憶"があって、それに向かって今の私は動けばよかったのに、なんだろう、敢えて『一寸先は闇なら二寸先は明るい』未来を作ろうとしているようにみえる。なぜか。

『深い森を走』る為である。

この強い強い歌詞に対しては、抗うだけ無駄である。巧緻に長けたヒカルは、狭い出口を見据え、様々な入り口を用意し、その狭さに人々を落とし込む手腕をもっていた。その枠組みを捨ててでも、『深い森を走った』の歌詞に、そう、殉じたのだ。

偉大な歌への敬意、である。歌詞に強い強い一言があるなら、それに従わねばならない。ヒカルが歌った『深い森を走った』はとてつもなく強い。最優先事項である。その為の『忘却』だった、とすればこの歌は果てしない物語を背負う。いやぁ、いいねぇ。

しかし、これでもヒカルの歌詞パートの前半分を総括したに過ぎない。まだあと半分ある。怖い夢とはまさにこの歌そのものだろう。


なお『言葉なんか忘れさせて』と『目を閉じたまま踊らせて』を合わせると『ぼくはくま』の『あるけないけどおどれるよ しゃべれないけどうたえるよ』になる。やはりこの歌は依然最高傑作なのかもしれない。何て強さだ。

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