無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『真夏の通り雨』の歌には一定のリズムがある。百聞は一聴に如かず。リズムを添えて歌詞を書き下してみよう。


ゆーめーのーとちゅうでめをさーましー
まぶたー・とーじ・てーも・もーど・れーな・いー
さっきまでせんめいだったせーかいー もーう・まぼーろしぃー


ゆーれーるー・わーかーばーにーてーをのーばしー
あなたー・にーお・もーい・はーせ・るーと・ぉきー
いつにーなったらーか・なーし・くーな・くーな・るー
おーーしぃえてーほーしいー


かーてーぬーいくさにいききーらしー
あなたーにーみ・をーこ・がーし・たーひ・びー
わすれちゃったらーわたーしーじゃ・なくーなるー
おーしーえてー・ただしいさよならのしかたを


きーぎ・がーめ・ぶーくー
つーき・ひーめ・ぐーるー
かーわ・らーな・いー
きーも・ちーを・つーた・えーた・いー
じーゆ・うーに.なーるー
じーゆ・うーが・あーるー
たーち・つーく・すー
みーお・くーり・びーと・のーか・げー
おもーい・でーた・ちーがー
ふいーに・わーた・しーをー
らーん・ぼーう・にー
つーか・んーで・はーな・さーな・いー
あーい・しーて・まーすー
なーお・もーふ・かーくー
ふーり・やーま・ぬー
まーな・つーの・とーお・りーあ・めー



おわかりうただけただろうか。みたまんまです。

曲がここまで来ると(3分33秒あたり)、バスドラが『ダダダン・ダダダン』と打たれ始める。これが曲の終わりまで続くのだが、最初は上記の歌のリズムと対立的に響く。


ゆーめーのー・とちゅうでーめーをーさーましー
(ダダダン・ダダダン・ダダダン・ダダダン)
まぶたー・とーじ・てーも・もーど・れーな・いー
(ダダダン・ダダダン・ダダダン・ダダダン)
さっき・まーでーあ・なーたがーいーたーみーらいー
たーずぅねてー あーしぃたへー
(ダダダン・ダダダン・ダダダン・ダダダン)


ここまでは対立的だ。ところが次の(曲の最後の)パートで、歌とバスドラのリズムが揃うのである。


 ・ずっと・やまない・やまない・あめーに
(ダダダン・ダダダン・ダダダン・ダダダン)
 ・ずっと・いえない・いえない・かわーき
(ダダダン・ダダダン・ダダダン・ダダダン)


つまり、歌のリズムが最後に変化する伏線をバスドラで張っているのだ。シンガーソングライターならではの発想である。この点に注意して、もう一度『真夏の通り雨』を聴いてみて欲しい。なぜ最後のパートが唐突にならずスッと心に入ってくるのか、その理由が実感出来る筈である。

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AIに頼らずともぬいぐるみ一体居れば創作上の効果は計り知れない。人間を介さず独自に作曲できるのがAIの強み、と言っても結局どこかで人間が聴いて判断しなくてはいけないのだからぬいぐるみとさほど変わらないし、判断をAIにさせるにも、判断基準をプログラムするよりその基準を満たす曲を書く方が必ず早い。どこまで行ってもAIは人間の後を追うだけだ。

それはそれとして。

くまちゃんの存在の大きさは今更改めて強調するまでもない。今の関心は子育ての中でどんな役割を演じるかなのだが、今のところそれに関する話は聞かない。例えば、パイセンがツアーに出るとして、どこかに託児する時に、くまちゃんは母親代わりになるかもしれない。オスだけど。

或いは、新しいくまちゃんをダヌパに与える事も考えられる。くまちゃんはくまちゃん。息子であっても渡す訳にはいかない、と。あなたも唯一無二のくまちゃんを見つけなさいよと。理屈や理由はさておき、そういう存在が大きな意味を持つ事は身に沁みて知っているだろう。パイセンは。

新曲2曲のシリアスさは、くまちゃんのノリからは程遠いように思える。しかし、どこにだってくまちゃんは現れ得る。Goodbye Happinessのミュージック・ビデオにも登場したように。ただ、Pop Musicianとして、その事実は周知徹底させないと、また要らぬ誤解を招くだろう。

ならば、と。せっかく母親になったのだから、童謡としての側面をもっとクローズアップすればどうか。実現可能性皆無なのを承知の上で言うならば、「ヒカルの子守歌」カバー・アルバムを作ってそこに「ぼくはくま」を入れれば万事解決。嗚呼、そういう事もする歌手なんだと納得して貰える。一石何鳥だろうな。出来れば、の話だが。

今のところ、新曲に関しては、母である事よりも娘である事の方に話は集中している。それだけ藤圭子の話題があまねく浸透していた、という事もあるだろうが、まだ、こう、母であること、というのが客観的に見えていないのかもしれない;くまちゃんに抱き付いて、離れて、息子と向き合った時にどんな表情(かお)を作っているのか。まずはそれを知ってからか。楽しみにしています。

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ついでなので「AIは作曲できるか?」というトピックにも簡単に触れておく。

例えば、ちょっとしたメロディーやコード進行を渡して「これをボサノバ風にアレンジして」とか「これをジャズに」とかは既に出来る。AIとすら呼ばれない程度のプログラムで十分に。なので、作曲補助にAI等計算機が有用なのは最早疑いが無い。

関心があるのは、「人を感動させるような新しい音楽が作れるかどうか」の方だろう。これについては、AI(計算機)の特性について知らねばならない。彼らは「一曲作れれば無限に作曲できる」のだ。これがアダとなる。

彼らには作曲の手順と基準が与えられる。逐次的な手順に従えば、先程の「ボサノバ風の曲」は無限に作れる。制限はない。勿論、「何分以下」「何音以下」という基準を設ければ有限に制限は出来るが、およそ人間には無理な数の曲を生み出す事が出来る点は変わり無い。

そうなると何が起こるか。そのクラスの楽曲が陳腐化し価値を失うのだ。もうその手の曲はどこにでもある、聴き飽きた、と。

つまり、彼らは自らの価値を一瞬にして無意味にする事が出来る。彼らは自らの手で新しい環境を構築してしまい、ヒトはもうそこに関心がない。彼らの作曲はすぐさま無意味になるだろう。そして、それが無意味になるのは、そのプログラムを作る為の基準が発見された時であり、プログラムが出来上がるよりずっと前だ。それまでにその基準に従ってヒトの方がその“基準が明確化された作風”の音楽を演奏しまくって陳腐化してしまっている。AIの出る幕は既に無い。

では、発見的に唯一無二の新しい楽曲を見付ける事の出来るAIは出来ないだろうか。これぞまさに作曲、創造と言っていいだろう。では、どんな基準に適合すればその曲は唯一無二なのだろうか。その基準を書き下せなければ、AIは止まれない。新しい曲を見つけましたと我々に報告する事が出来ない。

ならば、その基準を書き下した時点で、人がその曲を書けばいい。対象はひとつしか無いのだから。極論すれば、基準を書き下すより実際に曲を書く方が必ず早い。それだけの事だ。常にヒトはAIよりちょっと先に行く。AIは常に後をついてくるだけだ。平たく言えば、それが芸術の定義なのだ。

本来ならこのテーマで一冊本を書くべき話を僅か1000字足らずにしてしまった。まぁいい。納得できなくても仕方がない。





AIで最も期待されているものの一つに「人と会話するロボット」がある。現時点でも随分と会話出来るようになっている。Siriとかで皆馴染みになっているだろう。

究極的には人間とかわりない会話が交わせるようになる事が期待される。「話し相手が欲しい」というニーズは、特に高齢化社会にとって切実だ。

既にSONYのAIBOがその役割を担ってみせた。彼らに癒やされた人たちは多かった筈だ。今後、あの手のペットロボットはもっと高性能に、もっと安価になって、本当に会話できるペットみたいなものが出来たら…と想像が膨らむ。

しかし、人間とは因果なもので、もし仮に人間と区別がつかない位に話せるロボットがうちに居たら「煩わしい」と感じ始めるだろう。イヌやネコが何故癒やしになるかといえば、ただ傍に居て、こちらの目を見てくれて、話し掛けさせてくれて、余計な事を言わないからだ。ちょっといたずらをして迷惑をかけてくれるオプションもついてくるが、基本は「ただそこに居てくれること」である。

イヌやネコですら煩わしい、と感じる人も居るだろう。癒やしに必要なのは手触りと、あとは話し掛けさせてくれれば…。人間関係に疲れた人間に気の利いた応答なんて必要ないのだ。もうそうなると、必要なのはもふもふのぬいぐるみ…。


というところにくまちゃんは居る。パースペクティブを感じ取ってうただけただろうか。


高性能のAIの登場を待つ必要は、無い。ぬいぐるみひとつあれば会話は生まれる。そんなの独り言だろう、と馬鹿にする人間はわかっていない。確かに、眼の前のぬいぐるみに話し掛けると、ひとりで考えていたのでは出て来ないような言葉が次々と出てくる。我々に必要なのはそれである。

ややこしいプログラミングや高邁なシステムより、くまちゃんの方がヒカルのインスピレーションを激しく刺激した事は疑いがない。踏み込んで言えば作曲とはそういう事だ。常に自らの可能性を規定しなければ話を始められないAIには出来ない事だ。彼らにとっていちばんできない事は、何も始めず、何も終わらせず、ただそこに在る事なのだから。


今日の話はとても難しい。理解できなくてもいいと思う。人にとっては、物心ついた時からわかりきっている事を言葉にしたに過ぎない。しかし、これからの世の中はその当たり前を忘れさせる方向に動いていく。惑わされないように、気をつけてください。世にも珍しい、私からのメッセージなのです。

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ここ数年、また再び人工知能(AI)の話題が増えている。特に、無人自動車が実用に向けて動き出したのが大きいと思うが、それに伴って「AIはどこまでヒトに近付けるか」というトピックに関心が集まるようになった。「もう何度目だナウシカ」という位に定期的に机上に上っているが、浮き沈みを繰り返しながら着実に進歩は進んでいる。

しかし、そうなる前に上がるであろう重大なトピックについてはまだまだ議論が盛んではないようだ。それは、「AIがどこまでヒトに近づくか」の逆、「ヒトがどこまでAIに近づくか」である。

今のところAIはヒトの道具(item, tool)である。コレが逆転してヒトがAIの道具になり果てるのではないか、というのがSF的な極端な結末で、そこまではまだ現実味が無い。その前段階として、AIがヒトの同胞(fellow, colleague)になるのではないか、というのが昨今の関心だ。しかし私は、更にその前の段階があるとみている。それが、「ヒトがAIに近づく」段階である。

道具としてのAIが普及すると、ヒトの周囲はAIだらけになる。その段階ではまだ同胞扱いされていないから、大小様々なAIが周囲のあらゆる道具に組み込まれ、仕舞いにはヒトはAIに囲まれて生活するようになる。となると、今度はAIは道具から環境(environment, surrondings)へと変化する。

そうなるとヒトは、生物の特性として環境に適応(adapt, adjust)しようとする。そうなると、AIの思考回路を適切にシミュレートできる個体が優位に立ち、順次ヒトの思考回路はAIを模倣するようになりヒトのAI化が進行するだろう。

何故これが起こるかというと、先述の通りAIは同胞になる以前はただの道具であり個体としてのアイデンティティが無いからだ。AIを孤立した個体として扱う事にさほどメリットはなく、ネットワーク化によって再現なく連結される。勿論それは机上の話で、初期のPCですらOSの統一やら何やらで揉めたのだから現実は一筋縄ではいかないだろうけれど。

個体として進化する必要がない以上、その存在は環境化する。植物の生態系全体が動物に対して環境化すりように。

この段階を経る為、ヒトは一旦AI化する。かなり大ざっぱな議論で、個々の事例を説明するには心許ないけれど。

そこ以上の話は手に余るので読者の想像にお任せするとして、ここから先はくまちゃんの話。相変わらず長くなったので、続きはまた次回からのお楽しみで。

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25日に発売になったIRON SAVIORの新作が期待に違わぬ素晴らしい出来で嬉しい。ピート・シールクという正真正銘のオリジネイターの創るメロディックスピードメタルの王道っぷりと言ったらもう。そして、トーマス・ナックのドラミングだ。スピードメタルはまず速く叩けなくてはならないが、それだけでは足りない。高揚感を煽るフレージングのセンスと、焦燥感の塊のようなグルーヴが肝だ。この道の第一人者たるナックのプレイがIRON SAVIORのサウンドを一段高いレベルに押し上げている。彼が脱退したら速い曲減るだろうなぁ。

というわけで今日はドラミングの話。『花束を君に』で叩いてる人、名前を覚えていないがさしあたってそれはどうでもいい。ダイナミックでタイトなのにどこかとぼけた味わいのある彼(彼女かもしれない)のプレイがこの曲に独特のドラマ性を加味しているのは間違いがない。特に、この曲ではヒカルのレパートリーでは初めてと言っていい、「一番の歌をほぼまるまるリズム無し(ほぼピアノのみ)で歌ってからドラムが入ってきて様子が変わる曲」なので、一番のサビの後半で彼のドラムが入ってくる場面は非常に鮮烈な印象を残している。

名言だらけの宇多田ヒカル語録の中でも超名言といえる「スネアの切なさ」。これがグルーヴから泣きのメロディーを生み出すヒカル・マジックの源泉である事は周知の通りだが、『花束を君に』のドラム・サウンドは、どちらかというと歌の切なさを引き立てる為にわざと無表情を装うような、乾いた、明るくさえあるスネアとハイハットの音色が新しい。そうでありながらタムロールの音場は広く深く、単調なベースラインにもしっかりと空間を与えていて、サウンドスコープ全体の広がりはこの曲のスケール感を大幅に増強している。好みもある為一概には言えないが、ジョン・セオドア以来の"カラーの強い"ドラムサウンドだ。

思えば、『桜流し』でもドラムサウンドは非常に重要な位置を占めていたのだが、これも皆さん御存知の通り、同曲のサウンド・プロダクションはイマイチだ。21世紀最高のクォリティーを誇る楽曲の音質がその程度では、と何度嘆いた事か。その悔恨から3年半。『花束を君に』と『真夏の通り雨』のサウンドは素晴らしい。いやぁ、本当によかった。

原因は色々あるが、ダイレクトかつストレートに、録音時のビットレート&ビット深度が過去最高に高いのがいちばん大きい。かつて最もハイクォリティーなサウンドの曲は『Be My Last』だったが、今回は同等かそれ以上。理由は単純で、今回から“計画的に”ハイレゾ・バージョンを発売する事になったからだ。今までのヒカルのハイレゾ音源は、必ずしもハイレゾ向けに録音された音源を使用していた訳ではない為、擬似ハイレゾと揶揄されるような事もあった(なおそのような揶揄は無視して結構。何の本質も突いていない)。今回はそれを回避すべくレコーディング時からハイエンドな音質で録音してある為、端末のビットレートが128kbpsとかであっても高音質の恩恵を感じられるサウンドになっている。お陰で、『桜流し』の時は口惜しかったドラムサウンドも劇的に改善されている。それもあって、ドラムプレイの魅力がより伝わりやすくなっている点も見逃してはならない。様々なポイントにおいて、ヒカルの音楽はまだまだどんどん改善されていっているのである。
若いって素晴らしい。気分的な意味に於いて、ね。

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音声のみのコンテンツがここ百数十年の特殊なコンテンツであるといっても、いや、だからこそ、かな、音声のみの作品のならではのよさというものを、現代人は堪能できる。

個人的には(と個人的には好きではない書き出しを今二回繰り返してしまったが)、プロモーション・ビデオ、最近ではミュージック・ビデオと言われるようになったか、曲に映像をつけた作品はそんなに好きではない。何故なら、映像が完全に後付けであるケースが殆どだからだ。最初っから音と映像を一緒に作っていくなら問題はないが、大抵は出来上がった楽曲をいじることなく、そこに映像を合わせている。制作上&創作上、視覚と聴覚の間に相互作用がない。「曲のこのパートをほんのちょっぴり演奏してもらえれば、こちらの望む映像を嵌め込む尺が生まれるんだけど」と提案したくても後の祭り。どうにもならない。

そんなだから、大抵のMVは、私にとって目を瞑った方が魅力的だ。実際、名作と言われるMVも、その曲でなければならなかったかと言われるとよくわからないものが多い。『Can You Keep A Secret?』のMVは名作と言われているし私もそう思うが、映像に対して曲がキャンシーでなくてはならない必然性がどれくらいあるかというと、かなり薄い。勿論テーマとして、キーワードの一部に関連性はあるが、そのほんのり具合自体が制約の結果である。ある意味、それによってミュージックビデオという独特の世界が進化してきたともいえる。

それはそれでよいが、わざわざ余計な手間暇をかけて目を瞑らされる映像を作られても、という思いは拭えない。一方で現実的に、動画サイトに貼り付けられなけれざ新曲のプロモーションは覚束ない。ならば、という事でとられる策のひとつが、以前にも触れたが、リリックビデオである。

『真夏の通り雨』のリリックビデオが観たい。歌詞は確かに公式サイトに掲載されている。それを読めばよい。しかし、時間軸に沿って向こうから歌詞がやってくる感覚は、止まっている文字を自ら読む事で時間を進めるのとは真逆と言っていい体験である。宇多田ヒカル史上最強クラスの歌詞をもつ楽曲なのだから、その歌詞をアピールするには、真っ暗な画面に淡々と文字を流すだけでも十二分ではないか。嗚呼、だったら自分で作ればいいかと一瞬思ったが、それは自分の役割ではないな。誰か他の人に期待しておく事にする。かなりセンスが要りそうだけど。

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そういえばまだ『花束を君に』と『真夏の通り雨』のクレジットを手に入れていない。Twitterを追っていれば『真夏の通り雨』の演奏者が誰だかわかったし、どこかに『花束を君に』のドラマーはエリック・クラプトンのツアーに参加してたかなんかの人だと書いてあったが、そういう事じゃない。配信購入者に何故その資料を渡さないのか、だ。

別に250円で全部入れろとは言わない。デジタルブックレット付きなら300円にするとかでもいいじゃない。

いやもっと言おう。なぜ「全部入りアプリ」みたいなものをリリースしないのか。m4aファイル、ハイレゾファイル、PCやスマホの壁紙やスクリーンセイバー(もう誰も不要だけどな)セット、LINEスタンプ、演奏者や作詞作曲クレジット、レコーディングのディテールや歌詞を記したデジタルブックレット、ここでしか聴けないインタビューの音声と文字起こし、ビデオグリップ、カラオケトラック、楽譜やタブ譜、ヒカルの写真集…幾らでもアプリとして付帯できる候補はある。あとはコストと相談するだけだ。一曲を楽しむ為に、今の時代ならこれだけの広がりを送り手側から提供出来るのである。何故やらない?

「音声だけ」というコンテンツがそろそろ時代遅れを通り越して"不気味"になりつつあるのを知るべきだ。皆スマホを"見ている"のである。ニュースを読んでる人、ゲームをしてる人、漫画をみてる人、地図を見てる人、電車の検索してる人、株やってる人、天気予報見てる人、スマホでやる事は様々だが、みんなタッチスクリーンを"見ている"のだ。私のように何も覗かずイヤホンしてるだけ、という人は随分減ってしまった。それでも結構残ってるけどな。

そんな世代に対して、音声ファイルだけを売るというのは甚だ殿様商売のように思える。握手券も投票券もつけない、ただの音にどれだけの人が食いつくというのだ…



…みたいな事をどこかの時点で書きたかったのだが、5週間経っても2曲とも配信チャートからなかなか落ちない。どうせ日本の配信販売なんて実売数大した事ないんだから、という言い訳もここまで売れてしまうと説得力を失ってしまう。なんだろう、ある意味改革の目が無くなってしまったような。折角の機を逸してしまったような。

市場音楽において最たる良心の宇多田ヒカルだからこそ昔ながらに曲だけで勝負してくれればいい、なんてのは百も承知だ。わかりきった事だ。しかし、何度も言うように、「音声だけ」というコンテンツは電話とラジオと蓄音機が発明されたこの百数十年にしか存在していない。オルゴールだろうがなんだろうが、音がする方には必ず実体の何かがあった。電気仕掛けのスピーカーの揺れっぷりなんて、我々には目視できたところで何にもならない。音楽を聴く時目を閉じる人は昔からたぁくさん居るだろうし、一方で目を開けた時に鳴ってる楽器や演奏している人を見るのは自然だ。しかし、スピーカーをひたすらじっと凝視するのは余程のオーディオマニアでない限り、無いだろう。音だけが独立した存在になっているのは、異常事態なのだ。スマホ世代はそれを“正常化”しているに過ぎない。なんかやる時はそれを見ろ、と。

新曲をアプリでリリースすれば、「この曲を聴いている時にすること」を幾らでも提供できる。そうやって娯楽の全体を演出できれば、若いファンも食いつきやすいと思うのだが、『花束を君に』も『真夏の通り雨』もともに高い年齢層を対象として想定されている楽曲であり、ダウンロード販売自体いい顔をされてないんじゃないかというくらい。「新曲関連全部入りアプリ」のアイデアは、またヒカルが10代20代の若者たちにウケそうな曲を書いた時迄とっておきましょうかね。スマホ持ってない私も、勿論買うつもりでいますよ。

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「さようなら」は漢字では「左様なら」と書く。現代語でいえば「それでは」という意味なので「それでは皆さんさようなら」は重複表現になるんだが率直に言って違和感やだぶつき感がない。本来の意味を離れた別れの挨拶の言葉になっている。

『真夏の通り雨』と『花束を君に』の歌詞には、『雨』のように共通して歌われている語があるが、なかでも鮮烈なのは『サヨナラ』と『さよなら』だろう。

特設サイトに掲載された歌詞では、『真夏の通り雨』の方はカタカナで『サヨナラ』、『花束を君に』ではひらがなで『さよなら』と表記されている。歌詞なので、本来は音声のみの存在であり表記の違いで作品の質を評価するのは筋が違っているが、一方で、ここにヒカルのこだわりが反映されていないとはとても思えない。『FINAL DISTANCE』の表記をど忘れした事もある人ですけどね。

では、カタカナとひらがなでどういった違いがあるか。

『真夏の通り雨』では次の箇所で『サヨナラ』が出てくる。

『勝てぬ戦に息切らし
 あなたに身を焦がした日々
 忘れちゃったら私じゃなくなる
 教えて 正しいサヨナラの仕方を』

想い人に対する思い出を忘れたくなくて、でもずっと囚われたままでいる訳にもいかなくて、という二律背反の中で、どうにか踏ん切りをつけたいんだけどどうにもならない、という葛藤を歌ったパート。つまりここでは「左様なら」をどう言えばいいかわからない、「左様ならって何?」という状態。言葉に実感が湧いていない。言葉の意味が把握できず言語が音節の塊にしかならないような時、音声である事を強調する為にカタカナで書くケースがある。外国人がカタコトの日本語を喋るとき「アリガトウゴザイマス!」などとカタカナで書くが、これは言葉にこなれていない様子を表す。実際、今も「片言」を「カタコト」とカタカナ表記したばかりだ。

『真夏の通り雨』ではどうやって『左様なら』すればいいかわからない。翻って、『花束を君に』ではこうなる。

『世界中が雨の日も
 君の笑顔が僕の太陽だったよ
 今は伝わらなくても
 真実には変わりないさ
 抱きしめてよ、たった一度 さよならの前に』

こちらではひらがなの『さようなら』になっている。ただの音声に瓦解した『サヨナラ』とは違い、実感と意味の籠もった『さよなら』に変化した訳だ。…変化? そう、この2曲は繋がっている。そして、順序は『真夏の通り雨』から『花束を君に』へ、だ。『教えて サヨナラの仕方を』とさまよっていた主人公がやっと見つけた『さよならの仕方』が『抱きしめてよ、たった一度』だったのである。つまり、この願いは永遠に叶わない。さよならの仕方を知っても、実際にさよなら出来る訳ではない。『花束を君に』はそういう歌なのだ。



全くの余談になるが、私が初めて『花束を君に』の該当箇所を聴いた時、ここの歌詞を『抱きしめてよ たった一度のさよならの前に』とソラミミした。“の”が一つ余計である。そう聞こえた為、嗚呼、確かに永遠の別れはたった一度しか訪れないよね、と一旦は納得したのだが掲載歌詞に”の“はなかった。"の"が入っていてもなかなかいい歌詞だと思うが、今回解説した、2曲に跨るストーリーに思いを馳せるなら、やはり“の”は無い方がいいのよね。『花束を君に』と『真夏の通り雨』の2曲は、やはり繋げて聴くのが醍醐味なのである。

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私は、音楽は「力が無い」からいいんだ、と思っている。正確には、「暴力的に強制する事が無い」という意味だが。

どれだけ偉大と言われる音楽家の作品であっても、誰しも「つまらない」と言える資格を持っている。これが誰かに強制される事はない。幾ら讃える人々が多かろうが「モーツァルトは退屈だ」とか「ビートルズなんてただの雑音」と言っていい。

これが、スポーツなんかだと無理がある。実績は絶対的だ。記録を出したり勝ち負けがついたりする。白鵬が偉大な相撲取りではない、と幾ら強弁しようとしても、無理がある。偉大という言葉の定義を疑わない限り、白鵬は力士として偉大だ。勝ってるからね。

音楽が権威になったら終わりだ。王様は裸だと言えなくなったらそれはもう音楽ではない。誰に強制される事もなく、心に感じたままを伝えていい。ポール・マッカートニーがどれだけ熱唱していようが「おっさんの歌何言うてるか全然わからへん」で切り捨てていい。それこそが望ましい。


困った事に、この国でそのテの「強制力」が歴代いちばん強かったのが宇多田ヒカルなのだ。今更『First Love』のどこがいいのかわからない、と言っても「何言ってんの」という顔をされる。よくない。音楽に確固たる評価とか定評なんて要らない。毎日新しいリスナーに聴かれて、気に入ってもらったりそうでもなかったりを繰り返すのがいい。そんな中でヒカルの曲が愛されていくのなら、それは非常に嬉しい事だ。音楽に自由があって初めて、愛されて嬉しいのである。

『花束を君に』と『真夏の通り雨』の、そういった"一般的な評価"とやらを見定めるような試みは、したがって、それによって定評を押し付けようという腹づもりが見え隠れするようでしたら積極的に排していきたいところだ。あクマで、全体の中での位置付けをする事でこの相当に、非常に、並外れて魅力的な2曲に対する理解を深める一助になって欲しいという願いから、仮に"定評"と呼ばれ得るものを構築してみよう、という試みである。間違っても、それを押し付けようだなんて思わないように。


という訳で2曲の"一般的な評価"が今どこらへんに落ち着いているかを考察してみよう。

『花束を君に』に関しては、朝ドラの主題歌というのがいちばん大きく、特に優しくなったと評判の歌声に対する賛辞は寧ろ昔の歌唱力に対するそれよりも比重としては大きい気がする。曲としては、誰しもがあっさり認める名曲というよりは、毎日の中でじんわりとよさを味わえるような、派手さは無いが音楽界の良心そのもののような安心感がある。慣れてくれば口遊むようにもなってくるし、「大絶賛はしないが、時を経ても宇多田は相変わらずいい歌を作って歌っているなぁ」というのが最大公約数的なものいいになりそうだ。

『真夏の通り雨』に関しては、いい曲か退屈か、好きか嫌いかを通り越して、「死と向き合っている歌」であるという事実自体が衝撃的で、即ちお母さんの事を歌ってる歌だよね、という感想が前面に出ているようだ。好き嫌いを超えて歌に宿る情感と慟哭に圧倒される、というのが正直なところではないか。

2曲とも、「宇多田に期待する超特大のヒット曲ではないが、今の邦楽市場に"圧倒的な良心"を携えて帰ってきてくれたのが嬉しい」という感じ。もちろんかなり売れているのだが、それよりも、今の市場でどこらへんに位置付けられるべきかという点をそれなりに明確にした功績が大きい。「宇多田ってこんなヤツ(だったよね)」という風に思わせてくれた&思い出させてくれた、と。まだ楽曲が人を超えてひとりでに歩き出すまではいかず、曲自体より宇多田ブランドの名が帰ってきた事自体に意義を感じさせる段階にある、そんな2曲だというのが今のところの包括的な評価である様に、私には思われるのだった。

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今週のとと姉ちゃんも、相変わらず雑だねぇ。殆どの人がながら観なんだから、くどいくらい丁寧に描かないと伝わらないのにね。プロットには共感できたとしても実際のストーリーには引っかかりが多くて色々気になったまま話が進んでいく。一方、役者の演技は安心して観ていられる。高畑は朝ドラらしいフレッシュさ皆無の芸達者ぶりで、毎度見せる素になるギリギリの自然な返しが名物だ。大地真央の担架は本当に漫画みたいだし秋野よう子の年寄りぶりも随分うまい。向井理はキャラのうざさと見た目の爽やかさの中和させぶりが好感度の源になっている。

でもまぁいちばん光ってるのは鞠子役の相楽樹だよね。先週から進路の話になっていてクローズアップされる場面が多いが、およそ彼女に最も似合わないと思われるアップの三つ編みおさげでもその魅力を隠し切れなくなってきている。まぁ似合う髪型にしてしまうと画面上で完全に主役を食ってしまうしこれ位でちょうどいいのかな。高畑の方も前髪はおろした方が似合うだろうにしかしさこは時代考証が入ってしまうのか。そろそろ美子役の子も参加してくるだろうし、2ヶ月経過してやっと手駒が揃うかなという気分。視聴者の方も学生時代は序章的捉え方をしているようなので来月からの展開に期待か。

そういえば、視聴率のチェックを忘れていた。ニュースになっていないところをみると(って細かくチェックしている訳ではないけどね)、きっと伸び悩んでいるのだろう。3姉妹が揃ってからが勝負だ。しっかり者の長女と三女がお調子者の次女を挟む大室家とは真逆の、しっかり者の次女がバランスをとる構図になりそうなので、それを既に散見されているコメディタッチとどう融和させるかが見所だろう。

視聴率が下げ止まれば(回復する、まではいかないかなぁ)、また『花束を君に』が注目される機会も増えるだろう。iTunes Storeチャートでも未だに上位に名を連ねているし、まだまだあと4ヶ月、売れ続けてくれるのではなかろうか。また土曜日の最後に採用される事もあるかもしれないし、二番以降の歌詞もどこかで使われる事を期待する。

放送開始2ヶ月も経ってまだ新規が入ってくるのか、と言われれば、来るんだこれが。朝ドラはそれ位に強力な枠なのである。昔も、たぶん今も。あとは、ヒカルの側のニュースもかぶさっていけばまだまだ相乗効果が期待できる。さしあたってキャンペーンが終了する6月19日の父の日あたりに新情報が来てくれればテンポがよいのだが、果たしてどうなりますかねぇ。

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同じフレーズを続けて2回繰り返す。新曲2曲に共通する特徴である。

『花束を君に』では『愛しい人 愛しい人』、『言いたいこと 言いたいこと』。『真夏の通り雨』では、『溢れて 溢れて』。

際立っているのは、それがサビのリフレインではない事だ。例えば、『traveling』ではサビのメロディーひとまとまりにつきタイトルコールが2回入るが、それとはちょっと違う。

少し近いのは『Show Me Love ( Not A Dream )』のサビで、『内なるパッセージ』というフレーズが2回繰り返される。これは、『traveling』のリフレインとは違い、この一言を強調する為に敢えて2回繰り返している。「大事な事なので2回言いました」感が強い。もっと言えば、サビのリフレインは音感とリズムの為に繰り返されるが、これは言葉の意味を強調したいが為に2回言っている。

これが『桜流し』になると更に顕著になる。『まだ何も伝えてない まだ何も伝えてない』だ。言葉は繰り返しだが、メロディーは符割りも音程も違う。強調を飛び越して印象倍増という感じがする。一言、強烈だ。

『愛しい人』『言いたいこと』『溢れて』も、この桜流しの『まだ何も伝えてない』の系譜である。言葉は同じだが、2回目はメロディーを少し変えてくる。更に、歌い方まで変えてくる。『愛しい人』は『花束を君に』に都合4回出てくるが、総て歌い方が違っている。その歌い分け方の解説は又の機会に譲るとして。『言いたいこと』の2回も『溢れて』の2回も、それはそれは格別の繰り返し方である。

2回続けて、というのが重要なのだ。3回じゃダメ。

サビのリフレインの音感とリズム、更にこの「大事な事なので2回言いました」による言葉の意味の強調の両方を掛け合わせたのが『SAKURAドロップス』と『真夏の通り雨』各々のエンディングである。

『好きで好きでどうしようもない
 それとこれとは関係ない』

『ずっと止まない止まない雨に
 ずっと癒えない癒えない渇き』

『好きで』を2回繰り返して『それと』『これと』はほんのちょっと崩す。その全体を無限ループのリズムに組み込むのが『SAKURAドロップス』だ。

『止まない』を2回、『癒えない』を2回それぞれ繰り返して、その全体を無限ループのリズムに組み込むのが『真夏の通り雨』だが、この2つの冒頭を同じ『ずっと』で括る事で『ずっと』の2回強調も繰り入れられていて、これは『SAKURAドロップス』の強化版と言えるだろう。完全な上位互換と言ってしまいたい。

同じ繰り返すのでも、このように少しずつ異なる意図と技法が託されている。それらに注意してもう一度今回出てきた曲たちを聴き直してみるといつもと少し違って聞こえてくるかもしれないよ。

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週末に襲撃されたアイドルさん、つい先日事務所を離れてフリーになっていたんだとか。前に居た所は舞台役者さんがたくさん居た事務所なので、路線変更をしようとした矢先だったのか。デビューはアイドルユニットだったというし、ストーカー被害の典型例として取り上げるには条件を整理する必要があるだろうな。

レコード会社とか事務所とか、そこらへんの組織を混同している人は珍しくない。芸能界と音楽業界で事情は違うし、これが演歌等ジャンル毎にも状況が違う。それを取り違えているのは一般人だけではなく、メディアの方も同様である。

ヒカルはかつて自分の事を冗談で『げいのうじん』と自虐的に揶揄した事があったが、こちらなりの解釈でいえば、芸能界の理屈で生きていないのに芸能界から芸能人扱いされている、といったところか。そもそも芸能界というターム自体使い方がおかしい。本来ならテレビ業界とでも呼ぶべきものだ。

テレビ業界や出版業界の中で生きているならゴシップに取り上げられるのももちつもたれつかもしれないが、その外に居るヒカルにはデメリットしか配分されない。しかし一方でレコード会社の方は少しばかりテレビラジオ雑誌新聞といったメディアを有効利用しているので接点がまるでない訳でもなく、そこらへんの曖昧さがヒカルにデメリットを多く運んでいるともいえる。

本来ならここで所属事務所が対処法を考えるべき所だが社長は照實さんだ。彼はマネージャーあがりではなく、クレジットはいつもプロデューサー、どちらかというとミュージシャンあがりである。あがってないか。彼が考えているのはいつも音楽やスタジオやライブの事であってマネージメントは家族経営の延長線上にあるようにみえる。家族であれもこれもやってきた名残のまま今に至っているというか。

実際、宇多田ヒカルの体制を理解して貰うのも難しい。ヒカルの場合プロデューサークレジットはヒカル、照實さん、三宅さんの3人で、つまりそれはアーティスト本人、事務所の社長、レコード会社の重役、という組み合わせだった。つまり各セクション(アーティストセクションは1人だけど)の代表による会議が船頭役だ。更に今は三宅さんが所属レコード会社にもう居ないから外部からの参加という事になり、ユニバーサルからは沖田さんがディレクターとして名を連ねる。プロモーションリーダーは勿論梶さんで変わらず、だ。こんなややこしい体制の体質を理解しろというのは無理がある。

それに、先述の通り案外マスメディアを利用する。『花束を君に』なんて公共放送の電波を毎日利用しているのだ。その上ヒカル自身がどのミュージック・シーンにも属していないから扱いは最早ただの個人名ブランドで、これはメディアのやりたい放題になってしまう。

事務所が強力なら皆さんご存知のように各メディアに"丁重なお願い"をする事も可能だろうが、家族経営の延長線上にあるマネージメントには無理な相談。はてさて、この種の問題を解決するには一体どうしたもんじゃろのう。

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iTunes Storeでもレコ直でも新曲2曲が粘っているようで、この売れ方は相当な数が売れているのだろうと推測されるが、それがあんまり話題にならないのは、配信の特性のせいだろうか。

特性というと聞こえはいいが、要は絶対値が小さいのだろう。『桜流し』の時は35万ダウンロードとかの発表があったから、これ位の数字に到達してくれば売上数が発表されるかも。あんまり関係ないが、買ってダウンロードする場合「ファイルを落とす」と言う一方売っている方は「売り上げ」と言うもんだからどうも上下の感覚がおかしくなる。いやほんとどうでもいいですね。

売上高はアーティストの発言力に直結する。ヒカルが堂々とクォリティーを追究出来るのも、実績のお陰だ。普通は一年に一枚アルバムを出せと言われて思うような作品作りが出来ないものだが、ヒカルの場合完全にヒカルが主導権を握っていて、照實さんも沖田さんもいつアルバムが出来上がるか本当にかなりのところまでわかっていないっぽい。珍しすぎるケース(まぁ、スーパースター扱い、だな)な為よくわからない誤解が呟かれたりもする。何度でも繰り返す。ヒカルはプロデューサーである。合議制ではあるだろうが、制作に関してかなりの発言力がある。

勿論、その発言力を勝ち得たのは自ら作詞作曲歌唱した作品たちのお陰であり、即ち自分の力なのだから何の問題もない。アルバム発売日がいっこうに決まらなくても、文句を言われる筋合いはない。筋なんか無くても、でも、自由に言えばいいけどね。「早よアルバム出せや」って。そちらも、何の問題もない。期待の顕れである。

ただ、一点。LIVEコンサートの事は考えているのだろうか、ヒカルは。今年から来年にかけて、会場が非常に取りにくくなる。アルバムの発売日が決まらないとコンサートツアーの日程も決まらない。もし仮に、現時点においてもアルバム発売日・発売時期が未定だとするならば、ツアーは相当先になる覚悟をしておかねばなるまい。

10年前の(10年前なのだ)『Utada United 2006』の時は完全にアルバム発売と全国ツアーが連動していて、かなり早い段階でアルバム発売時期とコンサート会場の確保が行われていた。私の勝手な推測では、『Be My Last』制作時には既に青写真が描かれていたのではないかとみている。つまり、一年前である。それ位に長期なプロジェクトだろう、アルバム発売と全国ツアーの合体は。

先述のように、二通りの解釈がある。既にアルバム発売日は決まっており、全国ツアー会場も押さえてあるケース。もうひとつ、本気で決まっていなくって、ツアーするかどうかすら未定なケース。後者だと、年内のツアースタートは無理だな。それこそ、一年位後になるよね。来年の今頃とかな。うーん、どっちだろうねぇ。わかんない。

兎も角、今の時点では出来る事は無い。ひたすら宇多田資金を貯め続ける事に専念すべきだろう。10年前はアルバム発売から二週間で全国ツアーに突入した事を忘れるな。今度もやってくるかもしれないし、やってこないかもしれない。8年前の『HEART STATION』なんてツアー無しだったからな。何がどちらに転ぶかわからない。宇多田ヒカルは、オプションが多過ぎるんだよ全くもう。

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小金井でアイドルが刺された事件、注目度は如何程なのかと思ったら朝のニュースではトップ扱いだった。既に全国的に知られているのか。

個人的には、彼女が主演も務めた舞台を昨秋に観ているので、もしかしたら同じ会場に今回の殺人未遂犯が居たかと思うとなかなかにリアルな感覚だ。あんな華奢でちっちゃな女の子が鍛えた男子に襲われたらひとたまりもないだろう。20ヶ所の刺傷があるというが、ほぼ無抵抗ではむべなるかな。今はただ回復を祈るばかりだが、ここまでの重傷及び重体だと詳細な病状を問う事すら憚られる。是非メディアの皆さんには得意の自粛と自主規制をお願いしたい。

ストーカー被害はヒカルにとっても全く他人事ではない。もう昔の話だが、2005年3月のMessageにこんなのがあった。

『I mean, in the past theyve experienced situations where I was very nearly attacked by armed stalkers and by really rather insane people, most of those happening during or after concerts (...dont know why! maybe its the excitement!) 』

前後の文脈を削ると、要は私も昔武器を持ったストーカーに襲われかけた事があるという話だ。明記はしていないがそれは公演後で、セキュリティーが無事取り押さえたのだろうが"very nearly"という表現から間一髪であった事が窺われる。ファンとの接触が極端に少ないヒカルクラスですらこんなケースがあるのだから小劇場やライブハウスで活動するアイドルさんは更に高いリスク下に居ると解釈すべきだろう。

この週末には、2つほどファンとの触れ合い行事が中止(直筆サイン代理配布会に切替)になっていた。昨日の今日なので緊急措置としてはやむを得ないが、今後は更なる対策が求められそうだ。

かといって無闇に行事の自粛等を行うべきかといえばわからない。これはもう当人たちに心情を訊く以外無いのだが、自分の事件の影響で業界が萎縮するのを見るのは耐え難い、といった思考の方もいらっしゃるかもしれないし、自分があんな目に遭ったのにまだ全然セキュリティー対策が進んでいないと憤るかもわからない。こればっかりは外野が主張を繰り返してもノイズなだけだ。よいアイデアがあるなら積極的に提言して貰いたいが。

このテの事件は、システムとしてマスメディアやインターネットを利用出来るようになってきたから可視化されただけで、ストーカー被害は(過去の新聞記事の転載などによれば)かなりの昔から存在する。恋愛沙汰とか痴情のもつれとかいう見出しでね。まだ新しいシステムを使い始めてから数年から十数年といった所だし、何もかもが不十分だ。関係者各位冷静かつ慎重に対処にあたって頂きたい。

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もしHikaruが、Utadaのインタビューでいつも言っていたように、小さい頃は「ミュージシャンになんかなりたくない」と思っていたんだとしたら、職業音楽家として毎日を過ごしていて、もしその生活が楽しいと感じられているのなら、楽しければ楽しいほど同時に悲しくなるだろうなぁ、と想像する。後悔とかそういう事ではなくて。今生きてる人生を後悔している人がGoodbye Happinessを書ける筈が無い。そんな発想が出てこないよ。生まれ変わってもまたここでKissして欲しいだなんてな。そういう事ではなくて、何て言うんだろう、小さい頃の自分の思いが間違いだった事をひとつひとつ証明していってしまっているような、遣る瀬無い、切ない思いに囚われてしまいそうで。今を肯定すればするほど、充実した人生を歩めば歩むほど、幼き日々のあの強い決意は何だったのかと、なるのではないかと。「未熟だったんだな。」と納得してしまえる人はそれでいい。しかし、世界に対して憤りと無力感をもって接し居続けた小さな女の子の思いを裏切る事で今自
分は賞賛を浴び、社会的な地位と名声と財産を手に入れ、表現意欲を満たし、幸せな結婚と出産を経て『今私は一人じゃないし それなりに幸せで』と歌えているのだとしたら、やっぱり何か、こう、悔しさを受け止めたくなるよね、何とかして。

と、言えてたのも2013年8月までだったのかもしれない。はっきり書いている。『あまりに悲しく、後悔の念が募るばかり』と。一方でこうも書いている。『きっと母も(結婚を)応援してくれてると信じて』と。後悔。ああすればよかった、こうしたらどうだったか。どれだけ全力で生きていても、後悔の種は残る。ラオウのようにはなかなかいくまい。

もしかしたら一生トラウマかもしれない。果たして自分を許せるか。もしあの時自分が違う選択肢を選んでいたら、運命は…と考え始めたらキリが無い。ただ、現状の肯定は、先程の幼い女の子の心をみるあの感覚と、切り離していられるだろうか。

母親の居ない人生で幸せになってゆくと、罪の意識が募るかもしれない。それは、恐ろしい。ヒカルに限った事ではなく、介護や世話、看病や闘病で疲弊した人の多くが味わう感情だ。自分は残酷なのだろうか、こんな嫌な事を考える人間なのだろうかと。

『真夏の通り雨』の時点は、恐らく罪の意識から最も、かどうかはわからないがかなり遠い場所なようにみえる。『思い出たちがふいに私を乱暴に掴んで離さない』のだから『囚われたままだね』、過去に。この後に来る罪の意識に関して、ヒカルは歌っただろうか。或いは、これから歌うだろうか。わからない。出来れば、馬鹿騒ぎの歌でも差し挟んで欲しい所だが。

いずれにしろ苦悩はどこまでも無くならない。痛みや悲しみで紛らせる事はあっても。喜びや快感に避難する事があっても、尚、悩み苦しむ。アルバムの全貌が完結するまで、暫し見守ろう。この感情のジェットコースターのような5年間を、歌で総括し、未来に向けて進めるような、そんな巨大な作品を期待する。

まぁ、いい歌があれば何でもいいんだけど。それ以上は、どうしようもないんだし。

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