ブログ 「ごまめの歯軋り」

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「文語訳 旧訳聖書 Ⅳ 預言」

2020年08月08日 | 書評
マンデビラ

イスラエル民族の再興を願う3大預言書と12小預言書

3) 「文語訳 旧訳聖書 Ⅳ 預言」(岩波文庫2015年)   (その31)

4) エゼキエル書 (その5)

第16章: エホバ言う、エルサレムの生地はカナンの地、父はアモリ人、母はヘテ人なり。人は汝が生まれた時汝を祝福せず汝の命を野に棄てた。しかしエホバは汝(カナンは女性名詞)に命を与え汝と契約した。なんじは育つにつれ麗しく栄えて王の権勢に至った。これより創世記のカナンと他の部族と交渉を語るのだが、カナンは女性名詞であるのでその忌むべき原罪を「淫婦」に求め、他の部族との交際や混血のことを「姦淫」という罪にかぶせてイスラエル民族の創世記を語る。史実かどうかは分からない。3人姉妹として、イスラエル人を主人公とし、姉をサマリア人、妹をソドム人とよぶ、人種として正しいかどうは不明である。カナン、あるいはカナアンとは、地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯の古代の地名である。聖書で「乳と蜜の流れる場所」と描写され、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地であることから、約束の地とも呼ばれる。カナンという名称の起源は不明であるが、文献への登場は紀元前3千年紀とたいへん古い。紀元前2千年紀には古代エジプト王朝の州の名称として使われた。カナンはイスラエル人到来前には民族的に多様な土地であり、「申命記」によれば、カナン人とはイスラエル人に追い払われる7つの民の1つであった。また「民数記」では、カナン人は地中海沿岸付近に居住していたに過ぎないともされる。この文脈における「カナン人」という用語は、まさに「フェニキア人」に符合する。カナン人とは、広義ではノアの孫カナンから生じた民を指す。「創世記」では、長男シドン、ヘト、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アキル人、シニ人、アルワド人、ツェマリ人、ハマト人の11の氏族を総称して「カナン人の諸氏族」と呼んでいる。カナン人はイスラエルと同化した。
第17章: エホバ言う、バビロンの王エルサレムに来たりユダの王と牧伯を捕えバビロンに引き連れた。(歴代志略第36章に、王ネプカドネザルはエホヤキンを捕えてバビロンに連行し、その後ゼデキアを王に代えた。ゼデキアは21歳の時王となり、11年間世を治めた。彼はエホバにとって悪をなし再びエホバに帰ることは無かった。ゼデキア王はバビロンに叛いたので、カルデア人は聖所を侵し老若男女をことごとく殺し、財宝を略奪した。そして宮殿を焼きエルサレムを破壊しつくした。殺されなかった人はバビロンに囚われ行きその国の僕となった。)ユダ王はエジプトに援助を求めバビロンに叛いたので王は殺されエルサレムは灰燼に帰した。エジプト王は約束に反してエルサレムを見殺しにした。大鷲と葡萄の樹のたとえ話は理解できないが、エホバは高き樹を低くし、低い樹を高くし、緑の樹を枯れ木にし、枯れ木を緑にするのはエホバのなす業なり。王侯貴族や民の運命を決めるのはエホバの計らいであることを知れという意味である。
第18章: エホバ言う、諺に「父ら酸い葡萄をを食べると、子どもの歯がうく」(父親の過ちのせいで、子供が苦労するということ)というがこれは間違っている。父と子の霊魂は別物である、独立してエホバのものであり罪を犯した霊魂は死ぬべし。人正しくて公道と公義を行い、諸々の悪を行わず、真実の判断を行い、法憲に歩み律法を守るならがこれは義しい人である。彼は生きるべし。しかし暴き人で人の血を流し、人の妻を犯し、悩める者と貧しき者を虐げ、ものを奪い、質物を還さず、山の上にて食事を死、偶像を仰ぎ、利を取りて金を貸すなど一つまた全部の悪事を行うなら彼は生きるべからず。又生まれた子が父のもろもろの罪を見たが善を行うなら彼はその父のために死ぬことは無い。(親子の連帯責任はない)罪を犯せる霊魂は死すべし、義人の義はその人に帰し悪人の悪はその人に帰す。しかし悪人もしすべて悪を離れ我が法と律を守るならば必ず生きるべし。彼行いし諸々の咎を離れるならば必ず生きる。
第19章: イスラエルの指導者たちのための哀歌であるが、短いながら譬喩であるので具体的な内容がつかめないもどかしさがある。そういう意味で難解である。前半は獅子の喩で史実としてのユダ王家の末路を描いている。子獅子のうちの一頭である「エホヤハズ」はヨシヤ王の三男。父ヨシヤ王が戦死したBC.609年、イスラエルの指導者たちはエホヤハズを擁立しましたが、エジプトの王パロ・ネコは彼を捕えてリブナに幽閉し、代わりにエジプトの傀儡王としてエホヤキムを立てます。エホヤハズはやがてはエジプトに連行されて、そこで生涯を閉じました。子獅子のうちの他の一頭は「エホヤキン」です。エホヤキムの死後に即位しますが、わずか三か月でネブカデネザルによってバビロンに連行され捕囚の身となります。バビロンでは後に優遇措置を受けますが、二度とエルサレムに戻ることはありませんでした。後半の話は葡萄の樹の喩でこれから起こる出来事です。ぶどうの木の強い枝であるゼデキヤ王が神の審判によってバビロンに連行されます。「王の杖となる強い枝がなくなった」とは、ユダの王制がここで絶えることを意味しています。ユダの王国の「哀歌」です。

(つづく)