三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

黒川創『鶴見俊輔伝』

2023年08月16日 | 日記

黒川創『鶴見俊輔伝』は鶴見俊輔(1922年~2015年)の評伝。
戦前の知的エリート階級の裕福さは半端じゃないと思いました。

鶴見俊輔の父は鶴見祐輔、母の愛子は後藤新平の長女。
7千坪もある後藤新平宅の一角に家があった。

鶴見俊輔は9歳から万引きをした。
東京高等師範学校附属小学校をビリから6番で卒業。
府立高等学校、府立第五中学校を中退した。

年上の女たちとの情事。
2度の自殺未遂、3度の精神病院入院。
鶴見祐輔は14歳の息子に「軽井沢に土地を買ってやるから、そこで女性と暮らして、蜜蜂でも飼ったらどうか」と言う。

16歳でアメリカ留学。
英語がわからないので、授業についていけない。
しかし、17歳でハーバード大学に入学。

鶴見俊輔の若いころの写真はどれも生意気そうな顔をしています。
経済的に恵まれたエリートであることへの罪責感があったように感じます。

姉の鶴見和子は入学した成城小学校は澤柳政太郞が創立した(1917年)
教育勅語の奉読も、君が代斉唱もない。
そもそも式典がなく、御真影というものを見たことさえなかった。

1929年、和子が成城小学校から女子学習院に転校すると、すぐ天長節(4月29日)だった。
その前日、鶴見祐輔が「あすは軽井沢の別荘に行くか、どうするか」と尋ねたので、和子は「行くわ」と答えた。
母の愛子は、その旨を記した欠席届を持たせてくれた。
そして、学校の式典には出ずに、家族で軽井沢に出かけた。

後日、このことが学校で問題化して「不忠の臣」などと言われ、先生から「謝りなさい」と求められたが、「なぜですか」などと訊くので、愛子が学校に呼びつけられた。
あとで和子が「どうだった?」と訊くと、愛子は「なんだかんだと言うから、うちの子どもは自分が悪いと思わないときに謝るようには躾けてございません、って言ってきたわ」と澄ましている。

夏休みになっても、多くの教師たちから、謝罪を求める手紙が和子宛に届いた。
愛子はそれに応じる様子がないので、和子は見切りをつけて、自分で「悪うございました」という詫び状を書き、判子を捺して、学校に提出した。
それからは優等生で通した。

1929年、鶴見俊輔は東京高等師範学校附属小学校に入学する。
校長(主事)の佐々木秀一は毎日の朝礼の話はとても短いものだった。
生徒は三角帽ををかぶり、帽子には、1、2年生は赤い房、3年生以上は白い房がついている。
佐々木秀一の話は「この学校で、赤房と白房がけんかをしているのを見たら、理由をきかないでも、白房のほうが悪いと私は思います」といったものである。
「休み時間に見ていると、みなさんの遊びには、戦争の遊びが多すぎます」と言うこともあった。

柳宗悦『朝鮮とその芸術』(1922年)にこうあるそうです。

日本の同胞よ、剣にて起つものは剣にて亡びると、基督は云った。至言の至言だ。軍国主義を早く放棄しよう。弱者を虐げる事は日本の名誉にはならぬ、(略)自らの自由を尊重すると共に他人の自由をも尊重しよう。若しもこの人倫を踏みつけるなら世界は日本の敵となるだろう。そうなるなら亡びるのは朝鮮ではなくして日本ではないか。

福澤諭吉が朝鮮と中国をぼろかすに書いている『脱亜論』への批判があるかもしれません。
それにしても、大正デモクラシーの時代と現在の学校教育、どっちがましかと思います。

1942年、日米交換船で大河内光孝を知る。
大河内光孝は大河内輝声(高崎藩藩主)の妾腹。
こういうことを話す人だった。

もし、若い相棒といっしょに山中で遭難して、このままでは生きのびる見込みがないとなったら、どうするか。おれなら、残りの食料を若い相棒に全部やる。そうすれば、若い相棒には、生きる見込みもできるかもしれない。自分の覚悟というのは、それだけだよ。


京都のパン製造・販売の進々堂の社内報に、経営者一族の続木満那という専務が「私の二等兵物語」を書いている。
1942年に一兵卒として入隊し、中国に送られる。
銃剣術や射撃の練習のために、生きている中国人捕虜を目隠しもせず木にくくりつけて、突き殺したり撃ち殺したりすることを命じられた。

陣地の後の雑木林に40人の捕虜が長く一列に並ばされました。その前に3メートルほどの距離をおいて私達初年兵が40名、剣つき銃を身構えて小隊長の「突け」の号令の下るのを待っていたのです。昨夜、私は寝床の中で一晩考えました。どう考えても殺人はかないません。小隊長の命令でもこれだけはできないと思いました。しかし命令に従わなかったらどんなひどい目に会うかは誰でも知っています。自分ばかりでなく同じ班の連中までひどい目に会わすことが日本軍隊の制裁法です。け病を使って殺人の現場に出ないことを考えてみました。気の弱い兵隊がちょいちょいやる逃亡という言葉も頭をかすめました。しかし最後に私の達した結論は「殺人現場に出る、しかし殺さない」ということでした。

上官から「突け」と命令されても続木は捕虜を殺さなかった。

鶴見俊輔は召集されましたが、ジャカルタで翻訳をしており、実戦の経験はありません。
上官から殺せと命令され、殺さないことができるか、日本が戦場になったらどうかと、自分に問います。

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