おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

007/カジノ・ロワイヤル

2023-12-16 12:33:04 | 映画
「007/カジノ・ロワイヤル」 2006年 アメリカ / イギリス


監督 マーティン・キャンベル
出演 ダニエル・クレイグ エヴァ・グリーン
   マッツ・ミケルセン ジュディ・デンチ
   ジェフリー・ライト ジャンカルロ・ジャンニーニ
   シモン・アブカリアン カテリーナ・ムリーノ
   イワナ・ミルセヴィッチ セバスチャン・フォーカン

ストーリー
殺しのライセンス“00(ダブル・オー)”を取得するため、昇格最後の条件である2件の殺害を実行したジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)は見事ダブル・オーの称号を得る。
ウガンダでは、ル・シッフル(マッツ・ミケルセン)という人物が、テロリストと取引をしていた。
マダガスカルでボンドは爆弾魔を壮絶なチェイスで追い、彼を捕獲し射殺したあと大使館を爆破した。
その様子が新聞で報じられボンドはM(ジュディ・デンチ)から叱責を受ける。
爆弾魔の携帯にエリプシスという着信履歴を見つけ、ボンドはロンドンへ戻りMのパソコンを使って発信元を突き止めバハマへと飛ぶ。
そこで謎の男がテロリストの資金運用をしているエリプシスだと睨んだボンドは、彼にポーカーを挑み勝利して彼の所有していたアストンマーチンを奪い彼の妻に接触したのだが、それに気が付いたシッフルは、エリプシスの妻を殺害した。
ボンドはシッフルとテロリストの仲介役の男を殺害すると、エリプシスのバッグを持った男を追ってマイアミ国際空港へ向かった。
バッグを持った男は空港内を混乱に陥れたあと爆弾を抱えて飛行機に近づいたが、ボンドはチェイスののちに彼に爆弾を装着し爆殺した。
シッフルは計画が大失敗したことに怒り、カジノで損失の穴埋めを行うことを決めた。
Mは財務省のヴェスパー・リンド(エヴァ・グリーン)という女性とともに、モンテネグロで開催されるカジノへ行くようボンドに指示した。
シッフルに対しては、テロリストが資金返済をするよう脅迫をかけていた。
テロリストに見つかったボンドは、階段で壮絶な戦いを行ってテロリストを殺した。


寸評
ショーン・コネリーのボンドでスタートしたシリーズだが、彼が去ったあと主人公のジェームズ・ボンド役を数作ごとに変更してリフレッシュしていたが徐々にマンネリ化していくと同時に陳腐化していた。
しかし本作における新ジェームズ・ボンド役としてのダニエル・クレイグの登場はそれらを払拭している。
劇中で彼は何度も裸になるのだが、見るからにマッチョで若々しい。
彼の身のこなしによってCGに頼らない本物のアクションシーンをたくさん入れることができている。
ダニエル・クレイグのボンドは新人スパイということで、まだまだ荒削りな男くささとワイルドさを兼ね備えながらも、細身のタキシードの着こなしなど洗練されたセクシーさも感じさせ、ボンドとしてのイメージは悪くない。

映画は若き日のボンドが007になった直後の初事件を描くというものである。
オープニングのタイトルデザインが奇抜でアイデアにあふれているが、それに続くアクションシーンで作品に一気に引き込まれていく。
テロリストをボンドが追いかけるアクションシーンなのだが、高所のクレーン場を駆け巡る一歩間違えれば墜落死をまぬがれない超高所での戦闘である。
壁を乗り越え飛び降りるスピーディーなアクションの連続で、この冒頭のシーンだけでも値打ちがあるといものだ。
スパイ映画でありながら、アクション作品でもあると印象付け、後々描かれるアクションシーンも迫力あるものとなっている。
世界旅行を思わせるような風光明媚な映像も流され、ベニスでビルが水中に没するシーンには驚かされる。
もちろんそこにはドラマも盛り込まれている。

ボンドが使うアイテムは極力荒唐無稽さを抑えたものとなっており、スパイ映画としてのワクワク感を高める程度のものとなっていることが最低限のリアリティをもたらせている。
そのことがボンドの本気のロマンスにリアリティを感じさせているのだと思う。
「あなたにはもう近づけない。あなたはまた甲冑を付けてしまった」とヴェスパーが言うと、ボンドは「甲冑など付けてない。君に脱がされた。僕は丸裸だよ。今、ここにいる僕。丸裸の僕はすべて君のものだ」と応じる。
そしてボンドはパソコンからMに辞意を伝えるのだが、見ている僕たちは「え?本当に?」と思ってしまう。
仕事が終わったあとのアバンチュールかと思わせたところから、物語は二転三転していきラストの15分はついていくのが精一杯という展開が続く。
登場人物の誰もが「ええ、そうだったの?」という内容なのだ。

シッフルはテロリストの資金運用を受け持っており、損出を出すことは出来ない。
値上がりを続けている会社の株を空売りする理由も明かされる。
殺しのライセンスを持つボンドにシッフルが殺されないのは、テロリストの資金を絶つためである。
物語上、シッフルの末路は分かり切ったものだが、そのあっさりとした末路をご都合主義ではなく納得させる背景も描き込んでいて、作品を手堅い出来栄えとしている。
ラストはちょっとあっけないが、ダニエル・クレイグのボンドが楽しみに思える内容となっていて、次回作に期待を持たせた。

007/ゴールドフィンガー

2023-12-15 05:36:54 | 映画
「007/ゴールドフィンガー」 1964年 イギリス


監督 ガイ・ハミルトン
出演 ショーン・コネリー ゲルト・フレーベ
   オナー・ブラックマン セク・リンダー
   シャーリー・イートン タニア・マレット
   バーナード・リー ロイス・マクスウェル
   デスモンド・リュウェリン ハロルド坂田

ストーリー
英国の金が密輸ルートで大量に国外に流出しているという情報を得て、ボンドはその犯人と目される億万長者のゴールドフィンガーとの対決を命令された。
ゴールドフィンガーのやるインチキトバクを見破ったボンドは、ジルなどの犠牲のおかげで彼に近づきになったが、用心棒オッドジョブに捕まった。
気がついたとき、ボンドはゴールドフィンガーの自家用機にいた。
彼はアメリカにある金に放射能爆弾を射ちこみ、使用不可能にしておいて自分の金を十倍の値で売りこもうという計画を実行に移しているのだ。
ボンドは見張り役がブロンドのプシーであったのを幸い、荒っぽい強烈な手管で彼女を味方にひきいれた。
実行の日、プシー指揮の飛行編隊が空から催眠薬を撒き、市全体を眠らせておいて金保管所の扉を焼き切り、ボンドは時限爆弾につながれて金庫におろされた。
この時、守備隊が突然立ち上がった。
プシーの密告で眠らされたふりをしていたのだ。
激烈な戦闘が展開された。
そのスキにゴールドフィンガーは米陸軍将校に化けてプシーの待機するヘリコプターで脱出した。
オッドジョブを倒し時限爆弾を解除し、危機を救ったボンドはアメリカ大統領の招待を受け特別機で向かう。
ところが搭乗員は全員が、密かに乗っていたゴールドフィンガーのために縛られ、ボンドも彼の握るピストルの前に立たされた。


寸評
007シリーズの第3作で、シリーズの3作目となると観客である我々も作品の雰囲気にも慣れ、作品の持つパターンにも馴染んできていて、この作品でさらに007シリーズを人気不動のものとした。
1962年に登場したジェームズ・ボンドだが、毎年1本公開されるようになり、当時はその公開を心待ちしたものだ。
監督がテレンス・ヤングからガイ・ハミルトンに代わっているが、ボンド役のショーン・コネリーは続投である。
6作目の「女王陛下の007」でボンド役はジョージ・レーゼンビーに代わったが、7作目は再びガイ・ハミルトンがメガホンを取りショーン・コネリーが復活している。
しかしボンドのイメージがつきすぎると言うことで、ショーン・コネリーはそれを最後にボンド役を降りた。
それでも長くボンドのイメージから逃れるのに苦労したショーン・コネリーだったと思う。
しかし、この頃のショーン・コネリーのボンドは脂がのり切っていて、ボンドのイメージを定着させたと思う。

再見すると、懐かしさを覚える作りではあるが主題歌にのって写されるタイトルバックは凝っていていい出来だ。
シャーリー・バッシーが歌う主題歌はパンチがあっていい。
それにもましていいのが、金箔を塗られた女性の体に写される映像とクレジットタイトルだ。
映画のタイトルをイメージさせる金箔女性の印象は強烈だった。
それがオープニング・クレジットとエンディング・クレジットに使われ、エンディングではボンドが「サンダーボール作戦」で帰ってくることが表示されている。
見終ってもそのタイトルバックの印象しか残らないような出来栄えである。

中身は今見ると粗削りだが、それが007シリーズだったのかもしれない。
カッコいい車としてアストンマーチンが登場し、数々の装備を備えているのが漫画的だが公開当時はその威力にワクワクさせられた。
防弾ガラスは勿論のこと、各国用の回転式可変ナンバープレート、ダッシュボードに格納されている追跡用発信機の受信機、並走車のタイヤをパンクさせる回転式の刃、後部からまき散らす煙幕やオイル、屋根の一部が開き助手席を上方に射出する装置など考え着くものは何でもありで、追跡劇ではそれらがふんだんに使用される。
金粉を体中に塗ると皮膚呼吸が出来なくなって死ぬという都市伝説もこの作品で生まれたのかもしれない。

ボンドは囚われの身になりながらも生かされるが、なぜ生かされたのかはよくわからないご都合主義である。
あれだけ大層な仕掛けをする余裕があるなら、内部で待ち伏せしてゴールドフィンガーの一味を捕らえればいいのではないかと思うが、それもご都合主義と言える。
バタバタと倒れる兵士たちの姿は漫画的だが、それでも当時は納得した。
ゲルト・フレーベのゴールドフィンガーはどこか愛嬌があり憎めない。
同様にハロルド坂田のオッドジョブが、ゴールドフィンガーをしのぐ存在感で、ブーメランの様なシルクハットがアストンマーチンよりも印象に残る。
ハロルド坂田はプロレスのテレビ中継の人気があったころ、悪役レスラーのトシ東郷として日本のマット上に現れたのは嬉しいことだった(当時はプロレスも人気がありゴールデン・タイムにテレビ中継されていた)。
とにかくこの作品は本編の内容よりも、僕にとってはそれに付随することが記憶に残っている映画だ。

蝉しぐれ

2023-12-14 07:36:12 | 映画
「蝉しぐれ」 2005年 日本


監督 黒土三男
出演 市川染五郎 木村佳乃 ふかわりょう 今田耕司
   原田美枝子 緒形拳 小倉久寛 根本りつ子 山下徹大
   利重剛 矢島健一 渡辺えり子 原沙知絵 田村亮
   三谷昇 大滝秀治 大地康雄 緒形幹太 柄本明 加藤武

ストーリー
“海坂藩”の下級武士・牧助左衛門(緒形拳)の15歳になる剣術に長けた息子・文四郎(石田卓也)と、隣家に住む幼なじみのふく(佐津川愛美)は、秘かな相思の仲。
だがある日、城内の世継ぎ問題に巻き込まれた助左衛門が、対立する側の家老・里村左内(加藤武)に切腹を命じられたことから文四郎の境遇は一変し、罪人の子として、母・登世(原田美枝子)と共に辛い日々を送る破目になってしまう。
そんな中、今度はふく(木村佳乃)が殿の江戸屋敷の奥に勤めることになった。
それから数年、父の仇である筈の里村によって名誉回復が言い渡され、村回りの職に就いていた文四郎(市川染五郎)は、学問の修行を終え江戸から帰って来た友人・与之助(今田耕司)に、殿の側室となったふくが子を身籠ったものの、世継ぎ問題に巻き込まれ流産したことや、その後、再び殿の子を懐妊・出産し、今は別邸“欅御殿”に身を隠しているらしいことを聞かされる。
そんな文四郎に、こともあろうに里村からふくの子をさらって来いとの命令が下った。
罠だと知りつつも、承諾せざるを得ない立場の文四郎は、ふくの子を預かった後、里村の反対勢力で父が仕えていた家老・横山又助(中村又蔵)の所に駆け込む策を秘密裡に講じる。
そして、友人の逸平(ふかわりょう)や与之助らの力を借り、欅御殿に向かうと、ふくに事情を説明。
押し入って来た里村派の刺客たちを倒し、ふくとその子を無事、横山の屋敷に送り届けることに成功する。
数年後、殿の他界によりふくが出家を決意した。
ふたりは、今生の未練として一度だけの再会を果たし、そこで初めて自らの気持ちを伝え合うも、最早結ばれる筈なく再び別れ行くのだった。


寸評
藤沢周平らしい秘めた恋を描いているが、話のテンポがあまりにも遅すぎて情感が伝わってこない。
近所に住む二人は秘かに想いあっているようだが、その描き方はまどろっこしい。
図らずも二人が別れ別れになっていく時の切なさのようなものがにじみ出てこなかったのは淋しい。
牧助左衛門は水害の時にも率直な意見を言う男で、村人の信頼も得ているのだが、それも十分に描かれているとは言い難い。
この時に村を救ったことで、脱出劇の時に助けてくれる村人が出てくる伏線となっているのだが、伏線としては弱いと思う。
ふくの家は貧しくて助左衛門の家に米を借りに来ている。
登世も米だけではないし、返したためしがないと愚痴をこぼしているのだが、ふくが殿様の側室になってから、ふくの父親はとんとん拍子の出世を遂げている。
一方で文四郎の家は父が切腹したことで没落し、立場は逆転してしまっているのだが、その間の両家の関係はどうなっていたのか。
相変わらず拘わらぬように無視していたのだろうか。
そうだとすれば、ふくの両親は出世しておきながら過去の恩を忘れた無慈悲な親と言うことになる。

成人した文四郎は父親と同じように世継問題に巻き込まれてしまう。
欅御殿で襲撃にあったとき、ライバルともいうべき剣客と再び戦うことになるが、ふたりのライバル関係は御前試合だけで描かれており、この二人の対決は重きに置かれていない。
だから対決の盛り上がりには欠けている。
世継問題に乗じて首席家老になっている里村の屋敷に文四郎が乗り込むが、里村の部屋に入った文四郎を里村の家来たちが追いかけてこないのはどう考えても不自然だ。
そこで文四郎は里村を殺すことなく意見する。
ではその後、里村はどうなったのか。
先の首席家老・横山又助が復権し、里村は失脚したのか。
そもそも世継問題と言う政争から出発している話なのだから、政争の結末は描く必要があったのではないか。
どうもこの作品においてはすべての描き方が中途半端な気がする。
それが間延び感の原因だろう。

文四郎はふくに呼び出され別れの対面をする。
この頃には文四郎も結婚し、子供も生まれていることが文四郎の口から語られる。
幸せな家庭を築いているということなのだが、それでも初恋の人を忘れられず、ひそかに心の中で思い続けているという心情は分らぬでもない。
ラストシーンはそんな文四郎の心の内を示すものだと思うが、それも希薄なもので、思いのたけは籠の中のふくの表情と見送る文四郎の姿を比較すると、ふくの方が思いは強かったのだと思う。
藤沢周平の世界を描いてはいるが、どうも上辺だけを描いたような作品と感じてしまって、時代劇ファンとしてはちょっと残念な気持ち。

世界の中心で、愛をさけぶ

2023-12-13 07:36:33 | 映画
「世界の中心で、愛をさけぶ」 2004年 日本


監督 行定勲
出演 大沢たかお 柴咲コウ 長澤まさみ 森山未來 山崎努
   宮藤官九郎 津田寛治 高橋一生 菅野莉央 杉本哲太
   古畑勝隆 内野謙太 宮崎将 マギー 大森南朋
   天海祐希 木内みどり 森田芳光 田中美里

ストーリー
朔太郎(大沢たかお)と婚約した律子(柴咲コウ)は、引っ越しのための荷造りをしていた時に、1本のカセットテープを見つけた。
カセットテープに残されたメッセージを聞くため、律子はカセットテープが聞けるウォークマンを購入し、メッセージを聞いた律子は涙を流し、「探さないでください」と置き手紙を置いて、何も言わずに朔太郎の前から姿を消してしまった。
彼女の行き先が自分の故郷・四国の木庭子町であることを知った朔太郎は、彼女の後を追って故郷へと向かうが、そこで彼は高校時代のある記憶を辿り始める。
それは、朔太郎(森山未來)が初恋の人・亜紀(長澤まさみ)と育んだ淡い恋の想い出だった。
記憶の中の亜紀は白血病で倒れて辛い闘病生活を強いられてしまう。
そして、次第に弱っていく彼女を見て、自分の無力さを嘆くしかない朔太郎は、彼女の憧れの地であるオーストラリアへの旅行を決行するのだが、折からの台風に足止めをくらい二人の願いは叶わず、空港で倒れた亜紀は、その後、還らぬ人となるのだった…。
そんな二人の関係に、実は律子が関わっていた。
入院中、朔太郎と亜紀はカセットテープによる交換日記のやり取りをしていたのだが、その受け渡しを手伝っていたのが、亜紀と同じ病院に母親(田中美里)が入院していたまだ小学生の律子で、彼女の失踪もそれを自身で確かめる為だったのである。
果たして、亜紀の死やテープを届けていた相手が現在の恋人である朔太郎であったことを知った律子は、自らも事故に遭ったせいで渡せなかった“最後のテープ”を迎えに来た朔太郎に渡す。
それから数日後、約束の地・オーストラリアへと向かった朔太郎と律子は、最後のテープに録音されていた亜紀の遺志を叶えるべく、彼女の遺灰を風に飛ばした。


寸評
通称「セカチュウ」でテレビドラマでも視聴率を稼ぎ、ちょっとした純愛路線ブームを引き起こして映画化された作品だが、結果としてはイマイチといったところだ。
原作が甘っちょろい恋愛小説だったのか、それとも行定監督の演出不足によるものか、よく分からなかったけど兎に角期待しただけ不満の残る出来栄えだった。
行定監督って結局「GO」だけの監督だったのかな・・・。

まず、制作側が何をやりたいのかが観客である僕に伝わってこないのだ。
青春映画を作りたいのか、あるいは主演女優の長澤を売り出したいのか、あるいは観客を泣かせたいのか・
もちろん、そのすべてをやりたいのだとは思うが、一本、筋を通してほしいという気持ちになる。
それでもキャッチコピーなどを見ると、最大の目的は、"お涙頂戴映画"を作るという一点にあると想像される。
もしそうだとしたらこの作品は上辺をなぞった薄っぺらな作品に仕上がってしまっている。
セカチュウ・ファンで涙を流せるという人ならこれでも泣けるのかもしれないが、僕は泣けなかった。
観客を泣かせる映画はこんな作品ではないと思うのだ。
もちろん、人によっては感動で泣けるという人だっていることは承知の上である。

ファンの間では自分の10代の頃を思い出させるリアルな心理描写を絶賛する人も多いと聞くが、ファンでない僕は主人公カップル二人が完全にプラトニックの方向に向かっていて、結局これが現実性を大幅にそいでいると思ってしまうのだ。
2時間14分という上映時間も、この内容にしてはくどく感じるし長すぎる。
ヒロインを演じる長澤まさみはスクリーンに映えるすばらしい女優だとは思うが、同時にプロポーション抜群で健康的だなあとも思ってしまう。
頭を丸めた勇気と、やる気満々だったのだなあということだけは伝わってきた。

いい点を挙げれば、原作がどうなっているのか知らないが、カセットテープを介した過去と現在の行き来は良かったと思う。
朔太郎の婚約者である律子がそのカセットに絡んでいたという展開はちょっとした驚きの展開で面白い設定だ。
律子の突然の失踪は、朔太郎がいまだに亜紀を忘れられないでいるのではないかとの疑問を持っているからの様な雰囲気でスタートしているだけに、その設定効果は話をまとめるのに十分な役割を果たしていた。
そして、ロケ地などは「よくぞこんな良い場所を見つけた」と思うほど綺麗だし、映像もメルヘンチックで、光の取り扱いも行定監督らしく上手いと思うところはある。
しかし、それらの魅力をもってしても映画自体がイマイチである印象は最後までぬぐいきれなかった。
視聴率を取ったというテレビドラマをみていなかった僕にとっては「あ~あ、これが噂のセカチュウか」といった印象の映画だった。
結局、「どうしても見たいというケースを除いては、あまり積極的に勧める気にはなれないな」というのが僕の結論である。
かつて純愛物のプチブームを引き起こした歴史的作品ということで記憶に留めておこう。

青春の蹉跌

2023-12-12 07:21:51 | 映画
「青春の蹉跌」 1974年 日本


監督 神代辰巳
出演 萩原健一 桃井かおり 檀ふみ 河原崎健三 赤座美代子
   荒木道子 高橋昌也 上月左知子 森本レオ 泉晶子
   くま田真 中島葵 渥美国泰 北浦昭義 山口哲也
   加藤和夫 下川辰平 久米明 歌川千恵 中島久之
   芹明香 堀川直義 守田比呂也

ストーリー
大学の法学部に通う江藤賢一郎(萩原健一)は、学生運動をキッパリと止め、アメリカン・フットボールの選手として活躍する一方、伯父・田中栄介(高橋昌也)の援助をうけながら、大橋登美子(桃井かおり)の家庭教師をして小遣い銭を作っていたのだが、やがて、賢一郎はフットボール部を退部、司法試験に専念した。
登美子が短大に合格、合格祝いにと賢一郎をスキーに誘った。
ゲレンデに着いた二人、まるで滑れない賢一郎を背負い滑っていく登美子。
その夜、燃え上がるいろりの炎に映えて、不器用で性急な二人の抱擁が続いた。
賢一郎は母の悦子(荒木道子)と共に成城の伯父の家に招待された。
晩餐の席で栄介の娘・康子(檀ふみ)と久しぶりに話をする賢一郎。
第一次司法試験にパスした賢一郎が登美子とともに歩行者天国を散歩中、数人のヒッピーにからまれている康子を救出したことから、二人は急速に接近していった。
第二次試験も難なくパスした賢一郎は、登美子との約束を無視して、康子とデートをした。
やがて賢一郎は第三次試験にも合格したが、それは社会的地位を固めることであり、康子との結婚は野心の完成であった。
相変らず登美子との情事が続いたある日、賢一郎は康子との婚約を告げたが、登美子は驚かず、逆に妊娠五ヵ月だと知らせた。
あせる賢一郎は、登美子を産婦人科に連れて行き堕胎させようとするが医者に断わられる。
不利な状況から脱出しようとする賢一郎だが、解決する術もなく二人で思い出のスキー場へやって来た。
雪の上を滑りながら賢一郎は登美子の首を締めていた。
賢一郎と康子の内祝言の宴席。
賢一郎は拍手の中、伯父や康子を大事にしていく、と自分の人生感を語るのだったが・・・。


寸評
僕はこの映画を見るまで蹉跌という言葉を知らなかった。
蹉跌=つまずくこと。失敗し行きづまること。
監督の熊代辰巳は日活ロマンポルノでもって秀作を連発していたが、東宝から招聘されて撮ったのがこの「青春の蹉跌」である。
公開当時に劇場で見た時には学生運動の終焉も感じ取った記憶があるのだが、今見るとその感情は湧いてこないので、学生運動は遠くなりにけりということだろうか。

自らの野望ゆえに滅んでいく青年の物語なのだが、神代監督の独特な演出は主人公の屈折した人物像を浮かび上がらせていく。
「エンヤドット、エンヤドット」という斎太郎節の歌いだしを主人公が何度もつぶやいているのが印象的だし、ゼロックスのコマーシャルのような即興的な映像が挿入されるのも特徴的。
賢一郎は登美子と雪山で若い男女が凍死している現場に出会うが、女を置き去りにして逃げれば自分は助かったのにと勝手なことをつぶやくような男だ。
賢一郎は打算的な男で、登美子は愛を信じる純真な乙女のように見えるが、実は登美子もそんな女ではなかったことが明らかとなる。
この展開は衝撃的である。

主人公は私大の法学部に籍を置き試験にも合格していくが野望に燃える上昇志向の強い男ではない。
どこかさめていて優柔不断なところがある。
叔父は後継者にと考えているようだが、叔父のヨットでは顎で使われるようなこともあり、叔父の会社に入った後が思いやられるようなしぐさも見せる。
賢一郎も康子も泳げないと言っていたが、二人とも泳ぐことができるという虚構の関係だ。
登美子を背負って戯れた賢一郎は同じようにして康子と戯れる。
そんな男が二人の女性の間を浮遊し、翻弄され、どうしようもなくなって殺人を犯し破滅していく。
賢一郎は母親と共に叔父から援助を受けているが、貧しさゆえに充たされぬ野望をもって社会に挑戦し挫折したという男ではないので、僕は賢一郎に悲劇性を感じない。
それに比べれば二人の女性の方がしたたかだ。
登美子は薄幸な女を演じ、「別れてもいいよ」なんて言いながら、妊娠を口実に徐々に外堀を埋めていき、子供を堕胎したと嘘を言って賢一郎との関係を続ける。
康子は聡明で「新宿の時の女性のことは気にしない。今後は私だけにしてほしい」と迫る高慢な女だ。
二人に比べれば賢一郎などは青臭い。

賢一郎は登美子の実態を知らないで死んでいく。
ラストシーンは賢一郎の死を暗示していたと思うが、賢一郎の死で締めくくるのは公開当時の映画における風潮だったかもしれない。
原作者の石川達三が映画に対して怒りを表明したことが漏れ伝わっている。

青春の殺人者

2023-12-11 07:43:25 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/6/11は「この空の花 長岡花火物語」で、以下「御法度」「小早川家の秋」「コレクター」「13デイズ」「サード」「最強のふたり」「最後の忠臣蔵」「サイドカーに犬」「サウルの息子」と続きました。

「青春の殺人者」 1976年 日本


監督 長谷川和彦
出演 水谷豊 内田良平 市原悦子 原田美枝子 白川和子
   江藤潤 桃井かおり 地井武男 高山千草 三戸部スエ

ストーリー
彼、斉木順は二十二歳、親から与えられたスナックを経営して三カ月になる。
店の手伝いをしているのは、幼なじみの常世田ケイ子である。
ケイ子は左耳が関えなかった。
その理由を順はケイ子のいう通り、中学生の頃いちじくの実を盗んで食べたのを、順がケイ子の母親に告げ口をし、そのために殴られて聞えなくなったと信じていた。
ある雨の日、彼は父親に取り上げられた車を取り戻すため、タイヤパンクの修理を営む両親の家に向った。
しかし、それは彼とケイ子を別れさせようと、わざと彼を呼び寄せる父と母の罠だった。
母親が野菜を買いに出ている間に、彼は父親を殺した。
帰って来た母は最初は驚愕するが、自首するという彼を引き止めた。
二人だけで暮そう、大学へ行って、大学院へ行って、時効の十五年が経ったら嫁をもらって、と懇願する。
だが、ことケイ子の話になると異常な程の嫉妬心で彼を責める。
ケイ子と始めから相談して逃げようとしていたのだ、と錯乱した母は庖丁を手に待った。
もみ合っている内に、彼が逆に母を刺していた。
金庫から金を奪った彼は洋品店で衣類を替えてスナックに戻り、ケイ子に店を今日限りで閉めると言った。
何も知らないケイ子は、自分のことが原因だから両親に謝りに行くというが、彼はもう取り返しがつかないと彼女を制した。
順はケイ子と一緒にアル中の母親の家に行って、いちじくの件をたずねるが母親はなかったと言う。
両親の死体をタオルケットで包んでいる時に、ケイ子が家の中に入って来たが平然としている。
彼の脳裏に幼い日の彼と、貧しい父と母が浮かぶ。


寸評
長谷川和彦は本作と、「太陽を盗んだ男」という特異な2作品だけを残して、その後映画を撮らなくなってしまった伝説の監督である。
その寡作性と作品のインパクトが伝説化させているのだが、この作品は彼のデビュー作である。
制作費の安さもあって内容は荒っぽいが、その荒っぽさが主人公の青年らしさ(むしろ子供ぽさ)、嘘の無さみたいなものを感じさせ、何かに導かれるように破滅に向かっていく様子を際立たせていた。
父親は欲しい物を与えるくせに熱中すると奪おうとしたと順は言うのだが、そんな事は分かっていて与えてもらう事を選んでいた自分の弱さも知っていたのだと思う。

母親の市原悦子と、息子の水谷豊のやりとりはこの映画の白眉だ。
母親は素直に警察に行くと言う息子に、「これは家の中の問題なんだから、法律やら国家やらに口出しされてたまるもんですか」という屁理屈を展開する。
家と土地を売り払って遠くへ逐電し、時効成立まで息子の嫁替わりにおさまろうとする。
父を殺してしまった息子にスリップ一枚の姿になって「ねえ、二人でアレしようよ…」と迫る場面は怖い。
嫁の代わりになろうとする気持ちを考えると、この母親の息子に対する猛愛の異常性も感じ取れる。
さすがにこのおぞましい近親相姦を順は本能的に拒絶する。
死んだ父親を浴槽に運び込むシーンでは「やめてー! もっと、そーっと!」といたわりを見せ、順から「「うるせーや! そーっとやったって荒っぽくやったって同じなんだよ!」と言われると、「ごめんね・・・海にきちんと沈めるまで我慢してね・・・」などと、わけのわからぬ事を言う。
圧巻なのはふたりの格闘シーンで、結局殺人に至るその場面で母親は「痛くないようにそーっとやってー」、「痛いようー! ああっ! 死ぬー! 死ぬよー!」と叫びながら殺される。
事前のシーンと重ね合わせると、この殺人は擬似セックスだったのではないかと思わせる。
市原悦子はこのようなネットリとした女をやらせるといい味を出す。
清純派女優にはできない役柄だ。

息子を愛してはいるものの、あくまで自分の所有物とみなしている父親対して、順は反感を抱きながらも口では父親に負けてしまい、自分ではどうしたらいいか解らない。
それは親離れし切れず確固たる意志を持てない若者の姿でもある。
順は自分でも理解できないくらい強い衝動が発端となって親を殺してしまう。
しかし順はそうまでして守りたかったものすらも理解できてないし、その後の生活も以前と変わらない。
両親の苦労を思い浮かべたり、楽しかった過去の日々を思い浮かべてしまう矛盾を抱えている。
主人公は父を殺し、母を殺し、女を捨てるが、全ては自分の弱さから出たことで、死にたくても死ぬ事すらままならない憶病さによるもので、燃え上がる黒煙を見る順の姿は小さな虚栄心が崩れさった青春の終わりを示していた。

原田美枝子は体の成熟さに似合わない子供っぽい顔と、素人っぽい台詞回しで役にはまっていたと思う。
彼女の豊満ボディはどうしても印象に残ってしまう。

聖衣

2023-12-10 07:24:47 | 映画
「聖衣」 1953年 アメリカ


監督 ヘンリー・コスター
出演 リチャード・バートン ジーン・シモンズ
   ヴィクター・マチュア マイケル・レニー
   リチャード・ブーン ディーン・ジャガー
   メエ・マーシュ マイケル・アンサラ

ストーリー
タイベリアス皇帝治下のローマ。
若い貴族の護民官マーセラスはダイアナと出会い、小さい頃に結婚の約束をしたと言われる。
マーセラスは、帝位をつぐことになっていたキャリグラと競って、奴隷デミトリアスを買いとり、そのためキャリグラの恨みを買って、エルサレムへ左遷された。
マーセラスの好意で自由の身となったデミトリアスも同行することになった。
マーセラスの最初の仕事は、神の子と自称するイエス・キリストを捕まえて磔にすることであったが、イエスを本当の救世主と信じるデミトリアスは、イエスを守ろうとした。
しかしイエスはユダの裏切りで遂に処刑された。
マーセラスは良心のとがめを感じ、酒の酔にまぎれて同僚とサイコロ遊びに興じ、イエスがまとっていた聖衣を手に入れた。
マーセラスがその聖衣をまとおうとすると、彼は突然うちのめされたように倒れ、衣を投げすてた。
デミトリアスはその衣を拾い、主人を捨ててイエスへの帰依を誓った。
マーセラスはそれ以来、心の平静を失うようになり役目をとかれてローマに帰ることになった。
ローマに帰ったマーセラスは幼馴染のダイアナ姫の愛情に心のおちつきを得た。
だがキャリグラはダイアナ姫を自分の正妻にしたいと望んでいた。
タイベリアス皇帝は、マーセラスにイエスが真の救世主であるかどうか調査を命じた。
マーセラスはガラリア地方に赴き、そこでイエスの教えを説くペテロと呼ばれる漁夫サイモンと語らい、デミトリアスとも再会した。
マーセラスはイエスの教えに心服してローマへ帰ると、キャリグラが即位していた。

寸評
テレビの出現によって映画界がダメージを受け始めたことは間違いないだろう。
テレビでは味わえないものをということで、映画館の大画面に活路を見出す作品が撮られ始める。
それまでのスタンダードサイズとは違った随分と横長のサイズであり、「聖衣」がその第一作と言われている。
日本では1957年に日本初の総天然色シネマスコープ映画を「東映スコープ」として公開した「鳳城の花嫁」が最初なのだが、これは新東宝が新東宝シネスコとして「明治天皇と日露大戦争」を公開するのを知った東映が直前に公開した為に「鳳城の花嫁」が第一作の栄誉を受けることになったためである。
スタンダードサイズが縦構図で撮られることが多かったのに対し、当然の帰結として横構図が多くなる。
この作品でも横長を意識した構図が随所にみられ、当時は斬新な構図だったのだろうが今では極普通の構図となっている。

キリスト教徒が見れば違った印象を持つのかもしれないが、キリスト教徒ではない僕には何とも抑揚のない平板な作品としか思えない。
あくまでもシネマスコープの第一作と言う以外に僕はこの映画の存在価値を見出せない。
大画面を利用した戦闘シーンやスペクタクルが全く描かれていないのも物足りなさを感じさせるのだろう。
畏れ多いのかキリストの顔が写されることはなく、その姿のごく一部が表現されるだけとなっている。
デミトリアスやマーセラスがキリストに帰依していく様子も盛り上がりに欠ける。
キリストと目が合っただけで心打たれてしまうデミトリアスの描き方もあっけない。
マーセラスはキリストの処刑を実行した将校だが、反キリストだった彼がキリスト教信者になる展開にも物足りなさを感じる。
彼は自分に呪いをかけたと思われている聖衣を求める中で、イエスの教えを説く老人ユースタス、イエスに魂を救われたという女性ミリアム、与えたロバを友人に譲ってしまう無欲の少年などに出会って、自分の考えに疑問を持ち始める。
そしてマーセラスはペテロと行動を共にするデミリアスと再会し、自ら衣を焼き捨てようとしたが衣に触れているうちに自身を蝕んでいた苦しみから解き放たれてイエスの教えを理解する。
ローマ帝国の将校としてキリストを処刑したマーセラスが変節をきたす最大の出来事なのだが、そこに至る描きかたは通り一辺倒で、振り返るとこれはというシーンが思い起こせない。
キリストが最後に着ていた”聖衣”や、処刑後のキリストから流れ落ちる血を受けたとされる”聖杯”はキリスト教徒にとっては思い入れが深い品なのだろうが、僕はそれらの品の重みがよく分からないでいる。

カリグラとも表記される第3代ローマ帝国皇帝キャリグラには、信憑性には疑問もあることながら残忍さや放蕩ぶりや狂気を描いた奇怪な逸話が数多く残されているらしい。
いわゆる暴君だったのだろうが、暴君としては第5代皇帝のネロの方が有名だ。
イメージ通りでキャリグラは暴君ぶりを発揮し、マーセラスの処刑を命じる。
それに付き従って死を選ぶダイアナの姿をとらえて映画は終わるが、なぜか僕は感動を覚えなかった。
僕がキリスト教徒でないことによるものなのか、それとも映画自体の出来栄えによるものなのか。
絶対に後者だと思う。

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

2023-12-09 08:09:11 | 映画
「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」 2007年 アメリカ

                     
監督 ポール・トーマス・アンダーソン        
出演 ダニエル・デイ=ルイス ディロン・フレイジャー
   ポール・ダノ ケヴィン・J・オコナー
   キアラン・ハインズ

ストーリー            
20世紀初頭、石油採掘によって莫大な富と権力を得た一介の炭鉱労働者ダニエル・プレインビューは、ある日ポールという青年から自分の故郷の土地に油田があるはずだとの情報を得て、さらなる鉱脈を求め息子のHWとともにカリフォルニア州リトル・ポストンへ向かう。
そこは不毛の地で、街の人々はポールの双子の兄弟で住人の信頼を一手に集めるカリスマ的な牧師イーライ・サンデーが主宰する教会にのみ頼って生きていた。
プレインビューはすぐさま土地の買い占めに乗り出すが、イーライはプレインビューへの警戒を強めていく。
幸運にも再び油田を掘り当てたプレインビューだったが、そのあまりに旺盛な欲望と欺瞞に満ちた心は、闘争を引き起こし、さらには人々の価値、希望、信用、そして親子の絆さえも脅かしていく。


寸評
人間の欲望は宗教や親子の情を超えても尽きぬものなのかと思わせる重い映画だ。
宗教者であるイーライ・サンデーも金に執着している俗物でもあるようだし、最後には俗物として破滅していく。
親子とはいえプレインビューは単に孤児を親子と偽り利用しているにすぎなく、その関係も最後に破綻をきたす。
ではプレインビューは富を求める金の亡者で極悪人かといえばそうでもなさそうなのだ。
事故死する者が出れば葬ってやり掘削も休んだりするし、事故現場から息子を必死で助け出す。
実にいい親分とも見て取れるのだが、邪魔になったH.Wを非常にも見捨てたりする。
石油のためには屈辱的な入信儀式にも耐える。
欲望に突き進むプレインビューを演じたダニエル・デイ=ルイスあっての映画だった。
映画は決してアメリカン・ドリームを、あるいはアメリカン・ドリームをつかみ取るための暗部を描いたものでもなかった。
僕にはアメリカという国が、このようなすさまじい人間たちによって建国されたように思われて、仲間意識を強く持って成り立ってきた日本とは違うなといった感じを強く持った作品だった。
それにしてもプレインビューという人物の設定は複雑だった。
息子を道具として使い、邪魔になったらあっさりと遠ざけるのに、なんとなく彼への屈折した愛情を感じるし、異母弟が現れたりすると、その素性を疑いながらも肉親の情を垣間見せたりする。
この男の孤立した心、富、成功、権力欲は一体どこから来たのかと考えさせられてしまう。
そして最後には宗教の欺瞞をも糾弾し、イーライとプレインビューは同類なのだと示し、プレインビューに「終わった」と言わしめる。
何だか重い映画だったなあ・・・。
音楽はすこぶるいい。

ストレンジャー・ザン・パラダイス

2023-12-08 06:59:58 | 映画
「ストレンジャー・ザン・パラダイス」 1984年 アメリカ / 西ドイツ


監督 ジム・ジャームッシュ
出演 ジョン・ルーリー エスター・バリント
   リチャード・エドソン セシリア・スターク

ストーリー
ウィリー(ジョン・ルーリー)はハンガリー出身で本名はベラ・モルナーといい、10年来ニューヨークに住んでいる。
ある日彼のもとに、クリーブランドに住むロッテおばさん(セシリア・スターク)から電話が入り、彼女が入院する10日間だけ、16歳のいとこエヴァ(エスター・バリント)を10日間ほど預かってほしいという電話がかかってくる。
ハンガリーからやって来たエヴァに、TVディナーやTVのアメリカン・フットボールを見せるウィリー。
彼にはエディー(リチャード・エドソン)という友達がいて、2人は、競馬や賭博で毎日の生活を食いつないでいる。
エヴァの同居をはじめ迷惑がっていたウィリーも、彼女が部屋の掃除や万引きしたTVディナーをプレゼントしてくれるうちに、親しみを覚えていった。
約束の10日が経ち、エヴァはクリーブランドへ旅立っていった。
1年が経った頃、ウィリーとエディーは、いかさまポーカーで大儲けして、借りた車でクリーブランドヘ向った。
クリーブランドは雪におおわれており、ロッテおばさんの家で暖まった2人は、ホットドッグ・スタンドで働いているエヴァを迎えに行く。
エヴァと彼女のボーイフレンドのビリー(ダニー・ローゼン)とカンフー映画を見に行ったりして数日を過ごした後、ウィリーとエディーは、ニューヨークに帰ることにするが、いかさまで儲けた600ドルのうち、まだ50ドルしか使ってないことに気づき、エヴァも誘ってフロリダに行くことにする。
サングラスを買って太陽のふりそそぐ海辺に向かい、2人分の宿賃で安モーテルにもぐり込む3人。
翌朝、エヴァが起きるとウィリーとエディーはドッグレースに出かけており、有り金を殆どすって不機嫌な様子で戻って来たが、やがて競馬でとり返すと言って彼らは出て行った。
エヴァは土産物店でストローハットを買うが、その帽子のために麻薬の売人と間違えられ大金を手にする。


寸評
「The New World」、「One Year Later」、「Paradise」という3部構成になっている。
エヴァはハンガリーからニューヨークにやって来るが、地図も持たないでウィリーの住むアパート二向かっているのが不思議だったが、向かった先は僕たちがイメージするニューヨークではなく、どこかの田舎を思わせるような寂れた場所で、そこはたぶんダウン・タウンの一角なのだろう。
危険だから通りの向こうには行ってはいけないと言っているから、かなり危ない場所の様である。
そこでウィリーとエヴァの生活が始まるが、気がつくのは彼らがいたって無表情なこと。
やる気があるのか、ないのか、若者らしさを感じさせないけだるい仕草に、彼等の生き方の片鱗を感じさせる。
気怠な生き方がモノトーンの画面を通じて強調され、映像と演出手法は実験映画の様でもある。
そして場面の切り替えはフェードアウトや、カットの切り替えではなく、暗転で行われていることも特徴のひとつだ。
それはあたかもアルバムを見開くような感覚をもたらし、暗転は時間の経過を表す役目を負っている。

ウィリーは正業を持っていないようだし、エヴァもTVディナーと称するテレビを見ながら食事をするための食材を万引きしてきているから、ともに不良っぽいところがあり、彼等の居住区はそのような場所なのだろう。
親しみさが増していっているのか、相変わらず気まずい雰囲気が残っているのかが微妙な関係が続くが、エヴァの万引きに感心したり、趣味の悪いドレスをプレゼントするなどの行為を通じて、感情表現が豊かではないが、これが彼等の気持ちの表現方法なのだろうと思えてくる。
エヴァが去ってしまった後に、ウィリーがエヴァに何かを言おうとして言えないでいるシーンなどは、むしろ繊細な若者の心の内を見せていたように思う。
面白いのは、ウィリーと友人のエディーが競馬の予想をするシーンだ。
そこで出走馬を読み上げるが、有力馬は「トウキョウ・ストーリー」である。
直訳すれば小津の名作「東京物語」となり、じっくり見返すと、その他に「Late Spring(晩春)」「Passing Fancy(出来ごころ)」と小津安二郎監督作品と思われる出走馬がいたので、ジム・ジャームッシュ監督は小津安二郎を敬愛していたのかもしれない。

ウィリーとエディーは大金を手に入れ、ニューヨークからクリーブランドにいるエヴァのもとを訪ねようとするが、出発間際で通行人をからかうようなことをやらかす。
一方でエディーは、エヴァが自分のことを覚えていてくれるかどうかを気にしたりする。
これら一連のドライブシーンでは無軌道だがナイーブな若者像が描かれていたように思う。
クリーブランドではエヴァを巡って、恋のさや当てのようなことも起きるが、ユーモアを感じさせる点描で茶化していて、何か起きそうで何も起きない日常を描いていて、それは実社会でも大抵の場合そうなのだ。
フロリダに到着してからは正に塞翁が馬状態で、今まで何も起きなかったことを埋め合わせするように、凶と出れば吉になり、それがまた凶となるような展開が繰り広げられる。
お互いに気になっているのだが、どこか素直になれず、それがちょっとしたズレで微妙な行き違いを生じさせていくという滑稽さが描かれる。
何が起きるでもない日常の出来事をユーモアを交えながら紡いでいく演出は、日本映画においては小津が得意とするところであったが、ジム・ジャームッシュの演出手法には小津の影響があるのかもしれない。

人生に乾杯!

2023-12-07 06:50:58 | 映画
「人生に乾杯!」 2007年 ハンガリー


監督 ガーボル・ロホニ     
出演 エミル・ケレシュ  テリ・フェルディ
   ユーディト・シェル ゾルターン・シュミエド

ストーリー
ヨーロッパの小国ハンガリー。
社会主義国だった1950年代に運命的に出会い、身分の差を乗り越えて結ばれたエミル(エミル・ケレシュ)とヘディ(テリ・フェルディ)。
それから幾年月が経ち、いまでは81歳と70歳の老夫婦となったふたり。
世の中もすっかり様変わりし、年金だけでは生活が立ち行かず、借金の取り立てに追われる無慈悲な老後を送っていた。
そんなある日、ふたりの出会いのきっかけとなったヘディの大切なイヤリングまで借金のカタに取られる事態に。
自分の亭主関白を反省し、高齢者に冷たい世の中へ怒りを感じたエミルは郵便局で紳士的な強盗を働く。
続いてガソリンスタンドを襲うが、その姿が防犯カメラに映ってしまう。
夫が犯人だとは信じられないヘディは警察の捜査に協力する。
しかしヘディは奮闘する夫の姿にかつての愛情を取り戻し一緒に逃げる決心をする。
2人は紳士的な強盗を繰り返しながら、時代物の車チャイカで警察の手をかいくぐっていく。
自分たちの正義のために行動する彼らに共感した老人たちは立ち上がり、町には模倣犯が溢れ出す。
2人は、エミルのかつての友人で、キューバからの移住者であるホアンの家に身をひそめるが、警察に居場所を知られてしまう。
そしてバスで家の塀を破って強行突破しようとして、女刑事のアギ(ユディト・シェル)を轢いてしまう。
エミルたちは動揺し、アギを連れて逃走する。
アギの恋人で刑事のアンドル(ゾルターン・シュミエド)は、彼女を救うため捜査に加わる。
自分を看病するヘディの優しさに触れたアギは、次第に夫妻との距離を縮めていき、なぜ彼らが強盗を働いたのかを知ろうとする。
30年前、夫妻の息子アティラが自転車旅行に出かけようとして、軍用トラックにはねられるという事件があった。
そして一行は、息子が眠るパイオニアキャンプ場に向かう・・・。


寸評
エミルの妻へディを演じたテリ・フェルディがすこぶる良い。
夫に感謝し、夫を支え、夫と共に生きるしっかり者の妻を自然体で演じていた。
彼らはふとしたことで夫婦となったことは暗示的に描かれているが、その後の二人の人生はどうであったかは不明で、ただ今は年金生活者として最下層の生活をしているらしいことは推測される導入部であった。
年金だけの生活だと洋の東西を問わず同じなのかと、もうすぐ年金だけの生活者になる私としては身につまされる思いがした。
それでも彼らのような尊厳だけは失くしたくないものだと勇気づけられもした。
クイズ番組の答えをさりげなくささやいたり、書棚には書物がずらりと並んでいたりするので教養は高そうな紳士であることが想像できる。
そして年老いても彼らのようないたわりの気持ちを持って過ごせたらいいなと思うのである。
なぜなのだろうな?
老女のへディがキャリア刑事のアギの妊娠を察知して介護してやるシーンにこみ上げるものがあった。
すれ違いを起こしているアギとアンドルが対比的に描かれ、その描かれ方に少し物足りなさを感じていたのだが、見終わってみるとそのもの足りなさも、かえって色々と想像をさせて逆に監督の意図したものだったのかも知れないなと思ったりもした。

ソ連製の車がいい効果を生み出している。
通称「チャイカ」と呼ばれているらしいこの車は、馬力だけは強そうで人が滑り落ちる小石の山を上っていく。
主人公の老人は共産党の元運転手だけあって、年老いたとはいえその運転テクニックは衰えを見せず、追跡車両と互角以上の走りを見せる。
この車と運転手の取り合わせが実に愉快であった。

彼らは海を見る旅に出たことが暗示される。
それがこの映画に希望を見出させて余韻をもたらせていた。

次郎長富士

2023-12-06 07:12:28 | 映画
「次郎長富士」 1959年 日本


監督 森一生
出演 長谷川一夫 市川雷蔵 京マチ子 若尾文子
   山本富士子 勝新太郎 根上淳 鶴見丈二
   本郷功次郎 船越英二 黒川弥太郎 中村玉緒
   林成年 品川隆二 滝沢修 小堀阿吉雄
   清水元 伊沢一郎 本郷秀雄 杉山昌三九

ストーリー
次郎長は子分・桝川仙右衛門(島田竜三)の兄を殺した小台小五郎(尾上栄五郎)の引渡しを頼みに武井安五郎(香川良介)の所へ行ったところ、ちょうど居合せた黒駒の勝蔵(滝沢修)は含むところがあって小五郎と仙右衛門の一騎討ちを計った。
仙右衛門は小五郎を倒したが、神域を血で汚したという理由で次郎長の身辺に役人の手が回る。
次郎長は旅に出ることになり、夫の身を案じるお蝶(近藤美恵子)が石松(勝新太郎)を供に後を追った。
酒を止められていた石松だが、お新(山本富士子)と飲み比べをして酔いつぶれ、金をとられてしまう。
道中でお蝶は発病、途方にくれたとき通りかかったのが、以前世話をした豆狸の長兵衛(伊沢一郎)で、彼の家に厄介になることになった。
そのころ次郎長の泊った旅籠・大野鶴吉(鶴見丈二)の家では、鶴吉の許婚・お妙(浦路洋子)に土地の代官が横恋慕し、妾によこせとの無理難題に、怒った鶴吉が代官屋敷に乗り込むという事件が起っていた。
それを聞いた次郎長らの大暴れに代官は平あやまりに謝った。
日ましに上る次郎長の人気に業をにやした黒駒勝蔵は、浜松の大貸元・和田島太左衛門の跡目相続の席で憤まんを爆発させ、華やかな宴席が修羅場となりかけたとき、和田島の二代目おかつ(京マチ子)が割って入り仲裁し事なきを得たが勝蔵の憤りはつのり、彼は武井安五郎に府中の盆を盗ませた。
これを知った清水の二十八人衆は安五郎の賭場になだれこみ、民家にかくれた安五郎を斬り倒した。
が、このとき勢い余ってその家を焼き、これが次郎長の怒りにふれ、大政(黒川弥太郎)らは、お蝶の配慮で吉良の仁吉(市川雷蔵)のもとへワラジをぬぐことになった。
仁吉の家では、荒神山の盆割りを無法にも安濃徳(小堀阿吉雄)に奪われた弟分の神戸の長吉が泣きついきたので、仁吉は恋女房おきく(若尾文子)が安濃徳の妹であるため、おきくを離縁、清水28人衆と長吉に力をかすことに・・・。


寸評
大映版の清水の次郎長物で次郎長、森の石松、吉良の仁吉を中心にしてダイジェスト的に清水一家の活躍が描かれるが、オールスター作品らしく看板スターがわずかな登場シーンで出演している。
男性映画なので女優陣にその傾向がみられ、石松に絡むのが色気を振りまき酒がめっぽう強いうわばみお新の山本富士子 、次郎長と黒駒の勝蔵の一触即発を止めるのがおかつの京マチ子、吉良の仁吉の女房おきくが若尾文子なのだが、それぞれちょっとしたエピソードで登場しているだけとなっている。
後に勝新太郎夫人となる中村玉緒はまだ駆け出し中で、仲居の役で勝新太郎と少しだけ絡んでいるのが今となっては面白い組み合わせだ。
次郎長一家の小政、桶屋鬼吉、大瀬半五郎、法印大五郎、追分三五郎などが当然画面を賑わすが、特に目立ったところはなく集団の中の一人という感じだ。
わずかに目立つのは桶屋の鬼吉が自分の棺桶を担いで黒駒勝蔵のところへ喧嘩状の返事を持っていくぐらい。
むしろ敵方である小岩の根上淳の方が目立っている。

小説や講談で語られる主なエピソードは形を変えながら描かれていると思うが、マキノ雅弘の「次郎長三国志」における描き方と比べるとどちらが本当か僕は知らないでいる。
こちらの作品では、お蝶は病気を回復し清水に帰ってきているし、百姓家を燃やしてしまう一件も次郎長方のやらかしたことになっている。
次郎長が渡した金は見舞金でなく、お詫びの金だった。
石松が次郎長の刀を金毘羅さんへ奉納するエピソードも描かれているが、一般的に語られているだまし討ちに会ってあって石松が殺されてしまうという風にはしていない。
「次郎長三国志」では描かれなかった荒神山の出入りが描かれていて、吉良の仁吉はここで落命する。
しかしいくら草鞋を脱いでいたとはいえ、吉良の仁吉の亡骸が次郎長一家にあるというのはどうなんだろう。
それとも子分も多数死んで仁吉一家は解散したので、しかたなく亡骸を次郎長一家が引き取ったのだろうか。

最後はこれも「次郎長三国志」では描かれなかった黒駒の勝蔵との一大決戦だ。
黒駒は400人、次郎長は100人という出入りだが、決戦場所は富士川である。
富士川と言えば平安時代の後期に源頼朝と平維盛が戦った源平合戦、富士川の戦いが思い起こされる。
森一生演出は多分にこれを意識していると思われる。
東に陣取ったのは次郎長方で白旗をなびかせている。
一方西に陣取ったのが黒駒の勝蔵方で赤旗をなびかせている。
それはまるで源氏の白に、平氏の赤を表しているようで、戦う前から白の勝ちを暗示していたようなものだ。
もっとも主人公は清水の次郎長なのだから観客は白組の勝ちを初めから知っていることになる。
娯楽作品として軽妙なシーンを盛り込みながら楽しく見せているが、一番の功績は懐かしい往年のスターを垣間見ることが出来ることで、ぼくにとっては、一度はリアルタイムで見たことのある映画スターたちの若かりし頃を再見できることだ。

次郎長三国志 第九部 荒神山

2023-12-05 06:45:06 | 映画
シリーズの最高作と目される「次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊」は2019年8月13日で紹介済みです。

「次郎長三国志 第九部 荒神山」 1954年 日本


監督 マキノ雅弘
出演 若原雅夫 千秋実 小堀明男 河津清三郎 水島道太郎
   田崎潤 森健二 田中春男 緒方燐作 小泉博 角梨枝子
   岡田茉莉子 浜田百合子 広沢虎造 江川宇禮雄 山田巳之助
   石黒達也 上田吉二郎 佐伯秀男 今泉廉 阿部九州男 高堂国典

ストーリー
石松の仇を取ろうと、都田村の吉兵衛(上田吉二郎)、都田村の常吉(佐伯秀男)、都田村の梅太郎(今泉廉)の三兄弟を匿った新辰親分の元に討ち入った大政(河津清三郎)たち。
まともに戦ったのでは勝ち目の無い新辰は、百姓家に火をつけ、大政たちの仕業だとふれ回った。
三兄弟を取り逃がした上に、火付けの濡れ衣を着せられ、一家の面々は山に立て籠らざるを得ない。
役人と結託した新辰は百姓を前面に押し立て山狩りを行う。
次郎長一家が百姓に手出しをしないことを見込んでのことであった。
小政(水島道太郎)たちは火付けは自分達ではないと説明するが百姓たちは聞く耳を持たない。
山から下りてこられない次郎長一家を見て、都田村の三兄弟は村から出ていってしまう。
途方に暮れる大政達だったが、そこへ次郎長の言伝を持って喜代蔵(長門裕之)がやって来た。
彼がもたらしたのは「身の証を立てるまでは帰って来るな」という言葉と、手切れ金だという30両だった。
妻ぬいの大政への伝言から次郎長がお忍びで吉良の仁吉(若原雅夫)の婚礼に出かけることを知り、次郎長に会いに行く決心をし山を下りる。
待ち受けた村人たちに詫びを入れ、村人が投げる石に無抵抗で耐えた。
そして次郎長から預かった金を「火付けの犯人ではないので見舞金とさせて頂きましたと」村人に差し出す。
村の長老は、これこそ侠客だと言って大政達を認め見送った。
吉良では仁吉と吉良の馬之助(高堂国典)の娘お米(角梨枝子)との婚礼が行われていて大勢の親分衆が集まっていたが、火付けの罪を問われている次郎長(小堀明男)の姿はなかった。


寸評
どうやら大政達、次郎長一家の面々は殺された森の石松の仇討の為、都田村の吉兵衛たち三兄弟に殴り込んだようだが、桶屋の鬼吉のあせりから取り逃がし、おまけに火付けの濡れ衣を着せられてしまっているらしい。
その経緯が全く分からず、彼等の話で想像するしかない。
この作品ではよくある描き方だが、やはり石松の無念を晴らすために吉兵衛に斬りかかる場面が見たかったし、吉兵衛たちが火を放ち、それが大政達の仕業だと吹聴する場面だってなくてはならないと思うのだが、それらの見せ場は割愛されている。
この「荒神山」は前後編で撮られる予定だったらしいから、前半の前半ともいえる場面は山にこもる次郎長一家と新辰、役人の攻防が描かれている。
役人たちは百姓を矢面に立たせ、自分たちは後ろから着いていくといった体たらくである。
次郎長一家の面々は百姓を傷つけないが、新辰を引き渡してくれれば捕まってやると言いながら、向かってくる役人たちを斬り捨てている。
役人のメンツにかけても大政達を召し取らねばならないが、反撃を受けて簡単に退散してしまっている。
百姓たちと和解する場面では役人たちはどこかに行ってしまっていていない。
話の都合上仕方がないのは分かるが、どうもリアリティに欠けている。
もっともこのシリーズはリアルな時代劇を狙ったものではないから、そんなことに目くじらを立てることもあるまい。

場面は変わって吉良になるといよいよ吉良の仁吉の登場である。
仁吉はお米の婿養子になって吉良の馬之助の跡目となるが、僕が描いていたイメージと違ってどこか頼りなくて老いた馬の助から喝を入れられている。
仁吉は跡目をお米に譲って、自分は亭主としてお米を支えると宣言する。
この婚礼の席には黒駒の勝蔵(石黒達也)も出席していて、やがてやって来る次郎長一家との決戦を思わせる。
婚礼には神戸の長吉(千秋実)も参加していて、お米から「次郎長の子分はあんたみたいに馬鹿じゃないよ」とからかわれているが、二人は一体どんな関係だったのだろう。
神戸の長吉も伊勢の国鈴鹿で一家を張る親分だから、その親分にお前呼ばわりできるお米はそのまた上と言うことになる。

子分たちは次郎長との再会を果たすが、その場面はしみったれたもので、次郎長が皆の無事を祈るだけのもので盛り上がりに欠ける。
そして場面は変わり荒神山となる。
吉兵衛たちは安濃徳(阿部九洲男)の所に草鞋を脱いでいて、黒駒の勝蔵の支援を受けている安濃徳は神戸の長吉の縄張りである荒神山を狙っている。
山下の村は日照りが続き雨乞いの最中・・・というところで前半が終わる。
後半があればまた感じは違っただろうが、これでシリーズが打ち切りとなれば全くもってつまらない最終話となってしまっていて残念だ。

次郎長三国志 第七部 初祝い清水港

2023-12-04 07:12:09 | 映画
「次郎長三国志 第七部 初祝い清水港」 1954年 日本


監督 マキノ雅弘
出演 小堀明男 河津清三郎 田崎潤 森健二 田中春男
   石井一雄 森繁久彌 小泉博 緒方燐作 山本廉
   長門裕之 広沢虎造 久慈あさみ 越路吹雪
   隅田恵子 澤村國太郎 堺左千夫 千葉信男

ストーリー
お蝶の百カ日法要が終わったら保下田の久六(千葉信男)を討つといきまく次郎長一家を恐れて、久六は行方をくらました。
明けて正月、大親分津向の文吉が島流しにあった時生れた喜代蔵少年(長門裕之)は、次郎長(小堀明男)に預けられ、子供乍らも丁半の修業に怠りない。
次郎長が若い頃の兄弟分佐太郎(堺左千夫)と女房お徳(隅田恵子)は、借金のため夜逃げして来たのを大政(河津清三郎)が発見して連れて行き、次郎長は恩返しに清水で料理屋を持たしてやった。
追分の三五郎(小泉博)は店に働く佐太郎の妹お町(紫千鶴)に心をひかれ、法印も女中おまん(木匠マユリ)に惚れて通いつめ、仙右衛門の恋人おきぬ(和田道子)もこの店に住込んでいた。
母親のない喜代蔵はお仲(久慈あさみ)を慕い、なぜ彼女が次郎長の女房にならぬかと言う。
お仲は動揺したが思切ってその決心もできない複雑な気持で、大政(河津清三郎)の恋女房ぬい(広瀬嘉子)をつれてくると告げて旅立った。
お仲は戻らなかったが、ぬいは武家屋敷を出て大政の許へ来た。
そして彼女の礼儀正しい三指式の言動が乾分達を面喰わせた。
お蝶の百カ日が来た。
次郎長一家は河豚の手料理で大酒盛。
追分の三五郎と喜代蔵は保下田の久六を討ちに秘かに清水を出たが、不審な旅人がちらほら清水へ向うのを見て再び引返した。
次郎長一家は河豚の中毒で動けない隙を久六一味に襲われた。
居合せた小松村の七五郎と女房お園(越路吹雪)を初め、ぬいや、旅から戻ったお仲と女達が大奮闘。
河豚の毒にあたって身動きできない次郎長一家の面々と思われたが、それは保下田の久六をおびき寄せる芝居だった。


寸評
毎回中身が違うエピソードが盛り込まれるシリーズだが、今回は母恋ものといった風である。
前作の最後に登場した長門裕之の島の喜代蔵と投げ節お仲の絡みが延々と描かれる。
島の喜代蔵は母親を亡くしていて母親への慕情が強い。
投げ節お仲を「姉ちゃん」と呼んでいるが、母親の面影を写し込んでいるのだろう。
実はこのお仲、次郎長への思いを秘めている。
喜代蔵とその仲間のわんぱくたちはお仲が次郎長と一緒になればいいと言っていたし、喜代蔵も「俺の父親は次郎長親分だが、お仲さんは俺のおっかさんではないじゃないか」と言っている。
つまり渡世の父親が次郎長なら、渡世の母親はそのおかみさんで、それはお仲さんだと言っているのである。
お仲は自分の心の内をズバリと指摘され、そうすることが出来ない辛さに涙を流す。
いい場面だが、お仲と 喜代蔵のやり取りが必要以上で食傷気味になってしまったのは残念だ。

お蝶の百ケ日法要が終わるまで喪に服して大人しくして居ようとした次郎長一家だが、それなら正月のお祝い事も喪に服して行わないのがしきたりではないのかと思うのだがどうなのだろう?
町の人は次郎長一家の仇討を期待しているが、一家の連中はなかなか神輿を上げない。
仇討ちと言えば赤穂浪士なので、忠臣蔵を意識した演出が随所にみられる。
前作でのおかる勘平の引き合いもそうだし、今回の町民の期待に反して仇討ちをせず意気地なしだと思われているとか、馬鹿を装っているのは山崎における大石の放蕩になぞらえていると思われる。

そして前作までに登場した女たちが参集してくる。
沼津の住太郎と妻のお徳は立派な料理屋を次郎長に開業してもらう。
大政の妻のおぬいも投げ節しお仲の計らいで清水港にやって来て次郎長一家に入り込む。
ぬいは武家の妻らしい振る舞いと言葉使いで周囲を戸惑わせるのが面白い。
増川仙右衛門は行く末をちぎり合ったおきぬを迎えに行って帰ってくる。
最後には保下田の久六を打つために投げ節お仲もやって来るし、小松村七五郎の連れ合いのお園も槍を持って駆けつけている。
保下田の久六一家の出入りの時には佐太郎の妹お町や女中のおまんも加勢している。
男に負けず活躍する女性陣である。

保下田の久六一家の子分たちは姿を代えて清水港に入り込んできて、佐太郎、お徳の店の二階に集合するのだが、この料理屋の二階はどれだけ広いんだと言いたくなるような人数である。
それだけの人数との出入りだから、さぞやものすごい立ち回りがあると思っていたら案外とさっぱりしたものだ。
いつもそうなのだが、憎っくき相手をついに仕留めたという演出は行われない。
河豚になぞらえた保下田の久六を料理するための大きなまな板が運ばれてきて仇討の成功を暗示している。
本格的時代劇の重さのない軽妙なシリーズである。
しかし、若者たちがはしゃぎまわっているという雰囲気は徐々になくなってきているように感じる。

次郎長三国志 第六部 旅がらす次郎長一家

2023-12-03 07:26:57 | 映画
「次郎長三国志 第六部 旅がらす次郎長一家」 1953年 日本


監督 マキノ雅弘
出演 小堀明男 河津清三郎 田崎潤 森健二 田中春男
        石井一雄 森繁久彌 小泉博 緒方燐作 長門裕之
   山本廉 越路吹雪 若山セツ子 広瀬嘉子 久慈あさみ
   千葉信男 藤原釜足 英百合子

ストーリー
甲州猿屋の勘助を叩き斬って兇状旅に出た次郎長一家も、次郎長の女房お蝶(若山セツ子)が病気となり、野分吹きすさぶ他国の空に難渋をきわめる。
世間の眼もつめたかった。
先年次郎長(小堀明男)がその零落を見かねて一興行立て、急場をすくってやった力士八尾ケ嶽久六が、今は尾張で名も保下田の久六(千葉信男)と改めた売り出し中のいい親分ときいて、三五郎(小泉博)と石松(森繁久彌)はそこに一時身を寄せようと提案した。
一家はこころよく迎えられた。
久六、じつは代官に通じて、次郎長捕縛のひと手柄をたてようともくろんでいるのだが、表面は巧みにとりつくろってボロを出さぬ。
が、石松の幼馴染み小松村の七五郎(山本廉)の忠告によってそれと察した一家は、捕り方を先導してくる久六の裏を掻き、七五郎の家までのがれて、一応そこに落着く。
七五郎の女房お園(越路吹雪)は酒も飲めば槍もつかう女傑で、貧乏世帯ながら何かと一家の面倒をみる。
金が尽きた次郎長一家の鬼吉は、飛び出していた両親のもとに行き金をもらう。
大政はかつての我が家を訪ねたが、家は寂れており、妻ぬい(広瀬嘉子)の姿を見て逃げるように去った。
が、日々さし迫る窮状に病勢悪化したお蝶は、やがてみんなに見守られて死んだ。
その野辺の送りも済んだか済まないかに、またも久六一家が襲来する。
「お蝶、清水に帰ろうぜ」と遺骨を胸に立ちあがる次郎長につづいて、一家の者、ここを引払うつもりの七五郎夫婦が一団となって囲みをおしやぶる。
追いかかる者を斬りはらい斬りはらい、足をはやめて一家は清水をめざした。


寸評
あっけらかんとした明るい内容で描いてきたシリーズだが、今回は一転して物悲しく重い内容である。
話は前作では描かれていなかった甲州猿屋の勘助を叩き斬るところから始まり、そのため次郎長は人相書きを廻され手配の身となる。
恋女房のお蝶が病気になり、そのお蝶を伴っての逃亡劇である。
その土地の親分を頼ってかくまってもらおうとするが、厄介者の彼等は一夜を過ごすだけでそこを出ていかざるを得なくなる。
土地の親分と交渉に行った子分たちは申し訳ないと詫びるばかりという様子が描かれる。
その間にもお蝶の病状は悪化の一途をたどるという内容なので、自然と雰囲気は重くなってくる。
石松と三五郎が売り出し中の保下田の久六という親分は、かつて世話を焼いて相撲興行を打たせてやった八尾ケ嶽だということを思い出しそこで世話になるのだが、この保下田の久六は登場した時からどう見ても次郎長一家を役人に引き渡そうとしていることがありありである。
この作品はサスペンスではないので、久六が恩をあだで返し裏切るというドキドキ感はなく、観客は初めからこいつは悪者だという思いで見ることになる。

予想通り久六は役所に駆け込むが、その窮地を救ったのが石松の幼馴染み小松村の七五郎で、一行は七五郎の家までのがれるのだが、この七五郎が頼りないのに比べ女房のお園はしっかり者である。
金に窮して接待が出来ないとあっては七五郎のメンツが立たないと、豪快な女性ながらも自分を身売りして金策しようとする夫想いの面を見せる。
振り返ればこのシリーズに登場する女たちは皆しっかり者で、男を仕切っている所があり、男女雇用機会均等法などどこ吹く風、女性の社会進出うんぬんなども関係ないといった風である。
お園の越路吹雪が亭主を尻に引きながらも信心深い気のいい女房を楽し気に演じている。

本作で一番大きな出来事は保下田の久六に裏切られることよりも、お蝶が亡くなることである。
次郎長の女房だから重要人物の一人であるはずだが、お蝶は第6話にして初めて本格的に取り上げられたといっていい。
それまではちょっとしたエピソードで顔を出すような感じだったが、皆に迷惑をかけていることを気にしながら弱っていく姿が切ない。
お蝶の野辺送りが済んだと思ったら久六一家と役人が襲来する。
それを知らせたのが島の喜代蔵と名乗る若者で長門裕之が演じている。

長門裕之は今回は登場しない江尻の大熊を演じていた澤村國太郎の長男である。
後に南田洋子を妻に持ち、祖父は狂言作者の竹芝伝蔵、母はマキノ智子、弟は津川雅彦、叔父に加東大介、叔母に沢村貞子、外祖父は日本映画の父と呼ばれる牧野省三、母方の外叔父は映画監督のマキノ雅弘、母方の外叔母は轟夕起子、母方の外従弟にマキノ正幸、義妹つまり津川雅彦夫人の朝丘雪路、姪は真由子という超芸能一家に育っている。

次郎長三国志 第五部 殴込み甲州路

2023-12-02 08:42:57 | 映画
「次郎長三国志 第五部 殴込み甲州路」 1953年 日本


監督 マキノ雅弘
出演 小堀明男 河津清三郎 森繁久彌 田崎潤
   小泉博 久慈あさみ 若山セツ子 森健二

ストーリー
秋祭りに賑わう清水港では寿々屋のお千ちゃん(豊島美智子)が嫁に行くと聞いて、桶屋の鬼吉(田崎潤)と関東綱五郎(森健二)がやけ酒を飲んでいる。
次郎長の家の奥座敷では、投げ節お仲(久慈あさみ)に首ったけの森の石森(森繁久彌)や三五郎(小泉博)たちが次郎長とお蝶のなれそめ話に浮かれ、その勢いで表の賑やかな踊りの輪に加わった。
しかし江尻の大熊(澤村國太郎)が難しい顔でやってきて、奥座敷で次郎長(小堀明男)を囲んで、大政(河津清三郎)等が何やら真剣に相談することに。
江尻の大熊は甲州にある大熊の賭場が、前々から猿屋の勘助(小堀誠)から侵害されているというのだ。
猿屋の勘助には黒駒勝蔵の後ろ盾もあり、この勝負は分の悪いものだった。
勘助が話の分かる男か見極めるため、先ずお仲が物見の役を買って甲州へ旅立った。
お仲からは何日たっても便りが来ず、石松と三五郎はしきりと気を揉む。
次郎長は旅人大野の鶴吉(緒方燐作)から、お仲は捕えられ勘助は彼女を囮にして清水一家の殴込みを待ち構えているとの情報を得る。
次郎長はこの大野の鶴吉を案内役に甲州乗り込みの腹を決めた。
鬼吉と綱五郎はお千の結婚式の駕篭を担ぐ約束を果し、猿屋の勘助を目指し次郎長一家は甲州路を急ぐ。
やがて甲州路で待ち受けた勘助一家の子分たちと乱戦になり、最初は苦戦していた次郎長一家だが、駆け付けた江尻の大熊と合流し勘助の元を目指す。
石松はお仲の囲われている土蔵目掛けて突進するが、暗闇より振り下ろされた刃で左眼をやられた。
しかし豚松(加東大介)の働きで土蔵は破られ、お仲は救われ勘助は斬られた。
兇状持ちとなった次郎長一家は江尻の大熊と別れ、お蝶が発熱した為に子分達の作った情の山駕篭に次郎長とお蝶が乗り、一行は投げ節お仲とも別れ、景気よく秋空の彼方へと突っ走っていった。


寸評
秋祭りの賑わいを背景に、お千ちゃんを巡る鬼吉と綱五郎の失恋、次郎長とお蝶のなれそめ話など、軽妙なシーンや、ほのぼのとした人情話を盛り込んで導入部を飾っていく。
大部屋俳優のエキストラを大勢使っての唄や踊りがあって、昔懐かしい映画の作りを堪能させてくれる。
落語における枕のような話で、これが長いと作品を軽く感じてしまう。
本作ではそろそろ限界かなと思ったところで江尻の大熊が現れ本筋に戻っているので緊張感を呼び戻せた。
ここからは出入り話になっていき面白さが倍増する。
この喧嘩は分が悪いので話し合いに持ち込めるかどうか、相手が話し合いに応じるようなのかを投げ節お仲が確かめに行くことになる。
しかし彼女の活動は一向に描かれない。
後日、大野の鶴吉によって語られるが、ツボ振りをしているだけで、話し合いができるかどうかの見当をつけるシーンがないのは話を端折り過ぎだと思う。
大野の鶴吉がお仲の正体を暴いておきながら、次郎長にその旨を知らせに行っている行動も不可解のままだ。
ストーリーを結構盛り込んでいるので、このシリーズにおいては少々戸惑うことが多い。

お仲が捕まったと聞き、助けに行くところからはテンポアップして歯切れがよい。
三々五々に参集し甲州路を急ぐが、島のカッパに三度笠の博打打ち一行が連なって歩く様は絵になる。
次郎長一家を見張る敵方が出てきて、さらに林の中に大勢の敵方が待ち構えているのが分かる。
両陣営の斬り合いが始まるかと思えば、勘助方は白い粉で目つぶし攻撃を仕掛けてくる。
上から横からその目つぶしが飛んできて次郎長方は苦戦である。
そこへ江尻の大熊の一行が助っ人に駆けつけ形勢は逆転していき、やがて勘助の土間へとなだれ込んでいく。
このあたりのカットの繋ぎは上手いと思う。
この出入りで森の石松は左目を斬られてしまう。
左目に傷を負った石松のイメージしか持ち合わせていなかったが、石松はこの出入りでそうなったのだと知った。
このシリーを通じて言えることだが、果し合いの結果がどうなったのかの結論を描くことは少ない。
ここでも勘助が斬られて次郎長方の勝利に終わるのだが、勘助が斬られる場面はない。
勘助を斬ったとの次郎長が書いた張り紙があることでその事実を知るといった具合である。

事を終えた一行が連なっていると目立ってしまうということで、次郎長一家と江尻の大熊一家は途中で別れ、大熊の妹でもある恋女房のお蝶は大熊の勧めで次郎長と一緒に行くことになる。
そして例の「わっしょい、わっしょい」が聞こえてくるのだが、彼等は大きな籠らしきものを担いでいる。
ここで投げ節お仲と別れるのだが、中から籠に乗った次郎長とお蝶が顔を見せる。
お蝶が病気になったからそうしているらしいのだが、その説明シーンがないのでなぜ二人が籠に乗っているのか分からない。
それでも彼等はあっけらかんと去っていく。
何処までも明るい子分たちで、この明るさがこの作品をリラックスしてみることが出来る要因となっている。