おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

太陽はひとりぼっち

2023-12-25 07:52:41 | 映画
「太陽はひとりぼっち」 1962年 イタリア / フランス


監督 ミケランジェロ・アントニオーニ
出演 アラン・ドロン モニカ・ヴィッティ
   フランシスコ・ラバル

ストーリー
ヴィットリアは婚約者リカルドと重苦しい話しあいの一夜をあかしたすえ、彼との婚約を解消した。
あとを追うリカルドをふりきって、彼女は一人になる。
ブルジョアの彼との間にある埋めがたい距離をそのままに、結婚することは耐えられないことだ。
彼女は証券取引所にいる母を訪ねる。
株価の数字の上げ下げを追う狂騒的な取引所の雑踏の中で相場を張っている素人投資家の母は、彼女の話を聞こうともしない。
女友達のアニタとマルタの三人で、深夜のアパートでふざけちらしてみても、空しさは消えない。
アニタの夫のパイロットが操縦する飛行機にのってみても、倦怠の日々は少しも姿をかえはしない。
ふたたび訪ずれた取引所では、株の大暴落がはじまっていた。
彼女の母は投資資産のすべてを失ったすえ、大きな借金をせおいこんだ。
巨額の金を暴落で一瞬に失った肥った中年男は、カフェのテラスで茫然と紙に草花の絵を描いていた。
取引所には株式仲買所につとめる美貌の青年ピエロがいて、前から彼女と時々言葉をかわしていた。
この日を境に、二人は接近した。
公園、ビルの谷間、建てかけの建築物のある道、市場、二人は町を歩く。
そして二人は、ピエロのオフィスで結ばれる。
抱きあって、話をかわし、笑い、やがて朝がきて、二人は別れる。
やがて電話のベルがオフィスに鳴りひびいて、新しい一日がはじまろうとしている。
二人が散歩した公園もビルの街並も、建てかけの建築物のある道も、今日も少しも変らずにそこにある。
しかし、新しくはじまった今日のどこが過ぎ去った昨日と違うのか。


寸評
僕がミケランジェロ・アントニオーニと出会ったのは確か高校時代か浪人時代に見た「欲望」だった。
この作品に触発されて僕はバイト代から大枚を吐き出し写真の現像機を買ったのだ。
作品自体も良かったし、歴史上の大芸術家であるミケランジェロと同じ名前だったことでも印象に残った。
その後、何本か見たような気がするが「欲望」以上の作品には出会わなかった。
「太陽はひとりぼっち」はそれ以前の作品で、僕の感性にはもう一つマッチしない作品だが、公開当時は話題作として興行的にも成功したらしい。
主演のアラン・ドロンは「太陽がいっぱい」で人気者になり、美男子と言えばアラン・ドロンと言われ、特に女性には人気のあった俳優だ。
その彼が主演ということで興行成績に寄与したのだろうが、本当の主演はモニカ・ヴィッティである。
モニカ・ヴィッティ演じる若い女の視点を通じて、男女の愛の可能性について、というより男女の愛とは何かという、答えのない疑問が展開される。

モニカ・ヴィッティ演じるヴィットリアという若い女性が、フィアンセとの婚約を解消するところから始まるが、何故二人がそういう不幸な結末に至ったかについては何も語られない。
破局を宣言したのは女の方だが、フィアンセの方は全く訳が分からない。
男は別れを受け入れることがなかなかできないのだが、当のヴィットリア自身もその理由がよくわかっていないようで、これは男女間の愛に対するとらえ方の違いを描いた作品なのかなと思っていたら、何も起こらない。
一人の男と別れた一人の女は時の流れに身を任せ、あてもなく生きているうちに次の男と出会い楽しく過ごす。
その新しい男を演じるのがアラン・ドロンというわけだ。
男はローマの証券取引所のディーラーということに加え、ヴィットリアの母親が株取引にハマっていることもあって、証券取引所の場面が必要以上と思われるくらい描かれている。
なぜこんなにも長い時間をかけて描く必要が有ったのか、僕の幼稚な頭脳では理解できない。
ヴィットリアという若い女性に時間の経過だけがあって、特に何も起きない静かな世界と対比するために、1分の世界に生きている騒々しい人々を描き続けたのだろうか。
とにかくこの映画、何も起きないのだ。
ヴィットリアは「愛し合うのに互いに知る必要はないわ」というのだが、彼女にとって愛とは肉体の事柄であり、精神の事柄ではないと思っているのだろう。
しかし彼女は、女は精神的に男を愛することもあるということに少しずつ気付きだしたようにも見え、「男を愛するには今よりも愛さないか、もっと愛するかだ」と述べる。
この愛もまた成就する見込みはなさそうだ。
二人は、今後も愛し続けることを誓い合い、とりあえず次のデートの約束をするのだが、二人ともその場に赴くことをしなかったのだ。
二人は元の生活に戻り、街の景色も昨日のままである。
なにがあったって大した事ではなく、時間がそれを洗い流していくし、たとえ太陽が欠けたとしてもまた元通り丸くなっていくのだ。
ぼくも一喜一憂しないでおこう。