2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。
2019/6/11は「この空の花 長岡花火物語」で、以下「御法度」「小早川家の秋」「コレクター」「13デイズ」「サード」「最強のふたり」「最後の忠臣蔵」「サイドカーに犬」「サウルの息子」と続きました。
「青春の殺人者」 1976年 日本
監督 長谷川和彦
出演 水谷豊 内田良平 市原悦子 原田美枝子 白川和子
江藤潤 桃井かおり 地井武男 高山千草 三戸部スエ
ストーリー
彼、斉木順は二十二歳、親から与えられたスナックを経営して三カ月になる。
店の手伝いをしているのは、幼なじみの常世田ケイ子である。
ケイ子は左耳が関えなかった。
その理由を順はケイ子のいう通り、中学生の頃いちじくの実を盗んで食べたのを、順がケイ子の母親に告げ口をし、そのために殴られて聞えなくなったと信じていた。
ある雨の日、彼は父親に取り上げられた車を取り戻すため、タイヤパンクの修理を営む両親の家に向った。
しかし、それは彼とケイ子を別れさせようと、わざと彼を呼び寄せる父と母の罠だった。
母親が野菜を買いに出ている間に、彼は父親を殺した。
帰って来た母は最初は驚愕するが、自首するという彼を引き止めた。
二人だけで暮そう、大学へ行って、大学院へ行って、時効の十五年が経ったら嫁をもらって、と懇願する。
だが、ことケイ子の話になると異常な程の嫉妬心で彼を責める。
ケイ子と始めから相談して逃げようとしていたのだ、と錯乱した母は庖丁を手に待った。
もみ合っている内に、彼が逆に母を刺していた。
金庫から金を奪った彼は洋品店で衣類を替えてスナックに戻り、ケイ子に店を今日限りで閉めると言った。
何も知らないケイ子は、自分のことが原因だから両親に謝りに行くというが、彼はもう取り返しがつかないと彼女を制した。
順はケイ子と一緒にアル中の母親の家に行って、いちじくの件をたずねるが母親はなかったと言う。
両親の死体をタオルケットで包んでいる時に、ケイ子が家の中に入って来たが平然としている。
彼の脳裏に幼い日の彼と、貧しい父と母が浮かぶ。
寸評
長谷川和彦は本作と、「太陽を盗んだ男」という特異な2作品だけを残して、その後映画を撮らなくなってしまった伝説の監督である。
その寡作性と作品のインパクトが伝説化させているのだが、この作品は彼のデビュー作である。
制作費の安さもあって内容は荒っぽいが、その荒っぽさが主人公の青年らしさ(むしろ子供ぽさ)、嘘の無さみたいなものを感じさせ、何かに導かれるように破滅に向かっていく様子を際立たせていた。
父親は欲しい物を与えるくせに熱中すると奪おうとしたと順は言うのだが、そんな事は分かっていて与えてもらう事を選んでいた自分の弱さも知っていたのだと思う。
母親の市原悦子と、息子の水谷豊のやりとりはこの映画の白眉だ。
母親は素直に警察に行くと言う息子に、「これは家の中の問題なんだから、法律やら国家やらに口出しされてたまるもんですか」という屁理屈を展開する。
家と土地を売り払って遠くへ逐電し、時効成立まで息子の嫁替わりにおさまろうとする。
父を殺してしまった息子にスリップ一枚の姿になって「ねえ、二人でアレしようよ…」と迫る場面は怖い。
嫁の代わりになろうとする気持ちを考えると、この母親の息子に対する猛愛の異常性も感じ取れる。
さすがにこのおぞましい近親相姦を順は本能的に拒絶する。
死んだ父親を浴槽に運び込むシーンでは「やめてー! もっと、そーっと!」といたわりを見せ、順から「「うるせーや! そーっとやったって荒っぽくやったって同じなんだよ!」と言われると、「ごめんね・・・海にきちんと沈めるまで我慢してね・・・」などと、わけのわからぬ事を言う。
圧巻なのはふたりの格闘シーンで、結局殺人に至るその場面で母親は「痛くないようにそーっとやってー」、「痛いようー! ああっ! 死ぬー! 死ぬよー!」と叫びながら殺される。
事前のシーンと重ね合わせると、この殺人は擬似セックスだったのではないかと思わせる。
市原悦子はこのようなネットリとした女をやらせるといい味を出す。
清純派女優にはできない役柄だ。
息子を愛してはいるものの、あくまで自分の所有物とみなしている父親対して、順は反感を抱きながらも口では父親に負けてしまい、自分ではどうしたらいいか解らない。
それは親離れし切れず確固たる意志を持てない若者の姿でもある。
順は自分でも理解できないくらい強い衝動が発端となって親を殺してしまう。
しかし順はそうまでして守りたかったものすらも理解できてないし、その後の生活も以前と変わらない。
両親の苦労を思い浮かべたり、楽しかった過去の日々を思い浮かべてしまう矛盾を抱えている。
主人公は父を殺し、母を殺し、女を捨てるが、全ては自分の弱さから出たことで、死にたくても死ぬ事すらままならない憶病さによるもので、燃え上がる黒煙を見る順の姿は小さな虚栄心が崩れさった青春の終わりを示していた。
原田美枝子は体の成熟さに似合わない子供っぽい顔と、素人っぽい台詞回しで役にはまっていたと思う。
彼女の豊満ボディはどうしても印象に残ってしまう。
父母の厳格な教育方針と溺愛の中で、身動きできなくなった一人の青年。
彼がついに父をそして母を殺し、社会から疎外されていくまでを、冷徹かつ衝撃的に描いた長谷川和彦監督のデビュー作ですね。
製作に今村昌平、脚本に田村孟、撮影に鈴木達夫と、新人としては異例の超一流のスタッフが脇を固めています。
人間が人間を殺すという行為は、それが例えば戦争などの場合のような大量殺人であれ、あるいは恋のもつれといったような、個人的な殺意による、一人一殺のような場合であれ、必ずや動機といったものがあるものです。
その動機が、ドラマとしての発端となり、殺人行為そのものを描きつつ、被害者なり加害者なりの心理描写を通して、人の命の尊さとか、人間が自分以外の他人の生命を左右してしまうことの恐ろしさを訴えることが、"殺人"をテーマにした物語の常套でした。
当然のことながら、殺人行為そのものが、そもそも非日常的な出来事であることも論をまちません。
ところがこの作品は、外出から帰って来た母親が、自分のいつもの居場所である台所で、おびただしい血の量に仰天するところから話が始まり、動機とか、殺人行為のプロセスなどは一切、排除されている。
母は「拭くだけでは、とても間に合わない」と、血の海の中でつぶやいたりするのだが、台所という日常的な空間の中に、死体という非日常的なものを持ち込んで来た、この発想が秀逸だ。
息子が、自分の父親を殺害するという行為は、はた目にいかに唐突にうつろうとも、あるいは無分別なことに見えようとも、当事者にとっては、ごくごく自然な、当然の帰結であるということの説明なのだ。
つまり、世間の人が目をひんむくような、どのような出来事も、それは決してある日、突発的に表面化したものではない。
川の川底に徐々に積まれていった土が、ある日、洲となって形を表わすように、日常の中で、毎日の生活の中で、少しずつ少しずつ積まれていったものの結果なのだと思います。
つまり、日常の中には、常に非日常なるものが醸成されているということなんですね。
分別をわきまえ、大人になるということは、その非日常性を自分の中で抑制し、コントロールしながら、日常になじんで生きていくということであろう。
父を殺し、また母をも殺し、放火という罪を犯して、特異な行為へと身を投げた青年は、大人になることを拒否し、永遠に子供であろうとした男の物語だと言ってもいいと思います。
若き水谷豊が、そういう未熟な青年の姿を、実に的確に演じて見せていると思います。
伊藤蘭さんと結婚していますが、娘の趣里さんは演技者としてお母さんより断然上だと思います。
『太陽を盗んだ男』は、彼の映画ではなく、シュレイダーの映画ですから。
長谷川は、自分の物語ではなく、他人の物語である娯楽映画を撮るしかない、というのが私の考えです。