おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

OK牧場の決斗

2023-09-15 07:47:31 | 映画
「OK牧場の決斗」 1957年 アメリカ


監督 ジョン・スタージェス
出演 バート・ランカスター カーク・ダグラス ロンダ・フレミング
   ライル・ベトガー ジョン・アイアランド ジョー・ヴァン・フリート
   リー・ヴァン・クリーフ アール・ホリマン デニス・ホッパー

ストーリー
酒と賭博に身をもちくずした元歯科医ドク・ホリデイ(カーク・ダグラス)はフォート・グリフィンの町で3人組の殺し屋を返り討ちに倒したが、嫌われ者の彼は町民のリンチにかけられようとした。
たまたま町に来たドッジ・シティの保安官ワイアット・アープ(バート・ランカスター)はドクの情婦ケイト(ジョー・ヴァン・フリート)の頼みで、その危機を救った。
ワイアットはドッジ・シティに戻ったが、ワイアットの兄でトゥムストーンの保安官ヴァージルとクラントン一家との確執が激化してきたという報告が入る。
クラントンは殺し屋リンゴー・キッド(ジョン・アイランド)を味方にして機会を狙っていた。
そんなところへドクがケイトを連れてドッジ・シティにきた。
その上、ローラ(ロンダ・フレミング)という女が現れ御法度の賭博を始めるに及んではワイアットも捨てておけず、彼はローラを留置場へ入れたが、彼女に心ひかれワイアットはドクの口添えもあって間もなく釈放した。
ワイアットは、ローラと結婚してカリフォルニアへ行こうと、保安官のバッジを返し旅支度をしていたが、そこへ兄のヴァージルがクラントン一家との危機を告げてきた。
ワイアットはローラを置いてトゥムストーンの町へ向かったが、後にはアリゾナへ行くというドクがついてきた。


寸評
原題は「GUNFIGHT AT THE O.K. CORRAL」である。
CORRALは家畜囲いのことで、けっして牧場などではないのだが、これを牧場として邦題を「OK牧場の決斗」とした当時の宣伝部の功績が讃えられるべき作品だ。
洋画、邦画を問わず、タイトルに決斗あるいは決闘と名がつくだけでワクワクしてしまうのだ。
実際、この作品でもクラントン一家の牧場は別に有り、原題のCORRALとはこのようなところなのだと示してくれているのだが、この作品によってワイアット・アープとOK牧場は切っても切れないものとなったような気がする。
ワイアット・アープは実在の人物なのだが、その正体はいい奴だったとか、案外と悪い奴だったとかの話があり、本国では評価が固まっていないようではあるが、映画で描かれるワイアット・アープは概ね正義の味方である。
そうなると敵役はクラントン一家ということになる。
この作品でもその構図は変わらず、ひねりも、誇張した描き方もない、まったくもって正統派的な西部劇作品だ。

主人公はランカスターのワイアット・アープなのだが、何と言っても目立っているのはドク・ホリデイのカーク・ダグラスで、見方によってはこの映画はドク・ホリデイの映画と言っても良い。
カーク・ダグラスとジョー・ヴァン・フリートのからみがこの映画を支えていた。
今見ると、タイトルバックといい、フランキー・レインの歌う主題歌といい、妙に懐かしさを覚える作品である。
昨今の作品はひねりを効かせたり、裏側を描いたりで、"決斗"などというストレートな題名が似合う作品はとんと見かけなくなった。
邦画における任侠映画や股旅映画にみられるような単純な構図で、この単純さこそ当時の西部劇なのだ。

クラントン一家の末弟に扮しているのが若き日のデニス・ホッパーで、彼のエピソードがこの作品の中では唯一のヒューマンチックなものになっている。
アープ兄弟が兄弟の結束で決斗に向かうのに対し、彼もまた兄弟の絆で決斗に向かう事になる。
不参加を促すワイアット・アープに、自分もクラントン兄弟の一員で、アープ兄弟と同じなのだと告げる。
そう告げられたワイアット・アープも仕方のないことと理解を示す。
やがて決斗の決着が見え始め、クラントン一味で最後に残るのがこの末弟で、アープはこの末弟を撃ちたくはないのだが、宿命はそれを許さない。
彼を射殺するのがワイアット・アープではなくドク・ホリデイなのをせめてもの救いとしている。
息子たちをすべて失ったクラントン家のお母さんの嘆きはどんなだったかなどは問題外である。

正統派の決斗もの西部劇だが全体的な迫力には欠ける。
クラントン一家とアープ兄弟の確執も深く描かれていないので、決斗に向かうとときの”ついに堪忍袋の緒が切れた”といった気分がイマイチ沸かなかったのがそうさせていたのかもしれない。
ドクとリンゴーの関係も描き方としては薄いものがある。
バート・ランカスターとカーク・ダグラスという2大スターを揃えた割には、全体的に重厚感に欠ける作品である。
脚本がイマイチなのかもしれない。

狼の挽歌

2023-09-14 07:41:29 | 映画
「狼の挽歌」 1970年 イタリア


監督 セルジオ・ソリーマ
出演 チャールズ・ブロンソン ジル・アイアランド テリー・サヴァラス
   ミシェル・コンスタンタン ウンベルト・オルシーニ
   レイ・サウンダース ジョージ・サヴァラス

ストーリー
フロリダ南方の灼熱の島バハマ。
一匹狼の殺し屋ジェフは愛人バネッサとドライブ中、何者かに追跡されて町の一角に追いつめられた。
そして、その前に有名なレーサーの車が立ちふさがり、車から弾丸が発射され、ジェフの肩を打ち抜いた。
乱射戦となり、ジェフは三人を射ち殺す。
ジェフは殺人容疑で裁判ざたとなったが、弁護人スチーブの努力で正当防衛が認められ釈放された。
ニューオリンズに向った彼はレース場に赴き、例のレーサーの車がカーブにさしかかった時をねらってライフルの引き金を引き、車は火だるまとなって爆発した。
数日後のパーティで彼はバネッサと再会した。
車のレーサーと彼女は関係があり、ジェフの存在に嫉妬して殺そうとした事が分った。
翌日、マイアミに向う二人が空港に着いた時、事務員が一枚の封筒を渡した。
中には、あのレース場の薮の中でライフルを持っているジェフが写っていた。
誰が撮ったかを調べる彼の前にウェーバーの手下が現われ、彼の自宅へつれていった。
ウェーバーはジェフを仲間に加える為に写真を撮ったのだ。
またそこにはスチーブとウェーバーの妻になっていたバネッサがいた。


寸評
ノスタルジーを感じてしまう作りの殺し屋の映画である。
ブロンソンは当時コマーシャルに出ていて人気を博した俳優で、男くささが売り物だった。
彼が持っている魅力が引き出された作品だと思うが、中だるみ感があって出来栄えとしてはイマイチかな。
バネッサという女を巡る争いでもあり、この女があっち転び、こっち転びで金持ちを渡り歩いているしたたか女なのだが、ブロンソン夫人でもあったジル・アイアランドがどう見ても悪女には見えないのが欠点。
ジェフはバネッサを愛していたが、バネッサはジェフを裏切り、ジェフを襲ったレーサーのクーガンと逃げる。
ジェフの二人への復讐劇が発端だが、まだバネッサを諦めきっていないジェフの思いが交差して物語が進行する。
ライフル銃の組み立てなどのシーンはスタイリッシュなのだが、画面展開がまどろっこしくて緊迫感をそいでいる。
カーチェイスは当時としては水準の迫力を出しているが、見ていると車が走るシーンが多いことに気づいた。
スクリーンに映し出される車の疾走シーンを手短な見せ場としているような安っぽさを感じてしまった。
フランス映画ならまた別な描き方をしただろうが、イタリア映画らしいと言えばイタリア映画らしい描き方だ。

ジェフは冒頭でクーガン一味から追跡を受けるが、レーサーのクーガンがジェフを襲う動機が弱い。
後になってバネッサがクーガンと示し合わせていたことが分かるが、ジェフを殺す動機にしては軽くないか。
バネッサはジェフが服役中に弁護士のスチーブと出来ていたようだが、犯罪組織のボスであるウェーバーと結婚していることも後に判明する。
この辺の経緯が一切描かれていないので、スチーブが「バネッサは危ない女だ、彼女からも今の危険な稼業からも手を引け」とジェフに言うのもピンとこないものがある。
バネッサとスチーブにおける力関係の逆転も、もう少し上手く描けたような気がする。

ただセリフを少なくしてブロンソンの魅力を引き出そうとしていたことだけは分かったし、感じ取れた。
やはりラストシーンが一番の見どころだ。
外壁を登っていくエレベーターの窓ガラスをライフルが撃ち抜くのだが、個々での音声が窓ガラスを突き抜ける音だけというのがいい。
そして射殺されるのを悟ったバネッサが「苦しませないで」とつぶやくのも、その前に伏線が張られていたから効果的な演出だった。
アフリカから舞い戻ってきたジェフが目的を達し、放心状態で若い警官に射殺されるのもいい演出だったと思うが、そうであるならばもう少し工夫があっても良かったのではと思ってしまう。
意地を張り通し淋しく死んでいく男の哀愁をもっと描き出して欲しかった。

チャールズ・ブロンソンは出演作も多く、日本でも人気のあった俳優だが、僕は彼の出演作としては5本しか思いつかない。
1960年の「荒野の七人」、1963年の「大脱走」における準主役的出演作。
1968年の「さらば友よ」、1970年の「雨の訪問者」、そして本作である。
やはりブロンソンは寡黙な男が似合う俳優だったのだ。

おおかみこどもの雨と雪

2023-09-13 07:46:51 | 映画
「おおかみこどもの雨と雪」 2012年 日本


監督 細田守
声の出演 宮崎あおい 大沢たかお 黒木華 西井幸人 大野百花
     加部亜門 平岡拓真 林原めぐみ 中村正 大木民夫
     片岡富枝 小林隆 井上肇 染谷将太 桝太一 上白石萌音
     谷村美月 麻生久美子 菅原文太

ストーリー
大学生の花(声:宮崎あおい)は、相手が人間の姿をしていながらも“おおかみおとこ”(声:大沢たかお)という正体を持つ男とは知らずに恋に落ちてしまう。
しかし“おおかみおとこ”であることを打ち明けられても花の気持ちは変わらなかった。
二人は惹かれあい、やがて2人の間には、人間とおおかみの2つの顔を持つ“おおかみこども”、姉の“雪”(声:黒木華、大野百花)と弟の“雨”(声:西井幸人、加部亜門)が生まれる。
そして雪と雨が人前でおおかみにならないよう注意しながら、家族は都会の片隅でひっそりと、しかし幸せに暮らしていた。
そんなある日、父親の“おおかみおとこ”に突然の死が訪れ、幸せな日々に終止符が打たれた。
“おおかみこども”の姉弟を抱えた花は悲しみに暮れながらも、子どもたちを一人で育てるために決意を新たにし、緑豊かな山あいの村へと移り住む。
当初、蛇や猪をも恐れず活発な性格の雪に対し、弟の雨は内気で逃避的であったが、最初の冬を超えてから雨は変わり始める。
雪が小学校に通い始めて友達が出来ると、自分が野獣的なことを意識して葛藤を感じ、人間の女の子として振る舞おうと決意する。
だが、2人には重大な選択のときが迫っていた。


寸評
この作品は雪が語り手として母の花の半生を語るという形をとる母から娘への物語である。
狼と愛し合い狼の子供を産むという童話的な世界を描いているが、基本はシングルマザーの子育て話である。
花は国立大学に通う貧しい学生であったが、同じ大学に通う苦学生と恋に落ちて事実婚をして子供を産む。
ところが、家族を養おうと無理をした彼は過労死をしてしまう。
花を襲ってきたのは格差社会の悲劇である。
シングルマザーとなった花は勉学を続けることができなくなり貧困に陥った彼女は、家賃の安い田舎に移り住み自給自足の生活を始める。
生活が困窮しだした花は社会保障制度を受けられず、安い賃金の仕事を始めるようになる。
国家は助けてはくれなかったが田舎のコミュニティが花たちを援助するようになる。
花が暮らす田舎は持てる者が持たざる者に分け与える相互扶助によるお互いが助け合う社会である。
やがて子供たちは自分の道を歩み始め、花は子供たちの自立を見送り一人で暮らすことになる。
オオカミの子供という非現実的なものを登場させているが、描かれていることは現在の社会で起きていることであり、誰もが経験するであろう事柄である。

絵本の中ではオオカミは常に悪役で殺されてしまうことが多い「差別」の対象者である。
雪は転校性の草平にいきなり「獣臭い」と言われてしまう。
これは我々が無意識的に持っている差別意識への警告であり、無意識のうちに発している差別用語への警告を発しているシーンだったと思う。
雪は草平に自分がオオカミであることを告げる。
草平は「分かってた、ずっと。雪の秘密、誰にも言ってない。誰にも言わない。だからもう、泣くな」と言う。
差別者として存在していた草平と被差別者として存在していた雪の和解である。
その草平は親に見捨てられた孤児となっており、その状況は都会では無縁の中にいた雪の一家と変わらない。
身寄りもないままにシングルマザーとなった母の半生を物語る雪は、立場を変えて母と同じ運命をたどるのではないかと思わせる。

親は子供を産んだ限りは育てていく責任がある。
そして手塩にかけた子供が巣立っていくのを見送らねばならない。
長年一緒に暮らした子供との別れは辛いが、親は子供の幸せを祈って見守るしかないのだ。
自分に課せられた使命を感じ取った雨は危険を承知の仕事につき家を出ていく。
雨は森の支配者のオオカミとして去っていく。
親の止めるのも聞かずに行かねばならない感動的な場面である。
このシーンをより感動的にしているのが花の発する言葉である。
「しっかり生きていきなさい」と叫ぶのである。
自立していく子供にかける言葉はこれしかないのである。
花は時折オオカミの遠声を耳にし、元気でいることを知って安心した表情を浮かべる。
親はそうすることしかできない。

エロスは甘き香り

2023-09-12 06:24:25 | 映画
「エロスは甘き香り」 1973年 日本


監督 藤田敏八
出演 伊佐山ひろ子 桃井かおり 川村真樹 高橋長英
   山谷初男 五條博 谷本一 橘田良江

ストーリー
カメラマン浩一(高橋長英)、服飾デザイナー悦子(桃井かおり)、漫画家志望の昭(谷本一)、バーのホステス雪絵(伊佐山ひろ子)の四人が同棲生活を始めたのには深い理由があったわけではない。
浩一は仕事がなく、悦子のところにころがり込み、半ばヒモのような暮しをしていた。
売れない劇画を描いて、行くところのなくなった昭は、愛人の雪絵を連れて浩一たちのところに居候をきめこんでしまった。
共同同棲生活が始まったのはそれからである。
ある日、酔った雪絵を、浩一は衝動的に抱いてしまった。
雪絵はそれを待っていたかのように彼を迎え入れた。
昭は仕事をしない浩一に意見するかのように、売れない劇画を描き始めた。
今度こそはと、描き上った作品を出版社に持ち込んだが、やはり不採用だった。
失望にやけっぱちで飲んだ酒のいきおいで彼は悦子を抱いてしまった。
そんな彼を悦子はやさしく、つつみこむのだった。
その頃、浩一は行きつけの居酒屋の主人・久生(山谷初男)からワイ写真のモデルを依頼されていた。
相手は久生の女・雀(川村真樹)である。
浩一はヒモの自分から刹那的にも逃れるためにモデルを承知し、雀と幾多の交じわりをするのだった。
ファインダーからそれをのぞく久生の目はぎらぎらと輝いていた。
数日後雪絵は共同生活に嫌気がさして、部屋から出て行った。
誰も止めようとはしなかったし、止める権利のないことも知っていた。
そして、ワイ写真のモデルとなった浩一と、劇画を諦らめた昭と、二人のヒモを持った悦子の三人の奇妙な生活が、あてどなくつづいていった……。


寸評
藤田敏八は浅丘ルリ子が女優として脱皮を遂げた「愛の渇き」で藤田繁矢の名で脚本を担当した後、「非行少年 陽の出の叫び」で監督デビューし何本か作品を撮ったが、日活がロマンポルノ路線に転換したので、藤田もロマンポルノを手掛けることになる。
その内の一本がこの「エロスは甘き香り」である。
裸のシーンを入れる以外に制約もなく監督が好きなように撮れたロマンポルノであるが、藤田敏八にはこれといった作品はなかったように思うし、本作も空回りしているような所がある。
今となっては、ボカシもあるしこれがポルノ映画かと言いたくなる内容である。
若い男女四人による密室劇で、訳の分からないパワーは感じるが、でも結局訳が分からない内容である。
高橋長英が豚の首を切って血の滴る頭を持って帰ってくるシーンはゾッとするだけで、何の意味があったのか理解できないのだが、手首を切ったこととの関連性だけだったのだろうか。
変わったシーンがあって興味を引くが、それが作品に上手くいかされていないような気がした。

スワッピングとでもいうような濡れ場が一番の見どころとなっている。
ある日、浩一は酔った雪絵を衝動的に抱き、雪絵はそれを待っていたかのように彼を迎え入れる。
劇画が採用されず失望した昭は悦子を抱き、悦子は昭をやさしく包み込む。
この場面は雪絵が浩一にやられた直後に仕返しとして昭が悦子をやるというもので、昭と悦子の行為を浩一が口にフィルムくわえてカメラを弓を引くように構えて連写、連写、連写で撮りまくる。
一体フィルムは何枚撮りなのだと言いたくなるくらいの連写である。
この様な関係になると4人はバラバラになっても良さそうなものだが、逆に4人は打ち解け合って和やかな食事を囲む共同体を生み出している。
浩一と昭は夜の公演でカップルにいかがわしい写真を無理やり売りつけることを協力し合ってやるようになる。
次のカップルを狙った時、そのカップルは居酒屋の主人・山谷初男と雀の川村真樹だったので、二人は暗闇の中へ去っていく。
山谷初男と川村真樹の存在は何だったのか僕にはよくわからなかった。

ヒモという立場の男たちの屈折した気持ちを描いていたのかなあ。
家の外の犬小屋が燃えているのは、米軍払い下げの住宅と関係があるのか。
川村真樹の店の籠の中の鳥は、単に川村真樹が雀という役名だったためだけだったのか。
冒頭で浩一がパチンコをしている時に、店内に流れているのは石川セリが唄う「八月の濡れた砂」である。
「八月の濡れた砂」は藤田敏八の代表作の一本だと思うのだが、やはり「八月の濡れた砂」への思い入れが強くあったのだろうか。
そう思うと、「エロスは甘き香り」は年齢を少し上げた「八月の濡れた砂」だったのかもしれないなと思った。
ロマンポルノとしてではなく、普通の作品として撮った方が面白かったかもしれない内容であった。
「八月の濡れた砂」ほどの衝撃はないが、この映画は桃井かおり唯一のロマンポルノ作品として記憶にある。
長谷川和彦が助監督を務めているが、長谷川は同じ藤田敏八監督作で桃井かおりの女優復帰作でもある「赤い鳥逃げた?」でも助監督をつとめていたから、三人は仲間みたいなものだったのだろう。

エリザのために

2023-09-11 07:24:03 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/3/11は「家族ゲーム」で、以下「かぞくのくに」「学校」「カッコーの巣の上で」「勝手にしやがれ」「葛城事件」「カティンの森」「彼女の人生は間違いじゃない」「蒲田行進曲」「神々の深き欲望」と続きました。

「エリザのために」 2016年 ルーマニア / フランス / ベルギー

          
監督 クリスティアン・ムンジウ                             
出演 アドリアン・ティティエニ マリア=ヴィクトリア・ドラグス
   リア・ブグナル マリナ・マノヴィッチ ヴラド・イヴァノフ
   ジェル・コルチャグ ラレシュ・アンドリチ ペトレ・チュボタル
   アレクサンドラ・ダビデスク ルチアン・イフリム

ストーリー
ルーマニアの小さな町に暮らす警察病院の医師ロメオ(アドリアン・ティティエニ)には、愛人がおり、家庭は決してうまくいっているとはいえない。
ある朝、妻(リア・ブグナル)に代わってイギリス留学を控える娘エリザ(マリア・ドラグシ)娘のエリザを学校まで車で送ることに。
しかし愛人のもとへ急ぐ彼は、エリザを学校の少し手前で降ろしてしまう。
その結果、エリザは登校途中に暴漢に襲われてしまう。
幸い腕を負傷しただけで大事には至らなかったが、彼女の動揺は大きく、留学を決める最終試験に影響を及ぼしそうだ。
英国留学を控える彼女には、大事な最終試験が翌日に迫っていたのだ。
本来ならば成績優秀な彼女には何ら問題ない試験のはずだったが、とても試験をこなせる精神状態にはなかった。
ロメオは娘の留学をかなえるため、警察署長(ヴラド・イヴァノフ)や副市長(ペトレ・チュボタル)、さらには試験監督(ジェル・コルチャグ)とツテを頼り、試験に温情を与えてもらおうと奔走する。
だが当の娘には反発され、ロメオには検事官(ルチアン・イフリム)の捜査が迫ってくるのだった……。


寸評
主人公のロメオは娘エリザのイギリス留学を実現させるために、ありとあらゆるコネを使って最終試験の不正を画策する。
父親の考える子どものためというのは独りよがりのものかもしれない。
本当に子どものためなのか、子どもはそれを求めているのか、もしかするとそれは父親の自己満足の為ではないのか。
そのような疑問を呈せられると、父親の正当性は揺らいでしまう。
ここまでの不正を画策する父親は稀だろうが、しかし少なからずそのような気持ちを持っているのが父親というものでもある。
コネがあれば「よろしく頼むよ」ぐらいは言うだろうし、自分のコネで子供の就職先をあっせんした父親もいるはずだ。
この男の私生活を含め、彼に共感する観客はひとりもいないだろうが、彼の犯した間違いや彼の取りつくろう嘘は僕たちにもある。
だから彼に対する見方は一方的な非難だけではないものがあり、彼の行動の滑稽さと悲しさはこの映画の魅力となっている。
彼の抱える行動の滑稽さは、僕たち自身の滑稽さでもあるのだ。
父親がとってしまうばかげた行動を描き、一歩間違えば喜劇映画になってしまいそうな作品に広がりを持たせているのが、この映画の持つ政治性だ。

1960年代から80年代にかけての24年間にわたり、ルーマニア共産党政権の頂点に立つ独裁的権力者として君臨していたのがニコラエ・チャウシェスクである。
1989年12月に起きたルーマニア革命でチャウシェスクは完全に失脚し政権は崩壊、その後12月25日に逃亡先において、革命軍の手によって妻エレナとともに公開処刑されたという事実を思い浮かべなくてはならない。
エリザの両親は、チャウシェスク時代には海外に逃避していたが、民主化に期待して戻ってきたらしい。
父親は娘を説得するために、「1991年、民主化に期待し母さんと帰国したが、失敗だった。自分たちの力で山は動くと信じたが、実現しなかった。後悔はない、やれることはやった。でも、お前には別の道を歩んでほしい」と言う。
彼のいう山とはチャウシェスク時代の国家ぐるみの不正だったはずだ。
労働者とエリートたち、人種差別、軍と警察という権力執行者、国家機構と党機構という組織、官僚と一般国民、これらの対立を利用しながら強権と私利私欲をほしいままにしたチャウシェスクの作った社会そのものであろう。
しかし革命後のルーマニアでは、相変わらずコネとワイロが方々にはびこっていて、正直者が馬鹿を見る社会が続いている。
映画はそんな社会を告発しているようでもある。
ところが、父親のロメオは社会を告発する正義の代表者として存在していない。
警察病院の医者である彼は、患者から金を受け取ろうとしない正直者であるのだが、その彼でも娘のために最終試験での不正に奔走してしまうのである。
その本能的ともいえる父親の性(さが)で彼を正当化していないのである。
ロメオは妻がいながらサンドラという愛人がいて、エリザが襲われ病院から連絡を受けたときにも、ロメオがいたのはサンドラのアパートだったという事実を突きつける。
さらに娘のエリザも妻のマグダも、ロメオが不倫していることを知っているようなのだ。
ロメオはサンドラの生理が遅れていると伝えられてもまともに取り合わず、サンドラの幼い息子とも目を合わせようとしない。
実に身勝手な男なのである。
この男の身勝手さが共感を呼ばないのだが、それなのにどこかで彼に同化している自分がいる。
彼らが住んでいるのは殺伐とした街だ。
ロメオはエリザにロンドンの公園がどんなに素晴らしいところかを語る。
愛する娘のためなら、自分の手を汚すのを躊躇わないという、その思いつめた心情だけがは物のようなことがそうさせたのかもしれない。

エリザを襲った犯人は誰なのかは分からない。
班員を目撃したと思われるマリウスの処遇も不明のままである。
ロメオの家に石を投げ込んだのはサンドラの息子だったのだろうか。
娘が留学してしまった後、ロメオとマグダは離婚したのだろうか。
ロメオの子供を身ごもったサンドラはどうしたのだろう。
数々の疑問を残したまま、ロメオは「はい、チーズ」と欺瞞の写真を撮る。
ルーマニアもロメオ一家も危うい状態で成立している。


獲物の分け前

2023-09-10 06:52:45 | 映画
「獲物の分け前」 1966年 フランス


監督 ロジェ・ヴァディム
出演 ジェーン・フォンダ ミシェル・ピッコリ ピーター・マッケナリー
   ティナ・マルカン ジャック・モノー ハワード・ヴァーノン
   ジェルメーヌ・モンテロ

ストーリー
サッカール家の広大な屋敷はパリ郊外にあり、うっそうと繁った木立に囲まれた建物は、古風な美しさを備えていて、そこに住む若くて美しいルネは二十も年上の男アレクサンドルと結婚していた。
彼は工業プロモーターで旅行が多かった。
ルネは莫大な遺産を相続していて、彼とはカナダで知りあった。
ルネは家庭とカナダから逃がれるため、アレクサンドルは金のために結婚したのだった。
アレクサンドルは社交界で周囲の人々を魅了するルネに満足していたが、家庭でのふたりの間には、最近夫婦の交わりがなかった。
アレクサンドルの先妻の息子マクシムは、そんな父母の関係を気にもとめず、勉学のかたわら、中国人の教師について中国語を習っていた。
ルネは気軽に彼を学校へ迎えに行ったり、悩みを打ちあけたりした。
若いふたりの親しさはやがて淡い愛に変化していった。
それでもふたりの間には危険な関係が起るようには見えなかった。
だがある日アレクサンドルの留守中、マクシムは父親が毎年催す仮装舞踏会のためのジンギス・カンの衣裳を着て、日光浴をするルネを驚かした。
ふたりのたわむれは、いつしか真剣さを加え、情熱に身をまかせるのだった。
アレクサンドルが数日旅行することになり、ふたりの関係を知らない彼は留守中ルネとマクシムの田舎への旅行を快く承知した。
清々しい田園の中でふたりの愛は深まり、女の歓びを知ったルネは盲目的となっていた。
ある晩ルネはアレクサンドルに離婚を申し出た。


寸評
ロジェ・ヴァディムは雑誌のモデルをしていた18歳のブリジット・バルドーと結婚したのを初め5人の妻を持った。
バルドーを主演にして「素直な悪女」でロジェ・ヴァディムは映画監督としてデビューしたのだが、むしろバルドーが一躍セックス・シンボルとしてスターとなったことが印象深い。
バルドーと離婚した翌年に再婚し娘をもうけるが2年で離婚し、その後カトリーヌ・ドヌーヴと交際して息子を授かったが結婚はせず、3人目の妻となったのがジェーン・フォンダである。
この映画はロジェ・ヴァディムが妻のジェーン・フォンダの為に撮ったような作品で、若い頃のジェーン・フォンダが艶めかしい姿でスクリーンを闊歩するのを見ることができるということ意外に表現のしようがない。
父親の再婚相手の若くて美しい義母と息子が恋に落ちると言うのも通俗的なテーマである。
それ故に禁断の恋に落ちる二人の心の内や、父親と息子の間に沸き起こる確執など、描くことができる事柄は一杯あったはずなのに、単なるロジェ・ヴァディムの自己満足映画で終わっている。
ルネとマクシムが初めて結ばれる場面の処理などはユニークで面白いと思ったのだが、それも不発に終わってしまった感がある。

アレクサンドルはルネの持参金で会社を立て直し豪邸に住んでいる。
結婚は打算的なものだったので、二人の間に愛情があるようには見えず、年配のアレクサンドルが若いルネの肉体に溺れている風でもない。
同じ屋根の下で暮らしているマクシムは二人の関係を感じ取っていたはずで、年齢的にはむしろピッタリの義母に恋するのは当然の成り行きだったと思える。
むしろ若くてピチピチして艶めかしいところもあるルネの肉体に魅かれていたとしたほうが納得感が持てたと思う。
父親の目を盗んで二人は逢瀬を重ねるが、そこに存在するはずのスリル感も全くないので、禁断の恋という雰囲気がまったく出ていないのは不満である。
はじめは軽い気持ちだったルネも、マクシムへの想いが募って遂にアレクサンドルとの離婚を決意する。
アレクサンドルは、財産を放棄すれば離婚してやるとの条件を提示したところ、マクシムへの愛が深まっていたルネはその条件に納得する。
アレクサンドルにとって、ルネとの結婚は金銭目的だったのだ。
さらに事業継続の為にアレクサンドルは金持ちの娘アンとマクシムを婚約させる。
父から婚約を強要され、なんとか拒否しようとしたマクシムだが、結局アンと婚約し仮装パーティの席上で発表されたのだが、マクシムが意に反してアンとの婚約を受け入れざるをえなかったわけがよく分からない。
彼の苦悩があってしかるべきなのだが、やけにあっさりと婚約を果たしてしまっている。
今の満ち足りた生活を失いたくないというだけの打算的な理由であったにしろ、悩んだ末の決断であったにしろそれを描いておかねば、ルネの絶望感が引き立ってこない。
ルネは邸宅の池に飛び込んで自殺を図るが、それもなんだか悲壮感がないし絶望感も感じ取れない。
結局、何もかも失くしたことになってしまったルネの悲劇はラストの表情だけでは表し切れないものだったはずで、描く事が出来なかったロジェ・ヴァディムが悪いのか、演じきれなかったジェーン・フォンダが悪いのか、ルネの絶望感を感じ取れなかったなあ。
多分ロジェ・ヴァディムが悪いのだ、僕は監督としてのロジェ・ヴァディムを評価していない。

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス

2023-09-09 10:56:52 | 映画
「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」
 2022年 アメリカ


監督 ダニエル・クワン / ダニエル・シャイナート
出演 ミシェル・ヨー ステファニー・スー キー・ホイ・クァン
   ジェームズ・ホン ジェイミー・リー・カーティス
   タリー・メデル ジェニー・スレイト ハリー・シャム・Jr

ストーリー
アメリカで頼りない夫とコインランドリーを営む中国移民のエヴリン。
仕事ではただでさえ経営が厳しいのに、国税局から納税申告の不備を指摘され、家では頑固な父親の介護に追われる中、反抗的な一人娘ジョイが女性の恋人というやっかいな問題を持ち込もうとしていて、すっかり疲れ果てていた。
そんな中、突然夫に“別の宇宙の夫”が乗り移り、強大な悪の存在によって危機に直面した全宇宙を救ってほしいと語り、いきなり世界の命運を託されてしまうエヴリン。
しかも巨悪の正体は娘のジョイとのこと。
困惑しながらも、平行宇宙へジャンプする技術によってカンフーの達人となった“別の宇宙のエヴリン”の力を得て、ジョイの暴走を止めるための過酷な戦いへと身を投じていくエヴリンだったが…。


寸評
見ている間は何が何やらわからぬままに目はスクリーンにくぎ付けとなっていた。
そして見終った時に、ああ、これは家族愛と平凡な人生を選んだ女性への賛歌だったのだなと納得した。
いや、正直な気持ちを言えば納得せざるを得なかったのだ。
つまり僕は未だにこの映画を理解できないでいる。
多元宇宙が存在していて、エヴリンはその別世界へワープして戦いを挑んでいく。
エヴリンはもともと能力が高い女性だが、現実には平凡な男と結婚してコインランドリーをきりもみしている。
娘とは意思疎通を欠いており、娘は同性愛者のようで、エヴェリンはそのことも悩みの種となっている。
エヴェリンは別宇宙で戦っているが、戦っている相手は娘だ。
それは現実の家庭で起きていることの拡大解釈である。
戦いに勝利したエヴェリンは現実世界に戻り、家族そろって国税局に赴く。
国税局に認められた彼らは幸せそうな一家になっているし、娘の恋人女性とも打ち解けている。
最後に見せるエヴェリンの姿は、平凡な主婦を選んだけれど能力を発揮して一家を支え、家族を愛して結局幸せな生活を得たのだと言っているように思えた。
あくまでも勝手な僕の解釈である。
でも僕はこの手の作品はあまり好きになれない。
原因は僕の理解力不足とイマジネーションの衰えによるものなのだろうと思う。
歳はとりたくないものだ。

ええじゃないか

2023-09-08 07:32:36 | 映画
「ええじゃないか」 1981年 日本


監督 今村昌平
出演 桃井かおり 泉谷しげる 緒形拳 露口茂 草刈正雄 樋浦勉
   丹古母鬼馬二 火野正平 倍賞美津子 田中裕子 寺田農 倉田保昭    
   池波志乃 高松英郎 伴淳三郎 三木のり平 小沢昭一 殿山泰司

ストーリー
慶応二年、日本は激動期の真只中にあった。
源次(泉谷しげる)はそんな江戸へ六年ぶりにアメリカから帰って来た。
上州の貧農の出の源次は横浜港沖で生糸の運搬作業中に難破し、アメリカ船に救けられ、そのまま彼の地に渡っていたのだ。
その間、妻のイネ(桃井かおり)は、病身の父(伴淳三郎)に売られ、現在、東両国の“それふけ小屋”(ストリップ劇場)で小紫太夫と名乗って出演している。
源次はなんとかイネを発見、六年ぶりの再会に二人は抱きあった。
源次はイネと再会したのち、千住の女郎屋の遣り手・お甲(倍賞美津子)にかくまわれる。
見せ物小屋の立ち並ぶ東両国は、芸人、スリ、乞食、ポン引きなどアブレ者の吹き溜り。
源次は三次(樋浦勉)、ゴン(丹古母鬼馬二)、孫七(火野正平)、卯之吉(野口雅弘)、旗本くずれの古川(緒形拳)など、したたかな連中に混ってそこに居ついてしまう。
そして、金蔵(露口茂)がここら一帯を取り仕切っている。
自由の国アメリカが頭から離れない源次は、イネを誘いアメリカ渡航を計るが、結局、彼女はこの猥雑な土地を見捨てられず、彼もイネの肉体にひかれて残ってしまう。
この頃、幕府と薩摩、長州連合の対立は抜きさしならないところにきており、金蔵は薩摩の伊集院(寺田農)などの手先となって、一揆の煽動など、天下を騒がす仕事に飛びまわっていた。
「ええじゃないかええじゃないか」と〈世直し〉の幟やムシロ旗を立てた群衆は次々と豪商の倉を襲っていった。
この群衆の中に、金蔵配下の源次、ゴンたちがアジテーターとしてまぎれこんでいた。
更に、この騒ぎの中に、親兄弟を虐殺された琉球人のイトマン(草刈正雄)が仇の薩摩藩士の姿を求めて鋭い目を光らせていた。
そして、「ええじゃないか」の勢いは止まるところを知らず、群集は、歩兵隊の制止も聞かず、大橋を渡ろうとした。
「死んだって ええじゃないか」源次がたおれた。
数日後、復讐をとげたイトマンの舟が琉球へとすべり出した。
舟を見送るイネ。その翌年、元号は明治となるのだった。


寸評
「ええじゃないか」騒動は江戸時代末期の慶応3年(1867年)に、近畿、四国、東海地方などで発生し、「天から御札が降ってくる」という話が広まるとともに民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊ったというものだが、この「ええじゃないか」騒動がこの映画でも最後を締めくくる形で描かれる。

セットは立派だしエキストラも多くて製作費をかけて丁寧に描いていて、庶民が苦しいながらも頑張って生きていこうとしている姿を映し出しているのは分かるが、それだけに留まっていてストーリーが発展しないので、結局のところ何だかよくわからない。
上映時間の割に、中身は散漫であいまいなままで終わってしまっている。タイトルとなっている「ええじゃないか」騒動は最後に少しだけ描かれるが、同じく最後に少しだけ「ええじゃないか」騒動が描かれる作品として、僕は黒木和雄の「竜馬暗殺」における描き方の方が、はるかに民衆の生活苦、幕府への不満、怒り、押さえつけられていたそれらのエネルギーの爆発を感じ取れた。
幕末の「ええじゃないか」騒動は世の中がひっくり返る間際の民衆蜂起であったと思うので、タイトルから連想したのは「ええじゃないか」に名を借りて現代に潜む問題をあぶりだすという内容であったのだが、結局何を描きたかったのだろうと言う印象のまま終わってしまった。
ただし、カメラはイイ。
夜のシーンが多くて暗い画面が続くが、その暗さが雰囲気を醸し出し、橋のあっちとこっちで生活する人々や、人々が入り乱れる雑多な空気感が絵に見事に出ている。

露口茂の金蔵は紛争を引き起こしたり煽り立てたりして距離を得ている軍需産業のような人物である。
騒動の当事者双方から依頼を受け、一方で騒動を扇動し、一方で騒動を鎮圧する画策を行っている。
この男の破滅を描くのかなと思っていたら、琉球人のイトマンが迫害に対する復讐を遂げ、最後が源次とイネの愛情物語だったので、「結局なんだったんだ」と叫びたくなった。

エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事

2023-09-07 07:32:10 | 映画
「エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事」 1993年 アメリカ


監督 マーティン・スコセッシ
出演 ダニエル・デイ=ルイス ミシェル・ファイファー
   ウィノナ・ライダー リチャード・E・グラント
   ジェラルディン・チャップリン メアリー・エレン・トレイナー
   ロバート・ショーン・レナード メアリー・ベス・ハート

ストーリー
1870年代初頭のある夕べ、若き弁護士のニューランド・アーチャー(ダニエル・デイ・ルイス)や、その婚約者メイ・ウェランド(ウィノナ・ライダー)と彼女の母親ウェランド夫人(ジェラルディン・チャップリン)をはじめ、ニューヨーク社交界の人々がオペラ会場に集った。
ひときわ注目を引いたのは、夫から逃れてヨーロッパから帰国したという噂のエレン・オレンスカ伯爵夫人(ミシェル・ファイファー)で、ニューランドは幼なじみのエレンの出現に心を揺さぶられた。
外聞をはばかるエレンの一族は離婚を思いとどまらせようと、ニューランドを使者に立てる。
だが、彼女の率直な態度や考え方に、厳格で欺瞞に満ちた社交界にない新しさを感じた彼は、メイという申し分のない結婚相手がいながら、エレンに引かれていく。
しかし、エレンは、次第に社交界から排斥され、2人の愛にも上流階級特有の見えない圧力がかけられる。
エレンは一族の願いを聞き入れ、離婚を思いとどまった。
それはニューランドを愛するゆえの選択だった。
ひと月後、ニューランドはメイと結婚するが、結婚生活は退屈な義務だった。
エレンへの思いを募らせる夫をメイは許さず、自分の妊娠をエレンに告白して、彼女の思いを打ち砕いた。
エレンは帰国し、彼はそれから彼女への思いだけを抱いて生き、30年の月日が流れた。
ニューランドは息子のテッド(ロバート・ショーン・レナード)を通してエレンの居所を知る。
息子は、父とエレンの愛を知っていた。


寸評
息子のテッドは母から亡くなる直前に「お願いしたら最愛の人を諦めてくれた」と言われたと父のニューランドに話すが、父はお願いなどされなかったと答える。
確かにメイはお願いなどしていなくて、ニューランドが諦めるように仕向けたのだ。
それからすればメイは実にしたたかな女なのである。
ニューランドがエレンに寄せる気持ちを知りながら、それに触れることもなく平和な家庭を維持し生涯を終えた。
エレナから引き裂かれた夫と、そして追放された夫の愛人エレナを、メイはどんな気持ちで見ていたのかと想像すると悲しくもあり恐ろしくもある。
彼女こそ複雑な心境を持ち続けたあわれなヒロインという気がするのだが、それにしてはメイの描き方が不足していた感があることは否めない。
従妹であるエレンとの間には計り知れない微妙な感情があったはずで、そこをもう少し描き込んでいたら禁断の恋にもっと感情移入できたのではないかと思う。
僕が乗り切れなかった理由の一つとして、描かれている世界が上流社会の出来事だと言う事にもあった。
世間体を気にし、ゴシップを恐れるという背景を持たせるためには、やはり上流階級の社交界を描く必要があったのだろうが、庶民にすぎない僕には雲の上の物語の様な気がしてならなかった。

とはいうものの、平穏な家庭生活を維持しながら思いを寄せる女性を忘れられない感情は理解できるものがある。
ニューランドはエレンと肉体関係があったわけではない。
しかし自分の気持ちをエレンに伝え、エレンも彼の愛を受け入れたのだが、そこから先へ進むことはしなかった。
ニューランドが家庭内で良き夫を演じ、良き父親を演じ続けていても、心の奥底では常にエレンを思い続けていたのである。
不倫は悪だが、精神的な浮気はもっと悪いと言う意見も存在するように、ニューランドのその思いはメイにとってはすこぶる罪なものだ。
それでもメイはすべてを飲み込んでいたのだが、ニューランドとの間に子供をもうけたことが彼女の勝者としての誇りであり、生きていく上での支えになっていたのだろう。

三者の中にある気持ちを推し量る映画なので、ベッドシーンは一切ない。
そして主演のダニエル・デイ=ルイスが「エレンを抱きたい」という男の本性と、紳士的な自制心の間で苦悩するニューランドを好演している。
皮肉なことに好演と言えるのは、ダニエル・デイ=ルイスが周囲の圧力に流されているばかりの弱々しい生き方への失望を見事なまでに僕たちに植え付けたことによる。
登場人物たちは、世間体とか、富や名声を失うこと、ゴシップによるステイタスの喪失を極度に恐れている。
その恐れのために、男女の不倫の恋がなし崩し的に中途半端な壊れ方をしている。
叶わぬ恋のためにすべてを犠牲にするというひたむきさがない弱々しい生き方なのだ。
この生き方は題材としては面白いかもしれないが、僕たちが望む恋愛映画ではない。
結局ニューランドは、狭い社交界でしか生きていけなかったのだし、彼の願望は、ラストで死せるメイによって完膚なきまでに叩き潰される。
メイ、恐るべし!

英国王のスピーチ

2023-09-06 07:16:27 | 映画
「英国王のスピーチ」 2010年 イギリス / オーストラリア


監督 トム・フーパー
出演 コリン・ファース ジェフリー・ラッシュ ヘレナ・ボナム・カーター
   ガイ・ピアース ティモシー・スポール デレク・ジャコビ
   ジェニファー・イーリー マイケル・ガンボン クレア・ブルーム
   イヴ・ベスト フライア・ウィルソン ラモーナ・マルケス

ストーリー
大英帝国博覧会閉会式で、ヨーク公アルバート王子はエリザベス妃に見守られ、父王ジョージ5世の代理として演説を行ったが、吃音症のために悲惨な結果に終わり、聴衆も落胆する。
エリザベスはアルバートを説得して、言語療法士であるオーストラリア出身のライオネル・ローグのロンドンのオフィスをともに訪れる。
独自の手法で第一次世界大戦の戦闘神経症に苦しむ元兵士たちを治療してきたローグは、王室に対する礼儀作法に反してアルバートを愛称のバーティで呼びつけ、自身のことはローグ先生ではなくライオネルと呼ばせる。
クリスマス恒例のラジオ中継の後、父王ジョージ5世は、アルバートの兄に当たる王太子デイヴィッド王子は次期国王に不適格であり、アルバート王子が王族の責務をこなせるようにならねばならないと語り、厳しく接する。
王子はローグのもとを再び訪れ、口の筋肉をリラックスさせる練習や、呼吸の訓練、発音の練習などを繰り返し行い、アルバートはローグに吃音症の原因となった自身の不遇な生い立ちを打ち明け、二人の間に友情が芽生える。
1936年1月、ジョージ5世が崩御し、デイヴィッド王子が「エドワード8世」として国王に即位する。
しかし、新王はアメリカ人で離婚歴があり、まだ2番目の夫と婚姻関係にあるウォリス・シンプソン夫人と結婚することを望んでいたので、王室に大きな問題が起こるのは明白であった・・・。


寸評
吃音が故に内向的な性格となった王家の男が、本当は国王になるはずではなかったのに、兄が王位を捨てたことで国王になってしまう。
しかしこの映画はそんな人生の皮肉に翻弄されながらも困難を克服する男を描いているのではなく、僕にはハンデを抱えるジョージ6世が、妻のエリザベスと矯正専門家の助けを受けて大役をこなすことが出来るようになるという英国王室を舞台としたすホームドラマに思えた。
歴史知識不足の観客が受けがちな疎外感を感じることはまったくない。
非常にわかりやすく、華やかなこの時代の王室メンバーの魅力を感じさせてくれるとともに、主役二人の身分を超えた名タッグぶりに通快感を味わえる作品だった。

矯正の専門家であるライオネルは実にユニークな人物で、医者の免許を持たない役者上がりで、自ら矯正の専門家を名乗っている。
しかもその治療法もユニークだし、関係も平等だと愛称で呼び合う。
この男の存在が作品を面白おかしく仕上げている。
ライオネルは、大胆にも王をバーティと愛称で呼び、王の固定観念をどんどん打ち砕いていく。
コミカルな治療シーンが物語をリズミカルなものにしていた。
伝統や体裁を気にする上流社会にはないライオネルの実直さに触れて、王が自己の内面と向き合っていくプロセスがこの映画の大きな見所となっている。

反面、国王の身分を捨てて結婚経験のある恋人のもとに走ったエドワード8世は、題材としてはそちらの方が映画になりやすいのに今回はちょっとしたエピソードにとどまっている。
ただし、ジョージ6世の妻であるエリザベスが、実にチャーミングに描かれているのに比べて、エドワードの恋人であるウォリス・シンプソンには悪意でもあるのか嫌味な女として描いている。
皇室を基盤に持つ日本人にとっては王位継承の必要性と、その特異な責任の存在が理解できるし、皇太子妃の病状なども思い起こされ感情移入はたやすく行えた。
現エリザベス女王や、マーガレット妃もセリフ付きで子供として登場し、チェンバレンやチャーチルも登場するので歴史絵巻的な一面も楽しめる。
僕は兄エドワード8世の“王冠を賭けた恋”のことは知っていたが、ジョージ6世のことは知らないでいた。
しかしこの映画を見ると、国民に本当に愛されたのは、英国史上最も内気なジョージ6世その人だったということがわかった。
歴史上の人物を描いた作品の持つ功績のひとつでもあると思う。

最後にヒトラーのナチスドイツに宣戦布告する際のスピーチの描き方は、天皇陛下をいただいているだけに、国民感情も理解できるものが有って感動出来た。
そして流れる音楽がドイツの楽聖ベートーベンの交響曲であるのも監督トム・フーバーの意識を感じた。

英国王 給仕人に乾杯!

2023-09-05 06:30:21 | 映画
「英国王 給仕人に乾杯!」 2006年      チェコ / スロヴァキア                   
             
監督 イジー・メンツェル                                          
出演 イヴァン・バルネフ オルドジフ・カイゼル ユリア・イェンチ
   マリアン・ラブダ マルチン・フバ ヨゼフ・アブルハム

ストーリー
ヤンの一生は、ビールとともに生きる給仕の人生だった。
青年の頃から、背丈は小さいが夢は大きかった。
いつの日か、百万長者になって、ホテルのオーナーになろう、と。

田舎町のホテル<黄金のプラハ>のレストランの見習い給仕からはじめて、富豪たちのお忍びの別荘ホテル<チホタ荘>でウェイターに、そしてプラハの超一流の<ホテル・パリ>でウェイターから主任給仕になった。
幸運には不運が、不運には幸運が、いつもドンデン返しで待っていた。
そうしたときにユダヤ系の行商人ヴァルデン氏が、いつもヤンの急場を救ってくれた。
ヴァルデン氏はヤンに“お前は小さな男、小さな国の人間、それがお前の血だ。それを忘れなければ人生は美しくなる!”とスモール・イズ・ビユーティフルの教えを説いた。
ヤンは美女にもめぐまれた。
田舎町では<楽園館>のヤルシュカに出会い、<チホタ荘>では女給仕人のヴァンダに、<ホテル・パリ>では謎の少女ユーリンカに魅せられた。

<ホテル・パリ>で給仕術の奥義を極めた名給仕長スクシーヴァネクと出会い、ヤンはめきめき腕をあげた。
しかし客の注文を一瞬で察知する給仕長の神技にはとても勝てない。
どうしてあなたはすべてお見通しなのか。給仕長はさらりと答える“私は英国王に給仕した人間だから”と。
ある年、エチオピア皇帝が来国されて正餐会を催される晴れの場に<ホテル・パリ>が選ばれた。
ヤンは気転をきかせて大活躍。
皇帝はいたくご満悦で、給仕団の長であるスクシーヴァネク給仕長が勲章を拝受する段になったが、一瞬の偶然で、皇帝は勲章をヤンに与えられた。

時代は、1918年の建国から30年代前半の古きよき時代を経て、やがて1938年、ヒトラーがズデーテン侵攻を強行し、英仏伊独によるミュンヘン会談の決定によってチェコスロヴァキア共和国が建国から20年で解体し、やがて第二次世界大戦に突入する暗雲の日々にむかう。
そんなさなかに、ヤンはリーザに出会う。
ズデーテンのドイツ人女性だ。
ヤンは自分よりも小柄なリーザに真剣な愛をささげる。
ナチスに事実上占領されたプラハ。
“英国王給仕人”の誇りも高く、ナチス将校への抵抗の姿勢をあらわにし続けるスクシーヴァネク給仕長はやがてゲシュタポに逮捕されて2度と戻らぬ身となる。
ヤンはさまざまな試練をくぐって、やがてリーザと晴れて結婚するが・・・。


寸評
人間万事塞翁が馬で、物事に一喜一憂などしてはいけないのだろうが、主人公はふとしたことで幸運を手に入れるが、それが原因で転職を余儀なくされていく。
行く先々ではなぜか女性が身近に現れ、なんとも羨ましく思える人生ではある。
女性は娼婦だったり慰安婦だったりするのだが、彼女たちが登場するシーンは全裸にもかかわらず欲情をかき乱すような不潔感はない。
いずれも大事な部分が花やフルーツで覆われていることもあるが、カメラワークや描き方が昨今見られる濃厚なものではないからだと思う。
傷痍軍人達と全裸で泳ぐシーンすらサッパリ感が漂っていた。

現在と回想が行きかうようにして、何もかも失くしたが今のこの生活も捨てたものではないぞとの思いが伝わってきた。
いつか大金持ちの仲間入りをしたいと思っていた主人公が、念願がかなって彼らと一緒に生活できるようになった展開は包括絶倒。

当初の見習い給仕人から給仕長を目指すくだりから、後半は戦争の影響を受け、生活も周りの雰囲気も変わっていく様が描かれる。
結婚した相手はヒトラーを心酔するドイツ娘。
純血のドイツ人を生み出すくだりも描かれるが、けっして大上段に構えた反戦映画ではない。
それでもところどころに、戦争がもたらす人生の狂いが描かれて、やはり戦争は良くないと感じさせた。
いまはチェコとスロヴァキアに分かれた国家だが、かつてはチェコスロヴァキアとして存在し、しかもドイツに併合された歴史を持ち、社会主義国家へと変貌していった歴史も持つ。
冒頭で主人公が刑務所から出てくるが、彼が刑務所に入っていた理由が最後のほうで明かされる。
社会主義を笑い飛ばすようなところはあるのだが、そんな主義主張はともかくも今日飲むことが出来るビールの一杯に至福の時を感じる表情に真の幸せを垣間見た一作ではあった。

栄光への脱出

2023-09-04 07:10:48 | 映画
「栄光への脱出」 1960年 アメリカ


監督 オットー・プレミンジャー
出演 ポール・ニューマン エヴァ・マリー・セイント
   ラルフ・リチャードソン リー・J・コッブ
   ピーター・ローフォード サル・ミネオ ジョン・デレク
   ヒュー・グリフィス グレゴリー・ラトフ ジル・ハワース

ストーリー
1947年の地中海キプロス島にはイスラエルに帰ろうとするユダヤ人たちが英軍によって収容されていた。
パレスチナを委任統治していた英国がアラブ諸国との紛争をさけるためにとった政策である。
アメリカ女性、キティ・フリーモントはキプロスで死んだキャメラマンの夫の様子を探るため現地にやってきた。
収容所のユダヤ人たちの窮状をみた彼女は看護婦として、働くことにした。
彼女はそこでユダヤの美少女カレンや17歳のユダヤ少年ドヴ・ランドーと知り合った。
少女と少年は互いに愛情を抱いていた。
その頃、ユダヤ人地下組織のリーダーであるアリ・ベン・ケナンがキプロスに潜入した。
元英軍将校だった彼の任務は、ユダヤ国家再建のためキプロスのユダヤ人たち2800名をエルサレムに送りこむことだった。
軍服を利用して、彼は貨物船オリンピア号をエクソダス号と改名、ユダヤ人たちをのせて港を出ようとした。
英軍はこれを知って停船を命じたが、ユダヤ人たちはハンストをもって対抗した。
美少女カレンを養女にしようとしたキティも、少女とともにこの船の中にいた。
やがて世界の世論に負けた英軍はエクソダス号出港を許し、一行はハイファについた。
カレンら少年少女はガガリーの丘にあるユダヤ人の「青春の村」におちついた。
アリの父バラクや友好的なアラビア人ハタが一行を迎えてくれたのだが…。


寸評
日本人からすると(僕の無知もあるが)アラブとイスラエルの対立、イスラム教とユダヤ教の対立がどうも理解できないのだが、それは何千年にも及ぶ歴史的背景を理解していないためだと思うし、ひいては日本人がユダヤ人のような放浪の歴史を有していないからではないかと思う。
ユダヤ人の祖先は民族の父アブラハムに率いられて紀元前16世紀にカナンの地にやってきたとされている。
しかしカナンには先住民がいたために放浪し、モーゼが現れてエジプトを脱出するまでの数百年間はエジプトの奴隷となっていた。
カナンの地を征服しダビデ王国が成立するが、すぐにイスラエル王国とユダヤ王国に分裂して、北イスラエルはアッシリアに、ユダヤ王国はバビロニアに滅ぼされ、ユダヤ人は紀元前6世紀にバビロニアの虜囚となる。
そして西暦70年ローマ帝国によって征服されエルサレムから追放されて以来2000年に及ぶ放浪を続けていた。
第二次大戦後、パレスチナを統治していたイギリスが「1948年5月15日をもって委任統治を終了する」とした為、緊迫した状況であったが、ユダヤ人は1948年5月14日イスラエル独立宣言を行った。
映画はイギリス統治下におかれていたユダヤ人が、自分たちの国家イスラエルを建国するまでを描いている。

国家建設の情熱を国連に示すためと国家に必要な国民の確保のために貨物船でキプロス島のユダヤ人保護施設から脱出を図る場面から映画は始まる。
前半はその様子に費やされているが、サスペンス性のある展開なのに緊迫感に乏しい演出となっている。
ポール・ニューマン演じるアリが英国将校と偽ってユダヤ人を脱出させるのだが、偽の命令書の作成シーンとか、偽物であることが発覚しないかというスリル感がない。
下級将校が身分照会をしようとするが、危機を緊迫感なく切り抜けてしまっている。
貨物船に乗り込んだユダヤ人たちはイギリス軍に抵抗するためにハンガー・ストライキを行うが、飢えの苦しさなどの過酷な状況もないので、命を懸けた抵抗と言う感じがしない。

前半に比べると後半は中身が濃い。
イギリスによって監禁されている同胞を救い出すアクションシーンもあるし、穏健派と武闘派の対立も描かれる。
ドヴ・ランドーという少年が、自分が生き残るためにアウシュビッツで同胞に行った行為を明らかにされたり、また彼が受けた屈辱なども語られる。
キング・デイヴィッド・ホテル爆破事件などユダヤ人過激派の反英闘争もあり、国家の独立と維持には武力が必要だと言っているようでもある。
それは現在のイスラエルに受け継がれている。
戦後において平和を維持している日本とは違う思想だ。
ラストではアリによってアラブとユダヤは共存できると語られるが、それでも映画は第一次中東戦争へ突入していくところで終わっている。
その後も第四次中東戦争まで起きているから、アラブとユダヤの対立は根深く、アリの言った共存は夢物語と思われるのが現実だ。
もとはと言えば第一次世界大戦から続くどちらにも空手形を切ったイギリスの三枚舌外交がもたらした混乱だから、イギリスの罪は大きい。

栄光への5000キロ

2023-09-03 06:47:23 | 映画
「栄光への5000キロ」 1969年 日本


監督 蔵原惟繕
出演 石原裕次郎 浅丘ルリ子 三船敏郎 仲代達矢 伊丹十三
   笠井一彦 金井進二 ジャン=クロード・ドルオ キナラ
   内藤武敏 鈴木瑞穂 エマニュエル・リヴァ アラン・キュニー

ストーリー
世界三大ラリーの一つであるモンテカルロ・ラリーに参加した五代高之(石原裕次郎)は、視界ゼロの濃霧の中で岩石に激突してしまう。
昏睡状態から覚めた五代の目に像を結んだのは必死の看護を続ける恋人優子(浅丘ルリ子)の姿だった。
その時、メカニックを担当したケニアの青年マウラ(キナラ)は、事故の責任を感じて姿を消していた。
やがて春、五代の傷は癒えたが、落着いた生活を夢みていた優子の期待は見事に裏切られた。
富士スピードウェイの日本グランプリ・レースで、五代は親友ピエール(ジャン・クロード・ドゥルオー)の巧妙なレース妨害で優勝を逸した。
五代が、日産常務高瀬(三船敏郎)から、アフリカのサファリ・ラリー出楊を依頼されたのはそんな折だった。
五代は早速コースにもっとも精通したメカニック担当者マウラを探し出すことから始めた。
折も折、優子がデザインの勉強のためパリに飛びたったが、五代は彼女を追う訳にはゆかなかった。
それから数日後、ナイロビ空港に降り立った五代をマウラが待受けていた。
このレースには、日本グランプリで苦渋を味わせたピエールも出場。
四月三日、熱気によどんだナイロビシティホール前、大統領夫人のかざすスタート・フラッグがうち下され、カーナンバー1のプジョーが、スタートした。
やがてカーナンバー90の五代チームも夜のとばりをついて多難なレースにスタートしていった。
レースは苛酷そのもの、前半を完走したのは98台中わずか16台だった。
そして後半の北廻りコースを、更に言えば大自然を征服した五代チームのブルーバードが、大観衆の見守る中で優勝の栄に輝き、群衆の中には優子の姿もあった。


寸評
「栄光への5000キロ」は大ヒット作となった「黒部の太陽」の翌年に撮られた作品で、振り返れば石原プロモーションは映画作りに於いてこの年が絶頂期だったと言える。
株式会社石原プロモーション は、日活の人気俳優だった石原裕次郎が設立した芸能事務所で、撮影用機材やカメラマンの金宇満司などの撮影クルーを自社で保有していたので、自社を「映画製作会社」と名乗っていた。
五社では撮れない作品ということで、劇場映画第1弾は1963年市川崑監督の「太平洋ひとりぼっち」だったが、この作品を初め、その後「城取り」などヒット作に恵まれていない。
転機となったのは1968年の「黒部の太陽」である。
五社協定のもとでは実現しなかったビッグスターの共演と、企業とのタイアップ作戦があって映画は大ヒット。
二匹目のドジョウを狙って制作されたのが、日産自動車とタイアップしたこの「栄光への5000キロ」である。
僕はこの映画をフェスティバルホールの地下にあったSABホールで行われた試写会で見た。
舞台あいさつに主演の石原裕次郎と浅丘ルリ子が登場したのだが、この二人のオーラに圧倒された記憶がある。
裕次郎には若い頃のカッコよさは失せていたが貫禄があったし、浅丘ルリ子には女優さんと言う雰囲気がにじみ出ていた。

「黒部の太陽」に比べれば内容的に劣ると思うが、サファリ・ラリーを描いたドラマとして見るなら及第点だろう。
蔵原監督、山田信夫脚本、石原裕次郎、浅丘ルリ子のコンビの主演といえば、「憎いあンちくしょう」 のメンバーが再結集したと言え、気心の知れたチームワークでまとめた作品の印象があり、いい加減なところもあるが手堅くまとめている。
ドラマ部分はダラダラ感があるが、サファリ・ラリーの場面には長時間を割いており、相当のフィルムを廻したことがうかがえる。
サファリ・ラリーを徹底的にリアルに撮りたかったのだろうし、実際のラリーにおける日産の車の活躍の凄さが伝わってくるものがある。
ラストシーンで石原裕次郎が浅丘ルリ子を抱きしめるシーンは、「憎いあンちくしょう」とは違った感動を感じた。
石原裕次郎は日活で鮮烈なデビューを果たし、人気も得て一年間に何本も出演する日活を支えた大スターだったが、「黒部の太陽」とこの「栄光への5000キロ」は裕次郎の映画の頂点に立つ作品だと思う。

石原プロは三匹目のドジョウを狙って三菱電機とタイアップした「富士山頂」を撮ったが、三匹目はいなかった。
立て続けに撮った、ギャラが破格だった外国人俳優を招いた「ある兵士の賭け」、三浦雄一郎がスキーで滑るだけの「エベレスト大滑降」も大コケにコケて大借金を抱え、テレビに進出せざるを得なくなった。
「太陽にほえろ」シリーズで息を継ぎ、「大都会」シリーズと「西部警察」シリーズで復活したが、映画を撮ることはなかった。
「黒部の太陽」や「栄光への5000キロ」のような映画は、もう日本では撮れないのかもしれない。
この頃には三船敏郎の三船プロ、中村錦之助の中村プロ、勝新太郎の勝プロなど、五社を飛び出したスタープロが次々と設立されていたが、最後まで残ったのは石原プロだった。
石原裕次郎の人間的魅力によって支えられたプロダクションだったのかもしれない。


映画 深夜食堂

2023-09-02 08:15:47 | 映画
「映画 深夜食堂」 2014年 日本 

                                                     
監督 松岡錠司                                
出演 小林薫 高岡早紀 多部未華子 筒井道隆 オダギリジョー
   余貴美子 柄本時生 菊池亜希子 田中裕子    不破万作
   松重豊 谷村美月

ストーリー
街のある一角に、深夜0時になると開くめしやがある。
夜も更けた頃に営業が始まるその店を、人は“深夜食堂”と呼ぶ。
メニューは酒と豚汁定食だけ。
それでも、客のリクエストがあれば、出来るものなら何でも作るのがマスターの流儀。
そんな居心地の良さに、店はいつも常連客でにぎわっていた。
「ナポリタン」
ある日、店に誰かが置き忘れた骨壺が。
どうしたものかと途方に暮れるマスター。
そこへ、久々に顔を出したたまこ。
愛人を亡くしたばかりの彼女は、新しいパトロンを物色中のようで…。
「とろろ御飯」
上京したもののお金がなくなり、つい無銭飲食してしまったみちる。
マスターの温情で住み込みで働かせてもらう。
料理の腕もあり、常連客ともすぐに馴染んでいくが…。
「カレーライス」
福島の被災地からやって来た謙三。
福島で熱心にボランティア活動する店の常連あけみにすっかり夢中となり、彼女に会いたいと日参するが…。


寸評
深夜0時から翌朝までやっている深夜食堂が舞台で、そこにやって来る常連客たちが繰り広げるオムニバス風な人情劇だ。
いわくありげなマスター(小林薫)が主人公なのだが、いわくありげな理由は顔に走る切り傷だ。
元はヤクザかと思わせるがその傷の理由は描かれない。
意味ありげな風貌なので説明があっても良かったのではないかと思う。
オダギリジョーがつなぎ役で各エピソードに顔を出し、下町の人のいいお巡りさんを好演している。
余貴美子や田中裕子などの芸達者な俳優さんが登場し楽しませてくれる。
松重豊や谷村美月もチョイ役で登場し楽しませる。

人の良さそうなマスターのもとに人の良さそうな常連客が集う。
マスターが作るめしやメニューは豪華なレストランメニューではないが美味そうな代物で食欲をそそる。
要望されて作るそれらのメニューを挟みながら人情話が繰り広げられるが、描かれるエピソードに特段感動するわけではない。
それでも一つ一つは奥深い一面をにじませながら語られるので納得させられる。

最初の「ナポリタン」では、たまこ(高岡早紀)の言う「はじめちゃんは私ではダメなのよ。マスター、わかってたんでしょ」だ。
たまこは金銭欲の強い女で、一方のはじめ(柄本時生)の追い求めているのはロマンで、二人の目指している物が違うのだ。
たまこは「求めるものは一つだけだ」と言って、自分と趣味の両方を求めるはじめを拒絶する。
たまこは悪女ぶるが、はじめとの価値観の違いを感じ取って自ら身を引いたのだと思う。
「とろろご飯」のみちる(多部未華子)は両親を知らず祖母に育てられたが、その祖母を新潟に残し東京で店を持つことを夢見て上京した女の子だ。
男に騙され夢が破れそうになっている。
しかし捨てる神あれば拾う神ありで無事再就職を果たす。
応援したくなるような女の子で良かったと思うのだが、あの吸い物を女将(余貴美子)に味見してもらうシーンは、料亭でアルバイトをしたことのある僕には違和感有り。
吸い物はその料亭の味でもあり、新人になんか作らせないものだとおもう。
僕の行っていた料亭でも二番目の板前さんが料理長に味見してもらっていた。
話としては最後の「カレーライス」が一番面白かった。
謙三(筒井道隆)はボランティアの女性(菊池亜希子)に親切にしてもらい恋心を抱いてしまう。
それは勘違いなのだが、女性の態度も勘違いさせるものなのだ。
そのことを常連客の男にも言わせている。
そうした理由は後ほど明かされるが、その思わせぶりは恋がもたらす残酷な一面でもある。
その残酷さをサラリと描いていたところが僕には面白かった。
もうひとつの主人公である骨壷にたいする謙三の叫びは、東北の被災者の叫びとして胸を打った。
みちるに当てたおばあちゃんのハガキよりも、こちらの叫びの方が感動的だった。
田中裕子の登場は落語のオチみたいで、なんか滑稽だったなあ・・・。

映画女優

2023-09-01 06:49:00 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/3/1は「会社物語 MEMORIES OF YOU」で、以下「怪談」「海炭市叙景」「顔」「ガキ帝国」「鍵泥棒のメソッド」「隠し砦の三悪人」「影武者」「風と共に去りぬ」「家族」と続きました。

「映画女優」 1987年 日本


監督 市川崑
出演 吉永小百合 森光子 横山道代 常田富士男 石坂浩二
   渡辺徹 中井貴一 菅原文太 平田満 岸田今日子
   神保共子 井川比佐志 佐藤正文 戸井田稔 田中隆三
   吉宮君子 沢口靖子 上原謙 高田浩吉 小木茂光

ストーリー
大正14年。女優を志す少女・田中絹代は蒲田撮影所の大部屋女優として採用された。
新人の監督清光宏の強い推薦のおかげだった。
上京に当っては母のヤエ、姉の玉代、兄の晴次と洋三、それに伯父の源次郎までが関西の生活を捨てて同行することになった。
大部屋の給料が10円~15円だった当時、破格の50円をもらい、清光作品ではいつも良い役がつく絹代に、同僚の嫉妬が集まったが、小さな身体にファイトをみなぎらせて撮影所通いを続けた。
絹代の素質を見抜いた五生平之助監督は、撮影所長の城都を説得して「恥しい夢」の主役に抜擢した。
自分が発見した新人女優をライバルにとられた清光は、「恥しい夢」が完成した後、強引に絹代に迫った。
何事にも熱中するタイプの絹代は、清光との愛にも激しく燃えた。
城都の提案で2年間の試験結婚という形で同棲生活を始めたものの、女優としての仕事が忙しい絹代は炊事も掃除も満足にできない花嫁だった。
ある日、清光が暴力を振るい、怒った絹代が座敷でオシッコをするという抵抗の仕方で二人の生活は終った。
それ以後の絹代の活躍は、第一回トーキー作品「マダムと女房」の主演と成功、「伊豆の踊子」の主演、そして「愛染かつら」の大ヒットと目ざましかったが、家庭的には恵まれなかった。
姉の駆け落ち、撮影所をやめた兄たちの自堕落な生活、母の死が絹代を打ちのめしたが、付人兼用心棒として雇った仲摩仙吉に励まされ、何とか切り抜けることができた。
それから歳月が流れ、昭和26年秋、溝内健二から出演交渉を受けた絹代は京都を訪れた。
戦後の新しい時代に即応できず低迷していた溝内は、新作の「西鶴一代女」に起死回生を賭け、そのパートナーに絹代を選んだのだ。
お互いに好意を持ちながら、仕事となると仇敵のように激しく火花を散らす2人・・・。

寸評
日本映画史に燦然と輝く大女優田中絹代の一代記である。
吉永小百合が田名絹代になり切れているかどうかは別にして、実録物に関して僕はいつも思うのだが、どうして関係者の名前を偽名にする必要が有るのだろう。
ちょっと詳しい人なら、それが誰であるかは想像がつくものなのにである。
本作でも聞きなれた名前の人物が次々登場する。
絹代を見出した清光宏(渡辺徹)は清水宏であることは明白だ。
その他にも、五生平之肋(中井貴一)は五所平之助であり、城都四郎(石坂浩二)は城戸四郎、溝内健二(菅原文太)は溝口健二、依戸義賢(佐古雅誉)は依田義賢であることは間違いない。
上原謙は本人役で登場し、小津安二郎や栗島すみ子、林長二郎などの名前はそのままだったのに。
ロマンス相手の野球選手とは水原茂だったが、本当にロマンスがあったかどうかは疑わしいのではないか。

田中絹代の一代記で、彼女のデビュー時の出来事なども知れるが、映画史の一面を垣間見ることが出来るのも映画ファンとしては楽しめる作品だ。
スチール写真での名画紹介もあるし、「人情紙風船」などの実写の一部挿入もある。
山中貞雄への鎮魂的なナレーションもあり、市川崑の山中貞雄への尊敬の気持ちがくみ取れる。
洋画も含めて映画がこのようにして発展してきたのだなあという社会勉強が出来た。
また当時の撮影所風景が再現され、その様子を興味深く見ることが出来るのも嬉しい。

大スターの田中絹代に家族が群がるのは仕方のないことなのだろう。
これまた大スターの高峰秀子もそれに苦労したことを彼女自身のエッセーで語っていたことを思い出した。
田中絹代は高峰秀子と違って一家が一応の秩序を保っていた事がわかる。
母・ヤエの森光子が映画の中でもこの一家を支えていた。
面白いのは仲摩仙吉の平田満だ。
本当に彼があるいは彼と思われる人物が存在していたのかは知らないが、何かと田中の面倒を見ながら田中の本質を見抜きズバズバと意見を言う男を面白おかしく演じていた。
「西鶴一代女」の撮影風景では、吉永小百合が田中絹代と同じ演技をすることになるが、やはり本物は本物だけのことがあると思わせる。

僕は若いころの田中絹代を知らない。
晩年の田中絹代を見ることが多く、その時には脇役が多かったが圧倒的な演技力で存在感を示していた。
田中絹代の人となりは分かったけれど、彼女に起こった出来事を通じての人生模様の深層を描き切るまでには至っていない。
その意味では吉永小百合が田中絹代を演じきれたとは言い難いのではないか。
渡辺徹が清水宏がモデルと思われる清光宏をやったせいもあるが、彼との試験的結婚生活の破たん状況も内容の割にはあっさりとしたもので、ああそうだったのねという感じで終わっていた。
吉永小百合99本目の作品にして、彼女の代表作は未だに「キューポラのある街」だと思わせる。