おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事

2023-09-07 07:32:10 | 映画
「エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事」 1993年 アメリカ


監督 マーティン・スコセッシ
出演 ダニエル・デイ=ルイス ミシェル・ファイファー
   ウィノナ・ライダー リチャード・E・グラント
   ジェラルディン・チャップリン メアリー・エレン・トレイナー
   ロバート・ショーン・レナード メアリー・ベス・ハート

ストーリー
1870年代初頭のある夕べ、若き弁護士のニューランド・アーチャー(ダニエル・デイ・ルイス)や、その婚約者メイ・ウェランド(ウィノナ・ライダー)と彼女の母親ウェランド夫人(ジェラルディン・チャップリン)をはじめ、ニューヨーク社交界の人々がオペラ会場に集った。
ひときわ注目を引いたのは、夫から逃れてヨーロッパから帰国したという噂のエレン・オレンスカ伯爵夫人(ミシェル・ファイファー)で、ニューランドは幼なじみのエレンの出現に心を揺さぶられた。
外聞をはばかるエレンの一族は離婚を思いとどまらせようと、ニューランドを使者に立てる。
だが、彼女の率直な態度や考え方に、厳格で欺瞞に満ちた社交界にない新しさを感じた彼は、メイという申し分のない結婚相手がいながら、エレンに引かれていく。
しかし、エレンは、次第に社交界から排斥され、2人の愛にも上流階級特有の見えない圧力がかけられる。
エレンは一族の願いを聞き入れ、離婚を思いとどまった。
それはニューランドを愛するゆえの選択だった。
ひと月後、ニューランドはメイと結婚するが、結婚生活は退屈な義務だった。
エレンへの思いを募らせる夫をメイは許さず、自分の妊娠をエレンに告白して、彼女の思いを打ち砕いた。
エレンは帰国し、彼はそれから彼女への思いだけを抱いて生き、30年の月日が流れた。
ニューランドは息子のテッド(ロバート・ショーン・レナード)を通してエレンの居所を知る。
息子は、父とエレンの愛を知っていた。


寸評
息子のテッドは母から亡くなる直前に「お願いしたら最愛の人を諦めてくれた」と言われたと父のニューランドに話すが、父はお願いなどされなかったと答える。
確かにメイはお願いなどしていなくて、ニューランドが諦めるように仕向けたのだ。
それからすればメイは実にしたたかな女なのである。
ニューランドがエレンに寄せる気持ちを知りながら、それに触れることもなく平和な家庭を維持し生涯を終えた。
エレナから引き裂かれた夫と、そして追放された夫の愛人エレナを、メイはどんな気持ちで見ていたのかと想像すると悲しくもあり恐ろしくもある。
彼女こそ複雑な心境を持ち続けたあわれなヒロインという気がするのだが、それにしてはメイの描き方が不足していた感があることは否めない。
従妹であるエレンとの間には計り知れない微妙な感情があったはずで、そこをもう少し描き込んでいたら禁断の恋にもっと感情移入できたのではないかと思う。
僕が乗り切れなかった理由の一つとして、描かれている世界が上流社会の出来事だと言う事にもあった。
世間体を気にし、ゴシップを恐れるという背景を持たせるためには、やはり上流階級の社交界を描く必要があったのだろうが、庶民にすぎない僕には雲の上の物語の様な気がしてならなかった。

とはいうものの、平穏な家庭生活を維持しながら思いを寄せる女性を忘れられない感情は理解できるものがある。
ニューランドはエレンと肉体関係があったわけではない。
しかし自分の気持ちをエレンに伝え、エレンも彼の愛を受け入れたのだが、そこから先へ進むことはしなかった。
ニューランドが家庭内で良き夫を演じ、良き父親を演じ続けていても、心の奥底では常にエレンを思い続けていたのである。
不倫は悪だが、精神的な浮気はもっと悪いと言う意見も存在するように、ニューランドのその思いはメイにとってはすこぶる罪なものだ。
それでもメイはすべてを飲み込んでいたのだが、ニューランドとの間に子供をもうけたことが彼女の勝者としての誇りであり、生きていく上での支えになっていたのだろう。

三者の中にある気持ちを推し量る映画なので、ベッドシーンは一切ない。
そして主演のダニエル・デイ=ルイスが「エレンを抱きたい」という男の本性と、紳士的な自制心の間で苦悩するニューランドを好演している。
皮肉なことに好演と言えるのは、ダニエル・デイ=ルイスが周囲の圧力に流されているばかりの弱々しい生き方への失望を見事なまでに僕たちに植え付けたことによる。
登場人物たちは、世間体とか、富や名声を失うこと、ゴシップによるステイタスの喪失を極度に恐れている。
その恐れのために、男女の不倫の恋がなし崩し的に中途半端な壊れ方をしている。
叶わぬ恋のためにすべてを犠牲にするというひたむきさがない弱々しい生き方なのだ。
この生き方は題材としては面白いかもしれないが、僕たちが望む恋愛映画ではない。
結局ニューランドは、狭い社交界でしか生きていけなかったのだし、彼の願望は、ラストで死せるメイによって完膚なきまでに叩き潰される。
メイ、恐るべし!


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2 コメント

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「エイジ・オブ・イノセンス 汚れなき情事」について (風早真希)
2023-09-07 12:02:24
マーティン・スコセッシ監督の「エイジ・オブ・イノセンス 汚れなき情事」は、19世紀末に生きる男女の三角関係を描いた、大悲恋物語なのだが、観終わった後、なんて楽しい映画だったんだろうという思いで満たしてくれる、そんな作品ですね。

確かに、悲しいお話には違いなく、ラストシーンでは思わず目頭が熱くなってくるのだが、それでも尚、"楽しかった"としか言いようのない、不思議な満足感を与えてくれる映画なんですね。

出だしのタイトルバックからして、もう楽しくて、ワクワクしてしまう。
繊細なレース越しに花々が高速で花弁を広げていく----という、華麗きわまりなく、しかも妖しげな香りの漂う画面なのだ。

そして、この花がやがて、オペラの舞台の黄色い花畑に繋がり、そして、客席のタキシード姿の男の衿にさした白い花に繋がっていく。
この花から花へと、よどみのない展開。
さすが、スコセッシ監督、いきなり魅了してくれます。

このオペラ劇場の場面から、次の舞踏会の場面までは、スコセッシ監督の「グッドフェローズ」のあの呼吸で、登場人物やその生活の背景が、実に手際よく紹介されていく。

カメラマンは、「グッドフェローズ」と同じミハエル・バウハウスで、空気中をスーッスーッと滑走するような、独特の呼吸を持った撮り方なのだ。

人々の顔や、インテリアの様子や、食器、キャンドル、喫煙具、花などのおびただしい雑貨にチラッチラッと視線がさまようが、その上にじいっと長くとどまることはない。
それは、あたかも"せっかちな透明人間"のような視線なのだ。

この物語の中心となるのは、一人の男と二人の女。
男は弁護士のニューランド(ダニエル・デイ・ルイス)で、ニューヨーク社交界の期待の星みたいな存在だ。

これがやはり名門の可憐な令嬢メイ(ウィノナ・ライダー)と婚約するが、何という運命の皮肉か、数年ぶりに幼なじみだったエレン(ミシェル・ファイファー)という女に再会し、たちまち恋に落ちてしまうのだった--------。

要するに、ニューランドとエレンの恋は、"不倫"であり、当時のヨーロッパの社交界以上に窮屈だったらしいニューヨーク社交界を背景に、以後、一難去ってまた一難といった調子で進行していき、結局はキスを交わすだけで別れることになる。

この抱擁シーンが、とにかく凄い。
ひた走る馬車の中で、ニューランドは、こらえ切れずにエレンを抱きしめるのだが、世紀末の社交界の女の、かさ高い衣装の上からなのだ。

男は震える手で女の手袋のボタンをはずす。
白い手首がほんのちょっと、のぞく。
その場面のクローズ・アップが、この映画の中ではほとんど唯一の、女の素肌に迫る描写だ。
このほんのちょっとの、素肌の露出が、何か服を全部脱がせた以上の鮮烈な効果をあげていると思いますね。

スコセッシ監督という男は、見かけは風采のあがらない感じなのだが、全く隅におけない男だ。
エロティシズムということを体でわかっている。
何と言ったらいいのか、素敵にいやらしいのだ。

そして映画は後半に入って、それまでおとなしく後方に控えていた妻のメイが、次第に手ごわい存在として前面にせり出して来るのだ。

この、どこまでも模範的で、それなりに聡明で、善良には違いない女を、ウィノナ・ライダーが目立ちすぎず、かと言って霞まずといった微妙な感じで、非常に巧く演じていて、あらためて彼女の魅力を実感しましたね。

それに対して、運命の女エレンを演じたミシェル・ファイファーは貧相で、よくも悪くも巷の生活感が出てしまう人なので、ヨーロッパの社交界を知っている女にはどうしても見えないが、ダニエル・デイ・ルイスとウィノナ・ライダーはぴったりの好演だ。
この二人のおかげで、この映画は成立したと言ってもいいと思います。

この映画は古風で、典型的な三角関係の話でありながら、断固として単なるメロドラマにはなっていないと思います。

ストーリーでグイグイ引っ張っていく、そういう昔風の娯楽的な力を十分に持ちながら、それだけではない、語り口それ自体に、豊かさがあり、鋭さがあり、映画の遊びや芸があるのだ。

心に秘密を持つ男が、人知れず、驚いたり動揺したりする。
こういう時、素人や三流監督は、すぐにガーンとその顔をズーム・インするわけだが、スコセッシ監督は、そんなことは絶対にしない。

ズームの代わりに相手の方を動かす。
例えば、妻がにっこり笑って近づいて来る、あの奇妙に恐ろしいシーンなどのようにだ。

それから、背景の色を変える。あの手この手で常套テクニックを避ける。
そうかと思うと、チープな娯楽映画でよく使いがちな、場面繋ぎの小道具のところだけ、スポットライトを当てるという、テクニックを平然と使ったりする。

そういう、スコセッシ監督の絢爛にして奔放なあの手この手が、観終わった後、"悲しいお話だったけど、楽しかったなあ"、という不思議な満足感に繋がるのだと思います。

タイトルバックからして花で始まったけれど、この映画にはハイ・ソサエティには欠かせない、エレガントな小道具が、ひしめき合っている。

花、夜会服、手袋、喫煙具、食器、絵画、そして新時代の贅沢な文化であったに違いない、写真や万年筆といったもの--------。

ニューランドにしてもメイにしても、エレンにしても、そういう「モノ」に取り囲まれ、そういう「モノ」を使いこなす技術や流儀だけで、出来上がっているような人間たちだ。

「エイジ・オブ・イノセンス 汚れなき情事」は、このおびただしいエレガントな「モノ」の世界と、一瞬かいま見えたエレンの生々しく白い手首----この両者の相克といってもいいような話なのだ。

そういう「モノ」の群れをカメラマンのミハエル・バウハウスは、ねっとりとフェティッシュにではなく、スーッスーッと表面を撫で回すように撮っている。

これがルキノ・ヴィスコンティ監督の作品に比べると、どこか醒めた、今風の感じがするのは、そのためだと思います。

この「エイジ・オブ・イノセンス 汚れなき情事」は、"物語"が好きな人も、"映像"が好きな人も、どちらも満足させる映画になっていると思います。
そういう微妙なバランスのところを、スコセッシ監督は、悠々と綱渡りして見せたと思うんですね。

かねがね思っていたことだが、いわゆる娯楽映画と作家主義的映画----その両方にしっかりと足を踏ん張りながら、映画を撮り続けている監督と言えば、今やスコセッシ監督が一番だろうと思いますね。
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エロチシズム (館長)
2023-09-08 08:01:27
子供の頃の僕は、少しオマセだったのかもしれない。
3番館で見た映画の中にはきわどいシーンの映画もあったように思う。
しかし当時の映画ではヌードシーンはなくて、想像させる描写がなされていた。
むしろその描写の方が、昨今の描写よりもエロチシズムを感じさせていたと思う。
この映画はそんなことを思い出させてくれました。
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