おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

栄光への5000キロ

2023-09-03 06:47:23 | 映画
「栄光への5000キロ」 1969年 日本


監督 蔵原惟繕
出演 石原裕次郎 浅丘ルリ子 三船敏郎 仲代達矢 伊丹十三
   笠井一彦 金井進二 ジャン=クロード・ドルオ キナラ
   内藤武敏 鈴木瑞穂 エマニュエル・リヴァ アラン・キュニー

ストーリー
世界三大ラリーの一つであるモンテカルロ・ラリーに参加した五代高之(石原裕次郎)は、視界ゼロの濃霧の中で岩石に激突してしまう。
昏睡状態から覚めた五代の目に像を結んだのは必死の看護を続ける恋人優子(浅丘ルリ子)の姿だった。
その時、メカニックを担当したケニアの青年マウラ(キナラ)は、事故の責任を感じて姿を消していた。
やがて春、五代の傷は癒えたが、落着いた生活を夢みていた優子の期待は見事に裏切られた。
富士スピードウェイの日本グランプリ・レースで、五代は親友ピエール(ジャン・クロード・ドゥルオー)の巧妙なレース妨害で優勝を逸した。
五代が、日産常務高瀬(三船敏郎)から、アフリカのサファリ・ラリー出楊を依頼されたのはそんな折だった。
五代は早速コースにもっとも精通したメカニック担当者マウラを探し出すことから始めた。
折も折、優子がデザインの勉強のためパリに飛びたったが、五代は彼女を追う訳にはゆかなかった。
それから数日後、ナイロビ空港に降り立った五代をマウラが待受けていた。
このレースには、日本グランプリで苦渋を味わせたピエールも出場。
四月三日、熱気によどんだナイロビシティホール前、大統領夫人のかざすスタート・フラッグがうち下され、カーナンバー1のプジョーが、スタートした。
やがてカーナンバー90の五代チームも夜のとばりをついて多難なレースにスタートしていった。
レースは苛酷そのもの、前半を完走したのは98台中わずか16台だった。
そして後半の北廻りコースを、更に言えば大自然を征服した五代チームのブルーバードが、大観衆の見守る中で優勝の栄に輝き、群衆の中には優子の姿もあった。


寸評
「栄光への5000キロ」は大ヒット作となった「黒部の太陽」の翌年に撮られた作品で、振り返れば石原プロモーションは映画作りに於いてこの年が絶頂期だったと言える。
株式会社石原プロモーション は、日活の人気俳優だった石原裕次郎が設立した芸能事務所で、撮影用機材やカメラマンの金宇満司などの撮影クルーを自社で保有していたので、自社を「映画製作会社」と名乗っていた。
五社では撮れない作品ということで、劇場映画第1弾は1963年市川崑監督の「太平洋ひとりぼっち」だったが、この作品を初め、その後「城取り」などヒット作に恵まれていない。
転機となったのは1968年の「黒部の太陽」である。
五社協定のもとでは実現しなかったビッグスターの共演と、企業とのタイアップ作戦があって映画は大ヒット。
二匹目のドジョウを狙って制作されたのが、日産自動車とタイアップしたこの「栄光への5000キロ」である。
僕はこの映画をフェスティバルホールの地下にあったSABホールで行われた試写会で見た。
舞台あいさつに主演の石原裕次郎と浅丘ルリ子が登場したのだが、この二人のオーラに圧倒された記憶がある。
裕次郎には若い頃のカッコよさは失せていたが貫禄があったし、浅丘ルリ子には女優さんと言う雰囲気がにじみ出ていた。

「黒部の太陽」に比べれば内容的に劣ると思うが、サファリ・ラリーを描いたドラマとして見るなら及第点だろう。
蔵原監督、山田信夫脚本、石原裕次郎、浅丘ルリ子のコンビの主演といえば、「憎いあンちくしょう」 のメンバーが再結集したと言え、気心の知れたチームワークでまとめた作品の印象があり、いい加減なところもあるが手堅くまとめている。
ドラマ部分はダラダラ感があるが、サファリ・ラリーの場面には長時間を割いており、相当のフィルムを廻したことがうかがえる。
サファリ・ラリーを徹底的にリアルに撮りたかったのだろうし、実際のラリーにおける日産の車の活躍の凄さが伝わってくるものがある。
ラストシーンで石原裕次郎が浅丘ルリ子を抱きしめるシーンは、「憎いあンちくしょう」とは違った感動を感じた。
石原裕次郎は日活で鮮烈なデビューを果たし、人気も得て一年間に何本も出演する日活を支えた大スターだったが、「黒部の太陽」とこの「栄光への5000キロ」は裕次郎の映画の頂点に立つ作品だと思う。

石原プロは三匹目のドジョウを狙って三菱電機とタイアップした「富士山頂」を撮ったが、三匹目はいなかった。
立て続けに撮った、ギャラが破格だった外国人俳優を招いた「ある兵士の賭け」、三浦雄一郎がスキーで滑るだけの「エベレスト大滑降」も大コケにコケて大借金を抱え、テレビに進出せざるを得なくなった。
「太陽にほえろ」シリーズで息を継ぎ、「大都会」シリーズと「西部警察」シリーズで復活したが、映画を撮ることはなかった。
「黒部の太陽」や「栄光への5000キロ」のような映画は、もう日本では撮れないのかもしれない。
この頃には三船敏郎の三船プロ、中村錦之助の中村プロ、勝新太郎の勝プロなど、五社を飛び出したスタープロが次々と設立されていたが、最後まで残ったのは石原プロだった。
石原裕次郎の人間的魅力によって支えられたプロダクションだったのかもしれない。



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2 コメント

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林真理子の本によれば (指田 文夫)
2023-09-10 09:04:22
浅丘ルリ子は、石原裕次郎が大好きで、この撮影の時、アフリカのどこかで裕次郎を誘ったが、やんわりと拒否されたそうです。
映画の総指揮者として、そんなことはできないとされたようです。
私なら、絶対に断りませんが。
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私も (館長)
2023-09-11 07:28:34
ルリ子さんなら私も断りません。
喜んで誘われます。
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