おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

宮本武蔵

2023-04-12 07:02:06 | 映画
シリーズの最高傑作「宮本武蔵 一乗寺の決斗」は2020/5/3で紹介していますので、今回はそれ以外を。

「宮本武蔵」 1961年 日本


監督 内田吐夢
出演 中村錦之助 風見章子 入江若葉 木村功 浪花千栄子
   阿部九州男 三国連太郎 花沢徳衛 坂東簑助
   木暮実千代 丘さとみ 加賀邦男 宮口精二 赤木春恵

ストーリー
慶長五年九月、関ヶ原の合戦で西軍豊臣方は惨敗に終った。
作州宮本生れの郷士の伜、新免武蔵(中村錦之助)と本位田又八(木村功)は野望を抱いて西軍に加わったが傷ついて、もぐさ家のお甲(木暮実千代)とその養女朱実(丘さとみ)に救われた。
この母娘は戦場荒しを稼業とする盗賊だったが、ある日、お甲の家を野武士辻風典馬の一隊が襲った。
武蔵は典馬を殴殺し、又八は手下を追いちらした。
そんな二人にお甲の誘惑の手がのびて、又八は許嫁のお通(入江若葉)を忘れお甲とともに姿を消した。
豊臣方の残党狩りが厳しく続く中、宮本村に向った武蔵は人殺しを重ねつつ故郷に向かった。
その頃、お通のもとに又八からの縁切状が届いた。
又八の母お杉婆(浪花千栄子)と権六叔父(阿部九州男)は、又八の出奔を武蔵のせいにして恨んでいた。
農繁期の盛りに百姓達は武蔵召捕りのためにかりだされた。
みかねた沢庵(三国連太郎)はお通と二人で武蔵を生け捕りにしてきた。
沢庵は境内の千年杉に武蔵を吊るしあげ、人間としての道を諄諄と武蔵に説いた。
沢庵の大きな心を知らないお通は武蔵を哀れに思い、武蔵を助け共に宮本村をのがれた。
武蔵は、囮として捕えられている姉を救出せんと日倉の牢に向ったが、姉は沢庵に救われていた。
沢庵は武蔵を姫路の白鷺城に連れていき、そして天守閣の開かずの間に武蔵を残し去っていった。
強いだけの武蔵に学問を習わせようというのだ。
一方、お通は花田橋の竹細工屋喜助(宮口精二)の店で武蔵が出てくるのを待つことになった。
宮本村では、権六叔父を供に連れたお杉姿がお通成敗の悲願をかけて旅立った。


寸評
剣豪と聞いてまず名前が挙がるのが宮本武蔵だろう。
上泉伊勢守信綱、伊東一刀斎、塚原ト伝、柳生石舟斎なども強かったと伝え聞くが、知名度では圧倒的に宮本武蔵がリードしている。
それは吉川英治の小説「宮本武蔵」によるところが大きいのだが、内田吐夢の5部作(「真剣勝負」を入れると6部作)も大いに貢献しているかもしれない。
第一作なので関ヶ原の戦いに西軍の宇喜多勢として参加して敗軍となり逃げ帰るところから描かれている。
後に重要な登場人物となるお甲、朱実親子とも出会い、野武士の辻風典馬一味と乱闘を繰り広げている。
後は故郷に帰っていざこざを起こしながらも沢庵和尚に助けられ、姫路城の天主に幽閉されて悟りを開くまでが描かれる。
ヒロインであるお通は本位田家の嫁となることが決まっているが、又八がお甲と出来たこともあって武蔵と共に作州の宮本村から出奔する。
お通は本位田家の嫁になることを承知していたようだが、又八、お甲の連名書簡を受け取ってからは、又八への思いは消えたようである。
それがどうして突如とも思える武蔵への思慕へと変わってしまったのだろう。
実は昔から武蔵を慕っていたという風でもなさそうなのだが、何か唐突としたものを感じた。

セット撮影が多いが、建物だけでなく野山のセットや背景の絵画など、当時の映画界には職人が大勢いたことを画面を見ていると知らされる思いがする。
出演陣では当時の東映では唯一演技派と言える中村錦之助が(僕はそう思っている)、ギラギラした新免武蔵を熱演している。
キャスティングのクレジットでも、改名前なので宮本武蔵ではなく新免武蔵としてクレジットされている。
存在感を示すのは浪花千栄子のお杉婆である。
悪態をつくセリフ回しと風貌がやけに印象に残り、理不尽にお通と武蔵を恨んで追いかける動機付けに成功していると思うし、流石の沢庵和尚・三國廉太郎も影が薄い。

武蔵は姫路城の天守に幽閉されるが、そこは赤松一族が滅亡した場所でもあり、血と共に彼等の怨念が残っている場所である。
ここでの演出は後年でも見られた内田吐夢流の演出が見受けられる。
流された無益な血が柱の下から湧き出てきて、床に沁み込んだ血の跡がくすぶり始める。
武蔵が悟りを開く場面では、暗闇だった天主の壁に光が差し込み朱色に浮かび上がりるという演出だ。
眼光鋭い武蔵のアップでエンドマークが出るが、第一作で一番迫力ある場面だった。

プログラムピクチャと呼ばれる大量に送り出された作品群の中に、このような作品が紛れ込んでいた時代が懐かしくなってくる。
毎週代わる上映作品を楽しみにして何の気なしに行った映画館で、今週の映画は違ったなと自然と湧き上がる満足感を感じた時代だった。