おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

硫黄島からの手紙

2019-01-16 20:27:03 | 映画
「硫黄島からの手紙」 2006年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 渡辺謙 二宮和也 伊原剛志 加瀬亮
   松崎悠希 中村獅童 nae
   ルーク・エバール マーク・モーゼス
   ロクサーヌ・ハート 尾崎英二郎

ストーリー
945年2月19日、ついにアメリカ軍が上陸し、日本軍は徐々に退却を強いられていく。
玉砕を求める部下に、栗林は最後まで戦いぬけと命令した。
妻子を国に残してきたパン職人の西郷は、憲兵隊のスパイかと疑っていた清水と共に、自決を命じる上官のもとから逃げ出した。
やがて二人は軍人らしく玉砕を貫こうとする伊藤中尉に出会い、処刑されそうになる。
それを助けたのは他ならぬ栗林だった。
状況は切迫し、伊藤を中心とした栗林に反発する者たちが勝手な行動を取り始めた。
そんな中、栗林の数少ない理解者である西中佐も命を落としていく。
進退窮まった栗林は、ついにアメリカ軍に最終攻撃をかけた。
撃たれ、倒れていく兵士たち。激戦の中、栗林も瀕死の重傷を負い自決する。
激戦の数少ない生き残りとして担架に乗せられた西郷が見たのは硫黄島の海に沈む赤い夕陽だった。


寸評
映画は硫黄島の調査隊が手紙の入った袋を地中から発見し掘り出そうとする所から始まり、1944年6月4日栗林中将の硫黄島着任へとタイムスリップする。
栗林中将は米国留学、カナダ駐在武官の経歴もあるが、工兵の育ての親とも言うべき上原勇作元帥(加山雄三さんの曽祖父)の指導を受けた人だから、あのような地下要塞の構築も可能だったのだろう。
1932年のロサンゼルス五輪で馬術大障害で愛馬ウラヌス号を駆って金メダルを獲得した、バロン西こと西竹一陸軍中佐がいい役で登場する。
硫黄島の手紙と言えば、戦争の原因は米英にあり、米国は戦勝後の世界平和に寄与すべきであるとする「ルーズベルトに与える書」を書き送った、市丸利之助海軍少将のエピソードも登場するかと思ったがそれはなかった。

硫黄島決戦は、1945年2月19日に米軍はそれまでの爆撃、艦砲射撃からいよいよ上陸を開始して火蓋が切られる。すでにサイパン、グアムは玉砕していた。
制空権を握った米軍は1945年3月10日に東京大空襲を敢行している。人間魚雷回天特別攻撃千早隊も出撃した死闘だった。
3月17日西中佐の戦車連隊が玉砕。3月26日栗林中将・市丸少将以下300名が最後の突撃を行い玉砕し、事実上硫黄島戦は終わり、沖縄戦、原爆投下へと向かう。
米軍が5日間で陥落と予想した硫黄島戦は36日間に及んだ。

映画は決戦に至るまでの地下要塞建設と、直接決戦の死闘と、そこに発生する人間模様を描いている。生きたいと願いながらも死を選んでいく人間と、何とか生き延びたいと思う人間達だ。そして死ぬ事の無意味さを感じる人間も描かれる。
西郷は生きて帰る事をお腹の赤ん坊に約束して出征している。彼は二度あることは三度あるで、バンザイ突撃を逃れ捕虜となり敵艦を浮かび上がらせる夕陽を見る。地下塹壕で戦ってきた彼にとっては、生を実感できた夕陽だっただろう。栗林中将の拳銃を見て荒れ狂った彼の姿はそこになく、戦いが終わった安堵感を表現した西郷の微妙な笑顔は平和の尊さを表現していて万感迫るものがあった。

タイトルの手紙が西中佐の隊の捕虜になった米兵への母親からの手紙ぐらいで、あまり表に出てこなかったような気がするのだが・・・。もう少し手紙にまつわるエピソードが出てくるのかと思った。ただ栗林中将と西郷の手紙を読み上げるような語りで家族への愛を切々と表現していた。
そんなこととは関係なく、イーストウッドの手になる硫黄島2部作は「父親たちの星条旗」と共に、戦争がいかに罪深いものかを物語っていて、彼の力量を見る思いがした中々の秀作だった。何よりも日本人を冷静に見て、淡々と表現する分析力に敬服した。過酷な条件のもと、赤痢で死んで行く者のエピソードなどは、日本人監督ならもっとしつこく描いていたのではないか。物語が散漫になるのを避けて島の状況を端的に表現していたと思う。
「武士道とは死ぬ事と見つけたり」の精神、あるいは祖国の同朋を救うために死を選ぶ崇高な気持ちも描き出していたと思う。
本土の同胞の命を救うために自らの命を捧げる気持ちとか、家族への愛情を最後まで見せる姿は、昨今の余りにも個人的なわがままな事件を数多く見聞きするだけに胸が熱くなった。

アンタッチャブル

2019-01-16 19:50:56 | 映画
「アンタッチャブル」 1987年 アメリカ


監督 ブライアン・デ・パルマ
出演 ケヴィン・コスナー ショーン・コネリー
   アンディ・ガルシア チャールズ・マーティン・スミス
   ロバート・デ・ニーロ ビリー・ドラゴ
   リチャード・ブラッドフォード ジャック・キーホー

ストーリー
1930年、9月。エリオット・ネス(ケヴィン・コスナー)が、財務省から、シカゴに特別調査官として派遣されてきた。
禁酒法下のシカゴでは密造酒ともぐり酒場は実に10億ドル市場といわれ、ギャングたちの縄張り争いは次第にエスカレートし、マシンガンや手榴弾が市民の生活を脅やかしていた。
中でもアル・カポネ(ロバート・デ・ニーロ)のやり方はすさまじく、シカゴのボスとして君臨していた。
カポネ逮捕の使命感に燃えるネスは、しかし警察の上層部にも通じているカポネがそう簡単には手に落ちないことを実感する。
そんな彼に、初老の警官ジミー・マローン(ショーン・コネリー)が協力することになる。
多くの修羅場をくぐってきたマローンから、ネスは多くのことを学んだ。
やがて、警察学校からの優秀な若者ジョージ・ストーン(アンディ・ガルシア)がスカウトされてやってくる。
さらに本省からは、ネスの部下としてオスカー・ウォレス(チャールズ・マーティン・スミス)が派遣されてくる。
巨大なシンジケートをかかえるカポネと、ネスら4人との対決が始まり、最初の摘発は郵便局だった。
彼ら4人が散弾銃を片手に摘発し、翌日の新聞では、初めての大量逮捕を大きく取り上げ、彼らは“アンタッチャブル”(手出しのできぬ奴ら)という異名を馳せる。
だが、そのことは、カポネの怒りを買い、カポネの右腕と呼ばれる殺し屋フランク・ニティ(ビリー・ドラゴ)がネスの身辺に現われる。
妻キャサリン(パトリシア・クラークソン)と愛娘の安全を苦慮したネスは家族を直ちに脱出させた。
アンタッチャブルの捜査は続き、ネスは、シンジケートの帳簿を手に入れる。
それこそカポネに致命的なダメージを与える証拠となるものだった。

寸評
「アンタッチャブル」は僕の子供の頃の人気テレビ番組で、当時は多くのアメリカのテレビドラマが吹き替え放映されていたが、「アンタッチャブル」もそのひとつだった。
僕にとっては本当に久しぶりの「アンタッチャブル」なのだが、ブライアン・デ・パルマが奇をてらわないで、はでな銃撃戦を極力抑えた手堅い演出を見せ十分に堪能できる作品に仕上げている。
この作品を公開時に劇場で見たきっかけはファッション評論家でもある立亀長三氏から「衣装が素晴らしいので見るように」と勧められたからだったのだが、その衣装はジョルジオ・アルマーニが担当している。
ファッションもそうだが、1930年代の街並みの再現も雰囲気作りに貢献しているので美術担当も評価される。
ケビン・コスナーの正義感あふれるエリオット・ネスが主人公だが、なんといってもショーン・コネリーのマローンに存在感がある。
アル・カポネのロバート・デ・ニーロと共に、恰幅のいい二人が画面を圧倒している。

マローンは初老の警官で、「警官の仕事は手柄を立てるのではなく無事に家に帰ることだ」とエリオット・ネスに教えたのだが、命の危険を感じながらも警官としての生き方を貫くことを決意する渋い役回りである。
ネスのもとに警察学校の生徒だった新米のジョージ・ストーン、財務省から応援にきた簿記係のオスカー・ウォーレスが加わり、四人が揃ったところでマローンが全員に銃を持たせて密造酒の摘発に向かう。
進んだら後戻りできない修羅の道へ踏み出していくカッコイイ場面だ。
事実上はマローンがリーダーと言っても過言ではない活躍を見せる。
密造酒取引で逮捕した一人の口を割らせるために、すでに死んでいる男の口に銃を突っ込み、あたかも生きているように尋問し、男が口を割らないために射殺したように見せかける凄みは彼の決意の表れでもある。
そのマローンが襲われ、瀕死の状態で会計係の乗る汽車を知らせるくだりも迫力あるものとなっている。
警官のお守りを欲しがっているように見せながら、それを拒絶し何とかネスに知らせようとする姿に、僕は思わず力が入り拳を握りしめていた。
対決物では相手にも存在感がないと盛り上がらないものなのだが、ロバート・デ・ニーロも貫録を見せる。
その表情にアル・カポネという傲慢なギャングのボスの異常な性格がにじみ出ている。
郵便局での密造酒製造を摘発され、ヘマをした部下をバットで殴り殺すシーンも圧巻だが、オペラシーンで見せる涙と笑いの複雑な表情が化け物的な不気味なものを感じさせた。

駅のシーンで乳母車が階段から落ちるシーンは、公開時からエイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」における階段落ちと比較され話題となっていたが、僕は乳母車を映すショットが少しくどいように感じた。
モンタージュとしての効果も薄かったようにも思うが、ここでのアンディ・ガルシアはカッコいい。
脚本的に不思議に思うのは、非情なカポネがなぜ重要参考人であるはずの帳簿係を殺さなかったのだろうということで、エリオット・ネス達が必死で追い求めている帳簿係なら、消し去ってしまうのがカポネ一味にとっては一番安全だと思うのだが、なぜかマイアミへ逃がそうとしている。
それにしても「禁酒法」などという悪法がよくも存在したものだ。
ときどきとんでもない法律が出来上がったりするから注意しなくてはならない。
このことは現在の日本においても言えることである。

E.T.

2019-01-16 10:21:27 | 映画
今年も半月が過ぎました。
「あ」で始まるタイトルの名作映画の紹介を終えます。
今日からは「い」で始まるタイトルの作品を紹介していきます。
名作かどうかは私の独断です。

「E.T.」 1982年 アメリカ


監督 スティーヴン・スピルバーグ
出演 ディー・ウォーレス ヘンリー・トーマス
   ロバート・マクノートン ドリュー・バリモア
   ピーター・コヨーテ K・C・マーテル
   ショーン・フライ トム・ハウエル
   エリカ・エレニアック

ストーリー
アメリカ杉の森に、球形の宇宙船が着地し、中から小さな宇宙人が数人出てきた。
宇宙船の着陸を知った人間たちが、宇宙船に向かってきて、宇宙船は危険を察知して離陸する。
宇宙人の1人が地上にとり残された頃、住宅地の1軒では少年たちがカード遊びをしていて、10歳のエリオットは、小さいという理由から兄マイケルらの仲間にいれてもらえず、くさっていた。
深夜、エリオットはトウモロコシ畑で宇宙人を目撃し、翌日に夕食をたべながらエリオットは宇宙人を見たことを話すが誰も信じない。
その夜もふけ、エリオットがポーチで見張っていると、宇宙人が彼の前に姿を現わす。
エリオットは宇宙人を部屋に隠し、翌日、エリオットは仮病をつかって学校を休み、宇宙人とのコミニュケーションを試み、帰宅した兄と妹のガーティに紹介する。
宇宙人は太陽系を遠く離れた星からやって来たことを、超能力でボールを宙に浮上させて説明した。
宇宙人は、エキストラ・テレストリアルを略してE・Tを呼ぱれることになる。
学校で授業をうけるエリオットと家にいるE・Tとの間には心が通じあっている。
E・TはTVを見ながら英語を覚え、家に電話したいE・Tはノコギリや傘を使って通信器を作る。
ハロウィーンの夜、子供たちはE・Tに白い布をかぶせて森に連れ出し、E・Tは故郷の星に連絡をとる。
翌朝、E・Tは瀕死の状態となり、エリオットが彼を家に運ぶが、母親のメリーはE・Tを始めて見て驚く。
突然、宇宙服を着た科学者たちが家にやって来て瀕死のE・Tを調べだした。
科学者たちが手を尽くす中でE・Tは死亡し、最後のお別れをエリオットがしていると、E・Tの胸が赤くなる。
彼は死んでいなかったのだ。

寸評
E・Tの造形や映像の合成技術に発展途上のものを感じるが、家族全員で楽しむことが出来るファンタジー作品となっている。
宇宙人と子供たちの交流がメインで、その他のメッセージを排除しているのがいい。
小難しい理屈やアジテーションを必要としない現代のおとぎ話が描かれている。
E・Tはエリオット、兄のマイケル、妹のガーティと交流を持つが、同じ脳波のパターンを持つエリオットとだけは心が通じ合う。
それを表す場面としてE・Tが冷蔵庫からビールを取り出して飲み酔っぱらうと、学校のエリオットも酔っぱらうというシーンがあり笑いを誘う。
さらに、映画のオールドファンへのサービスとして、E・Tがテレビ放映されている「静かなる男」を見ていて、ジョン・ウェインとモーリン・オハラのキスシーンに見とれていると、学校ではエリオットがかわいい女の子にキスをするというオマケが描かれている。
さらに妹のガーティが「セサミ―ストリート」を通じてE・Tに英語を教えるくだりも面白く、私が教えたのと自慢するガーティが可愛らしく、彼女の発する言葉も笑いを誘うものである。
兎に角、ファンタ―ジー作品としてサービス精神にあふれた作品で、科学者がエリオットの家に施した防疫設備の安っぽい作りなどが童話の世界を意識させた。
これをものすごい装置にしていると、むしろこの物語から童話性を削ぐことになっていたと思う。
ちんけな通信装置も同じような役目を持っていた。
E・Tがぬいぐるみの中に紛れ込んでいて発見されないとか、母親の周りをウロウロしているのに全く気付かないとか、子供たちが楽しめそうな小ネタも随所に散りばめられている。

単なるジャリ用映画になっていないのは、安心できるストーリーと大人も楽しめるファンタジック性だ。
ファンタ―ジーを感じさせる名シーンは、エリオットがE・Tと空飛ぶ自転車で夜空に浮かぶ月を横切っていくシーンと、子供たちが連なって同じく空飛ぶ自転車で赤く輝いた太陽を横切っていくシーンで、両シーンはこの映画におけるピカイチのシーンとなっていて、USJのアトラクションの一つに採用されている。
子供たちへの贈り物でもあるこの映画に悪人は一人も登場しない。
エリオットたちを追いかける科学者たちも瀕死のE・Tを救おうと必死だった。
エリオットの父親は愛人とメキシコにいるらしいのだが、この設定が大した意味を持っていなかった。
パパがいたら分かってくれたと言って母親を悲しませるぐらいである。
同様な理由からか、家庭問題はまったく描かれていない。
淋しい別れだが、浮かぶ虹が爽快感を残し、ストーリーをもう一度復習させるさせるようにエンドクレジットと共に写される数々のシーンが余韻を持たせる。

十分すぎるぐらい楽しめる作品なのだが、中身は他に何もない。
映画は見世物として、これでいいのかもしれない。
作品は大ヒットしたのだが、どうもこの作品ぐらいから僕はスピルバーグ離れを起こしている。
彼のサービス精神が僕には合わなくなってきたのだと思う。

E.T.

2019-01-16 10:11:46 | 映画
半月が過ぎました。
タイトルが「あ」で始まる名作と思われる作品紹介が一段落しました。
今日からは「い」で始まるタイトルの名作を紹介していきます。

「E.T.」 1982年 アメリカ


監督 スティーヴン・スピルバーグ
出演 ディー・ウォーレス ヘンリー・トーマス
   ロバート・マクノートン ドリュー・バリモア
   ピーター・コヨーテ K・C・マーテル
   ショーン・フライ トム・ハウエル
   エリカ・エレニアック

ストーリー
アメリカ杉の森に、球形の宇宙船が着地し、中から小さな宇宙人が数人出てきた。
宇宙船の着陸を知った人間たちが、宇宙船に向かってきて、宇宙船は危険を察知して離陸する。
宇宙人の1人が地上にとり残された頃、住宅地の1軒では少年たちがカード遊びをしていて、10歳のエリオットは、小さいという理由から兄マイケルらの仲間にいれてもらえず、くさっていた。
深夜、エリオットはトウモロコシ畑で宇宙人を目撃し、翌日に夕食をたべながらエリオットは宇宙人を見たことを話すが誰も信じない。
その夜もふけ、エリオットがポーチで見張っていると、宇宙人が彼の前に姿を現わす。
エリオットは宇宙人を部屋に隠し、翌日、エリオットは仮病をつかって学校を休み、宇宙人とのコミニュケーションを試み、帰宅した兄と妹のガーティに紹介する。
宇宙人は太陽系を遠く離れた星からやって来たことを、超能力でボールを宙に浮上させて説明した。
宇宙人は、エキストラ・テレストリアルを略してE・Tを呼ぱれることになる。
学校で授業をうけるエリオットと家にいるE・Tとの間には心が通じあっている。
E・TはTVを見ながら英語を覚え、家に電話したいE・Tはノコギリや傘を使って通信器を作る。
ハロウィーンの夜、子供たちはE・Tに白い布をかぶせて森に連れ出し、E・Tは故郷の星に連絡をとる。
翌朝、E・Tは瀕死の状態となり、エリオットが彼を家に運ぶが、母親のメリーはE・Tを始めて見て驚く。
突然、宇宙服を着た科学者たちが家にやって来て瀕死のE・Tを調べだした。
科学者たちが手を尽くす中でE・Tは死亡し、最後のお別れをエリオットがしていると、E・Tの胸が赤くなる。
彼は死んでいなかったのだ。

寸評
E・Tの造形や映像の合成技術に発展途上のものを感じるが、家族全員で楽しむことが出来るファンタジー作品となっている。
宇宙人と子供たちの交流がメインで、その他のメッセージを排除しているのがいい。
小難しい理屈やアジテーションを必要としない現代のおとぎ話が描かれている。
E・Tはエリオット、兄のマイケル、妹のガーティと交流を持つが、同じ脳波のパターンを持つエリオットとだけは心が通じ合う。
それを表す場面としてE・Tが冷蔵庫からビールを取り出して飲み酔っぱらうと、学校のエリオットも酔っぱらうというシーンがあり笑いを誘う。
さらに、映画のオールドファンへのサービスとして、E・Tがテレビ放映されている「静かなる男」を見ていて、ジョン・ウェインとモーリン・オハラのキスシーンに見とれていると、学校ではエリオットがかわいい女の子にキスをするというオマケが描かれている。
さらに妹のガーティが「セサミ―ストリート」を通じてE・Tに英語を教えるくだりも面白く、私が教えたのと自慢するガーティが可愛らしく、彼女の発する言葉も笑いを誘うものである。
兎に角、ファンタ―ジー作品としてサービス精神にあふれた作品で、科学者がエリオットの家に施した防疫設備の安っぽい作りなどが童話の世界を意識させた。
これをものすごい装置にしていると、むしろこの物語から童話性を削ぐことになっていたと思う。
ちんけな通信装置も同じような役目を持っていた。
E・Tがぬいぐるみの中に紛れ込んでいて発見されないとか、母親の周りをウロウロしているのに全く気付かないとか、子供たちが楽しめそうな小ネタも随所に散りばめられている。

単なるジャリ用映画になっていないのは、安心できるストーリーと大人も楽しめるファンタジック性だ。
ファンタ―ジーを感じさせる名シーンは、エリオットがE・Tと空飛ぶ自転車で夜空に浮かぶ月を横切っていくシーンと、子供たちが連なって同じく空飛ぶ自転車で赤く輝いた太陽を横切っていくシーンで、両シーンはこの映画におけるピカイチのシーンとなっていて、USJのアトラクションの一つに採用されている。
子供たちへの贈り物でもあるこの映画に悪人は一人も登場しない。
エリオットたちを追いかける科学者たちも瀕死のE・Tを救おうと必死だった。
エリオットの父親は愛人とメキシコにいるらしいのだが、この設定が大した意味を持っていなかった。
パパがいたら分かってくれたと言って母親を悲しませるぐらいである。
同様な理由からか、家庭問題はまったく描かれていない。
淋しい別れだが、浮かぶ虹が爽快感を残し、ストーリーをもう一度復習させるさせるようにエンドクレジットと共に写される数々のシーンが余韻を持たせる。

十分すぎるぐらい楽しめる作品なのだが、中身は他に何もない。
映画は見世物として、これでいいのかもしれない。
作品は大ヒットしたのだが、どうもこの作品ぐらいから僕はスピルバーグ離れを起こしている。
彼のサービス精神が僕には合わなくなってきたのだと思う。