おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

アマデウス

2019-01-11 14:02:52 | 映画
「アマデウス」 1984年 アメリカ


監督 ミロス・フォアマン
出演 F・マーレイ・エイブラハム トム・ハルス
   エリザベス・ベリッジ ロイ・ドートリス
   サイモン・キャロウ ジェフリー・ジョーンズ
   クリスティーン・エバーソール リチャード・フランク

ストーリー
1823年11月、凍てつくウィーンの街で1人の老人が自殺をはかった。
数週間後、元気になった老人は神父フォーグラーに、意外な告白をはじめた。
老人の名はアントニオ・サリエリといい、かつてはオーストリア皇帝ヨゼフ二世に仕えた作曲家だった。
音楽を通じて神の下僕を任じていた彼だが、神童としてその名がヨーロッパ中に轟いていたウォルフガング・アマデウス・モーツァルトが彼の前に出現したときその運命が狂い出した。
作曲の才能は比類ないのに女たらしのモーツァルトが、サリエリが思いを寄せるオペラ歌手カテリナ・カヴァリエリに手を出した、彼の凄まじい憎悪は神に向けられたのだ。
そんなサリエリの許へ、モーツァルトの新妻コンスタンツェが、夫を音楽教師に推薦してもらうべく音譜を携えて訪れた。
譜面の中身は訂正・加筆の跡がない素晴らしい作品ばかりで、サリエリは再びショックに打ちのめされる。
天才への嫉妬と復讐心に燃えるサリエリは、若きメイドをスパイとしてモーツァルトの家にさし向けた。
やがて父レオポルドが死んで、失意のモーツァルトは酒と下品なパーティにのめり込んでいく。
そして金のために大衆劇場での「ドン・ジョバンニ」作曲に没頭していくモーツァルトに、サリエリが追い打ちをかける。変装したサリエリがモーツァルトにレクイエムの作曲を依頼したのだ。
金の力に負けて作曲を引き受けるモーツァルトだが、精神と肉体の疲労は想像以上にすさまじく、「魔笛」上演中に倒れてしまう。
コンスタンツェが夫のあまりの乱行に愛想をつかし旅に出てしまったために無人になった家に、モーツァルトを運び込むさりえり。仮装した彼は衰弱したモーツァルトにレクイエムの引き渡しを迫る・・・。

寸評
中学生の時に習った大作曲家の通称をなぜか覚えている。
音楽の父=バッハ、音楽の母=ヘンデル、交響曲の父=ハイドン、楽聖=ベートーヴェン、ピアノの詩人=ショパン、ワルツの父=ヨハン・シュトラウス、そして神童=モーツァルト。
モーツァルトがなぜ神童と称されたのかは教えてもらっていたはずなのに記憶からは消えていて、兎に角モーツァルト=神童だけが残っている。
そしてこの映画を見るに至って、モーツァルトのフルネイムがヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトであることを知った。映画とはあまり関係ない話である。

この映画を語る時に、真っ先に思い浮かぶのはモーツァルトをやったトム・ハルスの甲高い笑い声だ。
天才と狂人は紙一重と言うが、まさにあの叫び声は天才モーツァルトの狂気の部分を表すものだったと思う。
ワーナーのマークに続いて画面が暗転し、いきなりオーケストラの大音響で映画の幕が開き「モーツァルト!」の叫び声が聞こえ、そしてサリエリの告白が始まる。
音楽の高まりと共にタイトルが表示され、やがて宮廷のダンスシーンが重なってサリエリの自殺未遂となる。
荘厳な音楽が流れ続けるたったこれだけのシーンで一級の音楽映画だと思わされてしまうオープニングだ。
映画はサリエリの回想で進行し、その時々の出来事が描かれていく。
サリエリの告白があるので、その出来事を補足するようなシーンはない。
それらに要する時間は音楽場面にあてがわれていく。劇中劇であるオペラシーンも迫力があり、オペラに造詣のない僕でもオペラファンになってしまいそうな演出だ。

女の嫉妬も怖いが、男の嫉妬も恐ろしい。
モーツァルトを前にして、己の才能のなさを知らされたサリエリの落胆、挫折、嫉妬を表現して見せたF・マーレイ・エイブラハムが素晴らしい演技を見せる。
サリエリは自分の才能が、モーツァルトの才能を発見していくことだけのものにすぎないと悟る。
彼に対する謀略が湧き上がるが、モーツァルトの音楽を聞くと至福の調べだと感じてしまう。
サリエリが思いを寄せていたオペラ歌手は、女は外見よりも才能だと言い放ち、その言葉の終わりでもってオペラが始まる。息をつかせない演出で、音楽映画における芝居と音楽の切り替えによる間延び感がない。
映画はサリエリの回想から入り、モーツァルトの人物像を追っていくのだが、モーツァルトってこんな狂人的な人物だったのだろうか?
もしも史実だとしたら、僕がモーツァルトに抱いているイメージとは随分違う。
だらしない下品な男の様に描かれているが、それでも彼の音楽は不世出のものであることを強調するためだったのだろうか。
サリエリは宗教者である神父に対し凡人だと言い放ち、自分は凡人の世界に君臨する凡人なのだという。
その言葉でもって神童モーツァルトを讃えて映画は終わる。
様々な音楽的見せ場やミステリーの要素を散りばめ、一瞬たりとも飽きさせない。
音楽映画映画としてもモーツァルトの名曲が散りばめられていて楽しめる。
ミュージカル映画とは違うジャンルでの第一級に値する音楽映画だ。

甘い生活

2019-01-11 10:48:10 | 映画
「甘い生活」 1959年 イタリア/フランス


監督 フェデリコ・フェリーニ
出演 マルチェロ・マストロヤンニ アニタ・エクバーグ
   アヌーク・エーメ バーバラ・スティール
   ナディア・グレイ ラウラ・ベッティ
   イヴォンヌ・フルノー マガリ・ノエル
   アラン・キュニー ニコ

ストーリー
作家志望の夢破れて、今はしがないゴシップ記者のマルチェロは豪華なナイトクラブで富豪の娘マッダレーナと出会い、安ホテルで一夜を明かす。
ハリウッドのグラマー女優を取材すれば、野外で狂騒し、トレビの泉で戯れる。
乱痴気と頽廃に支配された街ローマ。
同棲中のエンマは彼の言動を嘆く。
二人で訪れた友人スタイナー一家の知的で落ち着いた暮らしぶりを羨むマルチェロだが、彼らも子連れの無理心中で突如死に、残るは絶望の実感のみ。
いよいよ狂乱の生活に没入するマルチェロは海に近い別荘で仲間と淫らに遊び耽る。
彼らが享楽に疲れ果てた体を海風にさらす朝、マルチェロは波打ち際に打ち上げられた怪魚の、悪臭を放って腐り果てるさまを凝視した。
彼方で顔見知りの可憐な少女ヴァレリアが声をかけるが、波音に消されて聞こえない。
かくて純粋な青春の時は終わったのか……。

寸評
この映画は評価が分かれる。
認める方はその映像美学を評価するだろう。
印象的なショットが多い作品だ。
2機ヘリコプターがキリスト像を運んでくるシーンから始まる冒頭のシーンから引き込まれる。
ヘリコプターを捉えたカメラはビルを映し出し、その壁面を吊り下げられたキリスト像の影が斜め上へ横切っていくき、カメラが上方へパンすると再びヘリコプターが捉えられる。
カメラ位置、太陽の方向とヘリコプターの飛行ルートなど計算され尽くさないと撮れないシーンだ。
何気ないシーンだが随分とリハーサルもしくは何回もカメラを回したことだろうと想像される。
それ以外にも随所にハットするような画面が何回も登場してきて、見ている間は随分と写真的なショットが多い作品だと感じていた。
拒否する方は難解な表現方法によるものだと思う。
説明的な手法をほとんど行っていないので、一つ一つはインパクトがあるのだが、さしたるストーリーもないので全体としては何を描きたいのか訳がわからなくなってしまうような演出だ。

僕も何度も退屈仕掛けたが、その都度画面に引き戻されるという3時間だった。
一つ一つはなんとも不思議な魅力を持ったシーンが繰り返されるのだ。
その筆頭はアニタ・エクバーグがトレビの泉に入る有名なシーンだ。
モノクロ映画だから、アニタ・エクバーグの着る黒のドレスす姿が一層引き立った。
夜にマルチェロとドライブに出た彼女は犬の鳴き声をして、そのあたりの犬を目覚めさせたかと思うと、路地では子猫を拾って戯れる奔放さだ。
マルチェロが子猫のミルクを買いに行っている間にとる行動が上記の泉のシーンだ。
このシーンだけでアニタ・エクバーグの名前は永遠のものになったと思わされる。

色んなシーンを通じて映画は1950年代後半のローマの退廃的な上流階級の生態や、その場限りの乱痴気騒ぎを描き、社会を生きる上でモラルを失った現代人の不毛な生き方を描き続ける。
そして、それに疑問を投げかける最終章が描かれる。
平和に見えたスタイナー一家に悲劇が起こり、マルチェロに残ったわずかな夢をすべて消し去ってしまう。
乱痴気騒ぎの狂宴の後、波打ち際に打ち上げられた怪魚をみるが、そのグロテスクな姿は彼らそのものの姿だったのだと思う。
だから清純さに溢れる少女の声は波に消されてマルチェロの耳には入らなかったのだ。
マルチェロは少女に背を向けて砂浜を別荘の方へと戻って行くが、自ら言っていたように再び人生を浪費する生活に戻るのだろうか。