おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

秋日和

2019-01-06 20:10:03 | 映画
「秋日和」 1960年 日本


監督 小津安二郎
出演 原節子 司葉子 岡田茉莉子 佐田啓二
   佐分利信 沢村貞子 桑野みゆき 島津雅彦
   笠智衆 北竜二 三上真一郎 中村伸郎
   三宅邦子 田代百合子 設楽幸嗣 渡辺文雄

ストーリー
亡友三輪の七回忌、末亡人の秋子(原節子)は相変らず美しく、娘のアヤ子(司葉子)も美しく育ちすでに婚期を迎えていた。
旧友たち、間宮(佐分利信)、田口(中村伸郎)、平山(北竜二)の三人はアヤ子にいいお婿さんを探そうと、ついお節介心を起した。
アヤ子がまだ結婚する気がないというので、話は立ち消えた。
秋子は友達の経営する服飾学院の仕事を手伝い、アヤ子は商事会社に勤め、親子二人で郊外のアパートにつつましく暮している。
或る日母の使いで間宮を会社に訪ねたアヤ子は、間宮の部下の後藤(佐田啓二)を紹介された。
後藤はアヤ子の会社に勤める杉山(渡辺文雄)と同窓だった。
土曜日の午後、間宮は喫茶店で、杉山や後藤と一緒にいるアヤ子を見たて、二人の間に恋愛が生れたものと思った。
秋子の再婚が持ち上がり、候補者はやもめの平山だった。
アヤ子は母が父の親友と再婚するものと早合点して、母と正面衝突した。
これから先、長く一人で暮す母を思って、二人は休暇をとって思い出の旅に出た。
伊香保では三輪の兄の周吉(笠智衆)が経営する旅館があった。
周吉は秋子の再婚にも、アヤ子の結婚にも賛成だった。
その旅の夜、秋子は娘に自分がこれから先も亡き夫とともに生きることを語った。
アヤ子と後藤の結婚式は吉日を選んで挙げられた。
ひとりアパートに帰った秋子は、その朝まで、そこにいたアヤ子を思うと、さすがにさびしかった。

寸評
亡友三輪の七回忌法要が行われるお寺の場面から映画は始まるが、その寺院の建物内の一部がショットで何カットか写され、やがて料亭のショットへとつながっていく。
時間の経過と舞台となる場所の変更を観客に悟られないようにうまい具合につなげていく。
僕はこの一連のショットだけで魅了されてしまった。

未亡人の秋子は20歳で結婚したと言っていて、今では随分と早婚と思われる年齢だが当時はそんなに珍しくなかったのかもしれない。
比べて娘のアヤ子は24歳だから婚期がすでに訪れていると言ってもいい。
晩婚化が進んでいる現在だが、当時はこの年齢になればやきもきするする人たちが周りに大勢いて、身内のみならず他人までも世話を焼く人も大勢いた。
そんな時代に引っかかっている僕は、そんな人の世話で結婚した人を何人も知っているので、ここで描かれたような人々の関係はまんざら絵空事でもない実感がある。

友人たちは家族ぐるみの付き合いをしていて、三輪が無くなっても彼の家族とも懇意だ。
それどころか亡き友の娘の結婚まで家族同様の心配をしている。
おせっかいと言えばおせっかいな話なのだが、このような人間関係が消え失せてしまっていることは寂しい。
未亡人への思いも絡ませて、ユーモアを交えながら騒動を描いていくが、笑いは大笑いをするものではなくクスリと笑う微笑ましいものだ。
例えば素晴らしすぎる未亡人の為に友人は早死にしたのだという話題になって、登場した女将を見た三人があの女将では亭主は長生きだなどと噂するようなシーンだ。
平山の再婚話の顛末などもその部類に入る。
未亡人の三輪の母子はアパートに住んでつつましやかに生活しているが、間宮、田口、平山は社会的地位もあり超上流とまではいかなくても上の下ぐらいの人々で、決して庶民の出来事を描いているわけではない。
したがって内容は非常にブルジョア的である。

建屋の内部も含めたショットが多く、会話の場面もアップの切り返しが多い。
落ち着きがないようにも思えるが、その分その人の表情がよくわかり総じて穏やかで、作品自体の雰囲気もそれに準じたものとなっている。
そうしたほのぼのとした空間の中で人々の思いやりが形を変えて描かれていく。
穏やかな人が多い中にあって、快活な人物がアヤ子の友人である岡田茉莉子演じる百合子だ。
彼女は後妻の家に育ったこともあって、アヤ子に比べれば現実的な目を持っている。
結婚すれば友人も遠ざかってしまうのだと言うし、未亡人にはやがて重荷になると平気で言ったりする。
そのくせアヤ子を心配し、一人になった未亡人にも気を遣う優しさを持っている。
彼女が言うように、心配しながらもやがては幸せを願って別れていかねばならない家族を描いているが、周りにはそれを補う温かい人たちが存在している。
三人はこれを良い機会とばかりに、きっと未亡人の秋子を慰めに通い続けるのではないかと想像する。

赤ひげ

2019-01-06 10:02:23 | 映画
「赤ひげ」 1965年 日本


監督 黒澤明
出演 三船敏郎 加山雄三 山崎努 団令子
   桑野みゆき 香川京子 江原達怡
   二木てるみ 根岸明美 頭師佳孝
   土屋嘉男 東野英治郎 志村喬
   笠智衆 杉村春子 田中絹代 柳永二郎
   三井弘次 西村晃 千葉信男 藤原釜足

ストーリー
医員見習として小石川養生所へ住み込んだ保本登(加山雄三)は、出世を夢みて、長崎に遊学したその志が、古びて、貧乏の匂いがたちこめるこの養生所で、ついえていくのを、不満やるかたない思いで、過していた。
赤っぽいひげが荒々しく生えているので赤ひげと呼ばれている所長の新出去定(三船敏郎)が精悍で厳しい面持で、「お前は今日からここに詰める」といった一言で、登の運命が決まった。
人の心を見抜くような赤ひげの目に反撥する登はこの養生所の禁をすべて破って、養生所を出されることを頼みとしていた。
薬草園の中にある座敷牢にいる美しい狂女(香川京子)は、赤ひげのみたてで先天性狂的躰質ということであったが、登は赤ひげのみたてが誤診であると指摘したが、禁を侵して足しげく通った結果登は、赤ひげのみたてが正しかったことを知った。
蒔絵師の六助(藤原釜足)が死んで、娘おくに(根岸明美)から六助の不幸な過去を聞いて登は、不幸を黙々と耐え抜いた人間の尊さを知る。
また登は、むじな長屋で死んだ車大工の佐八(山崎努)とおなか(桑野みゆき)の悲しい恋の物語を佐八の死の床で聴いて胸に迫るものを感じていた。
登が赤ひげに共鳴して初めてお仕着せを着た日、赤ひげは登を連れて岡場所に来た。
そして幼い身体で客商売を強いられるおとよ(二木てるみ)を助けた。
人を信じることを知らない薄幸なおとよが登の最初の患者であった・・・。

寸評
冒頭で着任した保本が先任の津川(江原達怡)から赤ひげ批判を聞かされながら療養所の中を案内してもらうシーンがあるのだが、この小石川養生所のセットはなかなか見事で、美術担当の村木与四郎の仕事は評価に値する。
見事なのは江戸時代の町並みなどもそうで、特に地震で家屋が倒壊する場面などは金が掛かっていることを感じ取れる見事なものだ。
保本と初めて対面するときの赤ひげの三船はさすがの貫禄で、振り返ったその所作と顔だけで画面を威圧し、赤ひげがどのような医者であるのかを無言のうちに語っていた。
「赤ひげ」のタイトルからして主演は三船敏郎なのだが、全体としては登場シーンは少なくセリフも少ない。
むしろ保本の加山雄三が狂言回し的に登場して物語に絡んでいて、不幸を背負った人々を描いたオムニバス映画とも見て取れる。
一つは蒔絵師の六助に関わる物語、一つは車大工の佐八(山崎努)の話、もう一つは身も心も病んでいるおとよに関わる話である。
それに座敷牢に隔離されている美しく若い女の話なども加わってくるし、保本と許嫁であったちぐさ(藤山陽子)との間にある個人的な問題も彩を添える。
盛り沢山なので185分の長尺となっており、途中では5分間の休憩が入る作品だ。

一つ一つの話は泣かせる。
六助の死ぬ様はさすがは藤原釜足と思わせ、危篤状態で一切セリフはないなかで見事な息の引き取り方を演じてみせていた。
娘のおくにが語る話は、彼女の家族間で起こった悲劇的な内容で唖然とさせるが、そんなおくにを赤ひげが救ってやる経緯は少し甘ったるいヒューマニズムと感じるが、それぐらいがないと救われないからなあ・・・。
車大工の佐八の話は妻おなかとの純愛物語なのだが、義理に翻弄されるおなかの行動が切ない。
事前の佐八の告白シーンでその伏線が張られていたが、おなかが行方不明となるきっかけの地震のシーンは前述の通りすごい迫力で、倒壊した街並みのセットも凝ったもので圧倒される。
香川京子、二木てるみの両女優の狂人ぶりも話を盛り上げている。
香川京子は、それまでの役柄のイメージを打ち破る熱演で、メイクで表情を一変させ保本に襲いかかる姿に驚かされた。
暗い小石川療養所が舞台だけにライティングが効果を上げていて、特におとよに当たるスポットライト的な使い方は目だけを光らせる素晴らしいものだ。
おとよの狂人性を表すためのものだが、おとよが飛び起きた時にピタリとそこに決まるのには、撮影時における苦心がうかがえて映画職人たちの技術に感心するシーンだった。
おとよが同情を寄せるコソ泥の長次(頭師佳孝)に関わるエピソードには泣いてしまった。
賄い婦たちにネズミとあだ名されている長次が一家心中に巻き込まれて瀕死の状態でいるときに「ネズミがネズミ取りを飲むなんて」という可笑しくなるセリフを持ち込みながら、最後の最後は大団円を迎える。
申し訳程度の乱闘シーンはあるものの、暴力を排除した黒澤明一世一代の泥臭いヒューマニズム作品とも言えるが、泥臭さもここまで徹底すると重厚な作品に仕上がっているし、黒澤の力量を感じ取れる作品になっている。