今年も半月が過ぎました。
「あ」で始まるタイトルの名作映画の紹介を終えます。
今日からは「い」で始まるタイトルの作品を紹介していきます。
名作かどうかは私の独断です。
「E.T.」 1982年 アメリカ
監督 スティーヴン・スピルバーグ
出演 ディー・ウォーレス ヘンリー・トーマス
ロバート・マクノートン ドリュー・バリモア
ピーター・コヨーテ K・C・マーテル
ショーン・フライ トム・ハウエル
エリカ・エレニアック
ストーリー
アメリカ杉の森に、球形の宇宙船が着地し、中から小さな宇宙人が数人出てきた。
宇宙船の着陸を知った人間たちが、宇宙船に向かってきて、宇宙船は危険を察知して離陸する。
宇宙人の1人が地上にとり残された頃、住宅地の1軒では少年たちがカード遊びをしていて、10歳のエリオットは、小さいという理由から兄マイケルらの仲間にいれてもらえず、くさっていた。
深夜、エリオットはトウモロコシ畑で宇宙人を目撃し、翌日に夕食をたべながらエリオットは宇宙人を見たことを話すが誰も信じない。
その夜もふけ、エリオットがポーチで見張っていると、宇宙人が彼の前に姿を現わす。
エリオットは宇宙人を部屋に隠し、翌日、エリオットは仮病をつかって学校を休み、宇宙人とのコミニュケーションを試み、帰宅した兄と妹のガーティに紹介する。
宇宙人は太陽系を遠く離れた星からやって来たことを、超能力でボールを宙に浮上させて説明した。
宇宙人は、エキストラ・テレストリアルを略してE・Tを呼ぱれることになる。
学校で授業をうけるエリオットと家にいるE・Tとの間には心が通じあっている。
E・TはTVを見ながら英語を覚え、家に電話したいE・Tはノコギリや傘を使って通信器を作る。
ハロウィーンの夜、子供たちはE・Tに白い布をかぶせて森に連れ出し、E・Tは故郷の星に連絡をとる。
翌朝、E・Tは瀕死の状態となり、エリオットが彼を家に運ぶが、母親のメリーはE・Tを始めて見て驚く。
突然、宇宙服を着た科学者たちが家にやって来て瀕死のE・Tを調べだした。
科学者たちが手を尽くす中でE・Tは死亡し、最後のお別れをエリオットがしていると、E・Tの胸が赤くなる。
彼は死んでいなかったのだ。
寸評
E・Tの造形や映像の合成技術に発展途上のものを感じるが、家族全員で楽しむことが出来るファンタジー作品となっている。
宇宙人と子供たちの交流がメインで、その他のメッセージを排除しているのがいい。
小難しい理屈やアジテーションを必要としない現代のおとぎ話が描かれている。
E・Tはエリオット、兄のマイケル、妹のガーティと交流を持つが、同じ脳波のパターンを持つエリオットとだけは心が通じ合う。
それを表す場面としてE・Tが冷蔵庫からビールを取り出して飲み酔っぱらうと、学校のエリオットも酔っぱらうというシーンがあり笑いを誘う。
さらに、映画のオールドファンへのサービスとして、E・Tがテレビ放映されている「静かなる男」を見ていて、ジョン・ウェインとモーリン・オハラのキスシーンに見とれていると、学校ではエリオットがかわいい女の子にキスをするというオマケが描かれている。
さらに妹のガーティが「セサミ―ストリート」を通じてE・Tに英語を教えるくだりも面白く、私が教えたのと自慢するガーティが可愛らしく、彼女の発する言葉も笑いを誘うものである。
兎に角、ファンタ―ジー作品としてサービス精神にあふれた作品で、科学者がエリオットの家に施した防疫設備の安っぽい作りなどが童話の世界を意識させた。
これをものすごい装置にしていると、むしろこの物語から童話性を削ぐことになっていたと思う。
ちんけな通信装置も同じような役目を持っていた。
E・Tがぬいぐるみの中に紛れ込んでいて発見されないとか、母親の周りをウロウロしているのに全く気付かないとか、子供たちが楽しめそうな小ネタも随所に散りばめられている。
単なるジャリ用映画になっていないのは、安心できるストーリーと大人も楽しめるファンタジック性だ。
ファンタ―ジーを感じさせる名シーンは、エリオットがE・Tと空飛ぶ自転車で夜空に浮かぶ月を横切っていくシーンと、子供たちが連なって同じく空飛ぶ自転車で赤く輝いた太陽を横切っていくシーンで、両シーンはこの映画におけるピカイチのシーンとなっていて、USJのアトラクションの一つに採用されている。
子供たちへの贈り物でもあるこの映画に悪人は一人も登場しない。
エリオットたちを追いかける科学者たちも瀕死のE・Tを救おうと必死だった。
エリオットの父親は愛人とメキシコにいるらしいのだが、この設定が大した意味を持っていなかった。
パパがいたら分かってくれたと言って母親を悲しませるぐらいである。
同様な理由からか、家庭問題はまったく描かれていない。
淋しい別れだが、浮かぶ虹が爽快感を残し、ストーリーをもう一度復習させるさせるようにエンドクレジットと共に写される数々のシーンが余韻を持たせる。
十分すぎるぐらい楽しめる作品なのだが、中身は他に何もない。
映画は見世物として、これでいいのかもしれない。
作品は大ヒットしたのだが、どうもこの作品ぐらいから僕はスピルバーグ離れを起こしている。
彼のサービス精神が僕には合わなくなってきたのだと思う。
「あ」で始まるタイトルの名作映画の紹介を終えます。
今日からは「い」で始まるタイトルの作品を紹介していきます。
名作かどうかは私の独断です。
「E.T.」 1982年 アメリカ
監督 スティーヴン・スピルバーグ
出演 ディー・ウォーレス ヘンリー・トーマス
ロバート・マクノートン ドリュー・バリモア
ピーター・コヨーテ K・C・マーテル
ショーン・フライ トム・ハウエル
エリカ・エレニアック
ストーリー
アメリカ杉の森に、球形の宇宙船が着地し、中から小さな宇宙人が数人出てきた。
宇宙船の着陸を知った人間たちが、宇宙船に向かってきて、宇宙船は危険を察知して離陸する。
宇宙人の1人が地上にとり残された頃、住宅地の1軒では少年たちがカード遊びをしていて、10歳のエリオットは、小さいという理由から兄マイケルらの仲間にいれてもらえず、くさっていた。
深夜、エリオットはトウモロコシ畑で宇宙人を目撃し、翌日に夕食をたべながらエリオットは宇宙人を見たことを話すが誰も信じない。
その夜もふけ、エリオットがポーチで見張っていると、宇宙人が彼の前に姿を現わす。
エリオットは宇宙人を部屋に隠し、翌日、エリオットは仮病をつかって学校を休み、宇宙人とのコミニュケーションを試み、帰宅した兄と妹のガーティに紹介する。
宇宙人は太陽系を遠く離れた星からやって来たことを、超能力でボールを宙に浮上させて説明した。
宇宙人は、エキストラ・テレストリアルを略してE・Tを呼ぱれることになる。
学校で授業をうけるエリオットと家にいるE・Tとの間には心が通じあっている。
E・TはTVを見ながら英語を覚え、家に電話したいE・Tはノコギリや傘を使って通信器を作る。
ハロウィーンの夜、子供たちはE・Tに白い布をかぶせて森に連れ出し、E・Tは故郷の星に連絡をとる。
翌朝、E・Tは瀕死の状態となり、エリオットが彼を家に運ぶが、母親のメリーはE・Tを始めて見て驚く。
突然、宇宙服を着た科学者たちが家にやって来て瀕死のE・Tを調べだした。
科学者たちが手を尽くす中でE・Tは死亡し、最後のお別れをエリオットがしていると、E・Tの胸が赤くなる。
彼は死んでいなかったのだ。
寸評
E・Tの造形や映像の合成技術に発展途上のものを感じるが、家族全員で楽しむことが出来るファンタジー作品となっている。
宇宙人と子供たちの交流がメインで、その他のメッセージを排除しているのがいい。
小難しい理屈やアジテーションを必要としない現代のおとぎ話が描かれている。
E・Tはエリオット、兄のマイケル、妹のガーティと交流を持つが、同じ脳波のパターンを持つエリオットとだけは心が通じ合う。
それを表す場面としてE・Tが冷蔵庫からビールを取り出して飲み酔っぱらうと、学校のエリオットも酔っぱらうというシーンがあり笑いを誘う。
さらに、映画のオールドファンへのサービスとして、E・Tがテレビ放映されている「静かなる男」を見ていて、ジョン・ウェインとモーリン・オハラのキスシーンに見とれていると、学校ではエリオットがかわいい女の子にキスをするというオマケが描かれている。
さらに妹のガーティが「セサミ―ストリート」を通じてE・Tに英語を教えるくだりも面白く、私が教えたのと自慢するガーティが可愛らしく、彼女の発する言葉も笑いを誘うものである。
兎に角、ファンタ―ジー作品としてサービス精神にあふれた作品で、科学者がエリオットの家に施した防疫設備の安っぽい作りなどが童話の世界を意識させた。
これをものすごい装置にしていると、むしろこの物語から童話性を削ぐことになっていたと思う。
ちんけな通信装置も同じような役目を持っていた。
E・Tがぬいぐるみの中に紛れ込んでいて発見されないとか、母親の周りをウロウロしているのに全く気付かないとか、子供たちが楽しめそうな小ネタも随所に散りばめられている。
単なるジャリ用映画になっていないのは、安心できるストーリーと大人も楽しめるファンタジック性だ。
ファンタ―ジーを感じさせる名シーンは、エリオットがE・Tと空飛ぶ自転車で夜空に浮かぶ月を横切っていくシーンと、子供たちが連なって同じく空飛ぶ自転車で赤く輝いた太陽を横切っていくシーンで、両シーンはこの映画におけるピカイチのシーンとなっていて、USJのアトラクションの一つに採用されている。
子供たちへの贈り物でもあるこの映画に悪人は一人も登場しない。
エリオットたちを追いかける科学者たちも瀕死のE・Tを救おうと必死だった。
エリオットの父親は愛人とメキシコにいるらしいのだが、この設定が大した意味を持っていなかった。
パパがいたら分かってくれたと言って母親を悲しませるぐらいである。
同様な理由からか、家庭問題はまったく描かれていない。
淋しい別れだが、浮かぶ虹が爽快感を残し、ストーリーをもう一度復習させるさせるようにエンドクレジットと共に写される数々のシーンが余韻を持たせる。
十分すぎるぐらい楽しめる作品なのだが、中身は他に何もない。
映画は見世物として、これでいいのかもしれない。
作品は大ヒットしたのだが、どうもこの作品ぐらいから僕はスピルバーグ離れを起こしている。
彼のサービス精神が僕には合わなくなってきたのだと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます