おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

あん

2019-01-15 19:00:54 | 映画
「あん」 2015年 日本


監督 河瀬直美
出演 樹木希林 永瀬正敏 内田伽羅
   市原悦子 竹内海羽 高橋咲樹
   村田優吏愛 太賀 兼松若人
   浅田美代子 水野美紀

ストーリー
春ともなれば桜の咲き乱れる公園に面した場所にどら焼き屋「どら春」がある。
オーナー(浅田美代子)に代わってこの店を切り盛りをしているのは雇われ店長の千太郎(永瀬正敏)なのだが、ワケありそうな中年男で単調な日々を過ごしていた。
千太郎のもとにある日、アルバイト募集の張り紙を見た徳江(樹木希林)が雇ってほしいとやってくる。
年齢的に無理と判断した千太郎は断ったが、再び訪れた徳江は手作りのあんを置いていく。
千太郎が試食してみると、粒あんが絶品だったことから雇ってみることにした。
徳江は手が変形していて不自由なので、重い鍋釜を操作しないあん作りを担当することになった。
徳江の作った粒あんはあまりに美味しく、店はみるみるうちに繁盛していく。
評判が評判を呼び行列ができるまでになった。
つぶれたどら焼きをもらいにくる女子中学生・ワカナ(内田伽羅)もだんだんと徳江に馴染んでいく。
しかしかつて徳江がハンセン病患者だったことが広まり、客が一気に離れていった。
この状況に徳江は店を去り、千太郎やワカナの前から消えてしまう。
それぞれの思いを胸に、二人は徳江を探す……。

寸評
徳江はハンセン病患者である。
ハンセン病はかつてはライ病と呼ばれ、誤った知識と対応から患者は隔離され差別を受けてきた。
その隔離政策と差別の非道性は度々作品に取り入れられてきたのだが、本作でもそれを正面に据えている。
徳江は登場した時から手に異常があることが示され、ハンセン病患者らしいことが観客に知らされる。
徳江の作るあんは絶品で、そのため彼女はやがて「どら春」に雇われるのだが、あん作りの講釈は食べ物映画ではよくある描き方で、言い換えれば食べ物映画の王道でもある。
徳江は材料の小豆に人格を与えて語りかけ、小豆を精一杯もてなしてやる。
早朝、夜が明ける前から仕込んで作られたあんを入れたどら焼きは今までのものとは別物となり、千太郎ですら「初めてどら焼きを食べる気がした」というものに仕上がる。
ここまではグルメ映画としての面白さを十分に備えていて、どら焼きが食べたくなってくる。

「どら春」には女子中学生がよく出入りしていて、ワカナもその一人である。
ワカナの家はアパート暮らしの母子家庭で、母親(水野美紀)には男がいてそうな雰囲気があり、暮らしはけっして裕福とは言えない。
どこか孤独なワカナなのだが、どうもこのワカナと千太郎の結びつきがよくわからない。
単なる店の主人と常連客以上のものがあるのだが、それが何によるものなのかは描かれていなかった。
ワカナは出来損ないのどら焼きをもらっているのだが、それは単に貧乏に同情した千太郎の好意によるものだったのだろか?
千太郎とワカナの心の結びつきがイマイチよくわからなかった。
二人が行動を共にする理由が不明確なことで、僕には徳江が辞めた後のエピソードが少しかすんでしまっているように見えた。
それでも、「私たちはこの世を見るために、聞くために、生まれてきた。この世は、ただそれだけを望んでいた。だとすれば、何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのよ」と語る徳江の言葉は重かった。
徳江はワカナと同じような年齢の頃から、施設に隔離されてきていたのだ。
ハンセン病患者による叫びの代弁でもあったように思う。
どうやら噂はワカナの母親から広まったようなのだが、誤報や思い込みも含めて噂が支配していく世の中は怖いものがあり、千太郎もその怖さを実感している。

千太郎の過去も明かされ、徳江の思いを受け止めて桜の下でどら焼きを売る姿に希望を持つが、その他の後始末がされていないので関係者のその後が気になった。
ワカナは家出していたはずだが、母親とはどうなったのだろう。
家に帰ったのだろうか。
店を改装することになったが、やって来ることになったオーナーの甥とは上手くやって行けそうになく、店と彼はどうなったのか。
前途不安も残したままで終わったような気もするのだが・・・。
パンチ力はないけれど、河瀬直美監督らしい視線を感じる映画担っているとは思う。

あるいは裏切りという名の犬

2019-01-15 10:54:40 | 映画
「あるいは裏切りという名の犬」 2004年 フランス


監督 オリヴィエ・マルシャル
出演 ダニエル・オートゥイユ ジェラール・ドパルデュー
   アンドレ・デュソリエ ヴァレリア・ゴリノ
   ロシュディ・ゼム ダニエル・デュヴァル
   ミレーヌ・ドモンジョ フランシス・ルノー

ストーリー
パリ警視庁のレオ・ヴリンクス警視とドニ・クラン警視は、かつて親友であり、同じ女性カミーユを愛した。
しかし彼女はレオと結婚、以来二人の友人関係は崩れ、互いが従える部署も対立していた。
パリでは現金輸送車強奪事件が多発し、その指揮官にレオが任命される。
事件をずっと追ってきたドニは、ライバルに手柄をさらわれることが面白くない。
そんな中、レオに情報屋シリアンから連絡が入り、大きな情報と引き換えに30分だけ行動を共にして欲しいと告げられる。
そしてシリアンは、自分を刑務所に送った男をレオの目の前で殺害する。
アリバイに利用されたことに激怒するレオだが、シリアンはアリバイを証明するなら強奪犯を教えると言う。
主犯格は、フランシス・オルンとロベール・“ボブ”・ブーランジェだ。
レオの指揮下、犯人グループのアジトを取り囲むが、突然ドニが単独でアジトへ近づき銃撃戦に発展。
定年間近だったレオの相棒エディが殉職する。
失態の責任を問われ調査委員会にかけられるドニと、オルンを追いつめ逮捕するレオ。
事件解決と出世への道を祝福されるレオを憎悪するドニは、シリアンの起こした殺人事件にレオが絡んでいることを突き止め、レオは牢獄送りとなる。
牢獄で妻の訃報を聞いたレオは、7年後に刑期を終え出所しカミーユの死の真相を探り始める。
全てを失ったレオと、パリ警視庁長官に就任したドニ。
ドニの就任パーティー会場へ向かったレオはドニと対面し、銃口を向けるが、復讐を思いとどまる。
去ってゆくレオを追うドニだったが・・・。

寸評
映画の冒頭はバイクに乗った二人組が街頭標識を盗み警官に追われるシーンから始まる。並行してギャングの兄弟が登場、訪れたバーでミレーヌ・ドモンジョ演じる元娼婦のマヌーに暴行を加える。二人組は、実は刑事で、彼らはパリ警察の標識にサインをし、退職間近のベテラン刑事へプレゼントするために窃盗を働いていたのだ。
この二つのシーンが交差するオープニングから緊張感がみなぎり、観客の心を捕らえて離さない。暴力とバカ騒ぎで、どちらだがどちらともいえないカットの連続なのだが、その騒動が一方の当事者である警官たちの結びつきの強さを表現していて全体を通した伏線となっている。やはり映画においてはオープニング・シーンが占める割合は高いと思う。
 この冒頭で登場した元娼婦は、映画の結末に至る大事な役割を担い、さらに彼女に夫の死に様を語らせることによって歳月の中にあった空しさと、アウトローの末期の寂しさを表現するスパイスになっていた。このあたりの心憎い演出が余韻を膨らませていたし、出所したヴリンクスが昔の部下に会って「うるさいところには慣れていない」とか「大勢のところは苦手だ」などのセリフは刑務所での孤独な生活をにじませる洒落た会話だったし、それらを通じたわき腹をくすぐられたような気分になる演出が小粋だと感じて、思い込みかもしれないがフランス映画を実感する。
 クランがかつてカミーユを愛していたという回想シーンはないけれど、思わぬところでそのことが暗示される。そこで再びヴリンクスとクランの屈折した関係を、観客の我々が逆に回想する形で理解する事になる。そんな奥深い演出は脚本のなせる技かもしれない。であるからにして、公式ホームページ及びパンフレットで、窃盗を働いているのが警官であること、またヴリンクスとクランの二人がカミーユを愛していたことがストーリー紹介などで記載されているが、これは伏せておくべきだったと思う。オープニングの対比シーンは導入部としてスリルに満ちているし、観客の心を一気に掴む演出だったと思うので、予備知識なしで見たほうが映画の雰囲気を深く味わえることが出来ると思う。
同じことがクランも昔カミーユを愛していたことにも言える。こちらの方がネタバレにした罪は大きい。それと思わせるシーンは無くて、終盤なってカミーユが初めてクランと対面して彼に発した言葉と、ラストでクランがヴリンクスに叫ぶ言葉でもって、実はクランもカミーユを愛していたのだと推測される構成になっている。うっかりしていると、そのことに気づかない観客もでてくるような仕掛けになっていた。最初からそのような関係だと思って二人を見るのと、あとから実はそうだったのだと理解するのでは映画の成り立ちが違うと思うし、それが作品の奥深さとでもいうものだと思うのだが・・・・。
 そしてクランにもエヴのような少しは彼の存在を認めている女性を絡ませ、クランその者の存在を最初から否定していないので、対立軸が成り立っていたと思う。結果的にはその彼女もクランのもとを離れていくので、その辺りからクランの不条理さが顕著になっていくけれども。
あまり登場しないが、この二人の女性は重要な役割を担っていた。そして、あまり登場しないといえば、ミレーユ・ダルクのマヌーも雰囲気があって存在感があった。
 映画全体としては全編に流れる重厚なシンフォニーと共に物語がスピーディに展開していく。そのテンポのよさに最後まで引き付けられたままだった。ローアングルから見上げるようなカット割りは底辺から上層を夢見る人間の視点とも一致していたのかもしれない。
ティティ(フランシス・ルノー)の最後の姿と、その彼が最後まで憎み軽蔑していた相手への仕打ちの処理もピタリとはまっていた。音楽、映像、ストーリー、芝居など映画のもつ醍醐味をすべて完備した一級品だと思う。