おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

逢びき

2019-01-03 19:53:23 | 映画
「逢びき」 1945年 イギリス


監督 デヴィッド・リーン
出演 セリア・ジョンソン トレヴァー・ハワード
   スタンリー・ホロウェイ ジョイス・ケアリー
   アルフィー・バス 

ストーリー
ローラは平凡な勤め人フレッド・ジェッソンの妻で、娘と息子と一人ずつ二人の子の母として、住宅ばかりの郊外に住んで、平ぼんな、しかし幸福な生活を送っている。
彼女は毎週木曜日に近くのミルフォードという町へ朝から汽車で出かけ、一週間分の買物をし、本屋で本を取替え、簡単な昼食をとり、午後は映画を見物したりして、夕方の汽車で帰宅する習慣である。
ある木曜日の夕方、目にすすが入ったのを、ミルフォード駅の喫茶室で一人の医師にとってもらった。
彼はアレック・ハアヴィーという開業医で、ローラとはミルフォード駅から反対の方向に住んでおり、木曜日毎にミルフォード病院に勤めている友人のリンがロンドンへ行くのでその代理にやって来るということが分かった。
二人は互に相手に何か心をひかれる思がして、アレックは次の木曜日にぜひ会ってくれとたのむのだった。
次の木曜日、ローラは心待ちに待ったが彼は来なかった。
会えないのがわびしく、物足りぬ気持で汽車を待っていると、アレックはかけつけて、手術が手間どってぬけられなかった、次の木曜日にはぜひと言った。
次の木曜日、ボートハウスで、二人は愛の告白をし合ったが、帰ると息子が頭にけがをしていた。
ローラは神の戒めのような気がして自責の念にかられた。
次の木曜日ローラはまたアレックと会い、彼にさそわれてリンのアパートに行くと、思いがけずリンが帰宅したので、彼女は屈辱にたえず夜の町を歩きまわった。
駅で彼は心配していたが、彼も妻子ある身の自責にたえず、南アフリカ、ヨハネスブルグの病院に勤務することに決めたと言った。

寸評
結末が最初に示され、回想形式で物語が展開するパターンは時々見受けられるが、この作品ではそれが見事に決まっている。
観客は結末が分かっているので、二人が恋愛感情を高めながらもやがて別れを迎える過程を楽しむことになる。
ローラのナレーションに導かれながら、その様子が描かれていく。
これだけナレーションが多いとシラケても良さそうなものだが、そうはならないのだからナレーションと映像が上手くかみ合っていたという事だろう。
二人の最後の時間を邪魔するドリーにたいするローラのナレーションが入るのだが、一瞬ドリーの口元をアップにするなどして二人の心情を観客に植え付ける導入部が、その後の物語のけん引役を見事に務めている。
何気ない出会いが二人を引き付けていく過程も自然でいい。

医者だというアレックの家庭は描かれないが、ローラの家庭は物語を補完するように描かれる。
そこでは情熱的ではないが妻を思いやる夫の存在と、子供を愛おしむ夫婦の姿と、母親としてのローラの姿が描かれ、彼女の家庭はごく平凡で平穏な家庭なのだとわかる。
しかしローラにとっては平和を感じても幸せを感じることに飢えていたのだろう。
長い夫婦生活はその時間経過のゆえに、青春時代ような幸せを感じウキウキする気持ちを、ましてや人に恋する気持ちを奪っている。
時間の経過とともに、どこかでお互いがどこかで物足りなさを感じたり、ちょっと違うのではないかという違和感を生じさせてきても不思議ではない。
しかしそれを打ち破るために平穏な家庭を壊すことなど出来ないことを大抵の人は自覚している。
満足ではないが不満ではない家庭を、それだけの理由で捨て去ることが出来ないことを知っている。
失うものの大きさもあるだろうし、離婚するにしても解決せねばならない問題が多いことも分かっているからだ。
欲を言えばキリがないが、自分は幸せなのだと満足を自分に言い聞かせる。
それがごく普通の人なのだと思うし、ローラは正にそのような女性だ。

しかしある時、忘れていた感情を思い出し、その感情は失った時間を飛び越えていく。
ローラとアレックが感じた気持ちは誰もが持ち得る感情で、そうだからこそ観客がローラに同化できる作品となっているのだろう。
二人の秘めた関係と対になるように、駅員と喫茶店のマダムを登場させている。
駅員はマダムに好意を持っているようだし、マダムは強がりを言っているがまんざらでもなさそうで、彼等は二人と違いあけっぴろげだ。
狂言回し的に登場し、愛し合ったことだけを胸に秘めて別れていく二人を浮かび上がらせている。
自分にとっては人生の中の大きな思い出だが、それは誰にも語れないし、特に伴侶に対してはそうだろう。
自己嫌悪に陥りながらも一時心を燃え上がらせる普通の人妻を演じたシリア・ジョンソンが素晴らしい。
アレックのトレヴァー・ハワード もかすんでいた。
ローラのアップが、駅で呆然とするところから切り替わるシーンはラストにふさわしいいいショットだ。
夫のフレッドがローラに掛ける言葉はちょっとあざとかったけど、メロドラマとしてはいい出来だ。

愛の予感

2019-01-03 14:43:42 | 映画
「愛の予感」 2007年 日本


監督 小林政広
出演 小林政広 渡辺真起子

ストーリー
新聞社に勤める順一(小林政広)は、数年前に妻をがんで亡くし、中流所得層にとって憧れである東京湾岸の高層マンションで娘と二人暮らしの生活を送っていた。
そんなある日、事件が起こった。
娘が学校の教室で、同級生の女の子に刺し殺されたのだ。
妻も娘も失い、生きる希望を失った順一は、仕事を辞め、鉄工所での職を得て、北海道にある民宿でひっそりと暮らし始める。
そして彼は、その民宿で賄いの仕事をするひとりの女、典子(渡辺真起子)と出会う。
この女性こそが、順一の娘を殺した子の母親だった。
典子もまた身を隠すように東京を離れ、北海道の僻地でひっそりと暮らしていたのだ。
互いに名乗ることもせず、言葉を交わすこともない2人だったが、やがて順一にとって、原罪を背負ったかのように生きる典子が、次第にかけがえのない存在になっていく。
ある日、順一は買い求めた携帯電話を愛情表現として典子に渡すが、典子は順一を徹底的に拒絶する。
しかし、典子の心に変化が起こり潤いが漂い始める。
今度は典子が順一に携帯電話を渡すが、順一はその携帯電話を屑篭に捨ててしまう。
はたして二人は心を通わすことが出来るのだろうか・・・?
二人の間に愛は芽生えるのだろうか・・・?

寸評
主人公の男は元新聞記者ということもあって、佐世保で起きた小6女生徒の殺害事件を連想させる。
男は当時毎日新聞の記者だった御手洗氏がモデルなのかもしれないが、そのことは全く関係なくて題材をそこから得ただけの作品だと思われる。
事件の背景とか、当事者である小学六年生であった女生徒の心象に迫っているわけではなくて、加害者の女生徒をかかえた母親と、同級生だった娘を殺害された被害者である父親のいたたまれぬその後の人生を描きながら、やがて不条理の愛情を芽生えさせる恋愛映画だったと思う。
ただしこの作品はただの恋愛映画ではなくて、構成は実験映画めいていて劇中のセリフは全くない。
冒頭に加害者の母親と、被害者の父親へのインタビューがあり、そこで二人の肉声を聞かされる。
ふてくされたように見える母親、すべて親の責任なのかと開き直る母親、子供のことがよくわからないと戸惑いを見せる母親。
冒頭のインタビューに答える渡辺真紀子さんは存在感があって、その後のセリフのない映画を際立たせる役目をしっかりとこなしていた。
ただ謝りたいという加害者の母親と、その伝言を聞いても会いたくありませんと拒絶する被害者の父親。
そこで終わったインタビューのあとはラストの父親の独白まで台詞が入ることはない。
ただただ同じようなシーンが何回も何回も繰り返されるだけである。
男は製鋼所で同じような作業を繰り返し、宿舎に帰っては晩御飯を食べ風呂に入るだけの生活。
女は宿舎の賄い婦としてジャガイモの皮むきなど、これまた毎日同じような作業を繰り返し、一人壁に向かってサンドイッチの昼食をとる毎日。
それが何回も何回もあきるほど繰り返される。
ところがセリフのない同じような画面を見ているうちに観客である僕はふと気付くのだ。
女は卵焼きを作っているのに男のメニューにはなくて、彼はいつも卵かけご飯を食べているのはなぜ?
どうやらおかずには箸をつけていないようなのだが、いったいそれはなぜ?
そこで僕は推測する。
いつかの時点で生卵でよいことを伝えたはずだから男と女に会話がなかったわけではないのだと。
そう思うと男はわざとおかずに箸をつけていないのだと思えてきた。
おそらく男は女が加害者の母親であることを気づいていて、彼女の作ったものなど口にいれたくないという意思表示ではないのかと。
そう想像すると、とたんにこの映画は自分の中で急展開を見せる。
女はなぜおかずを食べなないのか問いただした筈だとか、もしかするとそのことを通じて男は自分の正体を女に告げたのかもしれないとか、勝手な想像が駆け巡りだす。
そうしているうちに最後に男の独白を聞く。
「僕は貴女なしでは生きられない。貴女と一緒では生きていく資格がない。だからあなたをただただ・・・。」と。
そのあとの続く言葉はきっと「愛し続けることだけ」だったと思う。
親として子供の責任を背負う必要に迫られ、それでもその親にも人としての一生が残っており、そこには苦行とも思える人生が生み出され・・・。
切ないなあ~。