浜野巌治


博多湾の浜辺に住む頑固ジジイです。

平尾昌晃さんのこと

2017年07月30日 | 日記

けさ、ラジオ深夜便を聞いていたら、平尾昌晃さんの元気な声が聞こえてきた。萩本欽一さんを相手にいつもの明るい声だった。

平尾さんの訃報を先週聞いたばかり。79歳、私と同い年だった。

湘南ボーイから慶応ボーイ、そして、ジャズ教室で学び、ロカビリー歌手となって若者たちを熱狂させたことなどを楽し気に語っていた。

『みよちゃん』、ぼくの可愛いみよちゃんは色が白くて純情で、前髪垂らしたかわいい子・・・平尾さんが作った歌。

五木ひろしさんの『よこはま たそがれ』、『霧の摩周湖』これは布施明。『瀬戸の花嫁』『わたしの城下町』小柳るみ子。

たくさんの歌い手さんに作曲した歌を提供し、歌手として育てあげた稀有な人。

平尾さんは肺がんを治療していた、肺炎で亡くなった由、同年のよしみ、何かしら身近な方であった。

偶然聴いたラジオ、「コメディアン欽ちゃんの人間塾」で4月16日に放送されたものを深夜便アーカイブで再放送したものだった。

 

これはムラサキタマネギの断面。

お昼、トーストに乗っける野菜を刻んだが、ユニークな造形美に小さな感動!


ヒマワリ

2017年07月28日 | 日記

北側の花壇でヒマワリが咲いた。

ベランダから見ると、最初に咲いたヒマワリに続いて、右側の背の低いヒマワリも見事に咲いた。

この美しいヒマワリを咲かせていただいた花の会の皆さんに感謝!

 

 


母との思い出

2017年07月27日 | 日記

長男が「仕事で熊本へ行く。ちょっとばかり時間があるので、墓参りをしてくる」という。

「俺は7月のお盆には墓参りをしなかった。8月に行くつもりだが、それは嬉しい!」と。

母のことを思い出した。

去年のブログを再掲する。

 

 

 

「おかあさ~ん!」

2016年07月30日 | 日記

母に会いたいという一念だった。いま、母がこちらに向かって歩いてくる。

この道を歩るいて行けば、母に会える・・・不思議な衝動が私を突き動かした。

暑熱に包まれた白い一本道、熊蝉がが鳴いていた。雲仙岳が青い有明海の向こうにどっかり座っていた。

70年むかしのこと。

あの日…

2005年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム
 

 60年前、日本は毎日のように空襲に見舞われていた。おじいは小学校(当時、国民学校)の2年生だった。
昭和20年7月1日、熊本市がB29による焼夷弾空襲を受け、おじいは近所の人たちと火の雨の下を逃げた。夜が明けて、おじいの母と姉3人、無言で手を取り合ってけがないことを確かめあった。
 昼ころだった。父の伯父の長男が家を訪ねてきた。「危ない!みんな田舎へ来い、疎開だ」という。母と姉は家を守る、おじいだけ伯父の家に疎開させてもらうことになり、夕方、汽車で田舎の伯父の家に向かった。
 いつもは海水浴ができる海だった。釣れたばかりの魚を刺身で食べさせてもらえる楽しい伯父の家だった。しかし、この日は独りきり、母も姉もいない。伯父は囲炉裏のそばにおじいを座らせ、黙って湯飲みを渡した。焼酎だった。黙って飲んだ。伯父は目を細めながら私を見つめるばかり、伯父はおじいの父のお兄さんなのだ。おじいが生まれて5ヶ月目で、弟が戦死し、おじいのことが不憫だったらしい。多くを話さなかったが、空襲で死なせたくない、ただその一心で、いとこのおじいを手許に呼び寄せたのだった。
 網田国民学校赤瀬分校。2年生の教室といっても、1年生のいとこと一緒。いや6年生まで一つの教室だった。空襲が激しくなり、いつもは本校に通っていた高学年もいっしょだった。

 夏休みももうすぐ、というころ…学校が休みになった。雲一つない青空、眼前に広がる有明海の青い海、その向こうに秀麗な雲仙岳が美しい稜線を見せていた。熊蝉が大合唱を続けていた。いとこのヒノマル君と二人、分教場の石垣に座ってこの風景を眺めていた。お観音様の後ろの線路を汽車が上ってきた。急勾配の線路を汽車はゆっくりゆっくり走ってくる。熊本から三角へ向かう列車だ。いつもは赤瀬駅に停車するのだが、この時期、燃料を節約するため、急坂の途中の駅には停車しなくなっていた。
 おじいは、黙って歩き出した。いとこのヒノマル君は黙ってついてきた。「ドコへ行く?」「…」おじいは無音で歩いた。どこへ行くのかおじいにもわからなかった。海岸の国道に出たとき、ヒノマル君が叫んだ「ドコヘユクノ!」おじいはなお、東へ、網田駅の方向へ、熊本の方へ歩いていた。ヒノマル君は慌てた。もう隣りの集落が見える。「アブナイ、やられるゾ!」確かに隣りの村に小学生が足を踏み入れたことはない。それでもおじいは歩いた。
 白く乾いた海沿いの道は車通らない、人影もない。海と山の狭間をどこまでも続いていた。ヒノマル君はいつの間にかいなくなった。おじいは一人、何かに引き寄せられるように歩いた。何かそっちへ行かなければならない…という思いだった。
藁草履を履いていた。道の石は痛くはなかった。照り返すまぶしい光も辛くはなかった。喉の渇きもなかった。ひたすら道を急いだ。
 遠くに人影が見えた。女の人だ。見覚えのある姿かたち。「おかあさーん!」走った。10日か2週間も会っていなかった。会いたかった母だった。
 「あんた、どうしてこんな所まで一人できたの?」答えることができなかった。ただ泣いた。

60年たった今も答えられない。何も説明もできない。ただ、足が母の来る方向を向いて歩いた!としか言いようがない。いま地図を広げてみると、網田ー赤瀬本村間4キロ、母と邂逅した場所は平岩という集落、赤瀬本村から1.3キロの地点。小学校2年生の子供が誰から教えられたわけでもなく、いつ会いに行くという連絡があったわけでもないのに、ただ、ひたすら母のもとへ歩いたというのは、人間の第6感=インスピレーションとしか言いようがない。
 おじいは、たまに、少しだけテレパシーを感じることがある。こんなことは今まで誰にも話したことはないが、誰かが困ったというとき、何か胸が騒ぐことがあるんだ。