浜野巌治


博多湾の浜辺に住む頑固ジジイです。

ペ・ヨン汁

2004年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム
 ぺ・ヨン汁とはおもしろい!
風邪がよくなってご生還!おめでとう。(ゴメンナサイ、謎の会話がどこかとつながっています)
ホント風邪がどこかへ飛んでゆくと生き返った心地がします。熱に悩まされ、体が痛み、意識朦朧になると、逆に、自分が生きている!ことを実感するのでは?。
 おじいは若いころ、よく深酒をして、ひどい二日酔いに悩まされ、頭痛、吐き気、の激震を味わったなあ。こころの鬱積を酒の勢いで爆発させていた。もう死ぬかというくらい頭の中も、体もメチャメチャになったとき、“俺は生きている”とへんな悟りを知ったような気がする。
かりに男の子でも、絶対お勧めできないよ。

 ダイエー球団、ソフトバンクへの譲渡契約が終了。ダイエーの経営は16年だった。


笑顔が消えない…

2004年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
 年賀状を買わなければいけないな、と思う季節になった。
喪中につき年末年始のご挨拶を失礼します、という挨拶状が相次いで届く。

 むかし仕事をいっしょにした仲間からも葉書が届いた。奥さんが亡くなられた由、『ほら、聞いてごらん、とおなかをつきだして、こどもがおなかを蹴るのを聞かせてくれたときの誇りに満ちた笑顔が、いつまでも消えません…』
四国に住む友は奥さんと霊場を回る約束をしていたそうで、残りの霊場をこれから一緒に訪ねるつもり、と記しています。

 その奥さんとまったく同じ名前、“カズちゃんが”亡くなったという訃報がけさ届いた。私の遠縁で幼馴染、子供のころ遊んだ。高校は私の後輩、心優しい子だった。享年62歳だった。


蜂蜜焼酎

2004年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
 お友達を誘い、妻と3人別府ー臼杵へ1泊2日のドライブ。
2日間、快晴。かえでの紅葉と銀杏の黄金色が楽しめた。

 きのうきょう、産地直売の店などでミツバチの巣を売っていないか?探した。残念、見つけることができなかった。実は“蜂蜜焼酎”を教わり、その美味さにシビレたのだ。先日、唐津の野菜売り場でミツバチの巣を売っていた。シメタ!これで“蜂蜜焼酎”できるゾと、さっそく買い込み、家で製造にとりかかった。鍋に焼酎を入れ、ジンワリと熱を加える。そこへミツバチの巣、つまり、六角形の巣穴に蜜蜂たちがせっせと溜め込んで蜜で満杯になった巣を丸ごとほうり込む。7センチ角くらいの巣は少しずつ下のほうから溶けてゆく。蜂蜜の甘い匂いと焼酎の香りが混然となって鼻をくすぐる。蜜蝋が浮かび出る。蜜蝋は蜜蜂たちの腹から分泌した成分で化粧品などに珍重されるという。さあ、巣の形は溶けてなくなった。蜜蝋に混じっていた不純物を漉せばOK。まだ少し熱いが口に含む。フムフム、いい味!焼酎で押さえられて甘みがほどよい加減になっている。おばあと二人、グビリ、グビリ…ウマイゾ、ウマイゾ…だが酔わない。

 “蜜蜂焼酎”を教えてくださったのは、宮崎県五ヶ瀬町やまめの里、秋本治様である。8月、やまめの村で行われた『ガゴガ岩屋夜なべ談義』の際、食前酒として出されたもので、このときは西洋蜜蜂の巣ではなく、純粋、日本蜜蜂、それも九州脊梁山地の山の蜜が集まった巣で作られたものであった。この“蜂蜜焼酎は”疲れを癒し、元気を回復させる特効薬だそうな。あの夜、6時から午前1時半まで、山を歩き回り疲れているはずの男達が、夜なべ談義に興じたのも、この“蜂蜜焼酎”とマムシの炭火焼き、スズメ蜂の黒焼きの酢漬けなどの珍味のせいではなかったか?と思っている。
 「ガゴガ岩屋夜なべ談義」については、いつかまたご紹介してみたい。



気がついたら俺は…

2004年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム
  《続き》
   気がついたら俺は路上生活者

   そうだ天下晴れての路上人だ
   何でこうなったか考えてみる
   あれこれいろいろと
   ちよっとお人よし過ぎたかな
   いや 結局俺は運が悪いのだ
   そういうことにしておこう
   恨むまいぞ泣くまいぞ

   港湾での力仕事はきつい
   仕事にありついただけでも結構だ
   だがきつい だが他人(ひと)もやっている
   頑張ろう 頑張るぞ
   雨の日は仕事がない 空き缶拾いだ
   捨てた自転車を集める仕事もする
   雨合羽びしょ濡れだ重い
   これも人生歯を喰いしばる
   大雨で仕事のない時は
   駅の隅の隅っこで日記を書く
   拾い集めた古本を読む
   ほっとするこのひと刻
   俺のオアシスだ まだ人間なのだ

   おおそうだ かれこれ二年だ
   息子達はどうしているかなあ
   あいつらは俺を探しているだろう
   許してくれよこの甲斐性のないこの父を
   思わず胸の奥が炸裂する
   そうだ俺はまだ五十六だ ようし
   今年中には何としても娑婆に還るぞ
   市民に戻るぞ
   俺の体の中の血が騒ぐ

   居所の判らぬこの父を
   息子達はどう思っているだろか
   まさか路上生活者になっているとは
   さらさら思っていまい
   入院して病に苦しんだことも
   知るはずがない 知らせていない
   子供二人は必死に俺を捜してるだろう
   あの母親のあいつをなじってるだろよ
   この俺はきっと近いうちに
   元気な顔して必ず
   お前達二人の前に顔出すぞ
   待ってろよ
   近々に通信するからなあ
   待っていてくれよ 元気でなあ
   勉強しろとは言わないぞ
   頑張れよ人生になあ

 この詩は福岡市にお住まいのM.Mさんの作。M.Mさんは92歳、いまも朗読ボランティアとして活動を続けていられるおばあちゃん。この文は仲間の文集に去年掲載された。M.Mさんは博多駅など路上生活者の姿があるところへ出かけては、ご主人のいらなくなったマフラーや暖かい食べ物を届けてみんなの話を聞き続けている。この詩は数人の路上生活者の話を一つに集約したものだという。
 この詩のことを教えていただいたO.M様も朗読ボランティア活動を長く続けていられる方。昔、私がマスコミの世界で仕事をしていたことを知ってコピーを下さった。
 寒風が吹くと私はこの詩を思い出す。私のいとこが一人消息不明になっている。路上生活者とすれ違うたびに、私は顔を確認する。もしやいとこでは?と。
 気がついたとき俺は…人生の歯車が一つ噛み合わなくなる、俺だってその危険性と隣り合わせに生きてきた。短気、激怒症の私。ヤケになるまい!可愛い孫と会えなくなるようなことにならないようにしよう!オトコをつなぐ究極の糸、それは子であり孫である。

 昨夜のニュースでホームレスの人たちを支援する福岡の組織がNPOの認定を受けたと伝えていた。



路上人

2004年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム
 天神の雑踏の中で、ビラを配り、カンパの呼びかけをしているひとたちがいた。
築港日雇労働組合、おそらく博多港の港湾作業で働くひとたちであろう。チラシの文面に「野宿をする仲間の命を守りるために炊き出しのカンパをお願いします」とある。「私たちが就労する朝の築港の寄せ場にはまったく仕事がなかった盆前と比べると、わずかではありますが、仕事が出ています。しかし、多くの仲間がアブレさせられている現実はかわりません…」 ひとつの詩を預かっていたことを思い出した。シベリアから風が吹きはじめ、朝の気温が10度以下になってきた。

 『路上人の決意』    91歳 女性 

   希わずともやってくる人生の豹変
   俺が会社を追われ
   職探しもままならずあせるうちに
   失業保険も切れた
   退職金の大半分は借金返済と
   息子二人の学費の送金
   妻のパートだけでは暮らしにくい
   俺はあせっていた

   再就職の見つからぬうちに
   妻には恋人ができた
   遂に離婚を迫る
   その昔妻は齢の離れた恋人だった
   初々しかった
   結婚式の誓文を二人で読んだ

   あれはたわむれだったのか
   俺も男だ離婚に印を押してやった
   ローンつきの家を売って折半
   手取りはわずかだ
   離婚を言い出した奴に手切れ金とは
   あつかましいぞ だがままよ
   ない金はたいてくれてやった
   ああさばさばした

   それも束の間 俺は病気になった
   入院生活はじまる
   医者も看護婦もやさしい
   地獄に仏だ 嬉しかった
   3ヶ月ぶりにようやく退院
   だがこれですっかり文無しだ
   6畳一間の仮生活も遂に
   おん出て行かざるをえない

   気がついたら俺は路上生活者…

 《つづく》