久しぶりに美しい夕焼け空を見た。
コロナ禍の本当の恐ろしさがいよいよ巷間に満ちてきたー
どうやら、デルタ型のコロナがまん延してきたらしい。
学童や若者には遠い存在だったコロナが急に身近なところへ迫っている。
渋谷に東京都が設けた接種会場では若者たちの悲痛な声が聞こえる。
さいたまから来た女性「さいたまでは若い世代にはまだ順番が来ない!んです」
「いまは入院もできないと聞いて怖いです。はやくワクチンを打って
ほしいんです!」
こうした悲痛な声を誰が聞き、問題を解決してくれるのか???」
東京都の若者接種、抽選競争倍率6倍超。
どうやら、デルタ型のコロナがまん延してきたらしい。
学童や若者には遠い存在だったコロナが急に身近なところへ迫っている。
渋谷に東京都が設けた接種会場では若者たちの悲痛な声が聞こえる。
さいたまから来た女性「さいたまでは若い世代にはまだ順番が来ない!んです」
「いまは入院もできないと聞いて怖いです。はやくワクチンを打って
ほしいんです!」
こうした悲痛な声を誰が聞き、問題を解決してくれるのか???」
東京都の若者接種、抽選競争倍率6倍超。
去年のブログ記事を、ブログ欄が再録してくれている。
参考までに・・・
コウヤマキ④
2020年08月27日 | 日記
台風8号は朝鮮半島西岸を北上し、消滅した。
さいわい、九州などでの風雨による被害は少なかったが・・・
高野槇(コウヤママキ)にまつわる話を少しずつ述べている。
我が国と隣国の縁(えにし)のほんの一部を語るもの。
「百済の武寧王」とは?
2000年9月10日 西日本新聞佐賀版 ソウル9日 田代俊一郎
『4世紀~7世紀にかけて朝鮮半島栄えた百済
第25代王 武寧王の出生地は佐賀県加唐島』
韓国初の論文 日韓交流の原点に光
慶北大学史学科教授文鉉氏
武寧王の出生地は佐賀県鎮西町加唐島とする論文が
2000年9月発売の韓国の史学雑誌「史学研究」に発表された。
韓国慶北大学文教授が武寧王の墓誌銘(正式には売地券)などから
結論付けた。
日本書紀は出生地を加唐島(日本書記では“筑紫各羅嶋”とある)
と記しているが、韓国の歴史書は反日感情もあって出生地については
一切触れておらず、初めて韓国で言及した論文として注目を集めて
いる。
文教授は韓国でも有名な歴史学者で、日本書紀の研究家としても
知られる。同教授の論拠は武寧王の墓誌銘だ。1971年公州市で
未盗掘のまま発見された武寧王の墓の中から見つかった。
墓誌銘には出生地についての記述はないが、523年の没年日と62歳
で死亡したことが記されていた。これは、日本書紀の記述とまったく
同じだ。文教授は1999年7月加唐島を現地調査したうえで「日本
書記の記述が正確だ」として、出生地は「加唐島」との結論を出した。
当時、倭国(日本)と百済の交流は活発で加唐島は、加唐島は
往来する舟のコースにあたり、日本に行く途中、武寧王の母親が
この島で男の子を出産したという。加唐島の言い伝えが残る。
文教授は「日本書紀の記述は信頼性に欠ける部分もあるが、百済の
記述は正確だ。日本に渡来した百済人が日本書紀の編集に参加して
いたのではないか。韓国の学者からの反発もあるが、学者としての
仕事から発表した」と話す。
この論文は学術的な意味だけでなく、古代からの日韓交流の
シンボルとしても今後、武寧王が話題になりそうだ。」
このように、日本書紀の研究家や地元、佐賀県北松浦半島の
地元では江戸時代から、武寧王のことは大事に扱われていた。
韓国の公州市とは―地図
武寧王陵墓(古墳)ソウルの南200キロ、宋山里古墳群がある。
1971年(昭和46年)忠清北道公州市宋山里で工事中発見!
多数の副葬品と墓誌銘があった。武寧王と王妃の合葬陵
加唐島
玄界灘に浮かぶ人口300人弱の小さな島
唐津呼子から7キロ、20分。4往復の連絡船
地図:朝鮮半島、対馬、壱岐、松浦、加唐島をつなぐ
私は「野山を歩く」仲間50人をご案内した。
2002年8月、武寧王が生まれた場所という海蝕洞窟へ行った。
向かいには松島、はるか沖の方に壱岐島。
波がえぐった半洞窟 462年今から1500年昔のことを思った。
この洞窟そばに赤ん坊の武寧王に産湯を使わせたという湧水
傍らに高野槙の木が植えられていた。オビヤ浦の写真
武寧王の陵墓から見つかった墓誌銘、何の木?
高野槙は日本の和歌山や四国、九州ににしか自生しない木、
武寧王のお棺もまた、この高野槙で作られていた。
日本ではお正月やお盆に高野槙を仏壇や神棚に飾る。
写真:加唐島、武寧王が生まれたところと伝えられる洞窟
『日本書紀』が語る
もうひとつの物語 武寧王となる男児を生んだ女性とはー
(日本書紀から抜粋:鎮西町史)より
『日本書紀』には倭の五王の最後の武王、つまり雄略天皇の段に、
鎮西町とかかわりがあるのではないかと考えられる記事がある。
雄略天皇五年の条の百済の武寧王の出生にまつわる説話。
五世紀の半ば、百済は高句麗の圧迫を防ぐため、日本と同盟を
結び、日本に人質を送っていた。ところが雄略天皇二年、人質で
あった池津姫は不義を犯したことをとがめられて処刑された。この
ことによって日本との関係にひびが入るのを恐れた百済の
(こうろ)王はその弟(こにきし)を日本に送ることにした。
そとき、王はこにきしの要望に応えて側室の一人を与えたが、
彼女はすでに懐妊し、産み月も近かった。王は途中で男の子が
生まれたら、ただちにその子を送り返すようにと言った。
こにきしが筑紫の各羅島(かからのしま)に到着したとき、
側室は男児を産み落とした。
島で生まれたので男児は「島君(しませき)」と名付けられ、百済に
送り返された。この男児は成人ののち王位を継ぎ、武寧王となった。
それ故に、百済の人は、各羅島を主島(にりむせま)と呼んでいる。
※ 桓武天皇の母、高野新笠(百済系渡来人、武寧王から10世)
4世紀から5世紀にかけて日本はたびたび軍勢を朝鮮半島の弁韓
(任那)に派遣して拠点を確保し、また百済・新羅・高句麗に
介入してこれらを支配下に置こうとした。そのための出航地が
どこであったか『日本書紀』には書かれていない。
しかし、当時の造船能力や玄界灘を安全に渡海できるのは鎮西町を
含む北松浦半島であったと考えられる。
(つづく)
コウヤマキ③
2020年08月22日 | 日記
以下の文は、2018年、仲間の勉強会で私が発表した内容です。
大河内はるみ様のブログに記された内容をお許しを得てブログにも
掲載させていただきました。
2018年12月8日
日本と韓国 その縁(えにし)をたどる
~加唐島…日本の天皇家と百済の武寧王~
“近くて遠い国”といわれる日本と韓国。両国の関係は領土問題や
慰安婦問題などを抱え、いま冷え込んだ状況が続いています。特に
「徴用工訴訟」問題など、日韓関係は外交的孤立状態にあります。
しかし、日本と韓国はいつの時代でも隣国同士であることに変わり
ありません。
去年のこの勉強会で韓国のことをもっと知ろうと、私たちの仲間
が勉強の成果を発表しました。きょう、私はもうひとつ佐賀県唐津市
の加唐島に伝わる一つの物語を紹介させていただきます。
私たちの足元にあるこの日韓の問題ですが、日韓を結ぶ絆が私たちの
身近なところに存在していることを教えてくださったのは佐賀県
唐津市にある老舗旅館「洋々閣」の女将 大河内はるみ様でした。
彼女は自分のブログに地元唐津の伝説や歴史を折にふれ紹介して
いらっしゃいますが、平成13年12月23日、天皇陛下がご誕生日の
記者会見で次のようなご発言があったことから、この物語を
はじめています。
平成13年(2001年)12月23日の平成天皇のご発言
「日本と韓国の人々の間には、古くから深い交流があったことは、
日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や
招聘された人々によって、さまざまな文化や技術が伝えられました。
宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め
いまも折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が
日本の人々と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされた
ことは幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に大きく
寄与したことと思っています。
私自身(天皇陛下)としては、桓武天皇(平安遷都を行った)の
生母が百済の武寧王の子孫であると『続日本紀』に記されている
ことに、韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士が代々日本に
招聘されるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に
仏教を伝えた(仏教公伝)ことで知られております。
しかし残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりでは
ありませんでした。このことを私どもは忘れてはならないと思います。
ワールドカップを控え、両国民の交流が盛んになっていますが、
それが良い方向に向かうためには、両国の人々が、それぞれの国が
歩んできた道を、個々の出来事において正確に知ることに努め、
個人個人として互いの立場を理解することが大切と考えます。両国民の
間に理解と信頼感が深まることを願っています。」
この内容は宮内庁記者クラブのメンバーとの記者会見で、
2002年開催予定のサッカーワールドカップの日韓共同開催を前提に
「歴史的、地理的にも近い韓国に対し、陛下がもっておられる関心、
思いなどをお聞かせください」と質問した。これに対するお答えが
上記の内容であった。
「百済」
6世紀の朝鮮半島・・・北に高句麗
南西に百済
東に新羅
伽耶(加羅・任那)対馬と向かい合うあたり
(続く)
コウヤマキ②
2020年08月21日 | 日記
先日(19日)このブログで神棚、仏壇にお供えするコウヤマキ
(高野槇)の生け花の束を求めたことを書いた。
(コウヤマキ)
古来、珍重される高野槙、その高野槇で作られた棺がお隣の百済の国、
25代武寧王の古墳から発掘された!そのことを知ったのは
2002年平成14年だった。まだ私はブログをはじめていなかった。
少しばかり、高野槇にまつわる話を記そう。
唐津から北西へ、秀吉がつくった名護屋城がある。そしてもう一つ
呼子港というこれも昔から知られた港がある。
武寧王が生まれたという伝説の島「加唐島」へ行った。
呼子港から連絡船に乗って30分あまり、玄界灘が見え始め、呼子港
を取り巻くようにいくつかの島が点在する海域に出る。
「加唐島(かからしま)」が見える。
この島の北端の展望台に立てば、壱岐の島が目の前に見える。その先は
対馬、そして、さらに朝鮮半島へと連なる・・・
大昔、縄文、弥生の時代からこの地は朝鮮半島と日本を結ぶ重要な
交通路であった。
加唐島の桟橋の降り立つ。そこから坂道を10分ほど登り、やがて海が
見えだしたあたり、海側に下ると左手に巨大な海蝕洞窟が見えてくる。
“オビヤの浦”と島の人たちが呼ぶこのあたりが武寧王が生まれた地と
島の人たちの間に伝わる“地”でした。
波が打ち寄せ打ち寄せして穿たれた大きな洞窟、ここが武寧王が
生まれた場所と島人にも伝わる場所でした。
武寧王が産湯を使ったという小さな湧き水があったり、1540年昔の
ことを案内していただいた島の男は、きのうのことのように語り
ました。
高野槇の若木がこの泉のそばに植えられていました。
(つづく)
参考までに・・・
コウヤマキ④
2020年08月27日 | 日記
台風8号は朝鮮半島西岸を北上し、消滅した。
さいわい、九州などでの風雨による被害は少なかったが・・・
高野槇(コウヤママキ)にまつわる話を少しずつ述べている。
我が国と隣国の縁(えにし)のほんの一部を語るもの。
「百済の武寧王」とは?
2000年9月10日 西日本新聞佐賀版 ソウル9日 田代俊一郎
『4世紀~7世紀にかけて朝鮮半島栄えた百済
第25代王 武寧王の出生地は佐賀県加唐島』
韓国初の論文 日韓交流の原点に光
慶北大学史学科教授文鉉氏
武寧王の出生地は佐賀県鎮西町加唐島とする論文が
2000年9月発売の韓国の史学雑誌「史学研究」に発表された。
韓国慶北大学文教授が武寧王の墓誌銘(正式には売地券)などから
結論付けた。
日本書紀は出生地を加唐島(日本書記では“筑紫各羅嶋”とある)
と記しているが、韓国の歴史書は反日感情もあって出生地については
一切触れておらず、初めて韓国で言及した論文として注目を集めて
いる。
文教授は韓国でも有名な歴史学者で、日本書紀の研究家としても
知られる。同教授の論拠は武寧王の墓誌銘だ。1971年公州市で
未盗掘のまま発見された武寧王の墓の中から見つかった。
墓誌銘には出生地についての記述はないが、523年の没年日と62歳
で死亡したことが記されていた。これは、日本書紀の記述とまったく
同じだ。文教授は1999年7月加唐島を現地調査したうえで「日本
書記の記述が正確だ」として、出生地は「加唐島」との結論を出した。
当時、倭国(日本)と百済の交流は活発で加唐島は、加唐島は
往来する舟のコースにあたり、日本に行く途中、武寧王の母親が
この島で男の子を出産したという。加唐島の言い伝えが残る。
文教授は「日本書紀の記述は信頼性に欠ける部分もあるが、百済の
記述は正確だ。日本に渡来した百済人が日本書紀の編集に参加して
いたのではないか。韓国の学者からの反発もあるが、学者としての
仕事から発表した」と話す。
この論文は学術的な意味だけでなく、古代からの日韓交流の
シンボルとしても今後、武寧王が話題になりそうだ。」
このように、日本書紀の研究家や地元、佐賀県北松浦半島の
地元では江戸時代から、武寧王のことは大事に扱われていた。
韓国の公州市とは―地図
武寧王陵墓(古墳)ソウルの南200キロ、宋山里古墳群がある。
1971年(昭和46年)忠清北道公州市宋山里で工事中発見!
多数の副葬品と墓誌銘があった。武寧王と王妃の合葬陵
加唐島
玄界灘に浮かぶ人口300人弱の小さな島
唐津呼子から7キロ、20分。4往復の連絡船
地図:朝鮮半島、対馬、壱岐、松浦、加唐島をつなぐ
私は「野山を歩く」仲間50人をご案内した。
2002年8月、武寧王が生まれた場所という海蝕洞窟へ行った。
向かいには松島、はるか沖の方に壱岐島。
波がえぐった半洞窟 462年今から1500年昔のことを思った。
この洞窟そばに赤ん坊の武寧王に産湯を使わせたという湧水
傍らに高野槙の木が植えられていた。オビヤ浦の写真
武寧王の陵墓から見つかった墓誌銘、何の木?
高野槙は日本の和歌山や四国、九州ににしか自生しない木、
武寧王のお棺もまた、この高野槙で作られていた。
日本ではお正月やお盆に高野槙を仏壇や神棚に飾る。
写真:加唐島、武寧王が生まれたところと伝えられる洞窟
『日本書紀』が語る
もうひとつの物語 武寧王となる男児を生んだ女性とはー
(日本書紀から抜粋:鎮西町史)より
『日本書紀』には倭の五王の最後の武王、つまり雄略天皇の段に、
鎮西町とかかわりがあるのではないかと考えられる記事がある。
雄略天皇五年の条の百済の武寧王の出生にまつわる説話。
五世紀の半ば、百済は高句麗の圧迫を防ぐため、日本と同盟を
結び、日本に人質を送っていた。ところが雄略天皇二年、人質で
あった池津姫は不義を犯したことをとがめられて処刑された。この
ことによって日本との関係にひびが入るのを恐れた百済の
(こうろ)王はその弟(こにきし)を日本に送ることにした。
そとき、王はこにきしの要望に応えて側室の一人を与えたが、
彼女はすでに懐妊し、産み月も近かった。王は途中で男の子が
生まれたら、ただちにその子を送り返すようにと言った。
こにきしが筑紫の各羅島(かからのしま)に到着したとき、
側室は男児を産み落とした。
島で生まれたので男児は「島君(しませき)」と名付けられ、百済に
送り返された。この男児は成人ののち王位を継ぎ、武寧王となった。
それ故に、百済の人は、各羅島を主島(にりむせま)と呼んでいる。
※ 桓武天皇の母、高野新笠(百済系渡来人、武寧王から10世)
4世紀から5世紀にかけて日本はたびたび軍勢を朝鮮半島の弁韓
(任那)に派遣して拠点を確保し、また百済・新羅・高句麗に
介入してこれらを支配下に置こうとした。そのための出航地が
どこであったか『日本書紀』には書かれていない。
しかし、当時の造船能力や玄界灘を安全に渡海できるのは鎮西町を
含む北松浦半島であったと考えられる。
(つづく)
コウヤマキ③
2020年08月22日 | 日記
以下の文は、2018年、仲間の勉強会で私が発表した内容です。
大河内はるみ様のブログに記された内容をお許しを得てブログにも
掲載させていただきました。
2018年12月8日
日本と韓国 その縁(えにし)をたどる
~加唐島…日本の天皇家と百済の武寧王~
“近くて遠い国”といわれる日本と韓国。両国の関係は領土問題や
慰安婦問題などを抱え、いま冷え込んだ状況が続いています。特に
「徴用工訴訟」問題など、日韓関係は外交的孤立状態にあります。
しかし、日本と韓国はいつの時代でも隣国同士であることに変わり
ありません。
去年のこの勉強会で韓国のことをもっと知ろうと、私たちの仲間
が勉強の成果を発表しました。きょう、私はもうひとつ佐賀県唐津市
の加唐島に伝わる一つの物語を紹介させていただきます。
私たちの足元にあるこの日韓の問題ですが、日韓を結ぶ絆が私たちの
身近なところに存在していることを教えてくださったのは佐賀県
唐津市にある老舗旅館「洋々閣」の女将 大河内はるみ様でした。
彼女は自分のブログに地元唐津の伝説や歴史を折にふれ紹介して
いらっしゃいますが、平成13年12月23日、天皇陛下がご誕生日の
記者会見で次のようなご発言があったことから、この物語を
はじめています。
平成13年(2001年)12月23日の平成天皇のご発言
「日本と韓国の人々の間には、古くから深い交流があったことは、
日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や
招聘された人々によって、さまざまな文化や技術が伝えられました。
宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め
いまも折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が
日本の人々と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされた
ことは幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に大きく
寄与したことと思っています。
私自身(天皇陛下)としては、桓武天皇(平安遷都を行った)の
生母が百済の武寧王の子孫であると『続日本紀』に記されている
ことに、韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士が代々日本に
招聘されるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に
仏教を伝えた(仏教公伝)ことで知られております。
しかし残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりでは
ありませんでした。このことを私どもは忘れてはならないと思います。
ワールドカップを控え、両国民の交流が盛んになっていますが、
それが良い方向に向かうためには、両国の人々が、それぞれの国が
歩んできた道を、個々の出来事において正確に知ることに努め、
個人個人として互いの立場を理解することが大切と考えます。両国民の
間に理解と信頼感が深まることを願っています。」
この内容は宮内庁記者クラブのメンバーとの記者会見で、
2002年開催予定のサッカーワールドカップの日韓共同開催を前提に
「歴史的、地理的にも近い韓国に対し、陛下がもっておられる関心、
思いなどをお聞かせください」と質問した。これに対するお答えが
上記の内容であった。
「百済」
6世紀の朝鮮半島・・・北に高句麗
南西に百済
東に新羅
伽耶(加羅・任那)対馬と向かい合うあたり
(続く)
コウヤマキ②
2020年08月21日 | 日記
先日(19日)このブログで神棚、仏壇にお供えするコウヤマキ
(高野槇)の生け花の束を求めたことを書いた。
(コウヤマキ)
古来、珍重される高野槙、その高野槇で作られた棺がお隣の百済の国、
25代武寧王の古墳から発掘された!そのことを知ったのは
2002年平成14年だった。まだ私はブログをはじめていなかった。
少しばかり、高野槇にまつわる話を記そう。
唐津から北西へ、秀吉がつくった名護屋城がある。そしてもう一つ
呼子港というこれも昔から知られた港がある。
武寧王が生まれたという伝説の島「加唐島」へ行った。
呼子港から連絡船に乗って30分あまり、玄界灘が見え始め、呼子港
を取り巻くようにいくつかの島が点在する海域に出る。
「加唐島(かからしま)」が見える。
この島の北端の展望台に立てば、壱岐の島が目の前に見える。その先は
対馬、そして、さらに朝鮮半島へと連なる・・・
大昔、縄文、弥生の時代からこの地は朝鮮半島と日本を結ぶ重要な
交通路であった。
加唐島の桟橋の降り立つ。そこから坂道を10分ほど登り、やがて海が
見えだしたあたり、海側に下ると左手に巨大な海蝕洞窟が見えてくる。
“オビヤの浦”と島の人たちが呼ぶこのあたりが武寧王が生まれた地と
島の人たちの間に伝わる“地”でした。
波が打ち寄せ打ち寄せして穿たれた大きな洞窟、ここが武寧王が
生まれた場所と島人にも伝わる場所でした。
武寧王が産湯を使ったという小さな湧き水があったり、1540年昔の
ことを案内していただいた島の男は、きのうのことのように語り
ました。
高野槇の若木がこの泉のそばに植えられていました。
(つづく)
青空が広がる。
少し暑い。32℃、久しぶりの陽射し。
トンボの群れがベランダの向こうを飛び交う。一枚の写真に10数頭。
残念ながら、固定レンズの小型カメラでは空飛ぶトンボを大きく撮ることは
できない。
ようやくトンボの群れが撮れた!
少し暑い。32℃、久しぶりの陽射し。
トンボの群れがベランダの向こうを飛び交う。一枚の写真に10数頭。
残念ながら、固定レンズの小型カメラでは空飛ぶトンボを大きく撮ることは
できない。
ようやくトンボの群れが撮れた!