浜野巌治


博多湾の浜辺に住む頑固ジジイです。

お月様

2020年08月30日 | 日記
猛暑が続くが、秋の名月の季節が近づく。
お月様大好きのオクチャンへ、福岡の昨夜のお月様です。


(撮影:29 日 20:28)



月の少し右手、少し上の位置に星が見えました。木星???


福岡市西区から早良区方向を見る。

今度の満月は9月3日(木)月齢15.0
「中秋の名月」は10月1日(木)です。





コウヤマキ④

2020年08月27日 | 日記
台風8号は朝鮮半島西岸を北上し、消滅した。
さいわい、九州などでの風雨による被害は少なかったが・・・

高野槇(コウヤママキ)にまつわる話を少しずつ述べている。
我が国と隣国の縁(えにし)のほんの一部を語るもの。


「百済の武寧王」とは?

2000年9月10日 西日本新聞佐賀版 ソウル9日 田代俊一郎
 『4世紀~7世紀にかけて朝鮮半島栄えた百済
   第25代王 武寧王の出生地は佐賀県加唐島』
      韓国初の論文 日韓交流の原点に光
慶北大学史学科教授文鉉氏

 武寧王の出生地は佐賀県鎮西町加唐島とする論文が
2000年9月発売の韓国の史学雑誌「史学研究」に発表された。
韓国慶北大学文教授が武寧王の墓誌銘(正式には売地券)などから
結論付けた。

 日本書紀は出生地を加唐島(日本書記では“筑紫各羅嶋”とある)
と記しているが、韓国の歴史書は反日感情もあって出生地については
一切触れておらず、初めて韓国で言及した論文として注目を集めて
いる。

文教授は韓国でも有名な歴史学者で、日本書紀の研究家としても
知られる。同教授の論拠は武寧王の墓誌銘だ。1971年公州市で
未盗掘のまま発見された武寧王の墓の中から見つかった。
墓誌銘には出生地についての記述はないが、523年の没年日と62歳
で死亡したことが記されていた。これは、日本書紀の記述とまったく
同じだ。文教授は1999年7月加唐島を現地調査したうえで「日本
書記の記述が正確だ」として、出生地は「加唐島」との結論を出した。
 当時、倭国(日本)と百済の交流は活発で加唐島は、加唐島は
往来する舟のコースにあたり、日本に行く途中、武寧王の母親が
この島で男の子を出産したという。加唐島の言い伝えが残る。
 文教授は「日本書紀の記述は信頼性に欠ける部分もあるが、百済の
記述は正確だ。日本に渡来した百済人が日本書紀の編集に参加して
いたのではないか。韓国の学者からの反発もあるが、学者としての
仕事から発表した」と話す。
 この論文は学術的な意味だけでなく、古代からの日韓交流の
シンボルとしても今後、武寧王が話題になりそうだ。」
 このように、日本書紀の研究家や地元、佐賀県北松浦半島の
地元では江戸時代から、武寧王のことは大事に扱われていた。
韓国の公州市とは―地図

 武寧王陵墓(古墳)ソウルの南200キロ、宋山里古墳群がある。 
  1971年(昭和46年)忠清北道公州市宋山里で工事中発見!
    多数の副葬品と墓誌銘があった。武寧王と王妃の合葬陵
    
 加唐島
  玄界灘に浮かぶ人口300人弱の小さな島 
唐津呼子から7キロ、20分。4往復の連絡船
地図:朝鮮半島、対馬、壱岐、松浦、加唐島をつなぐ
私は「野山を歩く」仲間50人をご案内した。
2002年8月、武寧王が生まれた場所という海蝕洞窟へ行った。
向かいには松島、はるか沖の方に壱岐島。
波がえぐった半洞窟 462年今から1500年昔のことを思った。
この洞窟そばに赤ん坊の武寧王に産湯を使わせたという湧水
傍らに高野槙の木が植えられていた。オビヤ浦の写真
武寧王の陵墓から見つかった墓誌銘、何の木?
高野槙は日本の和歌山や四国、九州ににしか自生しない木、
武寧王のお棺もまた、この高野槙で作られていた。
日本ではお正月やお盆に高野槙を仏壇や神棚に飾る。


    写真:加唐島、武寧王が生まれたところと伝えられる洞窟

『日本書紀』が語る
もうひとつの物語 武寧王となる男児を生んだ女性とはー
(日本書紀から抜粋:鎮西町史)より
『日本書紀』には倭の五王の最後の武王、つまり雄略天皇の段に、
鎮西町とかかわりがあるのではないかと考えられる記事がある。
雄略天皇五年の条の百済の武寧王の出生にまつわる説話。 
 五世紀の半ば、百済は高句麗の圧迫を防ぐため、日本と同盟を
結び、日本に人質を送っていた。ところが雄略天皇二年、人質で
あった池津姫は不義を犯したことをとがめられて処刑された。この
ことによって日本との関係にひびが入るのを恐れた百済の
(こうろ)王はその弟(こにきし)を日本に送ることにした。
そとき、王はこにきしの要望に応えて側室の一人を与えたが、
彼女はすでに懐妊し、産み月も近かった。王は途中で男の子が
生まれたら、ただちにその子を送り返すようにと言った。
こにきしが筑紫の各羅島(かからのしま)に到着したとき、
側室は男児を産み落とした。
島で生まれたので男児は「島君(しませき)」と名付けられ、百済に
送り返された。この男児は成人ののち王位を継ぎ、武寧王となった。
それ故に、百済の人は、各羅島を主島(にりむせま)と呼んでいる。

※ 桓武天皇の母、高野新笠(百済系渡来人、武寧王から10世)
 4世紀から5世紀にかけて日本はたびたび軍勢を朝鮮半島の弁韓
(任那)に派遣して拠点を確保し、また百済・新羅・高句麗に
介入してこれらを支配下に置こうとした。そのための出航地が
どこであったか『日本書紀』には書かれていない。

しかし、当時の造船能力や玄界灘を安全に渡海できるのは鎮西町を
含む北松浦半島であったと考えられる。

(つづく)