この記事は私の長男と長女へのメモ。
能登地震がが気になっていたが、能登から連想したのは「能登呂(のとろ)」という日本海軍の水上機母艦のこと。「能登呂」を調べると、「能登呂」の船名の語源は樺太(からふと=当時、日本領)の南西端の岬、“西能登呂岬”からとったという。
当時、日本海軍には「加賀」「蒼龍」「龍穣」など艦載機を搭載した航空母艦があったが、水上機も第1戦で活躍していた。そこで、海軍は貨物船を改造、水上機母艦として、活躍させた。「能登呂」「知床」「襟裳」などの船名がついた艦船はこうした背景で誕生した。
私の父は、「能登呂」に搭載された水上偵察機部隊の小隊長だった。南シナ海での作戦行動中、昭和13年、戦死した。
戦死公報によれば、父の小隊は偵察から母艦への帰還したが、一機が行方不明になり帰還しなかった。小隊長の父は燃料を補給すると同時に、行方不明機を捜索に引き返した。そして、ついに、父の搭乗した機も行方不明となった。
「ワレ、フジチャク ス…」、きれぎれに判読できたという文面、これが母艦に届いた無線信号だった。敵の弾に当たったのか?あるいはエンジンが不調で飛行が不可能だったのか?わからない。
水上機はわずかな水面があれば不時着水が可能。翌日から可能な限りの捜索が続いたらしい。しかし、機体の破片すら発見できなかった。数ヶ月の後、母のもとへ戦死の公報が届いた。母の無念がわかる。
「“後輩を見殺しにできない。助けたい!”お父さんはそんな気持ちだったと思う」と母は繰り返し私に語った。男気のある男だったらしい。要領よく立ち回るようなことは出来なかった。マジメ一本槍の人間だった。
メモのつもりで公開しないはずだったが、手違いで掲載。