福岡県美術展覧会は今年で第65回を数えるという。
日本画、洋画、彫刻、工芸、書、写真、グラフィックデザインへの応募総数3,818点。そのうち、1,389点が入選、表彰式が行われた。
福岡ユネスコ協会長賞を例年、贈っているので、会長の代行で賞状をお渡しした。
なぜ知事賞や市長賞、文化団体の賞にまじって当協会が長年にわたり賞を贈り続けているか、いまとなっては、きちんと説明をしてくれる人もない。
一つの推測、福岡ユネスコ協会が取り組んだ事業がそのきっかけとなったことが想像される。
1958年(昭和33年)、時代はようやく美術を楽しむ環境が生まれてきたかというころだった。福岡にも美術館を作ろうという機運がしだいに盛り上がっていた。
福岡県内には相当数の近代美術作品が企業や家庭に所蔵されているものと思われたことから、当協会はこれらの調査を行い、リストアップして「県内所蔵近代美術展」を企画開催、1959年、1960年と3回連続で実施、大きな成功を収めた。
この近代美術展企画がいま一つ大きな成果を生んだ。この美術調査により画家、青木繁の未公開作品が多数発見された。
1961年(昭和36年)「没後50年青木繁展―その知られざる画業―」を企画構成し、福岡(大丸)小倉(玉屋)、東京(三越本店)で展覧会を開催し、大きな反響を呼んだ。
「ユネスコ国際交流学校美術展」も高い評価を得た。福岡県内の小・中・高の学童生徒を対象にした県展で、入選展示作品を県内で巡回展を行い、その作品を海外に送り、国際交流を行った。
1958年から1966年までこの企画は続いた。
入選作品を送った国々ーブラジル、フランス、ソ連、イタリア、スペイン、ユーゴスラビア、フィンランドなど
作品を送ってきた国々ーオーストラリア、ブルガリア、チェコスロバキア、西ドイツ、イスラエル、イタリア、オランダなどなど
青木繁展から生まれたもの『青木繁・坂本繁二郎とその友―芸術をめぐる悲愴なる三友の輪―』(竹藤寛著、平凡社刊)、著者竹藤寛氏は当福岡ユネスコ協会事務局長であった。また、さまざまな美術展を企画、実施した。
このような活動の中で、福岡ユネスコ協会賞を贈るようになったことは自然の成り行きだったように思われる。
我が家のパソコンが風邪をひいたのか動いてくれない。
鳩山総理がピッツバーグでのG20に出席した。
ピッツバーグ・パイレーツの試合前に始球式を行う鳩山首相。
下は現在のピッツバーグ(ウイキペディアより)。
ピッツバーグのことを書こうと思うがケータイからは思うにまかせない。続きは明日書くことにする。
9月27日日曜日。続きを記す。
ピッツバーグには思い出がある。
アメリカ、ペンシルベニア州の都市。かつて“鉄の街、煙の都”と呼ばれた。アパラチアの炭田と五大湖周辺の鉄鉱床があったことから製鉄業が発展した。しかし、その製鉄業が日本、韓国などに席捲され衰退した。しかし、公害対策と都市再開発が功を奏し、ハイテクと大学の町として生まれ変わり、「アメリカで最も住みやすい街」に選ばれるまでなった。
昭和60年(1985年)だった。不況のどん底にあって何か都市再生の方策はないか模索していた北九州市民にとって、アメリカで最も住みやすい街になったピッツバーグの話は、トンネルの向こうに見えるほの明るい灯に見えた。
北九州市民は動いた。
北九州地域のあすを語ろう!100万都市の市民、行政、経済界などがあすを語ろう!と動いた。