浜野巌治


博多湾の浜辺に住む頑固ジジイです。

昼下がりのカラオケ

2010年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム

土曜日のこと、カラオケで歌った。Mさんご夫妻と私、つれあいの4人。

Mさんは御年90歳、去年、ささやかな卒寿のお祝いをしたが、そのあとカラオケへ繰り出した。音楽が好きなMさんはきっとカラオケがお好きになるのではないかと思ったのだった。このときは、ゆっくり、心行くまで歌うことができなかったので、そのうちにまたご案内しますと言ったきり、約束を果たしていなかった。

それが10カ月越しに実現した。平均年齢80歳という4人、意気揚々とカラオケ店に進軍!眼鏡をかけて、ボタンやつまみをひねくりまわし、ようやく音が出た。ひねくりまわさなくても簡単に操作できるはずだが、機械をまえにすると、何やらひねってみたくなる。

さて、Mさんはご自分が歌いたい歌をメモしてこられた。10数曲書いてある。では、1曲目、「白いブランコ」、ビリーバンバンの歌だ。次は、越路吹雪の「サントワマミー」。キーを上げたり、テンポを早くしたり、カラオケは歌いやすくするために自由自在に操作ができる。Mさんもだんだん調子が出てきた。

私は加山雄三の「君といつまでも」、つれあいは美空ひばりの「愛燦々」などなど、いつか2時間あまりの時間が、あっという間に過ぎた。

「百万本のバラ」、「千の風に乗って」をみんなで歌ってお開きに。

カラオケ店の受け付けは親子連れ、中学生グループ、私より少し年かさのご夫婦など千客万来のようすだった。

90歳のカラオケ挑戦、少し、お疲れではなかったかな、しかし、大きな声を出すのは健康になにより良いと聞く。つれあいは友だちと時折、歌いに行くという。シニア世代にとってすばらしい楽しみに違いない。

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花びらが散らない

2010年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム

きのうは能古島でお花見。花は満開!蕾が少し残っていたから九分咲き?

何か物足りないなあ!と思った。それは花びらが風に舞う姿がなかったこと。

なぜか、花びらが散らない、風に震えながらシッカリがくにつかまっている様子だった。

けさ、緑道を歩いて気がついたのは、ここでも花びらが散っていないということ。そして、5枚の花びらがついたまま、花が落ちているのだ。

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桜を撮影する人影、風に舞う花吹雪があれば…なお風情があるのだろうが。

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寒さがぶり返し、桜も戸惑ってしまったのだろうか?3月14日開花。すでに2週間を過ぎ、18日となった。


お花見

2010年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム

シニアクラブの仲間19人が能古島でお花見を楽しんだ。

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牧の神公園は満開、花見をするのは私たちだけ。

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予報では雲が広がりそうだったが、青空が続き、ポカポカと暖かかった。

青空の下で食べる弁当がどうしてオイイシイ?みんなで飲むビールがなぜウマイ?としみじみと話す仲間のHさん。同感!仕事を休み私も一日を楽しんだ。

14,000歩。


ツバメが戻った

2010年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム

昼飯を食べて事務所に戻ろうとすると、ツバメが帰ってきた!

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「ツバメが帰ってきた!」と喜ぶご近所のみなさん。

「南から南からとんで来た来た渡り鳥、

嬉しそうに楽しそうに富士のお山を眺めてた…」

何という歌だったか、戦後、こんな流行歌が流行った。

よくまあ、数千キロの海原を往復して夫婦仲良く帰ってきたものだ。感動!

去年、この巣にツバメが姿を見せたのは3月31日だった。


水神、五庄屋

2010年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム

いきとしいけるもの、水は命のもと。草も木も、虫も鳥も獣たちも…。いつの時代も、人間生きる限り水の恩恵なしには生きていけない。

江戸時代、筑後川の南岸、江南原と呼ばれた村々は筑後川が作った豊かな大地なのだが、田んぼを潤す水が足りなかった。

島原の乱から数十年後、5人の庄屋が筑後川に堰を造り、掘割で水を引くという遠大な計画に乗り出した。寛文4年(1664年)藩の許可が下りた。工事は1年で出来上がった。

『水神』、箒木逢生が描く崇高な人間のドラマを読み、きのう小説の舞台をつれあいと歩いた。

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筑後川が日田の盆地を抜け、広い筑紫平野へ出てゆるやかな流れになったあたり、いまのうきは市大石にその堰がある。五庄屋遺跡という一つの看板が立つ。

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工事はすべてが人力だった。筑後川の川底に石を沈め、水かさを上げる必要があった。洪水のときも激しい水流に揺るがないよう大石が沈められた。この地域の人々全員が工事に力を尽した。

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“打桶=投げつるべ”と呼ばれる水汲みの道具。実際にはもっと長い綱で水桶を川面に投げ入れ、水が入ったら、その綱で土手の上まで桶を引き上げ、その水を田んぼに入れた。気が遠くなるような水汲みの作業が村の人々の命を支えた。

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大堰から滔々と水が流れる。5人の庄屋が失敗したしたときは腹を切るという決意ではじめた導水計画は成功!水のおかげで村々は豊かになった。その後、4度にわたり堰は改良され、掘割は拡幅された。

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5人を祭る長野水神社。雑草もない。桜が満開だった。

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5人の事績が記され、人々の尊敬をいまも集めているようす。

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隈の上川の川底をサイフォンの原理でくぐり抜けてきた用水が長野水神社の下からまた滔々と流れる。田植え前、水が必要な季節。いま2000数百haの田畑を潤している。

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青い流れが筑後川、その向こう側、緑の田園地帯が大石堰の恩恵を受けている地域。遠くに、耳納連山。筑後川の手前、黒田藩が支配した朝倉地方では、その後、山田堰と用水、三連水車を作った。

遠いご先祖たちの苦闘の歴史、それを掘り起こし小説という世界で読む人に感動を与える作家の仕事。私はその小説に感動し、その物語の舞台を知りたいというそれだけの人間。私の孫たちには少しばかり話を伝えることができる。

きのう訪ねた吉井歴史資料館の館長さんに話を聞くと、もう何人もこの導水のことを調べに来たという。箒木さんの読者だそうだ。