浜野巌治


博多湾の浜辺に住む頑固ジジイです。

福岡西方沖地震

2005年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム
 福岡西方沖地震から昨日で10日が過ぎた。
日が経つにつれ、少しずつ少しずつ、知人や昔の仲間から被害の状況が伝わってくる。
 『火事がなかった!』
 『ケガしなくてよかった!』
 『夜中の寝ている時間でなくてよかった!』
 『それにしても恐ろしかった!』
 『家の中はまだメチャクチャ!』
“まさか”“よもや”“予想だにしない”そんな中の激震だった。
死者1、重軽傷が1000人に満たないというのは、この規模の災害としては、きわめて稀なように思う。

 スマトラ島沖では12月に続き、再度、激震が起こった。
災害による犠牲者ほど痛ましいものはない。ご冥福を祈る。


福岡地震 おばあ、おじいとの闘い

2005年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム
 きのうは、おばあの活躍でゴミ処理に活路が拓けた。
ガラスややきもののカケラは“地震ゴミ”として福岡市が処理してくれるという。ただし、テレビ、冷蔵庫、エアコンなどはダメ。
地震で使えなくなった小さな液晶テレビも2500円を払い、電気店まで持っていかなくてはならないかと思うと気が重い。おばあは、団地住宅管理センターに聞いた、「小さな液晶テレビもダメ?」「ダメだそうです!」おばあはひるまない。市のゴミ処理センターへ電話した。「液晶テレビは地震ゴミ扱い、OK!よ」 エライ!この根性。褒めてあげたい!!!

 地震の夜中には部屋をキレイにしてしまった奥さんがどこにいるでしょう!あのどこから手を付けていいのかわからない状況のなかで、黙々と、手の届くところから順に、100キロ余りのゴミをベランダに運び、ゾウキンで部屋を拭きあげ、掃除機を何度も走らせ、ガラスの粉を吸い取ったすさまじい執念!よく体が持つと驚いたが、さすがに翌日は阿蘇山に登った感じ、足も腰も、腕もこわばってしまった、おまけに、あんまり亭主がイライラさせるので、脳味噌が壊れかかった、とぼやく。

 おばあに言わせると、『お人よしで、何でもハイハイと聞くだけではダメじゃあない!ほんとにだらしない亭主なんだから…
それなのに、意固地、モッコス、怒鳴る、言うことを聞かない。腹が立つ。自分の部屋の片付けもしないで、パソコンのキーボードを叩いてばかり、ガラスややきものの破片10袋を早くゴミ置き場へ持って行け!』
地震保険の申請だ、罹災証明書を区役所からもらって来い、使えなくなったストーブの代わりが欲しい、米がない、つっかい棒を急いで取りつけよう、矢継ぎ早に指令が出る。おじいの頭はまだゆっくりしか回らない。
息子や娘から電話があると、まず、ボンヤリ、ボケ亭主への怒りがこみ上げるらしい。ヨシヨシ…

 かくして、おばあのおじいとの闘いがこれからも続くのだ。
 
 


福岡地震 おばあ、ゴミとの闘い

2005年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム
 地震の揺れがおさまり、世の中に静寂が戻った。
ベランダに出る。同じようにお向かいのベランダに人影がいくつか、放心したように周囲を見回している。人の泣き声も、サイレンの聞こえない。

 おばあは働きはじめた。足の踏み場もないように飛び散ったガラスの破片、木っ端微塵になった陶磁器のカケラ、リビングもキッチンも何から手をつけたらいいか検討もつかない。おばあはデパートの紙の袋に燃えるゴミを捨てる袋をかぶせ、この中にガラスや食器の破片を手で、もちろん手袋をつけて、袋へ捨て始めた。おじいも仕方なく指令に従う。ホントは、せめてデジカメを出来ればビデオカメラを探したい、そして、この惨状を記録したいのだが…
 11じ半、階下のOさんに思い切ってお願いして書棚の引き起こしを手伝ってもらう。10分後、書棚が立ち上がった。散乱した本の山、ステレオ、パソコン、液晶テレビを引き起こし、ビデオカメラを手にすることができた。11時50分だった。 
家の中の状況を撮りはじめたところで、長女から電話が入った。「全員無事!」ほっと安心。
 午後になって時おり、「大丈夫?」と友人知人たちから電話がかかるようになった。おばあが手を休めるのは、見舞いの電話で話をするときだけ、昼食も食べず、水も飲まないで、黙々とガラス、やきもののカケラと闘いを続ける。
「腹がへった、死にそうだ!」とおじいがいっても見向きもしない。
 こうしておばあのゴミとの闘いは夜中2時まで続いた。ガラス、やきもののカケラ10袋、重量はおよそ100キロ近い。
10時53分地震発生、その15時間後、おばあはナントリビング、キッチン、和室、自分の部屋をキレイにしてしまった。もし、嘉奈子さんが来ても、「おばあの家だけは地震が来なかった?」というくらいすっきり片付いたのだ。
 もっとも、食器棚はカラッポ、フローリングはよく見ると波打っており、所々というか10数箇所花瓶が落ちた大きな凹みや皿が落ちて傷をつけた痕が残っているが…
 それよりタイヘンだったのは、ガラスの破片だった。ウィスキーや焼酎、梅酒のビンが割れ、そのアルコールの中に微細なガラス片が混じり、さすがのおばあも処理に困ったそうだ。拭いても拭いても、どこからかガラスの鋭いカケラが顔をだす。ゾウキンで拭き、掃除機で数度、掃除をしても光線の具合でキラッと光る。じゅうたんの中にもガラス片はもぐりこんでいた。
 長女が手伝いに来るというのを押しとどめたのは、へたに手伝ってもらって怪我をさせたくない、余震の心配もある、というわけ。地震から1週間、おばあの闘いはこのガラス、やきものの始末だった。

 もうひとつ、おばあが始末したいのがあった!それは次に。