河津桜が咲きました!
きのうお昼は一輪も確認できなかったが、11時過ぎ5輪ほど開花!
春二番が九州北部に近づいているそうだ。
これから明日にかけて暴風雨、20mの強風、120mmの雨の予想。
河津桜が咲きました!
きのうお昼は一輪も確認できなかったが、11時過ぎ5輪ほど開花!
春二番が九州北部に近づいているそうだ。
これから明日にかけて暴風雨、20mの強風、120mmの雨の予想。
長崎に原爆が投下されるその前日、昭和20年(1945年)8月8日午前11時半頃・・・
西鉄天神大牟田線(現在の筑紫駅)付近で・・・
米軍戦闘機が満員の乗客を乗せた機銃掃射をした。
西鉄(西日本鉄道)の資料によれば、上り、下り二両の電車が戦闘機の銃撃を受けた。
銃撃は何度も繰り返され、乗客と乗員64人が即死、100余名が負傷した・・・
去年2月、私は若者に誘われ、佐世保・大村の戦跡を歩いた。
私の高校時代の旧友、そのお孫は今年大学を卒業、まもなく新たな大学へ進学する。
その彼が、私を誘ってくれた。「終戦直前、福岡の近くで米軍戦闘機が電車を銃撃した話を知ってますか?」
おぼろに記憶はあった。「よし、行こう!」
2月26日月曜日、二人は西鉄大牟田線に乗った。「筑紫駅」で降り、筑紫平和祈念館という戦跡をさがした。
西鉄電車を銃撃したのはP51通称「マスタング」と呼ばれた戦闘機だった。この戦闘機が電車を機銃掃射した。
資料「西鉄筑紫駅列車銃撃事件」によれば、福岡発下り普通電車と筑紫駅に向かう上り普通列車が筑紫駅に近づいたときだった。
数機の米軍戦闘機が急降下して電車に接近、機銃掃射を浴びせたという。
(このときの米軍のガンカメラがこの状況をフィルムで記録している。筑紫野市の博物館でドキュメンタリーが制作されている)
その機銃掃射を浴びた小さな木造の待合室、雨が降って10人も入ればいっぱいになりそうな待合室の屋根に機銃の弾痕が残る。
この朽ちかけた小さな待合室を有志の方々が「筑紫平和祈念館」として保存をされている。この建物の中に「待合室」が保存されている。
西鉄二日市駅から二つ目、「筑紫駅」がある。
田や畑がつらなるこの一帯は急速に都市化が進む。もはや72年前の惨劇を知る人は少なくなった。
米国国立公文書館の資料によれば、1945年8月8日、アメリカはB29爆撃機により北九州市の八幡製鉄所などを空襲した。
P51と呼ばれた戦闘機はB29を護衛、空襲が終わり母艦へ帰投途中であったらしい。戦闘機にはまだ使っていない銃弾も
あったであろう。
(ちなみに、この翌日、長崎に原爆が投下された。原爆投下第1候補の北九州市小倉が前日の八幡空襲のため、目標地点を
目視できずやむなく、第2候補地点長崎に向かっている。)
八幡の空襲が終わり、母艦に帰る途中、眼下におもちゃのような電車が走っている、パイロットにはちょっと驚かしてやろう
という気持ちがあったのか?(私の推測です)
だが、急降下による銃撃は執拗に続いた。電車には満員の乗客が乗っていた。乗客は逃げることもできなかった。
ルネ・クレマンの映画『禁じられた遊び』で避難民の列をハーケンクロイツのマークを付けた戦闘機が銃撃するシーンがあった。
私は、1945年、アメリカ戦闘機の機銃掃射を身近で受け、身の毛もよだつほどの怖ろしい経験をした。
数機のグラマン戦闘機(目撃した近所の人の話)だった。私は母と姉と庭に掘った小さな防空後へ入った。
グラマンの急降下する不気味な音とともに機銃掃射のバリバリ、グアーンという音が何度も屋根をかすめて飛んだ。
後でわかったのだが、我が家の西側の国民学校があり兵隊たちがいた。そして東側の野球グランドは軍馬の検査で
馬がつながれていた。グラマンは軍馬を狙い、学校の日本の兵隊を狙った。私がいたのはその途中だった。
さいわい、近所のみんなに被害はなかった。空襲がおわり、真鍮の機銃の薬莢があちこちに転がっていたことを思い出す。
戦争ってなんだ?若者の心に悲しみと疑問と渦巻いているだあろうと推量した。
「太宰府へ行こうか!」二人の気持ちは期せずして一致した。
きのうお昼間、福岡城から大濠公園へ出た。
おだやかな天気。観光客も気持ちよさそう。
外国からのお客さんをおもおてなししているのはユリカモメたち。
建築学を学び、ようやく2月、卒論に合格した若者が大濠公園の水の浄化をし循環させる装置を見ているとき、
私に声をかけた方があった。
勉強会で時々お会いする製菓会社の秋丸社長ご夫妻。「お久しぶりです。去年の今頃でしたね?」
「そうでした」
「去年3月の勉強会で“若者とふたりで戦跡めぐりをしたお話”をなさいましたね。」
「アハハ、いまそこにいる彼がその若者です。私の旧友はなくなりましたが、その孫君なんです!」私。
「エーッ!」
去年3月の発表会で、私は若者に誘われ、佐世保・大村の戦跡歩きをしたことをお話した。東京から参加者
のお一人は「あなたは幸せです。若者とこころゆくまで語り合い、歩くなんてことはめったにできませんヨ」
「私も。そう思いますと・・・偶然ですが、今年、その続きをやってまして、午後、米軍の筑紫列車銃撃事件の跡を
訪ねます・・・」
私たちの先輩で勉強会のご指導を永く続けられた井原伸允様が他界されたことなどお話してお別れした。
快晴が続く。3℃。こどもたちは肩をすぼめて学校へ。
河津桜はまだ一輪も開かない。「マアダダヨ~!」と言ってる感じ。
最初に膨らんだ蕾は弾けた。
その蕾から姿を現した赤い小さなツボミがいま徐々に大きくなっている。
でも・・・
「マアダダヨ~」とツボミたちは互いに声をかけあっているのか?
旧友の孫のK君と福岡を歩いた。去年は佐世保、大村の戦跡を歩いた。今年は・・・
快晴、暖か!
まずは福岡城を歩いた。
城内の梅園は満開だった。
峻険な天守閣の石垣は揺るぎも見せていない。
建築学を学び、先日卒論がバスし、卒業を目前にした若者にとって、なにを見ても目や脳や五感を刺激するものばかり
のようす。 大濠公園も楽しかったようす。
午後は筑紫野市「筑紫平和祈念館」を訪ね、長崎原爆投下の前日、穏やかな田園地帯を突然襲った米軍機の空襲の跡を
若者とふたりで見た。