正午、博多港を出帆、夕方には釜山港に着く。
世界的な金融変動の嵐で、韓国のウオンは円に対して安くなってしまい、韓国から日本に来た人たちは突然の物価高になってしまい、お土産も買えないと嘆いていらっしゃる。旅行客が激減、フェリーも高速船、航空機も悲鳴をあげているとニュースが伝える。
ガソリン価格は落ち着いたが、日本経済は一気にデフレ傾向に逆回転をはじめた様子。採用取り消しが増加、季節雇用、派遣の人たちへの“ハケンギリ”がはじまっている。
“2兆円”を何か生きた形で、何かを生み出す形のものにできなかったのか?畑を耕したり、種を播くような、次の時代に活かせる力になるものはないものか?1億3千万人の智慧をしぼるときなんだろうが…
ご近所へ。
イチョウが美しい。
長崎県西彼杵郡外海町(=そとめちょう。現在、長崎市外海町)、ここに遠藤周作の「沈黙の碑」がある。この碑の前に立つと、眼前に東シナ海(五島灘)の大海原が広がる。背後には段々畑と集落、遠藤周作は小説「沈黙」の舞台をこの地に借りた。
白い出津教会が見える。左手の海に突き出した独立峰のような険しい丘がある。いま遠藤周作文学館が立つこの丘は、中世の時代、黒崎城と呼ばれる出城があったという。
出城を作ったのはこの地域を領有した小佐々一族であった。これから記すのは、私が20年ほどむかし、この地の村人から聞いた話で、特にメモをとったわけでもなく、記憶はおぼろになっているが、インターネットで検索すると小佐々学さんという中浦ジュリアンの14代目の子孫にあたるという方が、永年、ルーツを探し、研究を重ねた結果を発表していらっしゃることを知った。私の聞いた話と小佐々様のレポートを併せジュリアンの生きた時代を簡単に記す。
小佐々水軍は近江源氏と呼ばれた一族で、戦国時代、琵琶湖周辺から九州の西端、現在の佐世保北部の地へ転封され、江戸時代初頭にかけて130年あまり、五島灘を支配、海外交易などで隆盛をきわめた。
小佐々一族はすぐれた水軍を持ち、居城は川や入り江の奥など、海から距離をある程度離れたところに置き、出城を岬や島々の見通しのよい所に配した。小佐々氏の研究によれば、領海内に本城、支城、出城が20か所もある由。すぐれた交信網と緊密な行動ができる組織があったのだろう。
中浦ジュリアンが生まれた時代、小佐々一族は大村藩に属していた。中浦ジュリアンは本名、小佐々甚吾。父は肥前国中浦城主小佐々兵部少輔甚五郎純吉であった。長崎県文化財指定「多以良の小佐々氏墓所」には父、甚五郎純吉のキリシタン墓などがある。中浦ジュリアンの出自が確定した。
ヨーロッパから帰国した中浦ジュリアンら4人の少年使節は互いに別れ告げ、それぞれ己の道を選んだ。ジュリアンは小倉で幕府の手に落ちるまで、一人九州一円でキリスト教の布教に務めたと思われる。
何故、中浦ジュリアンは幕府の厳しい追及をかいくぐり布教を続けることができたか?村人のお一人は私に語った。「追手を逃れ、神出鬼没、布教を続けることができたのは、小佐々水軍の力があったからです。舟です。海こそが追手から逃れる自由の天地でした。リアス式の海岸、島、舟はどこへも行くことができたし、幕府の役人にはまったく手が出せない世界だった!水運は小佐々一族がもっとも得意としたのです」と。
※これまでにブログに書いた記事を列記します。バックナンバーから年月日を選んでください。
2007.3.15 ド・ロさまと世界遺産
2007.3.14 冬の星座・いつくしみ深き
2007.3.13 「ド・ロさま」
2007.3.9 沈黙の碑
2007.3.7 あすの世界遺産をたずねる
2007.3.5 中浦ジュリアン
2007.2.28 今村教会と菜の花
2007.2.21 番外編 むかしむかし≪中浦ジュリアン≫
2005.4.24 スペイン⑮天正遣欧使節(中浦ジュリアン)
2005.4.20 スペイン⑭天正遣欧使節
思いつくままいろいろ書いた。重複もある、お許しを。