正月さんをお迎えする正月飾りを作った。確か、こどもの頃、“正月さん”“お正月さん”と呼んだ。
満ち潮どき、三宝に白紙を敷いて鏡餅をのせる。年々、鏡餅は小さくなるが、いつものようにウラジロ、ユズリハを挟みダイダイと小みかん、お米を入れたおひねりを飾る。昔は串柿やコンブを乗せていたような気がするが、年々、簡素になってしまった。
正月さん、そして、神棚、仏壇の3ヶ所に鏡餅を飾った。
団地住まいのこととて、いまは床の間もない。食器棚の一角を床の間に見立て正月さんを迎えることにする。おばあはもう、お屠蘇の準備も済ませた。
おばあは私に「正月は和服を着なさい」という、きのう、角帯と足袋を買った。母が私に用意してくれた羽織をこれまであまり着ることがなかった。せっかくの母の気持ちを大事にしよう。
「アレー、補聴器がないぞ!」、昨夜のことだ。胸のポケットに入れたつもりの補聴器がない。「しまった、落としたか?」。
駅から我が家に帰る途中、海が近くなった途端、北風がすさまじい勢いで吹きつけてきた。補聴器が強風で「ゴボゴボゴボ…」と嫌な音を出す。思わず補聴器をはずして胸のポケットに入れた。中学生の一群が自転車で通り過ぎる。夕闇が迫っていた。
暖かい部屋で着替えをすませホッとした。テレビを点け、おばあと会話がはじまるなあ、補聴器を付けるか、と思ってポケットを捜すと、ナイぞ!帰りに着ていた厚手のコートやズボンを改めるがない。耳からはずし、胸ポケットに入れた。落としたとすれば、帰る途中のあの場所だ。
夕食は食べるばかりになっていたが、急ぎ車でその場所に戻り、懐中電灯を頼りに歩いたあとを探す。2度、慎重に探しても見つからない。奥歯に何かがはさまった感じ。落ち着かない。
けさ、朝飯まえにもう一度、戻った。自転車の中学生とすれ違った場所、そのあと、強風が吹いて、補聴器をはずしたが、その場所は、このあたりかな?きのう、工事現場の入り口を警備する人が寒そうに体を固くしていた。そのあたりから、もしかしたら、コートのどこかにひっかかり、途中でポロリと落ちる可能性もあるかと考え、探した。しかし、ない。
朝食をすませ、もう一度、探そうと思い、昨夜、着ていたコートを着ようとした。と、コートの下に補聴器が転がっている!「アッター!」とおばあを呼ぶ。
夕べ、散々部屋を探した。けさも明るい光の中で探した。しかし、見つけることはできなかった。おばあは、「さっき、念のため、コートをはたいた!そのときに、どこかにひっかかっていた補聴器が落ちたのかも…」
補聴器を耳に付けるには少し、躊躇した。ちょっと恥ずかしい。だけど、考えてみれば、老眼鏡をかけるのと何らかわらない。
補聴器を探す姿は、かつて、コンタクトレンズを探す姿に似ている。もはや、補聴器も体の一部なんだ。
補聴器をデジカメで撮ろうとベランダに出たら、一瞬、太陽が照った。
夏目漱石が明治30年、熊本小天温泉でよんだ俳句、『旅にして申し訳なく暮るる年』。漱石は愛妻を熊本の自宅に残し、正月を友人と湯治で過ごしたのか。
有明海が眼下に広がる。残念ながら雲仙岳は雲の中に入ったまま。
てんすい温泉で男3人、朝風呂を浴びる。
『温泉や水滑らかに去年の垢』-漱石
漱石が歩いた道を行く。左:再現された観光用の“峠の茶屋”。右:終戦後まで残っていた“峠の茶屋”。熊本市から金峰山と二の岳の峠を越えて、20数キロ、歩くほかはなかった明治の時代だった。私の小学生時代、遠足で金峰山に登るのが春秋の恒例行事だった。この峠の茶屋の前をいつも通った。漱石という有名な人がここを小説に書いていることを先生に聞いて知った。その「草枕」の一節。
『「おい」と声をかけたが返事がない。
軒下から奥を覗くと煤けた障子が立て切ってある。向こう側は見えない。五、六足の草鞋が淋しそうに庇から吊るされて、屈託気にふらりふらりと揺れる…
「おい」と又声をかける。土間の隅に片寄せてある臼の上に、ふくれていた鶏が、驚いて眼をさます。ククク、クククと騒ぎ出す。』
玉名から有明海沿岸を北上、大牟田を経て柳川へ。冬の掘割の風情を味わい、名物のうなぎのせいろ蒸しを食べる。漱石はウナギは食べなかっただろうなあ。
脊振を越える山道で小雪がちらほら。気温0~1℃。