秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

京都非観光案内58.河原院跡。

2009年01月13日 18時59分23秒 | 京都非観光迷所案内
五条大橋西詰を少し下がった大きな榎の下に立てられている石碑。

これが源融の屋敷、河原院の敷地の一部を示しています。

一部、というのは河原院は西は柳馬場、南北は五条正面通りまでの広大な
屋敷だったそうです。河原町の地名はここからついたともいわれます。

池には陸奥の釜の浦の景観をうつし、毎月海水三十石を運び、海の魚貝を
住まわせ、塩焼きを楽しんだ、といわれます。

邸宅は東本願寺の枳穀邸あたりだった、ともいわれますが、融の死後は廃屋
となったそうです。

それだけ立派な邸宅だったもんで、思いが残ったのか、融さんは亡霊となって
屋敷跡にとどまっていたんですと。

東国の僧が邸宅跡で塩汲みの老翁と出会い、融の亡霊の舞をみるのは能のお話。

今昔物語では旅の夫婦の女房が、血を吸い尽くされたり、光源氏と夕顔が屋敷跡
で逢瀬を楽しんだばかりに、夕顔は物の怪にとり付かれ亡くなってしまった、
ともいわれます。

今の心霊スポットより過激な化け物屋敷だったんですね。

実は本当に紹介したかったのは後ろに見える稲荷。

二階建ての一階部分の入り口に鳥居が打ち付けられているでしょ。
中を覗くと左側に稲荷の石像。昼でも暗い内部でいきなり見るとぎょっとします。

どうして、こんな家の中に変則的に置かれているのか大変不思議です。

このあたり、若い頃、レイデザイン研究所の夜間コースに通うために週二回
通ってました。

あの頃には源融、なんて聞いても、あ、光源氏のモデルっていわれた人でしょ、
くらいで終わってたでしょうね。(今でも詳しいわけではないですけど・・。)

この場所から南は「五条楽園」といわれる遊郭跡。レトロな建物も残っていますが、
繁華街からも近いので、他にも紹介されていると思いますから、今回はパス。
(通学の帰り道に立ち寄って無かったですよ。)







実はチャーハンも・・。

2009年01月12日 16時54分06秒 | グルメなのか?
新福菜館のラーメンもいいけど、実はこのチャーハンも好きであります。

見た目は醤油辛そうだけど、実際に食べるとそうでもない、のはラーメンと同じ。

セットで注文すると、ラーメンかチャーハンが小になるけど、メタボ注意報発令中
のわが身としては、なかなかセットの注文に踏み切れません。
(そのワリにビールなど注文しているではないか、という突っ込みは聞かないフリ)

しかしこの日は「おう!メタボがナンボのもんじゃい!!好きなもん我慢して明日
大地震でも来て死んだら、冥土へスンナリ行けるかい!!!」
(何もそんなに憤ること無いんですけど・・・。)

と、いう事でセットで注文。(でもチャーハンは相方と半分コ。トホホ

京都非観光案内57.

2009年01月10日 08時58分48秒 | 京都非観光迷所案内
大雲寺境内にある「岩座(いわくら)神社」、「盤座」とも書きます。
「盤」は堅固なことを讃えたことばで、高天原の御殿で皇御孫(すめみま)の座られた
御座をさすと「大言海」に書いてあります。吉田金彦著「京都の地名を歩く」

火祭りといえば、鞍馬神社が知られるところですが、この「岩座神社」でも
毎年10月23日の深夜に執り行われるそうです。

10メートルを越す松明2本を、雌と雄の大蛇に見立てて火をかけるとか。
なにか、その辺り、大蛇にまつわる言い伝えがあるのかも知れませんね。

そうだ、大雲寺だ。今は見るかげも無くて、隣の実相院ばかりスポットライト
があたっていますが、かつては数十の堂舎と千余人の僧を擁した洛北屈指の
名刹だったとか。当事は比叡山の延暦寺と並ぶ天台法門だった、とあります。

戦国時代の兵火でそのほとんどを消失し、再建された一部も「不二坊」旧地に
移転。

この大雲寺は「もののけ」に憑かれた高貴な方々を回復に導いたそうで、
庶民の間にも噂が浸透し、大勢の人たちが治療を求めて訪れたそうです。

そのための介護者の家族たちが宿泊するための茶屋は「岩倉茶屋」と呼ばれ、
明治期に一度廃止されましたが、その後復活、「岩倉癲狂病院」が開設。

ナルホド、人に、じゃ無い、病院に歴史あり、ですな。

さて、今日から相方は着付けの仕事で富山出張。今夜はナニを食べますか・・。

京都非観光迷所案内56.

2009年01月08日 20時54分43秒 | 京都非観光迷所案内
さて、「小川」で昼定食もいただいたことだし、次の迷所へ。

おっと、その前に仕事を一つ済ませねば。

用事を終えて次に向かったのは、「山住神社」。
おそらく岩倉の住民でも知る人は少ないでしょう。

なにしろ御神体は山雲寺境内に移されて、こちらはお旅所としての役割りを
果たすのみ。

と、いうか御神体自体があったのかどうか・・。

桓武天皇が都を京に遷都するおり、四方の岩倉に持仏経を収め、王城鎮護とした
そうですが、その北の岩倉がこちらだとか。

そのあたりの事は素人の私にはよく分かりませんけど、イハ(斎)クラ(谷)は
「神を斎いいます谷」の意味が岩倉の原義、と書かれていると、ナルホドと納得。

なぜだか、大きな岩には人の頭を垂れさすパワーがあるような気がします。
もっとも、この山住神社に残っている岩はそれほど大きくはありませんが。

ただ、その岩の前で数百、数千度と神事が執り行われている間に、その岩自体
に不思議な力が宿ってしまう、なんて事が有り得るかも?

これにて今回の迷所案内は終了、といいたいトコですが、遷座した先の大雲寺
の岩座神社はすぐ近所。

大雲寺のお話も少ししたいもんで、あと一回。(別に言い訳しなくてもいいか。)






京都非観光迷所案内55.

2009年01月08日 08時10分38秒 | 京都非観光迷所案内
少し暇ができたもんで、インドまで行ってきましてん。
(本年度、早くも二度目の大嘘・・・。)

この仏舎利塔はインドのブッダガヤの大塔を模して1973年に建立。
場所は左京区岩倉幡枝の妙満寺。

塔の前まできて、説明書を読んでみる。
「ナニナニ、線香は立てずに横にして、それから手に持って時計回りに回るか」

「三箇所の角で二本づつ線香を立てる」

「それを、あと二回繰り替えし・・・あ~面倒だし、ここで参っとこ」
バチ当りな二人。でも心して拝みましたからお許しを。

この妙満寺にはナゼか安珍・清姫の道成寺鐘があります。

この鐘は秀吉が根来寺を攻めたときに、千石権兵衛が道成寺裏の竹薮から掘り
だして出陣鐘に用いていましたが、不吉なことばかり起こるもんで、
この寺に寄進された、といわれています。

この日は別に妙満寺に用があったわけでなく、もう少し先で所用があり、
ついでに「小川」で蕎麦でも、ってことでお参りさせていただきました。

そのまた、ついでにもう少し先の非観光迷所をあと一箇所、次回にて・・。

追記 非観光案内36の「大原の怪火」でとりあげた「かんべかえせの石」
で所在が分からなかった石。子孫の方から発見したとのコメントをいただき
ました。嬉しい限りです。

京都非観光迷所案内54.

2009年01月07日 07時20分08秒 | 京都非観光迷所案内
前回の「蛇塚古墳」も住宅街の中だったけど、この「天塚古墳」はもっと
住宅が迫っています。

かろうじてその姿を留めるに至ったのは、古墳に伯清稲荷大明神を抱いていた
おかげかもしれません。
実際に清水山古墳のように、宅地開発の波に呑まれて消滅した古墳も数あるようです。

古墳といえば丘陵地帯や、田畑の中にポツネンと鎮座しているイメージが
あるけど、考えてみれば、京都だって平安京が出来る前には弥生や縄文時代が
あって当たり前なんですよね。

自分が中学時代に西山一帯で、古墳巡りをしていた頃は、竹薮の中だったり田畑
の中だったりしたもんだから、勝手にイメージが出来あがってしまったんでしょう。

形は前方後円墳で、これも秦氏のものではないか、といわれています。

映画村で有名になった太秦(うずまさ)の名は秦一族の一人、酒君が宮中に
絹織物を積んで献上したので、※「うずまさ」の姓を与えられたのが由来だそうです。

この子孫が秦川勝。氏の出世譚には面白い話が幾つかありますが、それはまた
いつの日にか・・。(忘れてしまうかも知れないけど・・・。)

※最近では「うずまさ」は朝鮮語系のウズ(貴)とマサ(勝)の意で、すなわち
族長と解するべきという説が有力となっている。 京都謎とき散歩 左方郁子著

蛇塚。京都非観光迷所案内53.

2009年01月06日 18時32分26秒 | 京都非観光迷所案内
以前から存在は知っていたけど、場所が分かり難そうで、後回しにしてました。
(やはり迷ってしまった・・・。)

なにせ、周りは住宅街で、まさかこんな所に古墳があるとは思えません。
古墳といっても、残されているのは石室だけですけどね。

でもその石室の床面積は全国第四位。もとは全長75メートルあった府下最大の
前方後円墳です。

蛇塚の名はこの石(玄)室に多くの蛇が住み着いていたため、だとか。
蛇以外にも「おしげ」という女賊もすんでいたという言い伝えも残されています。

また、この塚で映画を撮った有名な映画監督が、原因不明の病に犯されて亡くなった、
と、いう噂もあるけど、信憑性はどうでしょうね?

築造は7世紀後半、一帯を開墾した秦一族の首長の古墳ではないか?といわれて
いるそうですが、広隆寺を氏寺とする秦氏と、この古墳とは正直いって私の
脳内のイメージではうまく結びつきません。
(ま、しょせん大したこと無い頭脳ですケド・・・。)

確かに大堰川の大工事などで、巨石を加工する技術はあったと思いますが・・。

もし、秦氏の古墳だとすれば、太秦を中心に開墾を進めた秦氏もまさかこんな
ねき(近く)まで住宅が迫って来るとは夢にも思わなかったでしょうね。


次回は古墳つながりで、蛇塚古墳よりもっと分かり難い場所にある「天塚古墳」です。

京都非観光迷所案内52.

2009年01月05日 07時52分06秒 | 京都非観光迷所案内
左京区修学院の「鷺森神社」、いつ行っても静かです。

昔、この神社のすぐそばで、知人が居酒屋バーをやってました。
その店も静かでした・・・。(今は岩倉に移転。)

この境内から曼殊院に抜ける小道は、穴場的散策道です。

その名が示すとおり、かつては鷺が多く集まり、特に梅雨時の夜には、
その飛び交う姿が人魂のようにみえたそうです。

そこから、この森を「相逢の森」といったとか。

相逢とは、昔この森の近くに淫僧が美童と住んでいて、美童が死ぬと、後を追う
ように坊主も亡くなってしまい、その二人の魂が逢火となって夜な夜なこの森で
邂逅している、といわれたそうです。

建立は貞観年間。御紳祭は素戔鳴尊。

アラビアン焼きそば。

2009年01月04日 10時06分07秒 | グルメなのか?
「おせちもいいけど、カレーもね!」(おせちに飽きたらだったっけ?)
そんなCMもあったなぁ。

私の場合、正月初日以外には「おせち」は食べてませんけど。

「日曜日は日清焼きそば、た、べ、よ!」ってCMの話は以前したけど、なぜか
食べたくなります、日清やきそば・・・。

そこで近所の7イレブンへ。インスタント食品コーナーで、見かけたこと無い
焼き蕎麦を発見して予定変更。
(ワタクシの辞書には初志貫徹、という言葉はナイ)

なんだか懐かしいパッケージです。

「不思議な位おいしく出来ます」・・・・。不思議な位って、どんな位?

発売元はサッポロ一番。