五条大橋西詰を少し下がった大きな榎の下に立てられている石碑。
これが源融の屋敷、河原院の敷地の一部を示しています。
一部、というのは河原院は西は柳馬場、南北は五条正面通りまでの広大な
屋敷だったそうです。河原町の地名はここからついたともいわれます。
池には陸奥の釜の浦の景観をうつし、毎月海水三十石を運び、海の魚貝を
住まわせ、塩焼きを楽しんだ、といわれます。
邸宅は東本願寺の枳穀邸あたりだった、ともいわれますが、融の死後は廃屋
となったそうです。
それだけ立派な邸宅だったもんで、思いが残ったのか、融さんは亡霊となって
屋敷跡にとどまっていたんですと。
東国の僧が邸宅跡で塩汲みの老翁と出会い、融の亡霊の舞をみるのは能のお話。
今昔物語では旅の夫婦の女房が、血を吸い尽くされたり、光源氏と夕顔が屋敷跡
で逢瀬を楽しんだばかりに、夕顔は物の怪にとり付かれ亡くなってしまった、
ともいわれます。
今の心霊スポットより過激な化け物屋敷だったんですね。
実は本当に紹介したかったのは後ろに見える稲荷。
二階建ての一階部分の入り口に鳥居が打ち付けられているでしょ。
中を覗くと左側に稲荷の石像。昼でも暗い内部でいきなり見るとぎょっとします。
どうして、こんな家の中に変則的に置かれているのか大変不思議です。
このあたり、若い頃、レイデザイン研究所の夜間コースに通うために週二回
通ってました。
あの頃には源融、なんて聞いても、あ、光源氏のモデルっていわれた人でしょ、
くらいで終わってたでしょうね。(今でも詳しいわけではないですけど・・。)
この場所から南は「五条楽園」といわれる遊郭跡。レトロな建物も残っていますが、
繁華街からも近いので、他にも紹介されていると思いますから、今回はパス。
(通学の帰り道に立ち寄って無かったですよ。)
これが源融の屋敷、河原院の敷地の一部を示しています。
一部、というのは河原院は西は柳馬場、南北は五条正面通りまでの広大な
屋敷だったそうです。河原町の地名はここからついたともいわれます。
池には陸奥の釜の浦の景観をうつし、毎月海水三十石を運び、海の魚貝を
住まわせ、塩焼きを楽しんだ、といわれます。
邸宅は東本願寺の枳穀邸あたりだった、ともいわれますが、融の死後は廃屋
となったそうです。
それだけ立派な邸宅だったもんで、思いが残ったのか、融さんは亡霊となって
屋敷跡にとどまっていたんですと。
東国の僧が邸宅跡で塩汲みの老翁と出会い、融の亡霊の舞をみるのは能のお話。
今昔物語では旅の夫婦の女房が、血を吸い尽くされたり、光源氏と夕顔が屋敷跡
で逢瀬を楽しんだばかりに、夕顔は物の怪にとり付かれ亡くなってしまった、
ともいわれます。
今の心霊スポットより過激な化け物屋敷だったんですね。
実は本当に紹介したかったのは後ろに見える稲荷。
二階建ての一階部分の入り口に鳥居が打ち付けられているでしょ。
中を覗くと左側に稲荷の石像。昼でも暗い内部でいきなり見るとぎょっとします。
どうして、こんな家の中に変則的に置かれているのか大変不思議です。
このあたり、若い頃、レイデザイン研究所の夜間コースに通うために週二回
通ってました。
あの頃には源融、なんて聞いても、あ、光源氏のモデルっていわれた人でしょ、
くらいで終わってたでしょうね。(今でも詳しいわけではないですけど・・。)
この場所から南は「五条楽園」といわれる遊郭跡。レトロな建物も残っていますが、
繁華街からも近いので、他にも紹介されていると思いますから、今回はパス。
(通学の帰り道に立ち寄って無かったですよ。)