優しさの連鎖

いじめの連鎖、って嫌な言葉ですよね。
だから私は、優しさの連鎖。

伝えたいこと

2016-05-30 14:53:16 | 日記
父が突然亡くなったため、困った問題がひとつ。
葬儀に関することや家のことは実家を継いでくれた妹がすべてやってくれたのでそれは心配ないのだが、それまで父が取りまとめていた同期会、町内会、趣味の古文書の会、町の神社のこと、大まかにこの四つの引き継ぎをしなければならなくなったことだ。

妻である母は高齢のため、その会のメンバーの名前をかろうじて何人かずつは覚えていたが、すべて把握している訳ではない。それでも父が書いておいてくれた備忘録を参考にしながら、この○○さんって、どういう関係の人?と尋ねると、それは同級生だとか、その人は町内の人だとか、その人は確か教え子だとか(父は教師だったので)聞くことができたのは助かった。長年連れ添った夫婦だもの父の交友関係を一番知る人物であることは間違いないから。

初七日の日、遠方からの書留(香典)が何通か届いた。親戚には母が電話したが、見覚えのない名前があったので母に尋ねると多分その人は教え子だと思うとのことで、私が電話してみた。
そうしたらやはりその人は父の教え子で、父は小学6年生の時の担任だったそうだ。
たった一年ですが、先生との出会いがなければ今の私は無かった、とその人は言った。そして、自分も年を取ったからもしかしたら近いうちに向こうへ旅立つでしょう。そうしたらまた向こうで先生にいろんなことを教えてもらいたいと言っていた。

お父さん、教師冥利に尽きるよね。

私もまだまだお父さんに教えてもらいたいことがいっぱいあるから、私たちが向こうへ行くまで待っていてね。



風薫る五月に

2016-05-24 16:22:53 | 日記
父が急逝した。

五月十九日9時。妹から、今朝父が倒れて病院へ運んだと電話があった。それまでも父はどんな危ない事態になっても必ず後で笑い話になるくらい簡単に復活しているのでその時私は、今はちょっと大変なことになってるようだけれどすぐによくなるに違いないと思っていた。

癌になった時だってそうだった。雪下ろし中、屋根から落ちても無傷だったし、はしごから地面に落ちた時もただの打撲で済んだじゃないか。きっとまたいつものように笑って「まったくもう、お父さんたらびっくりさせるんだから~」と言ってる自分を頭の中に思い描いていた。
ところが妹の電話は「大動脈解離なので、もうだめだと思う」ということだった。妹は看護師なので処置されている様子から父がどんな状態なのかわかっていたらしい。

そして、9時22分。父は帰らぬ人となった。

亡くなったという知らせを聞いた時、真っ先に口を突いて出たのが「あ~っ!、父らしい逝き方だ!」という言葉だった。

亡くなる前日は畑の草刈りをし、その前の日は趣味の会の人達と遺跡を見に旅行に行っていたらしい。
朝起きて着替えをしソファに腰掛けた時、胸の痛みを訴え、妹夫婦が出勤する前だったので車で病院に連れて行ってもらったそうだ。そのまま一日も入院することなく、私たちに悲しむ隙も与えぬようにして逝ってしまった。

風薫る五月に。
自分の誕生月でもある五月に。

葬儀が終わって私が自宅へ帰ってくると、庭の花が一斉に咲いていた。手入れのしていない庭なので今までこんなにたくさんの花が一斉に咲き誇っているのを見たことがなかった。父は花や木など植物も愛していたから、きっとそうしてくれたのだろう。
お父さんありがとう。

哲学とは

2016-05-10 18:39:16 | 日記
新聞に「子どものための哲学対話」(永井均 著)という本の紹介があったので読んでみた。
以前はあれほど、哲学?なにそれ?意味わかんない!と敬遠していたのだが、年を取るにつれ、学問は哲学に始まり哲学に終わると思うようになり「子どものための」というタイトルは私のような者でも取っ掛かりが出来そうではないかと思ったからだ。

思えばはるか過去の大学生になりたての頃、一般教養の科目に哲学がありニーチェやカント、ウィトゲンシュタインを語る大学生ってかっこよくない!?と何となく哲学を学ぶ自分を想像し酔いしれていた。ところが実際は、ご高齢な煙のような先生がぼそぼそと語る講義はまるで催眠術でもあるかのようで、私にとっては闘いの学問だった(睡魔との)。

「子どものための哲学対話」は、「ぼく」と猫のぺネトレの対話形式で書かれているようだ。
痛快なのは「人間は何のために生きているのか」という問いに対しぺネトレが「遊ぶためさ」と答えるところ。この遊ぶというのは、自分のしたいことをすることで、その時やっていることだけで満ち足りた状態でいること。それは誰にも認めてもらえなくても平気だし、困難や努力さえも楽しいと思えると言う。

そして私があっと思ったのはここだ。
「自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき何よりも大切なことで、友情は『友達なんかいなくても生きていける人たち』の間にしか成り立たない」というところ。

子どものときそれに気づいてたなら、もうちょっとましな大人になれたかも。
薄っぺらい友情という名のもとにどれだけ傷つき悩んできたことか。随分無駄な時間を費やしたものだと今更ながら思う。
でも、ここで語られる「学問とはこの世で一番楽しい遊び」ということに関しては、やっぱり大人にならないとその意味が解らないだろうなと思った。