介護の仕事を始めて間もないころ担当したDさんが94歳で亡くなった。そのころ私はまだ30代で、Dさんは70代後半だった。
割烹着の似合う日本のお母さんといった風な方で、病気をしてから思うように家事が出来なくなったのでヘルパーを頼むようになったのだった。
あの頃はまだ介護保険制度も無くて、要望があれば市役所を通してヘルパーが週二回、二時間程度派遣されていたので今の訪問介護とは違いゆったりと話し相手をする時間もあった。途中で担当を代わったこともあったけれどDさんとは通算15年のお付き合いだった.
Dさんの通院介助をしていた時のこと、薬局に行って待合室に戻ってきたら、誰かと話をしていた。知り合いの人なのかと思って会釈するとその人が私のそばに来て「ヘルパーさんですか?あの方は福の顔をしてらっしゃる。きっといい人生を送ってこられた方に違いない。あなたもそれに関わってくれたのでしょう」」と言った。そして私に「ありがとう」と言って去って行った。
すぐに私はDさんに「今の人誰?知り合いなの?」と聞くと、全く知らない人だとのことで「病院へ一人で来られたんですかと声を掛けられたから、市内に娘はいるけれど忙しくて来られないから、専らヘルパーさんのお世話になって暮らしている」と話したのだとのこと。
「えーっ!?知らない人なの?親しげに話してたからてっきり知り合いだと思いましたよ」と私は驚いた。
なんとなく不思議な出来事だったが、確かにDさんが、不平不満や愚痴、他人の悪口など言ってるのを聞いたことが無かった。Dさんはいつも「自分は学も無く無教養だ」と言っていたが、とんでもない。博学で、地域の歴史や伝統料理、ボランティアでやってきた活動のことなど、Dさんから学んだことは数知れない。
数年前、いつもと同じように朝訪問すると、Dさんは二度目の圧迫骨折のため動けなくなっていた。娘さんに連絡し救急車を呼んで最後に見送ったのも私だった。入院になればもうヘルパーは関与できないので、救急車が来るまでのわずかな時間でお別れの挨拶をし、またよろしくと言うDさんに、また会えますからと気休めの言葉を掛けた。
お見舞いに行きたいとずっと思っていたが、お見舞い等はもちろん禁止されているし、Dさんが病院からショートへ、それから施設へと移った話は風の便りに聞いていたが、介護保険制度が改定されながら何年も過ぎ、結局あれが最後のお別れになってしまった。
割烹着の似合う日本のお母さんといった風な方で、病気をしてから思うように家事が出来なくなったのでヘルパーを頼むようになったのだった。
あの頃はまだ介護保険制度も無くて、要望があれば市役所を通してヘルパーが週二回、二時間程度派遣されていたので今の訪問介護とは違いゆったりと話し相手をする時間もあった。途中で担当を代わったこともあったけれどDさんとは通算15年のお付き合いだった.
Dさんの通院介助をしていた時のこと、薬局に行って待合室に戻ってきたら、誰かと話をしていた。知り合いの人なのかと思って会釈するとその人が私のそばに来て「ヘルパーさんですか?あの方は福の顔をしてらっしゃる。きっといい人生を送ってこられた方に違いない。あなたもそれに関わってくれたのでしょう」」と言った。そして私に「ありがとう」と言って去って行った。
すぐに私はDさんに「今の人誰?知り合いなの?」と聞くと、全く知らない人だとのことで「病院へ一人で来られたんですかと声を掛けられたから、市内に娘はいるけれど忙しくて来られないから、専らヘルパーさんのお世話になって暮らしている」と話したのだとのこと。
「えーっ!?知らない人なの?親しげに話してたからてっきり知り合いだと思いましたよ」と私は驚いた。
なんとなく不思議な出来事だったが、確かにDさんが、不平不満や愚痴、他人の悪口など言ってるのを聞いたことが無かった。Dさんはいつも「自分は学も無く無教養だ」と言っていたが、とんでもない。博学で、地域の歴史や伝統料理、ボランティアでやってきた活動のことなど、Dさんから学んだことは数知れない。
数年前、いつもと同じように朝訪問すると、Dさんは二度目の圧迫骨折のため動けなくなっていた。娘さんに連絡し救急車を呼んで最後に見送ったのも私だった。入院になればもうヘルパーは関与できないので、救急車が来るまでのわずかな時間でお別れの挨拶をし、またよろしくと言うDさんに、また会えますからと気休めの言葉を掛けた。
お見舞いに行きたいとずっと思っていたが、お見舞い等はもちろん禁止されているし、Dさんが病院からショートへ、それから施設へと移った話は風の便りに聞いていたが、介護保険制度が改定されながら何年も過ぎ、結局あれが最後のお別れになってしまった。