優しさの連鎖

いじめの連鎖、って嫌な言葉ですよね。
だから私は、優しさの連鎖。

土神と狐

2021-10-03 22:51:51 | 日記
宮沢賢治の「土神と狐」
土神と狐が女の樺の木に恋する話だが、十年以上前、賢治の会に入会して初めて読んだ。この話を読んだ時私はすごく驚いた。最後にまさかの出来事が起こるからだ。「何だ、これは!?」と思った。みんなの感想を聞くと「三角関係の話だね」とか「恋すると周りが見えなくなるし、自分をよく見せようとして嘘をつくこともある。嫉妬で苦しむこともあるから気持ちはわかる」といったようなことが述べられたと思う。でも、私の中でこの作品は「わからないベスト3」に入るくらい謎な話だった。その時先生が教えてくれたことで、そうか、そうだったのかと思えればよかったのだが、ますます引っかかるものがあって、このお話はずっと私の頭の中に残ることになった。
樺の木には二人の友達がいて、一人は狐、一人は土神。樺の木のもとへ詩集を携えてやってきて、星の話なんかする狐に土神は怒り「狐の如きは実に世の害悪だ」と言いイライラを募らせる。
後半の場面。
「土神はしばらくの間ただぼんやりと狐を見送って立っていましたがふと狐の赤皮の靴のキラっと草に光るのにびっくりして我に返ったと思いましたら(中略)むらむらっと怒りました。顔も物凄く真っ黒に変わったのです(中略)狐もそのけはいにどうかしたのかと思って何気なくうしろを見ましたら土神がまるで黒くなって嵐のように追って来るのでした。」

ここまで読んでもまさか「いやしくも」神である土神がただ逃げるだけの狐を殺すことになるなんて私は想像もしていなかった。狐は「もうおしまいだ。もうおしまいだ。望遠鏡、望遠鏡、望遠鏡」と一心に頭の隅で考えながら走っていたのだが、望遠鏡とは樺の木に見せてあげる約束をした物で、ドイツの会社に注文してあるというそれは狐の虚飾のたまもので、狐の話は全て嘘で塗り固められたものなのだ。

「土神はうしろからぱっと飛びかかっていました。と思うと狐はもう土神にからだをねじられて口を尖らしてすこし笑ったようになったままぐんにゃりと土神の手の上に首を垂れていたのです。土神はいきなり狐を地べたに投げつけてぐちゃぐちゃ四、五へん踏みつけました。」
それから土神は狐の穴の中にとび込んで中を見たのだがそこは狐の話とは全く違って、がらんとした何もないところだった。そして狐の屍骸のレーンコートのポケットの中にはかもがやの穂が二本入っていただけ。

物語のの最後。
「土神はさっきからあいていた口をそのまままるで途方もない声で泣き出しました。その涙は雨のように狐に降り狐はいよいよ首をぐんにゃりとしてうすら笑ったようになって死んでいたのです。」

謎の一。なぜ賢治は三角関係の話をこの三者で擬人化したのか。それに対しては先生が、草稿に題名の右方やや上寄りに、赤インクの大きな字で、「土神、……[休→退]職教授  きつね……貧なる詩人  樺の木……村娘」と書かれていると教えてくれたので、賢治の抱いたイメージを想像してみた。日本の神様は八百万と言われるし、祟り神って言うのもあるから、きっと土神はそんな感じかな。退職して何年も経ったプライドの高い教授が誰にも相手にされなくなってますます気難しくなったイメージかなと解釈した。狐は上品な風で、樺の木のもとへハイネの詩集なんかをもって訪ねていくのだからイメージはしやすいが、昔から狐というとなぜかずるがしこいとか人をだますとか言われているから、そういった理由もあるのかなと思った。そして樺の木、なぜ木なのだろう。先生は樺の木は純朴で何も知らない娘、そしてその地を離れられないと言った。なるほど樹木はその地に根差している。どこにも行けない。そこまではイメージ出来たが、なぜ「神」「動物」「植物」でなければならないのかはわからなかった。
謎の二。なぜ狐はうすら笑ったようになって死んだのか。それに対して先生が言ったのは、狐は自分が殺される理由を知っているから。(「もうおしまいだ。望遠鏡、…」)嘘をついたという罪悪感があったから、神に惨殺されたとき成仏の資格を暗示しての微笑だったのだという意味のことを述べた。そう聞いたときは私の思いもしなかったことだったので、へぇ、そうなのか。そもそも樺の木の愛を得たいがために嘘まみれの話をしただけだし、反省もしていたからいやな奴じゃなかったんだね、と思った。
謎の三。なぜ土神は途方もない声で泣いたのか。先生は被害者である狐の微笑と加害者である土神の泪を対比させ、狐もまた自分と同じく樺の木に恋した孤独な存在なのだということを知って懺悔の泪ではないかと話してくれた。怒りに身を任せ狐を殺してしまった後悔の泪、そして懺悔の泪か。後悔先に立たずというけれど、いくら泣いたって取り返しがつかないものね。

その時はそんな風に納得したようにも思えたのだが、私の中でなんだか引っかかるものがあった。なんか違うような気がしたのだ。
賢治の会を立ち上げてくれて、賢治のことを色々教えてくれた先生ももういない。そして先生が不在のまま10年以上経ったが、会は存続し、今月また「土神と狐」を読むことになった。そこで私はあの時以来の謎を解こうとネットに出ている関連のあるブログやホームページを手あたり次第読んでいたら嬉しい発見があった。
「東洋大学の高橋 直美 教授の論文 宮沢賢治論―「土神ときつね」異読―」である。
それによると、
「最後の部分できつねが見せる「うすら笑った」ような死に顔は、決して臨終正念ではなく、これからは良心に反して樺の木を騙すことがなくなった安堵と、土神からは腹立たしいその尊厳をはく奪してやったという満足の笑いなのである」
とある。
あー、それだ!狐が死んだとき見せたうすら笑いは、もう樺の木に嘘をつかなくてもよくなったという安堵感だけではなく、土神から神としての尊厳を奪ったという満足の笑みなんだ。そして高橋教授はどちらかというと樺の木から好意を持たれていたのは狐のほうだから狐のほうが優位に立ってもおかしくないのだが、どうしても狐が土神にかなわないものがあり、それが「土神の神としての立場と狐の畜生という立場の差」だという。「いくら知識があり、紳士的に振舞っても狐は畜生界であるのに対し、どれほど荒々しい気性であっても土神は天界の神であり、神としての権威も力も持っている」のだ。「神」「動物」「植物」として描いたのにはそんな意味があったのだ。土神は人間から忘れられた存在になっており祭りの際に供物の一つも届かないと歯噛みする。高橋教授はそれを「神としての自覚や誇りが強ければ強いほど、立場が高ければ高いほど、人々から見捨てられた孤独や寂しさに打ちひしがれそうになる弱さと本来の神としての自覚に落差が生じ、葛藤が激昂する。祭祀されない神である土神は高みを目指せば目指すほど、ますます激昂し修羅の底に堕ちてしまうのである。」と読み解く。土神はそれでも一時は自らを制しようと努力する。そして「わしはいまなら誰のためにでも命をやる。みみずが死ななきゃならんならそれにもわしはかわってやってもいいのだ」とまで言えるようになったのだ。ところがである、そこに狐がやって来たのだ。そして狐の赤皮の靴のキラっと光ったのを目にしたとたん、怒りで我を忘れ狐を殺してしまったのだ。引用「土神の背中を押して地獄へ落としたのが、畜生の分際である狐である。土神の逆鱗である ︿存在を無視﹀ し、ありもしない高価な望遠鏡を自慢したことで土神を冒涜し、聖なる樺の木を土神の目の前で騙し(冒涜し)てしまう。
 怒りで我を忘れ、修羅の炎に飲み込まれた土神は、修羅に焼かれて狐を殺害する。この瞬間、土神は天界から修羅界を通り越して、地獄に落ちてしまうのである。不妄語戒を犯してきた狐は、土神に殺されたことでこれ以上樺の木を騙すことはできなくなったことに安堵し、また神というだけで自分よりも高位であることが許せなかった土神を地獄に落としたことで自分の心の苦しみから解放され、
「うすら笑った」ような死に顔をしているのである。」引用終わり

これを読んで今まで引っかかっていた狐のうすら笑いの意味の謎が解けすっきりした。土神も全てを知って、途方もない声で泣くしかなかったのだろう。そこで一番かわいそうなのはもう訪ねてくることはないであろう二人の友達を待つことになる樺の木だったかもしれない。


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