優しさの連鎖

いじめの連鎖、って嫌な言葉ですよね。
だから私は、優しさの連鎖。

大掃除をして得たもの

2010-12-27 12:42:32 | 日記
年末の大掃除をした。

カセットテープとビデオテープを捨てた。
洋服を捨てた。
本や漫画も捨てた。

でも捨てられないものもあった。

そっと元に戻した。

そのとき、本棚の奥から見たことのない文集が出てきた。

なんだろうと手に取るとそれは、昔父から「暇なときにでも見てくれ」
と手渡された同期会の文集だった。

なんと私はそのときから十年以上、その存在を忘れていたのだ。
このたび年末の大掃除をしたおかげで、それが日の目を見ることになったのだ。


その文集は、そのころ私が実家に行く度、父が毎日のようにワープロで全国から送られてくる同期生の原稿を打ち直し、編集していた物だとわかった。
学徒動員のころ高校生(当時の学制では中学生)だった父たちの青春は戦争とともにあったのだ。

その文集の中の父の投稿文を読んで私は、強い衝撃を受け、運命というものについて考えずにいられなかった。

父は中学三年のとき、先生からの勧めで予科練に入隊することを決めた。
地元で行われた一次試験に合格し、土浦の航空隊で行われる二次試験での合格が決まると即入隊ということで、地元ではまるで出征兵士の入隊のごとく、お膳が並べられ、壮行会が行われ、寄せ書きが書かれた日の丸を手に、大勢の人に見送られ旅立ったとのこと。

そして、知能検査、学力テスト、体力測定などの他、たぶん平衡感覚を鍛えるためのものだろうが、椅子の上でぐるぐる回転させられぽんと放り出され、所定の位置に何秒で直立できるかというものや、鉄パイプでできた球の中に手足を固定されめちゃくちゃに転がされたり、逆さづりにさせられたりなど試験が連日行われた。

そこで初めて父は、自分の左耳の聴力が健常者の半分以下しかないということを知ることになるのだった。
鼓膜に穴が開いており、予科練航空隊においてそれは致命的な不合格要因であることは間違いなかった。

次々に少年航空兵が誕生していく中、耳に障害がある事が発覚した父はそのとたんに厄介者のように扱われ、屈辱感は計り知れなかったと書いている。

そして失意のどん底で乗り込んだ帰りの列車が、真夜中、貨物列車との正面衝突という事故に遭遇することになるのだ。
あわや大惨事というその事故だが、貨物のほうは横倒しになり無残な姿であったのに対し、客車のほうは脱線したのが三両目までで、(双方の機関車の乗務員は亡くなり、その他にも多くのけが人が出たそうだが)幸いなことに四両目に乗っていた父は頭にこぶができたくらいで済んだとのこと。

戦時下のことである。国鉄からコッペパン一個支給されただけで、どうにか乗り継ぎの駅までたどり着き、帰路に着いたとのこと。

ところが父の頭の中は、その事故のことより、予科練へ入ることが認められなかった自分の不甲斐なさ、情けなさでいっぱいだった。
つい先日華々しく見送られて旅立った同じ駅から、まるで敗残兵のごとく、おめおめ帰れるわけもなく、駅構内の物陰ですっかり日が落ちるまで時間をつぶしていたそうだ。

そういう時代だったのだろう。自分は役立たずだ。地元の恥さらしだ。その思いから父は当時の自分は精神的におかしくなっていたと書いている。しばらく学校にも戻らず、家に閉じこもっていたそうだ。心配した担任の先生が説得に来て、再び学校に行くことになったのだが、そのころは戦火がいよいよ激しくなり、勉強どころではなく学校とは言っても、動員先の工場へ行って勤労奉仕する毎日だった。

そしてさらに不幸が訪れる。
半ば自暴自棄だった父は、気のゆるみからその動員先の工場で機械に手を挟まれ、左手の指を一本切断してしまうのである。

私は、これらの事実を今まで知らなかった。
子供のころ、父の手を見て、お父さんの指はなぜ無いの?と聞いたことがある。そのとき、機械にはさまれて無くなってしまったんだよと言われたが、そういえばそれがどういった状況だったのかということを聞いたことがなかったのだ。

父は、幼いころに両親を相次いで病気で亡くし、伯父夫婦に育てられた。年の離れた、たった一人の姉も若くして亡くなっており、おそらく、人に頼らず自分ひとりで生きなければ、という思いが人一倍あったのだと思う。


父はこう書いている。

あの時、もし予科練に合格していたら。

もし、先頭の車両に乗っていたら。

もし機械に挟まれ切断したのが指で済まなかったら。


ここまで読んだとき、私の中に15歳の父がいた。
父は、一人で悩み、苦しみ生きていた15歳の少年だった。
私は、よく頑張ったね、と言ってあげたい。
立派だったよ、と言ってあげたい。
あぁ、でもそんな言葉なんかでは伝わらない…。


列車の事故にあって最寄の駅まで歩いてきたその少年は、腹が減って倒れそうだった。
駅前で氷水を売っている店を見つけそこの女将さんに、ご飯を食べさせてくれと頼んだと言う。
そんなことはできないと、にべも無く断られた少年に、そのやり取りを聞いていたおばあさんが、
「困ったときはお互い様」
と、店の奥から、おにぎりを持って来てくれたそうだ。

最後に父はこう書いている。

自分を取り巻く人々…友人、知人、名も知らぬ人…
そんな人たちのおかげで自分は生きてこられた。
記憶から無くなりつつある青春の日々…それをここに書いた。


もし、父が予科練に合格していたら、特攻隊として帰らぬ人となっていたかもしれない。

もし、父が先頭車両に乗っていたら、事故の犠牲者になっていたかもしれない。

もし、自暴自棄になって、機械から手を引き抜かなかったら……

今私がこうしている、それもまた運命なのかもしれない。

父がいて、母と出会い、私が生まれた。
そして私も夫と出会い、息子たちが生まれた。
息子たちもいずれ父になる日が来るだろう。
そうやって、命は脈々と受け継がれていくのだ。

私が今年大掃除で得たもの…、それは平和である幸せに気付かせてくれた父からのプレゼント。
父が健在であるうちにそのことに気付いて本当によかった。
正月に帰省したとき父にありがとうを言おう。
(でも、10年も前にもらっていた文集を、今初めて読んだと言うのは気が引けるので)
きっと父は「ありがとう」の意味がわからないかもしれないな(笑)