風のなかで・・・山里・海辺・清流

四国山地南側の山里・海辺・清流等を歩き・写真を撮り、ローカルの生活を報告します。

NAGATACYOU・秋かぜ・里の秋・青春の「ゆめ」

2017年09月28日 14時32分00秒 | 日記
NAGATACYOUから流れてくる「風」や「空気」は重くて暗く、身体に悪い。
エリを立ててもマスクをしても、どこからか身体の芯に浸入し、防ぐことが出来ません。
しかし、この「流れ」は、われらの代表とそのお仲間によって作り出されたもである故、われわれの眼・耳・心で鎮めることが出来ます。
これこそが国民主権・民主主義です。
憲法違反のアメリカ軍との共同軍事作戦参加。
夫婦で品格の無い「オツキアイ」。
ご主人さんは「カケ」学園・奥さんは「モリトモ」学園。
複雑怪奇なNAGATACYOU社会こそ「国難」の元凶デス!!

 * * * 秋 か ぜ ・ 天 狗 高 原 * * *

9月23日・24日は四国カルスト天狗高原あるきでした。
9月の後半になっても下界は「ムシアツイ」。
不純物を含まない「山風」に全身をサラスとフヤケタ「こころ」が少しでもシマリ、良い活動にツナガルと・・・

高原の秋は深く、やわらかく、心地よい、ススキの舞台が歓迎してくれました。




スキー場入口近くで小さな赤い実に出会いました。ツリバナです。
小さな果実(約5ミリ)ですが、秋を全身で表現しています。
小鳥たちが待ちに待った秋の御馳走=初物デスネ。






9月23日:dinner
高原の夕闇と少し肌寒い山空気のなかでの夕食、人生の黄昏・ヨロヨロ男にはオニアイの場所と時間です。
時々星空に目が向きます・・・こころの奥で眠っていた「モノ」が少し滲み出てきます・・・
若き頃・安アパート・自室での夕食・・・ポッケにオサツが入っていると「カツフライ」・ガラキンになると「アジフライ」・最終段階は「サツマアゲ」、これは美味しくなかった、思い出すと涙がでます・調味料は醬油かソース・・・忘れ難い思い出デス。
 (23日・車泊)


24日・日の出。
この時間帯の空気や光のながれは最高です!!





(画像は全て23日・24日に撮ったものです)

 * * * 里 の 秋 ・ 鏡 川 流 域 * * *

鏡川上流域の秋は、伝統的な刈り取り・収穫が僅かですが残っています。
この辺りは、秋のお気に入りサンポコースです。





(全画像9月25日撮影)


 * * * 青 春 の 「 ゆ め 」 * * *

あった様な・・・ なかった様な・・・
高校時代は自転車通学、学校まで約20分でした。
冬の寒い時期でも手袋の思い出はアリマセン。
伝統的定住水田農耕民の遺伝子を全身に受け継いでいます。
それに加え、ポッケは何時もカラッポでした。
女性に話しかけられたことも、自分から話しかけたことも記憶にはアリマセン。
しかし、理想(=夢)は高く、暗い思い出はアリマセン。
地上生活は残すところ、僅かとなりましたが、今でも旅の「空」で「ゆめ」を追い続けています???

(ラオス航空)


(ラオス航空)


(バンコク航空)


(タイ航空)

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高知市民の自然教室 鏡川 ・ ヘルシンキ

2017年09月21日 19時42分28秒 | 日記
鏡川・高知市民を育てる自然教室です。
この夏(8月)、愛用の50CCバイクで鏡川の上流域を時々サンポしました。
鏡ダムの上流域は緑の森と不純物を含まない山空気のなかで清流がキラキラと輝いています。
土曜・日曜は小さな子供をつれた若いファミリーを多く見かけました。
親子で自然を知り、自然と共生する大切さを学ぶ、最高の自然教室です。
「お金」を握りしめ、人工環境での遊びとは、根本的に異なっています。
市内からは車で1時間以内です!!


鏡川橋の下、緑の遊歩道です。この場所は、1960年頃までは大きな椋の木(?)が数本あり、その根元はクマササが生い繁っていました。


雑草と泥水が溜まっている、この辺りはピカピカの砂浜でした。
(鏡川橋から2~300メートル上流)


宗安寺より少し上流。この画像は2006年6月に撮影したものです。




2枚の画像は同じ場所を今日(21日)の午前中に撮影したものです。砂浜は雑草に飲み込まれています。


鏡川支流的渕川・平家の滝より少し下流・山田の秋。(2007年10月)


同じ場所、稲の刈り取り・天日干しは姿を消しています。


鏡川支流吉原川・吉原ふれあいの里。ここは子供たちが遊び・学んだ思い出イッパイの小学校跡。
(撮影日:2006年10月20日)
今は撤去され、駐車場になっています。

「夏の鏡川」は中学時代で卒業でした。

しかし、社会人になっても少し「こころ」が重くなった時など、鏡川を見下ろす「山」に無意識に来ていました。
遠くに霞んでいる鏡川ですが、身体に沁みこんでいる「流れ」や「川空気」が「元気」を再生してくれました。
自然に挑戦し、自然に学び、自然が育んでくれた「こころ」はサビルことはアリマセン!!

鏡川の中下流域は市民生活の安全・利便等のために自然環境を大きく破壊しています。
市民は川に生息する魚類、野鳥等と共生する努力をしましょう!!

  * * * ヘ ル シ ン キ * * *

フィンランドの首都ヘルシンキ中心部の人口は約616000人です。
市内の移動は市電・バス・自転車、郊外へは汽車です。
郊外で見かける住宅は一戸建ての広い庭付き住宅、集合住宅は3階建てを多く見かけました。

行き交う市民の表情は穏やかで温かく感じます。

学費は小学校から大学まで全て無料です。

大学入学平均年齢は23歳です。

若者は多様な経験を積み、自分の判断で大学進学を決意します。

   < ヘ ル シ ン キ の 街 角 で > (ストックより)











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日本の宿題・山空気のアジ・自然の恵み

2017年09月14日 19時43分34秒 | 日記
日本の宿題??!!
わが国を代表する知識人の講演レポートが少し気になった・・・私たちはどこにいても自由に仕事を選べる社会にに生きているんです・・・
現状は非正規雇用労働者が40%を超えており、極めて問題の多い労働環境です。
超高齢化社会に突入していますが、老後の年金も不確定要素が多い。
今も明日も、安心・安全・希望のある生活は見当たりません!!

新聞紙面で、憲法9条改正問題をよく目にします。
「大日本帝国憲法」は数名の指導者により作成された欽定憲法です。
「日本国憲法」は敗戦の大混乱のなかで、アメリカの指導の下で作成されたものです。国の最高法規である「日本国憲法」は大国の政治、それに従属した国政により「解釈」の名の下に憲法違反が常道化しています。
軍事力や戦争で国の「平和」や国民の「幸せ」が実現した近代国家は存在しません。
国民が「憲法」を自分たちの「知識・知恵・経験」等を結集して作り上げること、安心・安定の職場と老後生活保障(=年金)等が「宿題」であり、「夢」です。

  * * * 山 空 気 の ア ジ * * *

9月8日・9日、瓶ケ森の「山空気」に魅かれ、ヨロヨロ歩きです。
何時ものことですが特別な目的はありません、季節の流れのなかで「自然」と向き合うことが身心に合っているからです。


長沢経由・よさこい峠手前の大先輩(=老木)に手を合わす(午前9時ごろ)。

よさこい峠でコーヒータイム。その後,「土小屋」まで走り、折り返し、「瓶ケ森」に向かう。斜面や登山道や歩き易い森のなかを約5時間彷徨う。日陰斜面や路傍に静かにやさしく輝いている草花が目にしみます。大好きです。















太陽が西の山並みに傾いてきたので、瓶ヶ森駐車場近くのカーブでカメラを準備していると、愛媛県を代表する石鎚山写真家・MIURAさんに再会しました。熱く重みのある話しに感動しました。
神の住む石鎚山を神の許可をえて撮っているように想える写真人は「MIURA」さんと「ランスケ」さんです。お二人の作品からは神を魂を感じます。




(夕食は写真に夢中で遅く暗くなったので「キロク」出来ませんでした・車泊)

9日・目が覚めたのが6時前でした。コーヒーとミルクパンの朝食。
肌寒い心地よい山空気のなかをサンポ。
ヨタヨタ・低級人生航路の私にとっては、「山空気」と「山風」が明日へ向かう気力を呼び覚ましてくれます。


(9日・早朝の石鎚山)


(9日・昼ごろ)

  *** 自然の恵み・ラオスのルアンパバン ***

一般家庭には冷蔵庫はありません、女性の美容院も見たことがありません、タクシーは三輪トラック。
しかし市民の表情は素朴で穏やかです。服装もソコソコです。
この街・ルアンパバンの朝市を歩いて解かりました。
大河メコンの自然の恵みが質素であるが安定した生活を支えているのです。











 
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温かくやわらかい生活・椿山(遠くなった昭和)・旅の思い出(ラオス)

2017年09月06日 21時25分26秒 | 日記
温かく・やわらかい・やさしい市民生活は何処に・・・
私の中学・高校時代(1950年代後半)、ローカルの父母は子供の教育のために生きていました。
今の生活環境と異なり、日常生活には大きな格差も無かったように思います。
1970年代は「夢」から「実現」への時代でした。
自家用車に手が届き、カラーテレビは1973年には白黒テレビを上回りました。

しかし、現状の若い働き手は、40%以上が非正規雇用です。
不安定な雇用や安い給料で「夢と希望」は消え去っています。

これから生まれてくる子供たちは90歳代まで生きると予想されています。
自由競争・格差社会の下で、子供たちの明日は「夢や希望」を持てる「幸せ社会」となるのでしょうか心配です。


  * * * 椿山・遠くなった昭和 * * *

9月3日・五台山牧野植物園で、「椿山 焼畑に生きる」・民族文化映像研究所作の記録映画を鑑賞してきました。
この記録映画は1973年から77年にかけて記録した、焼畑を中心に生きた里人の生活記録です。
1970年代後半、ここ椿山でも焼畑農業は生活のための必要性はなかったようです。
平家落人の里人は遠い祖先から受け継いできた「文化」を大切に守っていたのです。
(1970年は約100人が住んでいました・現在住民は1人)

テレビの普及と共に、華やかな街の消費生活に里人の伝統生活は押し流されました。
この「時」の流れに抗することはデキマセン。
椿山は戦後の「昭和」を語っている歴史の世界であるように思います

 < 椿 山 ・ 季 節 の な が れ >

標高700メートルの急斜面の冬です。凍える手足はみんな同じ。
共に生きた里人の「汗」と「こころ」で暖かくなった。
里人の働く姿は椿山では見ることが出来ません。
(1972年椿山小学校閉校・その時の児童数は2人)





 

椿山の春・庭先や家々をつなぐ小径に里人が大切に育てたのです。









「ミツマタ」の花です。「ミツマタ」は里人の換金作物でした。

昭和のニオイは遠い遠い山の向こうに消えました・・・









下から2枚の画像は「同じ家」の台所です。
お母さんの卵焼きやみそ汁のカオリで家族の1日がスタート。


上記の台所は完全に崩壊し、コーヒーカップのみが家族を待っている・・・


  * * * ラオス・ジャール平原・モン族の里 * * *

私はラオスのジャール平原、モン族集落を時々歩いています。
この地域は、日本の昭和30年代に似ています。
若き頃から、低級でヨタヨタの私。
今でも「こころ」が重くなるとこの地域に足が向きます。
少しでも、前に進もうとする「元気」や「気力」が湧いてきます。






(全画像は再掲載です。よろしくお願いします)
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