花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

友の会会員証のデザイン

2015-01-17 | アート・文化
年が明けてまた大阪市立東洋陶磁美術館の友の会継続申込を行う時期になった。その会員証は平成21年より、会員各位への挨拶状の一部を切り取る方式に変更された。点線部分を切り取ってお使い下さいとある左下の破線で囲まれた会員証を切り取れば、青磁水仙盆に鋏をいれることになった。平成26年の色絵龍虎文大壺に至るまで、切り込む領域は小さくなってきたが、それでも貴重な館蔵品の写真を切らせるデザインが続いている。本年度の会員証はまだ届かないが、同じ意匠となっているのだろうか。

中之島公園の一角にある大阪市立東洋陶磁美術館は、住友グループから寄贈された安宅コレクションを核に1982年に設立された世界一級の東洋陶磁の館蔵品を誇る美術館である。先の青磁水仙盆は安宅コレクションの名品のひとつで、世界に数十点しか残存しない北宋汝窯の作品である。美的感覚、学識および経験ともに優れておられる美術館関係者の方々が、神経を張りつめて大切に守ってこられた数々の名品に、毎年、ぐさぐさと鋏を入れさせるデザインに抵抗をお感じになることはなかったのだろうか。写真は決して単なる写真ならず、大切な人やものを偲ぶよすがである。また私がかかわってきたメスあるいは花鋏の世界で申せば、お人の体に対して、そして花に対しても、刃物を当てるにはそれ相応の必然があり、覚悟というものが求められる。ここに鋏をいれることにどの様な必要性があるのだろうか。デザインを担当なさった御方には余程、切り取らせることに思い入れがおありとみえる。畑違いの門外漢の私にはうかがい知れぬ何か事情があるのかと思いつつ、毎年ひとり当惑しているのである。

遠路にも拘らず、展覧会を毎回楽しみに通われ、あれは良かった、絶対に行くべきと感想をお聞かせ下さる患者さんが何人かおられる。薦めて頂いて今度こそ行こうと思いつつ、大きいままの会員証を持参するのもいかにも能とらしく仰々しく、さりとて鋏をいれるのは何としても抵抗がある。そのような訳で最近はとんと美術館から足が遠のいている。


天は蒼蒼 野は茫茫

2015-01-16 | 詩歌とともに
敕勒歌(ちょくろくのうた)       無名氏

勅勒川 陰山下        ちょくろくのかわ いんざんのもと
天似穹廬 籠蓋四野     てんはきゅうろににて しやをろうがいす
天蒼蒼 野茫茫        てんはそうそう のはぼうぼう
風吹草低見牛羊        かぜふきくさたれて ぎゅうようあらわる

モンゴルの大草原を旅すると人生観が変わるらしい。旅した友人によれば、空には地平線まで辿れる満天の星、見えるはずのない彼方の衛星が見えて、聞こえるはずのない遠方の音が聞き取れるようになるという。人はこの大地で生まれて、また大地に帰ってゆく。

悠久の時の流れの中で、はじめて人以前の存在から人へとベクトルが向いた一瞬があったに違いない。その時、風に吹かれ原野のど真ん中に立ち、人になったばかりの小さな命は一体何を思ったのだろう。時は下り、いまやその身に余計なものを纏い過ぎて、何がデフォルト値であったのか解らない。


傷んだ林檎│気虚と陽虚のメタファー

2015-01-15 | 漢方の世界


気虚と陽虚の違いについて学生から質問を受けた高教授が、林檎を例に挙げて説明なさったことがある。-----林檎の一部が腐り始め色が変わっている。気虚は、林檎のこの部分を切り落としたら残りの部分は美味しく食べられる。陽虚の場合は、色が一見変わっていない部分もすでに味が変質しているのだと。その時、高教授はそれ以上の説明をあえてお加えにならなかった。あえて言語化せずに「傷んだ林檎」として我々に提示されたメタファーなのである。気虚から陽虚の進行に際して問題は部分から全体に及んでいることなど、言葉でいくつかの暗示を理解しようとしても、恐らく高教授が「傷んだ林檎」で表出し伝えようとされた本質の一部に過ぎないであろう。

中医学の教科書的な説明で言えば、気虚証とは「元気不足、臓器の機能衰退の証候。常見される症状は、息切れ無力、だるさ、自汗、舌淡、脈虚」であり、一方陽虚証は「陽気が欠損して、温暖推動されず、臓器の機能が衰退する証候。常見される症状は、寒気と肢体の冷え、精神的疲労による無力、呼吸困難、味覚が減退し喉が渇かない、あるいは熱い飲み物を好む、尿が薄く軟便、あるいは尿が少なく浮腫、顔が蒼い、舌淡でやや肥大、脈は沈、遅、無力。」である。確実に言えることは、これらをまる覚えしただけでは「傷んだ林檎」の発想は生まれてこないということである。

最近読んだ論文「メタファーを通しての理解と知識―コトバという形式知と身体知としての暗黙知」(渡邊美代子: 東京経済大学, 人文自然科学論集129:p47-71, 2010)は、じつに多くのことを考えさせて下さる興味深い論説であった。コトバという形式知に置き換えても暗黙知が残されているのは何故かという疑問から始まり、人間の情報処理、コミュニケーションについての深い洞察が語られている。自分の頭の整理の為に、改めてここで暗黙知と形式知の定義を書いてみると、形式知とは言語や絵を用いて、あるいは実技の供覧などにより他者に伝えることが出来る知識である。そして暗黙知は、形式知になっていない無形の知識であり、コツや勘処というもの様に個人が実体験か修練を経て体得するしかない得られない知識である。

どの様な業界においても組織を強化し次世代に知的財産を伝えてゆくためには、個人に蓄えられた知識が共有されなければならない。そのためには、1人の個人が現場の経験から通じて蓄えてきたある種のノウハウは、皆が解る言葉や形にして引き出さねばならない。その暗黙知から知識を拾い上げ表出可能にする手立てとして挙げられているのが、メタファー(広義の比喩、狭義では隠喩)なのである。渡邊先生の論文では「最適なメタファーを用いて、暗黙知から知を掬い上げ、形式知に置き換えることができるか」ということともに、「コトバに乗せられずに暗黙知として残ったものをどれだけ感知することができるか」ということを重要な点として挙げておられる。さらにこの論文の末尾の方では、「因みに、日本文化には「話半分に聞く」や「話が上手すぎる」といった具合に、コトバというものに信頼をおかない傾向が窺え、このことはしばしば欧米の言語至上主義と対比されるが、この日本文化の特質は、先人たちがことばの本性というものを感知していた、もしくは見抜いていたことによる、というように読むこともできよう。」と、言葉で表せない暗黙知を重視する日本文化の特質についても言及しておられる。

真実は言葉を超えたところにあると考える日本文化(あるいは日本人の)性向についは、江戸時代の医学教育においても同様である。そこでも論説よりも修練が重視された。江戸中期の儒学者で医師でもあった亀井南冥の著書『古今斎以呂波歌』には、多くの諧謔に満ちた戒めの歌がならんでいる。「医は意なり、意と云ふ者を会得せよ。手にも取れず画にも書かれず。」、「論説をやめて病者を師と頼み、夜を日に継いで工夫鍛錬」などである。日本漢方には「方証相対」という、全身の症候を総合した証をそれに適応方剤に直結させる考え方があるが、学識や経験を重ねた治療者が有している、ある方剤が有効であると考えられる身体像のイメージもまたメタファーであり、言葉でつたえきれない理解があることを知るが故である。ふたたび「傷んだ林檎」に立ち戻る時、日本漢方も中医学も出発点や立場が異なっていても、優れた医術者が辿り着かれる境地というものは、もしかしたらそれほどの違いはないのではないか。どの道においても先人の遥か後塵を拝する私は、最近はそう思い始めている。

(追記:日本漢方とかかずに漢方の表記でよいのである。しかし「漢方=西洋医学に対する東洋医学」と考えておられる方もあり、あえて日本における固有の「漢方」と言う意味を強調するために日本漢方と記載した。)

初代御家元の眼

2015-01-14 | アート・文化


華道、大和未生流の初代御家元は、当代御家元の帝塚山学院大学名誉教授、須山法香斎先生の御祖父君である。私の母は、奈良女高師付属の高等女学校在学時の華道の時間に、初代御家元に御指導をいただく機会を得ている。お稽古の日は塵一つなく清めた体育館内に薄縁が敷かれる。袴姿の初代御家元は一列に正座した女生徒が生けた花の後側をお渡りになり、「さっぱりと、さっぱりと。」と繰り返しおっしゃりながら、裏側から次々と生徒の生け花に鋏をさくさくとお入れになった。新たに生まれ出た花の姿がまこと見事で、同じ花々が何故このように生まれ変わるのかと、感動を通り越して不思議でならなかったそうである。

この後、京府医大付属の女子医専に進学し耳鼻咽喉科医になった母は、花の稽古からは遠ざかってしまったが、それでも折に触れて庭の花々を部屋に生けてくれた。その母が、初代御家元のお花はどの方向から拝見してもまことに美しかったと言う。正面からだけではなく、次々と眺める方向を変えて眺めてゆく御眼に花がどのように映っていたのだろうと思案した挙句、天・人・地の役枝からなる単純な三本生けの形を3Dで作ってみることにした。そしてモニター画面一杯に拡大した基本形をぐるぐるとしばらく回転させていた時、ふとモデルと自分の境がなくなり、回転台の上で回っているかの様な感覚におちいった。生け花の背面から鋏をお入れになったというエピソードを初めて母より聞いた時は、はるかに優れた空間認識をお持ちであった為かと考えたのである。左右上下、どの方向から眺めた二次元の景色をも、瞬時にお頭に結ぶことが御出来になったに違いないと。しかし3D画像を回した時に考えが変わった。もしかすれば、眼前の花と一体になった眼でその花姿を捉えておられたのではないだろうかと。

流派の左勝手、前人の花形は、冒頭の写真の花の活け方である。やや斜めに天をさした右手の先から、その力を受けて曲げた左手へ、さらに右やや前方に伸ばした右足の地と言う風に、あたかも経絡を流れる気血を体感するかの如く、初代御家元は生け花の形を、如実に御自身の身体感覚として捉えておられたのではないだろうか。生け花も人体も、自然をそのうちに内在してしかも体現する小宇宙というならば、それは決して不思議なことではない。もはや生け花と自己との間に彼我の分がない境地にあれば、その花に降り注ぐ陽の光が一番恵みをもたらす場所は何処か、吹いてくる風がしばしそよぎを生む處は、その後にいずこに吹き流れてゆくのかということさえも、五感を超えた身体知により把握することができるだろう。そして伸び行く形を阻んでいる部位、臨界点を超えて傾きすぎた處、其の内で生命の流れが滞るのは何処かなど、いわば美しくない花形もまた、外から判断する眼とは異なり、病んだ部位から生じてくる症状の様な自らの病的感覚として感知することができるのではないか。勿論、本当の御心は私風情に到底理解できるものではないとは承知の上で、思いを巡らせてみたのである。

東大寺南大門には国宝の阿吽の金剛力士像が守護神として安置されている。大仏殿に向かって左側の口を開けた阿形像は、垂直よりやや斜めに高く建てた金剛杵を右腰で構え、広げた左手は中空を制して左足を踏み出している。右側の吽形像は右腕を掲げて、左肩から左手に杵へ流れる勢いは踏み出した右足に連なっている。この躍動感に溢れる仁王像を拝する時、阿形像は右勝手の後人の花形、吽形は左勝手の前人の花形に通じているものがあると思えてならない。そしてこの金剛力士のからだを貫き流れ、息づき動くダイナミズムに呼応する様な花を、何時の日か活けることができたなら本望である。

遊漢方臨床談話会

2015-01-13 | 漢方の世界


遊漢方臨床談話会は、日本東洋医学会評議員で指導医、日本漢方古方派の重鎮である三谷和男先生が主宰されている、歴史ある漢方研究会である。毎月一度、大阪で開催され、先週末が本年第一回目の会となった。方剤とその構成生薬解説から、御参加の諸先生方の漢方第一線での症例報告を巡る意見交換と総括まで、日本漢方から中医学や西洋医学の基礎から臨床にわたる、狭い枠に捉われない自由な発言が飛び交い、いつも活発でハイレベルな討論が行われている。西洋医学あるいは東洋医学であろうが、他の医師が提示される症例報告はとても勉強になる。ただ拝聴するのではなく、その症状や所見が治療に従い変遷し治癒してゆく時間的経過を辿り、自分ならばその時にどの様に治療したであろうかと考え治療者になり追体験することにより、自身の診療経験にさらなる生きた知識が加わるのである。

我等が三谷先生は、かの西郷隆盛の肖像画にどこか風貌が似通っておられ、坂本竜馬が『礼記学記』の「善待問者如撞鐘,叩之以小則小鳴,叩之以大則大鳴」に基づき、西郷隆盛を「小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く鐘のようだ」と評したという風体を彷彿とさせる、自由闊達で懐の深い師匠である。「善く問いを待つ者は鐘を撞くが如し」、どの領域においても、弟子たる者はこの言葉を胸に刻んで師匠に臨むべしなのである。

私は西洋医としての出発の後に、中医学ついで日本漢方を学ぶ機会を得た。どの医学も病気の解明と治療が究極の使命であることに変わりはない。しかしながら、三者にはやはり違いがある。そして日本漢方の何たるかについて、その深い様相の片鱗を私に開示して教えて下さったのは三谷先生である。実際の御診療に陪席せねば学べなかったことは実に多い。本だけをいくら読み込んでも、それはそれだけである。

着物の思い出から

2015-01-12 | 日記・エッセイ


小学校の頃の授業参観に、母はいつもひっつめ髪にきもの姿で来ていた。今の私よりはるかに若かったのであるが、地味な色合いの各地の紬ばかりを好んでいた。その頃、京都郊外の古刹で行われた展示会に何度か連れてもらったが、色とりどりのおべべが沢山並べられた部屋から部屋を渡り歩きながら、普段はあれをしてはいけません、それは大きくなってからよと言われ続けている中で、その日だけは特別に大人の素敵な世界を覗かせてもらった心地がした。

その母も肩や腰が痛いと言い出してから、あれだけ馴染んでいた着物を何時しか着なくなった。いつぞやは、私の甲斐性で着ることのできる好きな着物はもう着つくしたからとも言ったことがある。最後にきもの姿を見せてくれたのは、数年前に行われた女子医専の同窓会に出掛けた時である。大好きで大切にしてきた、志村ふくみさんの草木染紬の無地を着たのであるが、私の眼にはあきらかに着物の中で身体が泳いでいた。人並み以上に着慣れて着姿の工夫もおこたらなかった母である。年齢を重ねるにつれて着付けは変えてゆかねばならないのであろう。元来気丈な母であるが、気力や肉体の衰えとともに、自分の着姿をゆっくりと外の眼で眺めてみるだけの余裕がなくなってきているのかと、娘としてはつと寂しい気がした。あるいは出席者も減ってきた同窓会もこれが最後かと、何もかも承知の上で着ていたのかもしれない。

最近は存じ上げないが、志村ふくみさんのその頃の紬は、結城紬などに比べるとはるかにこしがある堅く厚い紬である。柔らかものの様に身に沿うのではないから、若い頃と同じ様に着せ付けると、年とともに萎んでしまった身体をかえって浮き上がらせるのである。その質感を身に纏うには気合をいれないと決まらない紬である。同じく縫いの一つ紋をいれて仕立てた無地の色違いを私にくれたのであるが、遥か以前に新宿の京王プラザで、ありふれた帯を締めてその着物で歩いていたら後ろから声をかけられた。どうもホテル内の日本料理店の仲居さんと間違えられたらしい。労働着と間違えられる様な私の着姿は推して知るべしである。

着付けと言えば、能の勉強のため観世会館に観劇に通っていた頃、なにかの御祝いの折に頂戴した白地に総刺繍の袋帯を、ロビーでむずと無言で掴まれて直されたことがあった。京の街中などを歩くと、向こうから歩いて来る着物姿の女性群がすれ違いざまに、頭の先から草履の先までずいと一瞥してゆく視線が何やら痛い。ひとえに下手な帯の結び方等々、着巧者の神経を逆なでしている当方の手落ちなのであろう。それやこれやで次第に着物からは遠ざかることになっていった。最後になるが、冒頭の写真は30代で初めて自分で買った伝統工芸の献上博多帯である。夏の紗献上のはりがある織りで、締めていても身体に付かず離れずに涼しい。これも好きで仕立てた藍地の長板中形、牡丹紋の竺仙の浴衣に締めて、いつか噂に聞く博多の祇園山笠を観たいと思いながらいまだに果たせないでいる。

銀のかんざし│藤山寛美と酒井光子

2015-01-11 | アート・文化



名優、藤山寛美と酒井光子が四つに組んだ松竹新喜劇「銀のかんざし」(館直志作)を、この正月に改めてDVDでみなおした。この芝居を初めて知ったのは小学生の時のテレビ放映である。毒を含んだ大人の男女の世界の芝居にもかかわらず、その頃の私は面白おかしいやり取りを観て、ただげらげらと笑っていた。毒性のある生薬も修治とさじ加減で毒にも薬にもなることを知ったのは、遥か後になってからである。

芝居の筋書はこうである。大正時代の京都、酒井光子演じる女髪結いの年増のおかつは、若い亭主の清之助と暮らしている。おかつは片時も清之助をそばから離さず、多くの顧客が付いている仕事も片手間になっている。若いながら腕は良い大工である清之助の行く末を心配した周囲は、二人がしばし別居して各々の生活を立て直すことを提案する。嫌々ながら因果を含められ、再び暮らす日を指折り数えていたおかつであったが、ひょんなことから別居が二人を別れさせる算段であったと知る。おかつは一人酒をあおり、剃刀を胸に倒けつ転びつ家を後に、ひたすら清之助がいる棟梁の家をめざすのである。

一升瓶の酒をどんぶりに注ぎ、目を据え出来上がってゆくくだりは、酒井光子の独壇場であった。清之助がもう戻ってこないという絶望、自分を騙した者達への怒り、飲み干すにさらに思いが高まりゆく姿は、ひたすら哀切で凄愴である。結局、殴り込みをかけたおかつは皆にかつがれ家に押し戻される。ひとの顰蹙など知るものかと酔いつぶれたおかつに向かい、俺だ、おかつ起きろ、しっかりせえと、帰ってきた清之助が一つの決心を胸に呼びかける。その姿を認めた時、ふたたび逢えたという万感の思いとともに、おかつは胸元を掻き寄せ乱れた鬢の毛をかきあげる。誰の眼も気になどするかという女が、唯一その男の前でみせるしぐさがひとしお憐れに映る。俺は決めた、おまえのもとに居るという言葉に泣き続けるおかつを抱き寄せ、清之助はもはや何も言えず立ち尽くしているだけの周囲の人間を振り返る。そして、おかつが秘かにこしらえていた銀のかんざしで足止めした藁人形を示しながら言う、ここまで女(おなご)に惚れられたことがありますかと。

おかつも清之助も、年は違えども人情も義理もなおざりにしない時代に生まれ育った。元来二人共に、腕が立つまでその技を磨いてきた職業人であるという設定に、どのような展開を踏ませても決して汚れた男と女には落とさないという作者の意思を感じる。清之助を見ると、女にぶら下がって得をするという打算も、ぶら下がりと見られる自分を恥じる卑屈さとも無縁の男である。ピュアで可愛げがあり、しかも気の優しさ故の押しの弱さは、おかつに惚れられ、そしておかつに魅入られる所以である。天才役者、藤山寛美は期待にたがわぬ貫録で、他の演目と異なる準主役の抑えた演技でありながら、このいまだふらふらと足場が固まらぬ、しかし花と艶がある若い男の姿を余情豊かに演じている。

国も時代も離れているが、映画「ローマの休日」で、オードリヘップバーンの王女は愛した新聞記者に別れを告げ、二度と戻ることのない市井の生活を後にして、彼女が属すべき世界に帰って行った。それは元々彼女がいた世界に違いないが、再び其処に立つことを自らの意思で選んだのである。銀のかんざしの結末は、世間から見れば、また元の鞘に納まったにすぎない。しかしおかつのもとに居てやると決心した時、清之助もまた何かを捨てて新たに何かを選び取ったのだ。文字通り髪結いの亭主と女髪結いであった、清之助とおかつの立場はここに逆転する。清之助はおとなの男になり、真におかつの亭主に成ったのである。さぞかしこのたびの事で風評はたったに違いない。狭い業界において、これからまだまだキャリアを積まねばならない清之助は確実にハンディを負っただろう。それでも捨てる神あれば拾う神ありなのだ。このふたりなら乗り越え活路を開いてゆくだろうと思わせてくれるエンディングであった。

麻酔科医の折り紙

2015-01-10 | 医学あれこれ


折り紙は無二の親友の福島弘子先生の力作である。福島先生は学識、臨床経験ともに優れた麻酔科指導医であるとともに、複雑でリアルな折り紙が得意である。公立山城病院在任の頃、麻酔担当の子供の患者さん一人ひとりに好きなものを尋ねて折っておられた。家とは違う環境で寂しく心細い思いで一杯の心を、少しでも明るく楽しいものにしてあげようという心遣いである。小さな患者さん達は大切な作品を胸に笑顔で退院してゆかれたのである。

多くの仲間の助けを頂いた中でも、福島先生が麻酔を担当して下さったからこそ、通常、緊急を問わず後顧の憂いなく手術に専念することができたと深く感謝している。彼女は天性の指導者でもあり、手術室で術中に手を動かしながら聴くともなしに耳を傾けていると、自分の頭で考える指導をしておられたのが印象的であった。多くの看護師、救急救命士、研修医の方々は、生きた知識と技術を取り込んで立派に成長してゆかれた。

医院を開業後、過去にお受けになった手術の病歴を患者さんにお尋ねすると、執刀医の名をお答えになっても、麻酔科医を覚えておられる方はほとんど皆無である。麻酔科医は数多くの術者の手術を見届け術者の技量は全てお見通しであるから、メッサーザイテ(Messerseite)にとりひたすら恐ろしい存在である。例え神の手と称賛を浴びておられる様な不世出の名医の諸先生方も、麻酔科医なくしてその腕を存分にお揮いになることは出来ないだろう。もし今後、手術をお受けになられる時は、御担当になった麻酔科医のお名前を何時までもお忘れなく。

最後の玉は何色ですか

2015-01-09 | 日記・エッセイ


『私的生活』(田辺聖子著)で、女主人公の心中のセリフとして、あなたへの優しさの玉は出尽くしたというのがある。恋人に別れを告げるときの心情である。さてそのような状況で、最後に出てくる玉は果たして何色なのだろうかと考えたのである。恋人以外にでも、一つの関係に終わりを告げる時、あなたならばどういう色の玉を出すかと、診療とは無関係の場所で淑女の皆さんに尋ねてみたことがある。色のイメージは人により多少異なるので、何故その色になるかもあわせて聞いてみた。ある人は黒色と言う。これだけ気使いして真心を尽くしてみても、それを当たり前と思って胡坐をかいてきた相手への、最後通牒として投げつける黒い球である。赤い球という人もいる。その相手にはっきりともうここで終わりだと、交差点の交通信号の様にストップを知らせてあげる赤い球である。私はプラチナの銀色という人もいた。それだけ心を込めて出し続けた、わたしの優しさはプラチナ色だったのよという宣言なのであろう。中には最後の玉を出す力は残っていないと思うので、色までわからないという回答もあった。

さて私なら何色を出すだろうと考えてみれば白い玉である。もうこの土俵の上からは降ろしてもらいますと、闘いをやめて白旗を掲げるという意の白色である。また漢方で言うならば気虚というところか、疲れ果ててもう何の色も残っていないという白色である。生来しつこいのが苦手で、長距離走に持ち込まれるとすぐに疲れてきて、もう勝手に走ってねと言いたくなる。これは決して格好をつけて気取っているのでなく、単にパワー不足なだけなのだ。年とともに脾気虚から気陰両虚に、この頃はさらに陰陽両虚に進行してきているが、それでも出す玉の色は白色のままである。これが私の基本体質なのであろう。ただしこの根性のない白色は、医師としての仕事モードを切った時のあくまでもプライベートな私の場合である。

ところで男性も玉を出す状況があるらしい。『酒場のたしなみ』(吉行淳之介著)には、男性としての打ち止めとして最後に赤い球が出てくるというくだりがある。しかし揃いも揃って皆が皆、赤い球を出すとも限らないのではないか。貴男ならその様な時に何色の玉が出ると思いますかと、紳士諸氏にお尋ねしてみたい気がする。さすがになかなか尋ねてみる勇気と機会がない。

人を見ること見せること│実意深切の花

2015-01-08 | アート・文化


花を活けると気力も体力も消耗する。作品を出瓶するしないを問わず、賑々しい華展の舞台裏の9割方は力仕事の連続である。生け花に限らず、心身ともに疲れ果てたその様な状況下、なんとかここまで仕上げたと少しは自分を誉めてやりたくなる時に、ついついはまりやすい風体がある。一つ目はまず、一生懸命生けました、大変よくできましたと胸を張ってみせる「小学生の花丸の花」である。二つ目は「能書きを垂れる花」である。苦労して入手した花、丹精をして育てた花、枝をこうしただの花をどう変えただのや、花器の由来など等々、苦労話のひとつも人に語りたくなる。三つめは和田東郭先生曰くの「人そばえの花」、業界の眼や見巧者受け狙いを意識した助平根性の花である。しかしこれらの三つの花はまだbenign (良性)である。

「兎角すつと真一文字にでかけるは善き人也。前に障子を立て其内より出つ入つするやうなる気の人は必悪きもの也。(中略) 兎角人は実意深切と云もの第一の事也。是をかたく盡て見る時は即忠也。この忠を立ぬく時は岩をも通す處の力ありと云へし。」 (近世漢方医学集集成15 和田東郭『蕉窓雑話』、名著出版、p.554)

安全圏に身を置いて自分を出し惜しみする。逃げ込める障子の裏側というホームに軸足を置いたまま、己を守ることのみ腐心する。やられるかもしれないアウェイで、ありのままをさらけだす勇気、それでも真心を尽くすという実意深切がない。陥ってはならぬのが、この様な「はすに構えた花」である。自らを真っ赤に完全燃焼させ、その炎で周りも巻き込み皆一緒にここで熱く燃えようぜ!という風な、誰を貶めることも傷つけることもない、翳りのない人間賛歌の花は見ていて清々しい。真直ぐで、そして豊かで、華やかであってこその花なのである。