花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

花を見ること見せること│菫の花

2015-01-07 | アート・文化


多少の華道の心得ができると、自分の属する流派、他流派を問わず生け花の拝見に伺うときに、何の花を活けておられるか、どういう役枝の構成か、はたまた枝や花をどのような工夫で止めておられるかということが、どうも気になって仕方がない。これが果たして生け花の正しい見方であるのだろうか。よしんばその結果、ほんに素晴らしい工夫の活け方だなあと感嘆したとて、これがその生け花に対する礼を尽くした賛辞になっているのだろうか。先に挙げた『小林秀雄 美を求める心』の冒頭に掲載された「美を求める心」には次の一節がある。花の話は一つの喩えであろうが、自分の生け花における姿勢を振り返った時、結構心にこたえたのである。

「例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心の内に這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って見るという事は難しいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えて了うことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。」 (『小林秀雄 美を求める心』 p9-10)

芸事はすべからくそうなのかもしれないが、もの心ついた後に理屈だけで切り刻んで学んだ場合、ともすればくどく暑苦しい風体に陥りがちである。 私などはその典型で、何の花を生けても、そのような臭みが永久に抜けないのである。すでに虚心坦懐な心は失ってしまっている私などが喜ぶ花ではなく、花の活け方も活ける型も御存じでない、いわば観る眼に何のバイアスもかかっていない清廉な人の心に沁みてくる花があるとすれば、それこそが本物である。素直な花を生けることは、年を重ねれば重ねるほどむつかしい。