『私的生活』(田辺聖子著)で、女主人公の心中のセリフとして、あなたへの優しさの玉は出尽くしたというのがある。恋人に別れを告げるときの心情である。さてそのような状況で、最後に出てくる玉は果たして何色なのだろうかと考えたのである。恋人以外にでも、一つの関係に終わりを告げる時、あなたならばどういう色の玉を出すかと、診療とは無関係の場所で淑女の皆さんに尋ねてみたことがある。色のイメージは人により多少異なるので、何故その色になるかもあわせて聞いてみた。ある人は黒色と言う。これだけ気使いして真心を尽くしてみても、それを当たり前と思って胡坐をかいてきた相手への、最後通牒として投げつける黒い球である。赤い球という人もいる。その相手にはっきりともうここで終わりだと、交差点の交通信号の様にストップを知らせてあげる赤い球である。私はプラチナの銀色という人もいた。それだけ心を込めて出し続けた、わたしの優しさはプラチナ色だったのよという宣言なのであろう。中には最後の玉を出す力は残っていないと思うので、色までわからないという回答もあった。
さて私なら何色を出すだろうと考えてみれば白い玉である。もうこの土俵の上からは降ろしてもらいますと、闘いをやめて白旗を掲げるという意の白色である。また漢方で言うならば気虚というところか、疲れ果ててもう何の色も残っていないという白色である。生来しつこいのが苦手で、長距離走に持ち込まれるとすぐに疲れてきて、もう勝手に走ってねと言いたくなる。これは決して格好をつけて気取っているのでなく、単にパワー不足なだけなのだ。年とともに脾気虚から気陰両虚に、この頃はさらに陰陽両虚に進行してきているが、それでも出す玉の色は白色のままである。これが私の基本体質なのであろう。ただしこの根性のない白色は、医師としての仕事モードを切った時のあくまでもプライベートな私の場合である。
ところで男性も玉を出す状況があるらしい。『酒場のたしなみ』(吉行淳之介著)には、男性としての打ち止めとして最後に赤い球が出てくるというくだりがある。しかし揃いも揃って皆が皆、赤い球を出すとも限らないのではないか。貴男ならその様な時に何色の玉が出ると思いますかと、紳士諸氏にお尋ねしてみたい気がする。さすがになかなか尋ねてみる勇気と機会がない。