A DAY IN THE LIFE

好きなゴルフと古いLPやCDの棚卸しをしながらのJAZZの話題を中心に。

サドメルオーケストラとサドジョーンズ&ペッパーアダムスクインテットはどちらが先に生まれたか?

2014-08-28 | PEPPER ADAMS
サドジョーンズとペッパーアダムスの出会いは古い。同じデトロイト出身である学生時代から顔なじみだったかもしれない。

プロになってから2人が一緒にプレーしていた場所は地元の”The Blue Bird Inn”というクラブ。デトロイトでは老舗のジャズクラブ、地元のメンバーだけでなくチャーリーパーカーやマイルスなども出演していた。デトロイトも今では寂れた街になってしまったが、当時は自動車産業の街として活気を呈していた。活気のある街のクラブも当然のように毎夜熱い演奏が繰り広げられていたようだ。





軍隊に入って朝鮮戦争へ出征し、地元へ戻ったのは1953年7月の事であった。アダムスは、早速このブルーバードでプレーを再開した。その時のハウスバンドのリーダーはビリーミッチェル。そのミッチェルと52年の秋以来コンビを組んでいたのがサドジョーンズであった。
ミッチェルが抜けることになり、アダムスはサドジョーンズとフロントラインでコンビを組むことになる。これが、2人がレギュラーで一緒にプレーした、最初のクインテットの誕生となった。
アダムスが23歳、7つ年上のジョーンズが30歳の時であった。

ハウスバンドには、その後トミーフラナガンが加わり、時にはピアノレスのカルテットの時もあった。翌54年の5月にピアノがバリーハリスに代わった直後、サドジョーンズはカウントベイシーオーケストラに加わる事になりバンドを去ることになった。
それから10年サドジョーンズはベイシーオーケストラと共に活動することになる。その間プレーだけでなくアレンジにも腕を振るうようになる。

残されたアダムスは、この「ブルーバード」のミュージカルディレクターを務め、マイルスデイビスなどを迎えたセッションを企画しながらクラブを切り盛りしていたが、12月にはアダムスもブルーバードを去ってケニーバレルのグループに加わることに。

そんな関係であった同郷の2人はその後も幾度となく出会う事になる。特に、63年にデトロイトの新興レーベルモータウンのジャズ系の傍系Workshop Jazzの立上げをアダムスが手伝った時は2人で一緒のレコーディングもあり、レギュラーコンボ結成に今一歩の所まできたが続かなかった。

そして、再びコンビを組んだのは1965年の3月になってから。デトロイトのブルーバードで一緒にプレーしてから10年以上が過ぎていた。

実はこの時期、60年代の中頃、ペッパーアダムスは金銭的に窮していたという。
ドナルドバードとのコンビの活動の報酬としてのギャラを貰えず、自分が作った曲の権利は登録されず、録音したアルバムの権利も曖昧であった事が災いしていたのだろう。要は、プロのミュージシャンとしてまともな収入の基盤ができていなかったということになる。

止む無く、ライオネルハンプトンのオーケストラに雇われてツアーに出たが、決して高給をとっていたとは思えない。ハンプトンバンドの演奏内容もアダムスにとってけっして満足できるものではなかった。金銭面ではハリージェイムスからのいい条件での誘いを断ったのを後悔していただろう。レコーディングへのお呼びが少なかったのも、ちゃんとミュージシャンユニオンへの登録が行われていなっかったからという。要領が悪かったのか、ツキに恵まれなかったのかは定かではないが、いずれにしても運には見放された日々をおくっていた。

そんな状況下でのサドジョーンズからの誘いは、旧友からの有難い誘いであった。コンボでの演奏を望んでいたアダムスなので、もちろん内容的には満足のいくものであったと思うが、果たして金銭的に潤ったかというと甚だ疑問である。

というのも、お金を稼ぐことに関して決して得手ではなかったアダムスの目から見ても、「サドジョーンズは、プレーもアレンジもすべてが素晴らしいのに、せっかくのビジネスチャンスを生かしきれなかった」と手記の中で評価されている。音楽的なリーダーシップとビジネス面でのプロデュース能力は別物なのだ。

その様な中、今度はサドメルオーケストラのリハーサルが始まった。1965年11月、クインテットの活動から半年以上遅れてのスタートであった。
サドメルオーケストラの起源を辿ると、1955年6月カウントベイシーオーケストラに加わったばかりのサドジョーンズが、地元デトロイトで行われたバンド合戦に来訪したスタンケントンオーケストラのメルルイスと楽屋で話をしている時、「将来は2人でやろう」と意気投合したのが始まりといわれている。
こちらも、2人にとっては10年の道のりをかけ、このオーケストラが若い頃の夢の実現の場であった。

アダムスは、61年にドナルドバードとのコンビを解消してからは、鳴かず飛ばずの活動で、レギュラーグループで活動するきっかけを掴めないでいた。その時、気心の知れた、そして2年前に一緒に再起のきっかけを掴みかけたサドジョーンズとのコンビのスタートは手応えを感じていただろう。

その中、今度はあまり気の進まないオーケストラへの参加要請であった。
というのも、コンボでのプレーを希望していたというのは表向きの理由があったが、このリハーサルオーケストラに加わることに金銭的な不安もあったと思われる。要は、時間はとられるが、お金にはならない仕事は控えたいというが本音だったかも。リハーサルは、もう一人のバリトン奏者、マーヴィンホラディと交代で参加していた。

サドメルオーケストラの立上げは、表向きにはニューヨークの一流のスタジオミュージシャン達が、仕事の合間をぬって編成されたリハーサルオーケストラと報じられていた。それ故、仕事の休みが多い月曜日の夜に毎週集まったと言われている。
確かに、スヌーキーヤング、ボブブルックマイヤー、ジェロームリチャードソンなどのファーストコールのミュージシャンも何人もいたが、反対にスタジオの仕事も満足にもらえないジミーオーエンス、そしてペッパーアダムスなどの若手もいた。彼らにとっては、リハーサルでもお金がもらえるのか、ビレッジバンガードに出演するようになってもいくらギャラが貰えるかは死活問題であった。

結局、20ドルのギャラで折り合いがついた様だが、決してギャラとしては多いものではなかった。事実、ジミーオーエンスはスタート直後にハービーマンのグループに加わるため早々にバンドを去った。

サドメルのオーケストラが1966年2月7日にデビューすると、当然初アルバムの制作の話も具体化した。リハーサルの場所を提供していたPhil Ramoneも動いたのであろう。ラモーンも関係したソニーレスターが新たに立ち上げたソリッドステートレーベルで初録音を行う事が決まった。

録音場所はフィルラモーンご自慢の新機材の入ったA&Rスタジオ、デジタルの時代にはまだ早かった。何が当時の新技術、新機材かといえば、真空管からトランジスターに替わって行った時代。レーベル名もその名のとおりのSolid Stateであった。



実はこのラモーンは今ではプロデューサーとして有名で、ジャズに限らず多くの有名アルバムを作り出している。この頃はまだ先進的なレコーディングエンジニアとして活躍を始めた頃だ。この後もエンジニアとしては、4chトラック録音、映画の光学式サラウンド、そしてデジタル録音と常に時代を先取りした技術を生み出した。市販CDアルバムの第一号も彼のA&Rスタジオで作られた。
彼が携わった仕事の経歴をみると、まだ駆け出しだった1966年の実績にこのアルバムも確かに記されている。

一方の、サドジョーンズ&ペッパーアダムスクインテットも結成一年を経て、やっとアルバム制作の段取りが始まった。こちらのプロデュースは、名門リバーサイドを経営していたオリンキープニュース。リバーサイドが倒産し、捲土重来を期してスタートしたマイルストーンレーベルの第一弾のアルバムとして企画された。





このような経緯で生まれた2枚のアルバムは、

サドメルのオーケストラが、
”Presenting Thad Jones & Mel Lewis & The Jazz Orchestra”




クインテットが、
“Mean What You Say / Thad Jones & Pepper Adams Quintet”



として、世に出ることになった。

2枚のアルバムのそれぞれの録音日を辿ると。
サドメルのオーケストラは、5月4、5、6日、一方のクインテットは、4月26日、5月4日、9日
となっている。

5月4日は、両方の録音が重なっている。サドジョーンズ、メルルイス、そしてアダムスの3人はこの日は2つのスタジオをハシゴしたということになる。

いずれにしても、オーケストラとクインテットの2枚のアルバムはほとんど同じ時期に録音されて世に出ることになった。






クインテットのアルバムのタイトル曲になっている”Mean What You Say”は、オーケストラの最初のレパートリーの中の一曲でもあり、この録音にも入っている。サドジョーンズの曲の中で自分も気に入っている曲の一つだが、このベイシーライクの曲とアレンジにはギターのリズムが良く似合う。サドジョーンズはベイシーオーケストラに長くいたせいか、ギターへの拘りもあって、立ち上げ時はサムハーマンをメンバーに入れていた。

しかし、他の曲のアレンジではギターの出番は少なく、ハーマンの出番はパーカッションが多くなっていった。当然ハーマンはこのバンドにギターが不要なのを悟りハンドを去った。
その後、レコーディングではギターが入っても、サドメルオーケストラのライブ演奏でギターがレギュラー参加することは無かった。ジョーンズにとっては、拘っていたギターを外すことが慣れ親しんだベイシーサウンドからの決別にもなったのかもしれない。

2月の旗揚げライブの後、このレコーディングまでの期間アダムスはテディーチャールスのグループでツアーに出て、サドメルのオーケストラには参加していない。サドメルではファーストライブにも参加したもう一人のバリトン奏者、マーヴィンホラディが参加した。
しかし、アダムスはこの2枚のアルバム録音に参加したことによって、色々迷いがあったが正式メンバーとして定着する決心がついたようだ。もちろん、ジョーンズからの強い説得もあったと思うが、コンボでも相方を務めている先輩ジョーンズの要請は断りきれなかったのだろう。

このアルバム録音を経て、サドメルのオーケストラは毎週月曜日のビレッジバンガードへの出演がレギュラー化し、他にも7月のニューポートへの出演など活動がどんどん活発になっていく。
一方のクインテットの活動は頻度が少なくなるが、合間を見てクラブ出演は続いていた。
しかし、残念ながらクインテットの2作目のアルバムがその後作られることは無く、サドジョーンズ&ペッパーアダムスクインテットの演奏は結局この一枚しか残されていない。

このアルバムを改めて聴き直してもバードとのクインテットとは趣が違うし、並のハードバップ系のクインテットとは異なる。特に、ドナルドバード&ペッパーアダムスのクインテットのファンがこのアルバムを聴くと、同じ編成でもファンキーらしさが無く、ある種フリーな演奏もあるこのクインテットにがっかりするかもしれない。しかし、世の中ハードバップから、ファンキー、8ビートと変遷を遂げている中で、明らかに違う位置づけの演奏でありマイルストーンレーベルの初アルバムを飾るに相応しい一枚だと思う。

2管編成でありながらサドメルオーケストラのミニ版の響きがするが、これもサドジョーンズのアレンジの特徴によるもの。オーケストラより先に立ち上がったこのクインテット、さらに遡れば63年のモータウンでのレコーディングが実はサドメルの原点になっているかもしれない。結果、それがこのクインテットの味付けを決めている。

アダムスは居場所が定まったので安心したのか、お金を稼ぐためには欠かせないレコーディングへの参加もこの年から急に増える。セッションや他のビッグバンドへの参加も多くなっていった。久々に元気なアダムスのプレーが聴けるようになった1966年の始まりであった。

いよいよ12年間のサドジョーンズと行動を共にする時代の始まりだ。

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