中爺通信

酒と音楽をこよなく愛します。

宝泉寺(終)

2008-10-24 22:23:56 | 山形
 「みちのくを ふたわけざまに そびえたまふ
  蔵王の山の 雲の中に立つ」

 蔵王山頂の歌碑に刻まれた、茂吉の歌です。自筆の書体をそのままの大きさに刻みつけたもので、「書」としても素晴らしいもののようです。僕は書道のことは全くわかりませんが、この歌碑は斎藤茂吉の集大成と呼べるものでしょう。

 この間書いたように、彼は東京の青山脳病院長としても立派な業績を遺した人ですが、そのさなかに一万八千首もの和歌を詠んだというのは本当にすごい事ですよね。

 しかしその歌のほとんどは、故郷やそこに住む母などの思い出を詠んだものです。故郷への尽きない想いが彼に和歌を詠ませたのでしょう。

 実は彼が故郷の山形にいた幼少時代に一番影響を受けたのは、宝泉寺の住職でした。この人は書道家としても立派な人で、茂吉は住職に書道をならっただけでなく、その人間的な魅力にも大きく心を動かされたようです。

 「父は俺にひとつ勉強して書家になってみないかと二三度言ったことがあった。父は本気で言ったので非常に嬉しい気持ちがした。なんとなくワクワクして宝泉寺の和尚さんより上等の字を考えた。」

 これは茂吉の書いた随筆の中の一文です。東京に出る前、彼は本気で書家か僧侶になりたいと思っていたようです。住職にあこがれてのことでしょう。しかし、その住職自身の奨めにより、東京の斎藤紀一氏のところに身を寄せる事になったのでした。逆に言えば、それほどまでに、その住職を尊敬していたという事なんですね。

 「みちのくの 山より来たり 椋鳥が
  一声鳴きて いざ帰りなむ」

 彼は自分のことを椋鳥と詠んでいます。「椋鳥」とは田舎から都に上って来た者をあざけって言う言葉だそうです。生涯を通じて故郷を想い続けた彼の、「命が終わったら上山の宝泉寺に還ろう」という気持ちが詠まれてますね。

 斎藤茂吉の遺骨は本人の遺志で、東京と宝泉寺とに分けて埋葬されています。宝泉寺ではもちろん、彼が尊敬してやまなかった住職の墓の隣で眠っています。

 さていよいよ明日が、まさにその宝泉寺での演奏会です。静かな気持ちで演奏を奉納することにいたしましょう。

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宝泉寺2
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演奏会の模様(後記)
     

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