中爺通信

酒と音楽をこよなく愛します。

本番前

2010-01-31 14:27:13 | 山形弦楽四重奏団
 さて今日はいよいよ山形Qの第34回定期。昨日までの疲れを無視して、元気に会場設営するも、椅子を持ち上げる時に毎回少しずつ歳を感じます。まだまだこれからか…。しかし今回は好意で手伝って下さったファンの方がいて、心身共に元気づけられました。

 しかし今年の冬は雪が少ない(今のところ)。いつものパターンだと山形Qのこの時期の定期は大雪に見舞われるはずなのに、外は暖かくて、さっきまで小雨なんか降ってました。足元にも雪は無し。地球温暖化は心配ですが、今日は定型文の「お足元の悪い中…」を付けなくて良さそうです。

 さてと、これからゲネプロ。良い演奏会になりますように。
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生きざま

2010-01-30 20:55:01 | 山形交響楽団
 二日間にわたる山響の「村川千秋の世界」が終了。たくさんのお客様に来て頂きました。全く衰えを見せないエネルギッシュな指揮と、気迫のこもった音楽に「今まで聴いた《運命》の中で一番感動した」と言っていた方もいました。

 村川先生は「これがラストコンサートになると思います」と言っていました。それだけに、今日の演奏会には御本人もいろいろと感慨があったことでしょう。しかしそれが、あの気迫のこもった棒にあらわれていた…とは、私は思いません。彼の指揮に気迫がこもっているのは、いつでも同じです。満席の聴衆に埋めつくされた大ホールでも、山の中にある木造の体育館で数十人しかいない全校生徒を前にした時も、真夏も真冬も、体調が良い時も悪い時も、いつも同じです。そのあたりにこそ、「村川千秋の世界」があるように思うのです。

 
 昔「スクールコンサート」で演奏旅行中に、午前の本番で、私はひどく体調が悪かったことがありました。…お察しの通り、前日の飲みすぎによる二日酔いでございます。それ自体は特に珍しいことでもありませんが、これ程ひどいのはこの時以外…2~3回あったか。

 とにかく吐き気がとまらない。座ってるだけで本当につらい。曲間の解説も聞くにたえない。
「次はイタリアの曲です。イタリアには美味しい食べ物がいっぱいあるんですよぅ。みんなが大好きなスパゲッティやピザ…」
こみ上げるものを抑えるのに必死です。(失礼)

 こういう時はとにかく意識を他の所へ向けないといけません。ということで、弾いている時はとにかく激しく。
「吐き気と頭痛よ、飛んで行け!」とばかりにモルト・エスプレッシーヴォで。

 「なんとか乗り切った…」終演後、やや放心状態の私は、指揮をしていた村川氏から呼ばれました。
…やばい、何かバレたのか?恐る恐る行ってみると…
「いやー、君はすごい。いつも一生懸命弾いてる。入団してからずっと見てるけど、君が手を抜いて弾いている所を見たことがない。いつまでもその気持ちを忘れないで頑張ってくれよ、いいね。」
 
 (先生すみません。これから、今のお褒めの言葉に値する奏者になるように頑張ります。)
という気持ちを込めて、無言で頭を下げました。


 村川先生ほど、いつも一生懸命な人はいないと思います。これほどハッタリやパフォーマンスと無縁に、ひたすら行動として信念を貫いた人はいません。その「生きざま」が今日の演奏にも表れていたと思います。

 いつまでもお元気でいらっしゃいますように。
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プロコフィエフ(終)

2010-01-28 23:21:51 | クァルテット
 31日の山形Q定期に向けての練習は、今日ですべて終了。あとはそれぞれ個人が、さらに完成度を高めること、少しでも余裕を持てるようにすることだけです。残された時間はわずかですが、神経質にならず、ゆったりとした気持ちで悪あがきを。

 
 ところで、プロコフィエフの曲をすべて知っているわけではありませんが、一番好きなのはバレエの「ロミオとジュリエット」です。「モンタギューとキャピュレット」の、あのテーマももちろんですが、バルコニーの場面をはじめ色々なところで雰囲気を変えて出てくる「愛のテーマ」も素晴らしいし、決闘のシーンの音楽も、マーキュシオやティボルトの死の場面の曲もローレンスのテーマもジュリエットの墓前も…要するに全部ですね。

 「ピーターと狼」でもそうですが、とにかくフレーズによる「キャラクター設定」がすごい。少女ジュリエットやマーキュシオやローレンスは、人物の人柄から立ち居振る舞いまでが目に浮かぶようです。場面ごとに雰囲気を変わり、その人物の気持ちまですごくよくわかる。天才的としか言いようがない。シェイクスピアを超えていると言ったら言い過ぎでしょうか?

 つまり、写実的で視覚的な表現の天才だと思うのです。若い頃から、時代遅れの分野だと言われていたオペラに興味を持ち、プーシキンやドストエフスキーの小説をオペラにしていたぐらいですから、「良い文学的素材を音で、より活き活きと表現する」ことが彼にとって一番魅力のある仕事だったのでしょう。

 ディアギレフと共にしたバレエの仕事などで、すでにアメリカやパリで名声を得ていたプロコフィエフは、「自分が本当に音楽にしたい素材」について考え始めます。その頃、彼の耳には祖国ソヴィエトの激動の様子が伝わってきていました。と同時に、彼の意図とは関係なく、ヨーロッパの批評家達からは「赤い作曲家」というレッテルを貼られることも増えてきました。こういうことは、嫌がうえにも「自分はロシア人である」という意識を高めたことでしょう。自分がやるべきことは何なのか…そんな時期に書かれたのが、「弦楽四重奏曲第1番」です。

「私は再び、祖国の大地と空気の中で暮らさなければならない。私はもう一度、あの瞬間的に輝き出す、本当の冬と春に会わなければいけない。私の両耳には、ロシアの言葉が響いていなければならないし、私は自分と血をわけた人々と話さなければならない。ここで不足していたことを私のところに呼び戻してもらうために。ここでは私は力を失ってしまった。アカデミズムによって駄目にされてしまうのではないかという危険に私は脅かされている。そうなんだ、わが友よ、私は戻るよ…」(パリの友人に宛てた手紙より)

 颯爽とした第一楽章、決闘を思わせるような第二楽章、そして内省的な第三楽章。天才として意気揚々と世界に飛び出して、そこで自分を証明するために戦い、最後に本当の自分のすべきことは何かを自分に問い直す…まるでそれまでの半生をまとめたかのような印象を受ける曲です。特に第三楽章で、意気消沈しつつも、時に懐かしく、物悲しく、激しくあらわれるロシア風な旋律は、まるで上に引用した手紙の文面そのもののようです。そして、彼はこの曲を完成してしばらくの後、ソヴィエトに帰ることになります。


 以上、だいぶ入れ込んで書いてしまいましたが、これはあくまでも私個人の解釈でございます。4人で作り上げるものがどうなりますか、また31日に聴きにいらしたお客様がどんな印象を持つかは、また別でしょう。良い演奏会になるよう、頑張ります。

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運命

2010-01-27 23:23:24 | 山形交響楽団
 「運命的な」という言葉がありますが、それは自分の一生を決定づけるような、あるいは人生を左右するような、という意味で使われますよね。でも考えてみれば、後で思うと人生に影響をおよぼしていたようなことは、日常にいくらでもあるわけだし、そういうものの連続こそが「人の一生」かも知れません。

 
 さて、山響は昨日から「村川千秋の世界」のリハーサルです。メインの交響曲はベートーヴェンの「運命」。

 しかし「運命」は、年に何回ぐらい弾くだろう?特に第一楽章はスクールコンサートでも、かなりの頻度であるので年に百回近くは弾いてるかも知れません。「年に百回」といえば、「三日に一回」に近いわけですから、かなりのもんです。例えば「三日に一度はラーメンを食べる」と言えば「いくら好きでも…」と思いますよね。それが何十年も続くわけですから、いわゆる「生活習慣」と言っても良いかも知れません。

 「芸術の秋」だけではなくて、凍てつくような冬の体育館(先週も弾きました)から、ゲネラルパウゼで蝉の声が響くうだるような夏まで一年中。まさに「運命」とともに四季を感じ、「運命」とともに年を重ね、「運命」とともに老いていく…。 

 私が山響に入団した頃は、そんなスクールコンサートの約半分は、村川氏が指揮していました。ですから「運命」もあらゆる季節に、あらゆる場所で、あらゆる状況の中で共に演奏しました。ですから今回の演奏会も「感慨深い」というよりは、「あの頃の日常」が帰ってきたみたいな感じがします。在団年数がもっと多い先輩方は、なおのことでしょう。


 まさに「運命を演奏する」ということ自体が、村川氏と山響の長年の「日常」であって、それがすなわち「村川千秋の世界」そのものなんです。つまりそれが、村川氏が貫き通した「運命」それ自体なのでしょう。

 昔と変わらない棒を見ながら、そんなことを考えていました。良い演奏会になるよう頑張ります。
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賭博者

2010-01-25 22:47:58 | クァルテット
「玉が溝にとびこんだ。
 『ゼロ!』ディーラーが叫んだ。
 『どうだえ!!!』狂ったような勝ち誇った様子で、おばあさんは私を振り返った。
 私自信、賭博狂だった。まさにこの瞬間、私はそのことを感じた。手足がふるえ、頭ががんとなった。」
    (ドストエフスキー 「賭博者」より)


 「ビギナーズ・ラック」というものは、確実にありますね。きちんとした計算なしに「どうせ遊びだ。捨てるつもりで試しに賭けてみよう。」という態度が良いんでしょうか?そして簡単に大金を手にして、逆にびっくりして、その驚きと興奮と嬉しさが忘れられなくなってしまうものです。

 初めて馬券を買ってみた時、まさにそうでした。渋谷で、昼間から屋台みたいなところで楽しそうに飲んでいる人達がいたので、思わず吸い寄せられて行くと、そこに場外馬券場があったのです。私は友人と単純に「昼間から飲む」場所を探していただけだったので、フラフラと屋台に着席して飲み始めました。大きなテレビに映るレースには目もくれずに、ただ飲んでいる私達は明らかに異質でした。仕方がないので何気なく周りの客を見てみると、楽しそうだった人が突然苦しそうになったり、しんみりと飲んでいた人がいきなり活気づいたりと、なかなか面白い。

 軽く酔いがまわったところで、「せっかくだから遊んでみるか」と。その頃私は若かったので友人が止めるのも聞かずに、てきとーに数字を選んで、2万円を一点勝負。すると画面でレースを見ても、どれがどれだかわからないうちに、レースが終了。数字を見ると…当たってる。連単とか連複とかも、よくわからないので、とりあえず馬券を機械に入れてみると…「ザクッ!」と厚みのある束が出てきて、酔いが醒めました。

 そのあと派手に飲みましたが、ぜんぜん酔いがまわらない。飲んでる間も、あの興奮が忘れられないんですね。翌週は独りで馬券売り場に行ってました。そしてなんと、再び同じぐらいの大金を手にしたのです。…今考えると、ここがピークだった。と言うより、この2回しか当たらなかったと言う方が正確です。

 その後は…「よくもここまでハズれるもんだ」と感動するほどにかすりもしない。真面目に競馬新聞を読んだりもしましたが、全然ダメ。予想の専門家の先生方も、本当にあてにならないもんですね。しかし「1回2万」というスタンスを崩さなかったのが救いでした。それで2回の勝ちを使い切る前に、根気が尽きたのも幸運でした。

 それ以来、競馬はまったくやりませんが、のめりこむ人の気持ちはよくわかります。「賭博者」の主人公が、完全にとりつかれてしまう様子は本当にリアルです。たぶんルーレットは競馬より純粋で、その完全なランダムさが美しいのだと思います。


 …いやいや、本当はプロコフィエフの話を書こうと思っていたのに、全然それてしまいました。彼はこの「賭博者」をオペラにしています。彼はチェスなんかのゲームマニアでもあったようですから、真剣勝負の息がつまるような緊張感を、音にしたかったのかも知れません。

(まとまらなかった…)
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LP

2010-01-24 23:59:09 | 音楽
 そういえば、一番初めに自分のお金で買ったLPは、ドヴォルザークの「交響曲第7番」でした。中学生の頃です。駅前のレコード屋で、なんとなく買ったものです。

 そこのレコード屋のおばあさんは、かなりの(今思えば偏りのある)クラシック通で、クーベリック指揮のそのレコードを持って「これ下さい。」と制服姿でカウンターに現れた私を見て、「見どころはあるがまだまだ若い」というような反応をしたものです。中学生なんだから当たり前でしょうに。その後「シゲティが弾いたタルティーニのLPを取り寄せてください」と頼んだら何だか一人前扱いされました。(それは今度レッスンでやるから先生に言われて仕方なく買おうとしたものだったんですが)。

 小学校高学年の頃、ドヴォルザークの「新世界」が大好きでよく聴いていましたが、それはカセットテープでした。中学受験をさせられたのですが、「シーン」とした中で勉強をするのがどうしても嫌で、勉強机の上に置ける、小さなラジカセで勉強中に聴くために買ったものです。考えてみれば、現代人は何かのストレスから逃れるためにクラシック音楽を聴く事が多いんじゃないでしょうか。「現代」というものの嫌さから逃れるために…。だから、小学生でもきちんとしたストレス(おかしな言い方ですが)を与えれば、本気でクラシック音楽を楽しめるようになるのかも知れません。

 我が家は小学生のうちから「ながら勉強」をしていても、親に叱られたことはありませんでした。「未完成」のSPレコードを擦り切れるまで聴いていたことをよく話してくれていた母親は、私がクラシック音楽を聴くようになっただけで喜んでいたようでした。しかし私は、母のその話を聞くたびに「それって蓄音機ってやつでしょ」と江戸時代かなんかの話と同じように思っていました。

 さて、「ながら勉強」が良くなかったせいかどうかはわかりませんが、中学受験に失敗して公立中学に上がりましたが、それと同時にラジカセが壊れたので、LPを聴くようになりました。それで「新世界みたいな他の曲」を探してレコード屋に行ったのでした。たまたまそこに置いてあったのが「7番」のLPだったというだけのことです。家に帰ってからワクワクして針を落としましたが、「パッとしないな…」という印象で終わりました。(そのレコードはその後、高校受験の「ながら勉強」の時に好きになりましたが。)

 
 「とうとが子供の頃、テレビってあったの?」
 「馬鹿言うな。ありましたっ!」
 「でもCDはなかったんでしょ?」
 「…はい…。でもレコードがあったから良いんだよ。」
 「レコードってあの黒くてデカいやつでしょ?見たことある。あれ何分ぐらい入ってんの?」
 「片面で20分ぐらいかな。」
 「かためん?」
 「表と裏と両方あるから。」
 「へーえ。レコードって面白いね。でもそれしか入んないだ…。」
 「……。」

 昨日の会話ですが、息子にとっては、自分とはまったく縁が無い大昔の話のように聞いてるんでしょうね。
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改善

2010-01-23 00:00:07 | 雑記
 少し前からどうも体調が悪い。頭が重くてくしゃみや鼻水が止まらない。
「寒い日が続いているせいかな?風邪が鼻からくる人は何色のベンザだったっけ…」
などと思っていたら、原因がわかりました。花粉症です。

 …早すぎる。まだ雪に悩まされてるシーズンなのに。これでもうゴールデンウィークまでこの不調が続くのかと思うとうんざりします。一年の3分の1近い。ということは、残りの人生、快適に過ごせるのは3分の2ってことか…。

 まさかまだ花粉症だと思ってなかったので薬を手に入れておらず、一昨日の本番中も、鼻がむずむずしっぱなし。これがつらいんです。
「弾きながら指揮者やら隣の人に向ってくしゃみをするわけにはいかない。ということは寸前に楽器を下ろして、ハンカチで顔をおおわねば。楽器を下ろしてハンカチを取り出すのには、2秒ぐらいか…。ということは、今のこの曲のテンポだとくしゃみが出そうなタイミングの1小節前ぐらいで楽器をおろさないと…と思ったら今度は鼻水がたれそうだ!」
…とまあ、これはやや大げさですが、要するに演奏に集中できない。

 外は吹雪なのに何でだろう?確実に例年より悪化してる…。このペースで年々ひどくなっていったらやってられない。何とかしなくては。


 ということで、近くの漢方薬屋さんに行ってみました。何か長期的に体質が改善されるようなものがあるかも知れない。

 霊芝やら色んなキノコやらが並んだカウンターの奥から出てきたおじいさんに
「漢方で花粉症をやわらげることができますか?」と訊いてみると
「できますよ…しかしあんたずいぶん早いね。」
「(そんな事言われても)…すみません…。」
「だいぶ弱ってるみたいだから、まず症状がとれるのをあげましょう。体質改善に効くのは症状がひいてからにしましょう。」
奥に入って調合を始めました。…何だか頼りになりそうな感じ。

 とりあえず10日分もらった薬(結構高い)を早速飲むも、あまりピンと来ない。
「漢方だからこんなもんか…」

 そして昨日の本番中は、少しやわらいだものの、まだまだ全然つらい。
「やっぱり耳鼻科に行くか…」

 しかし、さすが漢方。少しずつ効き目が感じられてきました。今日の本番は、まだ軽い頭痛はあるものの、かなり快適。今日は季節外れのスクールコンサートで、厳しい環境の体育館でしたが、ハンカチいらず。

 さあ、この勢いで体質改善めざして頑張ろう!(…生活習慣を改善しなくてもすむように。)
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ごぜんさま

2010-01-21 00:08:48 | お酒の話し(山形県)
 昨晩は、ちょっと外で飲んでいるうちに、ふと時計を見るとドッキリ。もう午前1時を回ってる!「あらら、またやっちまった…こりゃ怒られるな」。まったく無意味なのに、反省の気持ちを込めて、タクシーを使わずにやや遠い道のりを歩いて帰りました。

 しかし良いお店でした(二軒とも)。初めて行った店でしたが、とにかく日本酒の品揃えが素晴らしい。「十四代」「田酒」「而今」など、滅多に手に入らないようなのが揃ってました。
「十四代はあらためて飲んでみると、そんなに騒がれるほどでもないな。」
などと調子にのって飲んでいるうちに、時間を忘れてしまったのでした。


 家について恐る恐る、そおっと鍵を回す。
「ガチャッ!」…もう少し静かに開く鍵を開発できないもんかな。

 家の中はすでに真っ暗。…さすがにもう寝てるのか。軽く安堵。

 水を飲もうとグラスを取ろうとすると、他の皿にぶつかって
「ガシャン!」…ぶつけても、もう少し静かにしててくれる食器を開発できないもんかな。


 その後も、いちいちヒヤヒヤしながらも、着替えその他をきわめて静かに済ませて、何事も無く寝床へ。

…おや?…温かい。

 なんと湯たんぽが布団の中に入れてありました。…こういうのは叱られるよりも効きますな。


 反省…以後気をつけます。
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プロコフィエフ2

2010-01-19 08:06:45 | クァルテット
 世の中そろそろ受検シーズンですね。私は極端な文系だったものですから(要するに数学のセンスが無い)、センター試験は受けませんでした。サバをよんでいるわけではありません。私の頃はちょうど「共通一次」じゃなくなった頃です。本当です。

 さて、入試の緊張感の中で自分の実力(含む運)を発揮できれば、あとは人生で最も自由なひと時である「大学生時代」に突入です。今考えると我ながら、恐ろしくなるほど授業に出ませんでした…。

 しかしそんな無制限の自由にも飽きてくると(私は飽きるまでに5年かかりましたが)、「自分は社会に出て何をしたいのか?」「何をするために社会に出るのか?」というような事を考えなければいけなくなります。この時期は「自分は知るべきことはすべて知り尽くした」という錯覚に満ちた自信と、「自分はいったい何物なのか、実はまったくわからない」という不安と迷いが同居している時期だと思います。結局、私は就職してからも迷い続けましたが。


 ということで、引き続きプロコフィエフの話ですが、彼が「弦楽四重奏曲第1番」を作曲したのが、まさにこの「自信と迷い」が同居していた時期だったように思うのです。天才としてロシアを後にしてアメリカに渡った彼はまず、自分の実力が理解されないことに憤りを感じていました。

「私はニューヨークの中心にある広大な公園をさまよい、自分を取り囲むようにそびえる摩天楼を見上げながら、私の音楽に目をくれようともしなかったすばらしいアメリカのオーケストラのことを思い、冷ややかな怒りを覚えた。また何百、何千回も言い古されているようなセリフ、例えば『ベートーヴェンは、天才的作曲家である』とか言い、新しいものをひどく足げにするような批評家について、また長期の演奏巡業を企画しながら通俗的な曲目ばかりの同じプログラムを50回も使うような興行主たちについて私は考えてみた。
私はここに来るのが早すぎた。子供(アメリカ)は、まだ新しい音楽を受け入れるまで成熟していないのだ。家に帰るか?どの門を通って帰れるのだろう。ロシアは反革命の前線で四方八方とも包囲されている。それに夢に破れて帰ることがいったい光栄であろうか?」  (プロコフィエフの書簡より)

 その後、彼は自分の力をわからせるために、自分を証明するために意欲的な作品を次々に発表し続けました。そして次第に認められるようになっていきます。アメリカだけでなくパリやロンドンでも。十年以上の活動の末には世界中で、彼の名声は確立されたようでした。

 しかしここで突然彼は祖国へ、ロシアではなくなったソ連に帰ることを決めます。その直前に書かれたのがこの四重奏曲なのです。まさに自分の証明を終えて自由を手に入れたところで、「自分は何のために作曲するのか」を考えた時期の作品ではないかと思っています。


 そして長くなったので、続きはまた今度。 

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時代考証

2010-01-18 06:50:58 | 山形交響楽団
 昨日で二日間の山響定期が終了。寒い中、聴きに来て下さったお客様に感謝します。ブラームスの音楽は素晴らしいし、合唱団もよく頑張ってました。が、今回の目玉はやはり「山響作曲賞」の受賞作品の初演であるべきでしょう。

 壺井一歩氏作曲の「はるかな祭りと海」という作品は、複雑すぎずにシンプルにまとまって良い曲だと思いました。演奏者に苦痛を与えるようなフレーズも無いですし(これはポイント高い)。作曲者本人の、そのテンションの低い人柄も好感が持てました。お客さん達はどのように聴いたのでしょうか。

 しかし、作品の価値というものはだいたい初演時にはわからないものでしょう。同じく昨日の曲目のブラームス「ピアノ協奏曲1番」も、評価は低かったようですから。時間が経って消えてしまうか、人類の文化遺産になるかの予想はつけられないものです。

 今回の壺井氏だって、いつかものすごく有名になるかも知れません。1975年生まれだそうですから、2175年あたりに「今年はツボイ生誕200年だ」ということで、世界中で演奏されてないとも限りません。もしそうなれば、作曲者の生い立ちから好きな食べ物、異性関係から病歴と死因にいたるまで、何から何まで研究されて、演奏に反映されていることでしょうね。

 また、21世紀初頭の日本が研究されて、「当時の音を再現する」みたいな試みがなされるかも知れません。
「当時、理由は不明だが日本ではノン・ヴィブラート奏法が大流行していたから、ツボイの曲ではヴィブラートは止めるべきである。」
なんてね。


 作曲というのは大変な仕事です。
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運命の歌

2010-01-17 00:37:30 | 音楽
               Johann Christian Friedrich Hölderlin

 そう言えば、この間の大晦日は「除夜の鐘」を聞かなかったような気がします。酔って寝てたのかな…思い出すこともできません。せっかく煩悩を打ち消すために108回も撞いてくれてるのに、申し訳なかった。こんなことだから酒に関する煩悩が特に強いんでしょうか?

 ところで、「人には108もの煩悩がある」と、子供の頃に除夜の鐘を聞きながら教えてもらった時には驚きました。「煩悩とは欲のことだ」と単純に教えられましたから「108個も欲しいものあるかな…」と数えあげているうちに眠りにおちました。多分20個もいかないうちに。欲がないわけじゃなくて、寝つきが良いんです。

 
 人間、生きてる間は「煩悩をなくす」なんてことはできないでしょうね。食欲がなくなったら死んでしまいますし。でも、今の世の中はちょっと煩悩(特に欲)を肯定し過ぎだと思います。無数にある、ビジネス関連の自己啓発系の本はそんなことばかり書いてあります。
「自分の欲をしっかりハッキリ強く持て!」みたいな感じの。若干うんざりします。そんなことしてたら気持ちが休まらない。(まあこれだから私はエラくなれないんでしょうが。)

 つまり、人は生きている限り「欲」というものから逃れられないし(逃れるべきじゃないし)、従って充足した「心の平安」のようなものが手に入ることはないのだ、ということです。


 …いや、なぜこんな事を思ったかと言えば昨日、山響の定期で演奏したブラームスの「運命の歌」の歌詞の心を、自分なりに勝手に解釈してみただけなのです。 

『天上の霊たちは、運命から解かれて憩っている。そして浄福なる眼差しは、永遠なる明徹さの中に注がれている。
 だが悩み生きる人間は、どこにも安息する場がないように定められている。そして限りなく不確かなるものの中へ落ちて消えていく。』

 …とまあ、思いっきり要約するとこんな感じでしょうか?ヘルダーリンの詩によるものですね。「天上」というのは読めば読むほど、仏教の極楽浄土みたいです。浄化された死後のイメージは東洋も西洋も同じなんですね。それと対照的に「業から逃れられない人間」のイメージも近いと思います。


 生きてるうちは、飲んで憩うしかなさそうです。(煩悩)
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楯野川(本流辛口)

2010-01-15 08:22:36 | お酒の話し(山形県)
 実はこの間の年末年始のために、暮れのうちに、今年飲んだ山形の銘酒の中から数種類を厳選して、実家に送っておいたのでした。実家の近くには大きなスーパーがあって、もちろん年末年始も開いてるし、何でも買えるので便利なのですが、良い酒がまったくない。東京は便利で何でもあるような気がしますが、実は「有名なもの」しか無いんです。「有名でなくても質が高いもの」を手に入れるのはすごく大変なような気がします。

 去年は山形の酒を、さんざん(本当に散々)飲みました。このページに感想を書いたのは、実はそのごく一部で、文字通り「片っ端から」という有様でございました。そうしてみると、山形の質の高さにあらためて気がつきます。最近自分の中で新潟の「不動の1位」が危なくなってきております。

 昨日、蔵元さんからコメントを頂いたから言うわけではありませんが、その中でも、やはり飲む毎に感動するのは「楯野川」シリーズです。この正月もあらためて思いました。透明感と、芯のくっきりしたキレのバランスが素晴らしい。


 ということで今回は、黒のラベルの「本流辛口」を。「辛口」というと、だいたい「重口」になってしまうことが多いものですが、あくまでスッキリ。とにかく「引き締まった」感じ。何にでも合う旨さだと思いますが、中華料理なんかと合わせてもかなり良いんじゃないかと思います。前に飲んだ「清流」や「激流」よりも、輪郭がくっきりして好きです。

 
 いやいや、日本酒は奥が深くてきりがない。ほどほどにしないと、清流やら源流やら本流やら激流にどこまでも流されていってしまいそうなので、今日はこの辺にしておきます。
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メンテナンス

2010-01-13 10:47:58 | 雑記
 今朝は息子を送り出してから、コンピューターでこのページを開けると(最近スムーズ度アップ。どんな人間にも、それなりに慣れというものは訪れる)、「ただいまメンテナンス中です」と。…それなら仕方ない。「きっと画面の向こうではいろいろと難しい作業が、盛んに行われているんだろう」と、やや解放された気分で「閉じる」。

 きっとこれは「お前もメンテナンスしなさい」というお告げだろうと解釈して、すぐさま温泉へ。今年初めてです。温泉は不思議なもので、しばらく行かないとすぐに億劫になって「今日はいいや…割と体調良いし」などと、足が遠のいてしまうのです。一回行けばまたすぐに習慣化するんですけどね。何だか中毒っぽいですが。

 今朝は結構な冷え込みなので、熱い湯が身体にしみます。「ああ…やっぱり来て良かった」と鼻歌気分。

 私は鼻歌を歌う習慣はありませんが、トイレにいる時や入浴中は頭の中に無意識に音楽が流れています。最近弾いた曲とか勉強中の曲が多いので、「耳に残ってる」と言った方がいいかも知れません。しかしなぜか今日は…

「♪騙っされっちゃーイヤイヤ~、振りっ込んっじゃーダメダメ~♪」

 多分、山形限定の「振り込め詐欺撲滅キャンペーン」のCMソング…何でこんなのが耳に残ってるんだろう?

 …昨日、夕食の時に息子と娘が大声で(しかもエンドレスで)歌ってたんだった…。


 さて、今日はこれから山響定期のリハーサル。ブラームスの「運命の歌」など。すごいギャップだな…気持ちを切り替えて。
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成人の日

2010-01-12 07:37:10 | 雑記
 昨日は「成人の日」だったんですね。新庄のホールから帰る途中、車のラジオで聞いて初めて気がつきました。やっぱり「成人の日」は1月15日でないとしっくりきません。あと「お年玉つき年賀ハガキの当選番号発表日」。自分の中でなぜかこの2つはセットになってます。

 ラジオで各地の成人式の模様を紹介しているのを聞きながら、自分の成人式について思いをはせようと…しましたが、実は参加しなかったので何の想い出もありません。特に予定が無ければ行ってたのかも知れませんが、そんな程度にしか感じませんでした。地元を離れてたわけでもないし、二十歳の人間にとって「成人した」というそのこと自体は、最もありふれて新鮮味が無く感じたのだと思います。青春真っ只中の若者には「青春というもの自体」が認識できないので、そのかけがえの無さは、わからないものでしょう。


 私の成人式の日は、大学オケの他に所属していたオーケストラの練習日で、いつも通り楽器を弾いてました。そして練習後はいつも通り飲みに行きました。

 練習は、板橋にある「産文ホール」という公民館みたいな所で、板橋駅の商店街を抜けたあたりだったでしょうか。下町っぽい商店街には、まだ正月の飾りがついていました。

 弾いたのはプロコフィエフの交響曲第7番。彼が亡くなる前の年に作曲された最後の交響曲です。なんと「青春」という副題がついています。良い曲ですが、何だかしみじみとしてもの哀しげな印象が強くて「どこらへんが青春なの?」と思っておりました。今思えば、曲がまったく理解できていませんでした。

 「青春」という言葉についてのイメージが、池袋で飲んでばかりの二十歳の気楽な大学生と、大戦後間もないソ連での晩年のプロコフィエフとでは、隔たりがありすぎます。これは無理も無いことでしょう?


 ラジオを聞きながら思いましたが、はめをはずし過ぎて荒れた新成人も、軽い痛みを伴って昨日を思い出す日が来るんでしょうね。

 
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サリエーリ

2010-01-11 07:00:02 | 音楽
サリエーリ 「人はみな、地上に正義はない、と言う。しかし、天上にとて、正義はない。
       わたしにとって、それは、単純な音階のように、明確なことだ。」 
(プーシキン 「モーツァルトとサリエーリ」より冒頭  絵はモーツァルトに毒を盛るサリエーリ)


 考えてみれば、宝くじで1等が当たるのも、隕石に当たって命を落とすのも、ご褒美でもなければ、罰でもないんです。そこに「幸運」だとか「不幸」だとかの意味を付け加えるのは人間なわけですから。正義とか因果応報とかは解釈に過ぎなくて、すべてはランダムでしかない、ということなんです。

 でも、どうせなら隕石ではなくて宝くじに当たりたい。と思いながら、結局年末ジャンボも買い忘れたな…

 …いやいや、そんな話ではなくて、モーツァルトの天才のようなものは人が考える理屈を超えたものであって、そこに何か法則とか方法論をあてはめることはできないもののような気がする、ということなのです。人の手によらない「自然」だということなのかも知れません。だから美しいのでしょう。いや「美しい」とか「おどろおどろしい」というのも解釈に過ぎないわけです。

 でも、どうせなら少しでも美しく演奏したい。


サリエーリ 「わたしは妬む。深く、痛烈に妬む。ああなんたることか! いずこにぞ正義はある?
       神聖なるべき天分が、朽ちることなき才幹が
       燃え立つ愛、献身、労苦、熱意、祈願にたいする褒賞としておくられているのでは
       なく、たわけ者、無為の蕩児の頭を後光となって照らすとは?
       ……ああ、モーツァルト、モーツァルト!」 (同上)
       
 
 さて今日は、山響の年明け最初の演奏会。

 新庄にて、モーツァルトの40番を中心にしたプログラムです。

 新春らしく爽やかにいきたいですね。
コメント (4)
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